Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

2020-08-01から1ヶ月間の記事一覧

「自伝及び中米内戦体験記」8月31日  

「或る友人の訃報 」 高校の時であった一人の友人がいた。名前を紘子という。歴史を戴した名前である。親父さんが軍属で大陸に暮らしたころ生まれたから、八紘一宇の紘をとって紘子である。9人兄弟の私の一家も、大陸生れの兄たちの名前は、歴史を物語る名前…

「自伝及び中米内戦体験記」8月30日

スペイン漫遊記(2) 1)「サラマンカの旅」 朝一人で散歩をしていたら、しゃらんしゃらんと首の鈴の音がして、羊の群れに出くわした。羊に似た爺さんがおはようと挨拶する。犬が3匹人の匂いをかぎながらついてくる。 子羊がたくさんいてかわいいので私も…

「自伝及び中米内戦体験記」8月29日

コリアのサグラドコラソン小学校の寮にて 1)「寮の子供たち」 というわけでクリスマス休暇を結構楽しんだ私は、いそいそとオーデコロンを持って、セビリアから コリアに向けて、再びマドレの修道院に帰ってきた。 それで、今度は、英語の課外授業だけでな…

「自伝及び中米内戦体験記」8月28日

3)スペイン漫遊記 1)「アンダルシアの旅」 クリスマス休暇を利用してアンダルシアの旅をした。カセレス、コルドバ、グラナダ、マラガをマドレの実家のあるセビリアを拠点にして回った。この時期はいろいろな地方に祭りもあり、面白い旅ができるが地元民に…

「自伝及び中米内戦体験記」8月27日  

スペイン旅行2 (ここに記すスペインの記録は1960年代の話である。現在のことは知らない。) とうとうスペインに住み始めた。 1)「セビリアへ」 マドリードを後にしてタルゴと言う列車に乗った。セビリアに行くのだ。ただひたすらに車窓の景色を眺める。…

「自伝及び中米内戦体験記」8月26日  

イタリアからスペインへ 3)三郎兄さんとの「出会い」 兄との「出会い」とは変なことを言う。しかし、ドイツからイタリアまで私を案内してくれた三郎兄さんとは一緒に育たなかった。どんな人間か知らない。顔だけ似ているのだけど、確認したのもその時が初…

「自伝及び中米内戦体験記」8月25日

「スペイン旅行 序」 修道院と家族との間で自分の心はいつまでも揺れ動き、決定を実行に移しかねていた私は、日本から退去を余儀なくされてスペインに戻ったマドレとの間で手紙のやり取りを続けていた。 それはまるでラブレターみたいなものだったが、彼女は…

「自伝及び中米内戦体験記」8月24日

倒錯時代 1)「就職」 寝る間も惜しんで修士論文の期限に間に合わせた私は、ある高校の教師採用試験に臨んだ。 作家になりたくて作家修行をしていたのだけれど、定職を持たないと生きていけないという理由のみで、あまり教師の仕事に対する使命感を持っては…

「自伝及び中米内戦体験記」8月23日

「スペイン語との出会い」 1964年は東京にオリンピックがあった年だ。私に学生時代の全期間を通じて、アルバイトの斡旋をし続けてくれたマザー広瀬が、「面白い仕事があるよ」と私を呼んだ。彼女は言った。「あなた、スペイン語でオリンピックのガイドや…

「自伝及び中米内戦体験記」8月22日

「回想」7 「高校受験」と高校の女傑校長との出会い 高校を受験した。実はこの高校、小学校5年で他界した姉が通っていた学校で、幼稚園から高校まであるミッションスクールだった。実は後で知ったのだけど、名門受験校らしかった。しかし、私がその高校を受…

「自伝及び中米内戦体験記」8月18~21日

夏バテで、ちょっと中断しましたが、再開します。 「母の母になる理由」1 「帰国の意味を深く考察せざるを得なかった。」 私が8年間に渡る内戦のエルサルバドル生活を切り上げて、難民となって日本に戻ってくるとき、機上で考えたことは、それは第1希望だっ…

「自伝及び中米内戦体験記」8月17日

子育てに苦労した話 1)「家族の日本国籍取得」 小学校に上がる前、私は娘の為、日本国籍を申請をした。本来なら、私しか日本の戸籍を持っていなかったから、娘は私の戸籍に入り、姓も私の父の姓を名乗る筈だった。 (日本人の女性は国際結婚をすると、外国人…

「自伝及び中米内戦体験記」8月16日

日本て、こういう国だったか。。。 1)「内戦国と平和国の脳みそ」 帰国後数年の間、私の心と脳の動きは、8年間のエルサルバドルの内戦をさまよい続けていた。「内戦神経」の目で見ると、日本は、あまりに「無神経な人々」がいるように思えた。 通りに出て…

「自伝及び中米内戦体験記」8月15日

1)「内戦の後遺症」 「日本はエルサルバドルより怖かった」 内戦のエルサルバドルは、常識的に言って、平和日本より怖いはずだった。しかし、私は松戸に居を定めて日本の生活が始まった頃、日本が怖くて仕方なかった。エルサルバドルの家と比べて、日本の…

「自伝及び中米内戦体験記」8月14日

1)村瀬先生はがんで入院していた。 成田からそのまま村瀬先生の家に車で向かった。「何か食事をするか」と運転する村瀬先生の娘婿さんの「ぶんさん」が私に聞いた。「さあ」と私はあいまいに答えた。日本語で対応できず、思考回路も日本語になっていなかっ…

「自伝及び中米内戦体験記」8月13日   

「ロスアンジェルスのイミグレーションで」 ロスの空港についた。ここで、途中下車しなければならない。エルサルバドル内戦の勃発の直前まで、当時日本の間組が日エ直行便を計画していたらしいが、インシンカの日本人社長殺害以降、すべての日本人が引き上げ…

「自伝及び中米内戦体験記」8月12日

「エルサルバドル始末記」 1)なんとかしてお金を作ろう さて、私は、日本に職探しに行ったエノクの留守を、子供と二人で守ることになった。彼は2か月分のアパート代とわずかな生活費を残していっただけだった。一家の移住が完全に決まったわけではなくて、…

「自伝及び中米内戦体験記」8月11日

「閑話休題」 「メキシコ観光、これも現実」 メキシコをすこし観光した。エノクがわずかな望みをつないで、まだメキシコ国内で仕事を探していたし、時には私達は別行動をとらざるを得なかった。多くの場合、彼の行くところでは3歳の子供にとって退屈な事務…

「自伝及び中米内戦体験記」8月10日

「乾坤一擲」 偶然に浮かんだ名前、村瀬先生 私は1%の可能性を求めるほどに緊迫している夫を助けてくれる可能性のある人物を、自分の知っている日本国内の人脈の中で、記憶の中に呼び起こしていた。ここはメキシコで、手元にすべての人脈のリストを持ってい…

「自伝及び中米内戦体験記」8月9日

「メキシコへ」1984 エノクは擬似平和を生きていた私たち親子を残して、国外の仕事探しに飛び回っていたが、 国外の知り合いは、すべて、自分も国外に渡ったばかりで他人の世話どころではなく、とうとう、仕事を二の次にして、難民申請を受け付ける国々…

「自伝及び中米内戦体験記」8月8日

「子育ての記録」1 私は大勢の兄弟の中で育ったが、末っ子だったから、かつて3歳の自分の娘のようなこんなに小さな幼児を扱った経験がない。それで、自分の子供を眺めていて、良く驚かされる。比べる相手がいないから、これが普通なのかどうなのかわからな…

「自伝及び中米内戦体験記」8月7日  

「内戦の中の『平和』の意味」 1983年前後、エノクは何とか国外への突破口を見出そうと、ベネズエラにもグアテマラにもメキシコにも仕事を探して奔走していた。私はその間、背中に火がついた状態でありながら、国外にでると決まらない間はこの国の人間と…

「自伝及び中米内戦体験記」8月6日

「命の歌 “Dios so lo pague”」 ある日、油絵教室からの帰り、いつものようにバスに乗っていた。 そうしたら途中から一人の半裸の少年が乗ってきて、いきなり大声で歌を歌いだした。こういうことはそれほど 珍しいことではない。歌を歌って乗客から幾ばくか…

「自伝及び中米内戦体験記」8月5日

「エルサルバドル再び」 2週間の後、私はエノクの同意を待たず、内戦のエルサルバドルに帰り、住み「なれた」生活に戻った。内戦だろうがなんだろうが、自分が主体となって生活が出来、逃げるも死ぬも、自分の責任で納得ができる生活をするほうが、いいにき…

「自伝及び中米内戦体験記」8月4日

「マイアミの難民部落へ」 1 私は姉の夫婦に、「じゃあ」と言って別れた。「じゃあ」が精一杯の別れの挨拶だった。彼らが何を言ったのか、または、何も言わなかったのか、記憶にない。ただ、 もう顔を見たくないという思いが一杯で、通り一遍の挨拶さえ出て…

「自伝及び中米内戦体験記」8月3日

あほくさい「かぼちゃ闘争」 ハロウインの季節になった。当時私はハロウインというアメリカの祭りをうわさでしか知らなかった。私の時代、ハロウインもバレンタインデーもまだ日本本土に上陸していなかった。金髪染め男もゲイ(当時、ゲイのことをシスターボ…

「自伝及び中米内戦体験記」8月2日

「日本語と英語とスペイン語の言葉の壁」 奥深いけれども冷たい、そして人間の心の深奥に忠実な日本の文化の中で育った私が、自分の家族を守るためにマルタの家族を受け入れなかったと同様に、同じ文化の同じ家族の下で育った姉は、危険に瀕している私たちの…

「自伝及び中米内戦体験記」8月1日

「姉を頼れ」とエノクが言う。 あの夜、ゲリラの攻勢があってから、エノクの多くの友人が、近隣の諸国に親戚縁者を頼って、密かに国を脱出し始めた。エノクの親友のフランシスコはアメリカに、物理学部長のノラスコはメキシコに、友人の中で一番物凄く礼儀正…