「自伝及び中米内戦体験記」8月14日

 

1)村瀬先生はがんで入院していた。

 

成田からそのまま村瀬先生の家に車で向かった。「何か食事をするか」と運転する村瀬先生の娘婿さんの「ぶんさん」が私に聞いた。「さあ」と私はあいまいに答えた。日本語で対応できず、思考回路も日本語になっていなかった。私の気分はまだ内戦の巷をさまよっていたのである。

 

家に着いた。その家を見て、ああ、これは日本の家だ。つくりを見て、「日本の家屋」というものを思い出した。学生時代お邪魔したことのある家とは別の家らしい。見覚えがなかった。

 

ガラガラと玄関の格子戸を開ける。奥様が日本人みたいな表情で、日本人みたいな挨拶をする。入り口からまっすぐ奥まで廊下がある。靴を脱いで、応接間に通される。

 

そうだ。日本は靴を脱いで家に上がる国だった。奥に畳の部屋がある。畳の感触が足に触れる。ああ、畳というものがあったな。

 

間抜けな私は間抜け面して考えた。そこはまるで私には外国だったのだ。

 

村瀬先生は、なんと、胃がんの手術で入院中で、会えなかった。

ご挨拶しようと思って、村瀬先生の姿を探したら、いきなりそれを聞かされてかなりギョッとしてほとんど蒼白になった。そんな状態で、私を受け入れてくださったとは。

 

いくらなんだって、異常すぎる!

 

突然日本風に気を取り直した私は、ぶんさんに頼んでお見舞いに行こうと思った。ところが、まともな秋服がない。お見舞いに行く前に、どこかで服装を整えたいからそれなりの服が買えるところに連れて行ってくださいと頼んだ。「それなりの」所って、私は日本語が出てこなかった。

 

で、デパートのようなところで、私は、先生に会うのにこの程度で良いかな、みたいな感じの服装を選び、エルサルバドルで荷物整理をしていたとき以来着っぱなしだった頭陀袋のような作業着をやっと脱いだ。つまりその時まで、私は、他人の家に訪問するときに気遣うはずの、当たり前の服装さえしていなかった。

 

「あはは、化けましたね」と私の姿を見てぶんさんが笑った。「案外趣味がいいじゃないの。」上から下まで、ぶんさんは眺め、満足そうに村瀬先生の病院まで、私を案内してくれた。ちなみに、そのとき買ったブラウスを、私は30年間身に付けている。

 

お見舞いに行ったら、ご本人はなんだか物凄く明るくて、「わああ、来たね、来たね。ぼく、癌になっちゃったあ。あははははあ。」と私におっしゃるのだ。うわあ、ほんとだ、癌だ癌だ、とは、まさか私は言わなかった。

 

ご家族もなんだかさばさばとしていて、癌だよ癌だよ、ひゃっひゃっひゃあみたいに、突拍子もなく明るく報告する。みんなニコニコしている。癌の受け入れ方も村瀬先生は非常識だ。

 

というより、なんだよ、これ。。。

 

私は感無量で、やっぱりこのときも、まったく一言も口が利けなかった。

 

しかし、この非常識で明るい癌は、思わぬ収穫をもたらしていた。

 

帰国して直行したのは先生の家だったから、まだ実家の家族とは会っていなかった。私はいくらなんでも怖かったのだ。どの面下げて会いに行けばいいんだか、わからなかった。8年ぶりに帰国して、実家に顔出さず、赤の他人の家に住みこむなんて、異常だという意識は私にだってあったから。

 

しかし意外なことに、先生の癌が、私の心に重くのしかかっていた実家との関係を好転させていた。

 

兄達は、いくらなんでも、「学会の錚々たる先生方」が妹の夫の就職のために動いてくださって、しかも中心になってくださっている村瀬先生が癌で入院なさったというのに、俺達何やってんだよ、ということになったらしい。

 

ほんとに、なにやってんだよ。。。

 

学会の錚々たる先生方って。。。村瀬先生は、元東大の学長、茅誠司先生に声をかけて、エノクの就職活動に尽力してくださっていたのだ。そりゃぎょぎょッとしたろうよ。茅誠司先生なんて、私にとっても私の実家の家族にとっても、まさに雲上人だった。

 

近づくことも恐れ多い学会の先生がたが、日本中に声をかけて妹の夫の就職活動をしている状況におったまげた兄達はとうとう腰を上げて就職活動に乗り出してくれていたらしい。どういう伝手か知らないけれども、あの物理学会の有名な糸川英夫先生を紹介してくれたのは、あの国際電話で日本に来るなという母の爆弾発言を伝えただけで、電話を切ったあの兄嫁だった。そ。。。

 

糸川先生はエノクのために、ある講演会で、中米に関する講演をさせてくださった。そのときの講演料で、私達は当座の生活ができたのである。五郎兄さんはさる麦酒会社に勤めていて、なにかその伝手で、ホテルのようなところに就職口を探してくれていたそうだ。私のはじめの心配をよそに、明るい兆しが見える方向に、ことは運んでいた。

 

しかも、エノクの就業ビザがおりるのに、一役を買ったのは、なんと当時私とは全く交流のなかった次郎兄さんだった。次郎兄さんは、他の兄弟とは違い、自分が設立した有限会社を持っていた。エノクの就業ビザを取るための手続きとして、彼は自分の有限会社の名義で、エノクと雇用契約をしたということにしたらしい証明書を法務省に提出したのだった。村瀬先生の差し金だろう。でも私はそんなこと全く伝えられていなかった。

 

私たちが一時的に滞在をさせていただいた村瀬先生の家で、私は荷物の中から、なにはさておき娘のおもちゃだけを出した。

 

子どもはスペイン語しかわからなくて、遊び相手もいない。時数にすればたいしたこともないかもしれない、この2ヶ月の間の生活の激変に、子供はただただ、母親の私にしがみついてきた。少なくとも、娘が遊んでいたおもちゃを出して、どこに行っても彼女の世界があることを感じさせてやりたかった。

 

娘は誰にでもべらべらスペイン語で話しかけたが、誰も返事をしなかった。エルサルバドル人なら少なくとも、何語でも何でも語りかけながら、子どもの相手をしてくれるのだけど、日本人はやっぱり期待通りの反応だ。何しろ何にも言わないで、馬鹿を相手にするように、当惑してただボーっと突っ立って子供を見おろしているだけなのだ。

 

2)「母と再会」

 

村瀬先生宅に滞在している間、私は先生の家族に促されて子供を連れて、母を訪ねた。

 

促されなければいく気になれなかったのは事実だが、私の精神だって、常態ではなくて、母にあって、自分の精神の均衡を保つ自信がなかった。

 

実家のある中央線武蔵境の駅は、昔とかわらなかったが、出たとたんに、どこにいるのかわからないほど町は変わっていた。建物などほとんどなくて、畑だらけだったはずの「南口」を出たところに、どんとイトウヨウカドウが建っている。私の知っている武蔵境は、珍しいことに、北口のみが発展した町だった。南口には商店街なんかなかったはずだった。

 

林立した建物を縫うように、私は方向感覚だけを頼りに、実家のシンボルだった大きなヒマラヤスギを探しながら歩いた。周りを見ても見覚えがある建物がなかった。

 

やがて前方にこんもりとした森が見えてきた。植物が好きな母が、近隣に何を言われても絶対木を切らなかったから、改築したり変形したりして昔の面影をとどめなくなった町のたたずまいのなかに、母の家だけがそれとわかるような森の中に建っていた。

 

ああ、あのヒマラヤスギが健在だ。子供のとき、あれに登って、置き去りにされた鳩の子を取って育てたっけ。実家の門の入り口にそびえているヒマラヤスギを確認して、私は思わず立ち止まった。ああ、あのヒマラヤ杉だ!

 

実家の庭は草木に覆われていた。それで草木を掻き分けて玄関から入っても母は見つからないので、庭にまわってみた。庭に母が立っていた。母はただ、そこに現れた私たち親子を、呆然として、暫く立ったまま見ていた。まるで、死んだものを見て、誰だろうかと思い出そうとしているような表情だった。

 

かつて、姿勢を崩さず、威厳を持ってしゃんとしていた母は、老いて姿勢が昔と変わっていた。そうか、老いたな。と私は考えた。

 

「ただいま帰りました。この子が娘のロシオです。」と私は娘を紹介した。

 

娘には私が自分の母に会いに行くのだといっておいたから、凄く喜んで、会うのを無邪気に期待していた。

 

「ね、ね、ママはママのママの事とってもすきでしょ?」などといっていた。生ぬるい返事しかしない私に、しつこく同じ事を聞いていた。何が起きるかわからない、鬼に出会うか蛇に出会うかわからない。私はこれから何が起きるか心配だったから、娘の質問をあえて無視していた。

 

娘は何かうれしそうな顔をして、初めて出会った私の母をジット見つめていた。

 

「ああ、あなたなの。もう会えるとは思わなかった・・・」と、暫く間を置いてから彼女は言った。

 

それからゆっくりと娘に視線を落とし、「そう…」といった。

その日はそれだけだった。

 

そこに、娘が当然のことと期待していた「母と娘」の出会いはなかった。エルサルバドルのような歓喜と抱擁と、涙とけたたましい言語を機関銃のように発する、彼女が慣れた再開の光景はなかった。

 

これでも私にとっては大成功のうちだったが、エルサルバドルの人間関係しか知らなかった娘には理解できなかったんだろう。どうしてママにあって、飛びつきもしなければ、大騒ぎをしないんだろう。変な親子の再開に、娘はかなりショックを受けていた。説明なんかできない。とにかくこれが日本流なんだ。

 

二人の沈黙を娘は何も言わず、ただじっと見ていた。

 

そんな娘をよそに、帰る道々、私は思った。「あの人、きっと感情がこみ上げて、物が言えなかったんだろうな。きっと今ごろになって何か感じているだろう。」

 

「再会」には違いなかったが、それはドラマチックでもなんでもなかった。

まてよ?いや、もしかしたら、これほどドラマチックな再開はなかったかもしれない。

 

10月になってエノクは、村瀬先生の人海作戦というか、人脈作戦で、「大手開発株式会社(現三菱マテリアル)」という、三菱系の子会社に物理探査部部長付きという待遇で就職した。

 

難民に対して門戸を閉ざすことで有名な日本で、これは、破格の待遇だった。

 

住む家は社宅があるというから、集合住宅を想像したのだけれど、会社の人が千葉県松戸市に連れて行ってくれて、あちこち見せてくれて、選択することができたので、わりと大きな庭のある1戸建ての借り上げ社宅に入居した。

 

ところでそこに、意外なことが起きた。

 

村瀬先生から、私の難民帰国を伝え聞いた出身大学のシスター廣戸が、大学構内に難民救援用に備えていた、いろいろな家庭から出た古い家具をかき集めてトラックに積んで持ってきてくださった。なんかいきなりである。恩師であることは確かだから、昔世話になった。でも、まるで分野が違う村瀬先生との接点はなかった。だから突然その接点を作ったのは、村瀬先生だろう。

 

しかも、ここに大学時代に、アルバイトの紹介をし続けてくださったシスター広瀬が、登場した。彼女が言う。「村瀬先生はすごい!村瀬先生の話を聞いて、私がオーストラリアに伝手を探していたら、オーストラリアなんかどうでもいい、なんとしても自分が日本でエスコバル一家を引き受けると村瀬先生はおっしゃった。しかもそれが神様の意思だと断言して。すごい。ありえないことをあの先生は信仰の力で実現してしまった。もう、あの先生の信仰の前に私は物が言えなかった。」

 

え?なぬ?

 

その言葉を聞いて私は茫然とした。私はあのメキシコの大使館で、エノクの日本国ビザの件で立ち往生していた時、私の記憶にほうふつとして浮かんだのは、村瀬先生以外になかった。

 

ここに登場した「シスター広瀬」という御仁は、学生時代、苦学する私をアルバイトの紹介をし続けて支えた恩人中の大恩人だった。もしオーストラリアに伝手があるとしたら、この方をおいてほかになかった。このかたを全く思い出さず、いったいなにゆえに、村瀬先生ただ一人を私は思い出したのだろう。

 

彼女は、あの国連難民高等弁務官の緒方さんと同級生で、ひと癖あるが顔が広く、本当に徹底的に、私の学生時代を支えてくださった人物だった。この方を思い出していれば、オーストラリアへの難民申請も、何とかなったかもしれないほど、頼りになる人物だったのに。あんなにオーストラリアに行きたがっていたのに、なぜ私はこのシスターに一言も相談しなかったのだろう。全く思い浮かばなかった。このシスターなら、オーストラリアへの筋道をつけてくださっただろう最も可能性のある人物だったにもかかわらず。

 

それを私はあの時完全に失念していた。

 

そうなのか。そうなのか。村瀬先生の名前しか思い出せないように、あの時の私ののうみそは仕組まれていたんだ。そうなのか!?

 

愕然としたけれども、私はすでに日本にいて、エノクの就職先も決まり、社宅が決まって引っ越しの段階で、頼んだわけでもないのに、家具の一切を母校のシスターが運んできてくださるという連絡を受けたのだった。なんという、なんという、展開だったのだ。

 

エノクの社宅が決まってから、家族ぐるみで私の帰国反対運動を指揮した母も、昔家族が大勢いたためにたくさんそろっている食器や、夜具などを兄達に頼んで運び込んでくれたので、私達はほとんど何も買わずに、新しい生活が始められた。

 

長い旅を終えて、やっとその社宅に入ったとき、娘が畳みに腹ばいになって両腕を広げ畳を抱くようにしていった。

 

「もうどこにも行かないんでしょ?ずっとここに住むんでしょ?」スペイン語だった。

 

それを聞いた兄嫁に「ロシオちゃん、何を今言っているの?と聞かれて、娘の言葉を通訳したとき、「可哀想に!」といった彼女の目から、涙が落ちたのを私は見逃さなかった。

 

いろいろな感情は後からゆっくりやってきた。母の感情も、兄達の感情も、そして、私の感情も。

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小金原の社宅の前で。急遽かき集めた冬服で、補助付き自転車をこぎ始めたころ。