「自伝及び中米内戦体験記」8月12日

エルサルバドル始末記」

 

  1)なんとかしてお金を作ろう

 

さて、私は、日本に職探しに行ったエノクの留守を、子供と二人で守ることになった。彼は2か月分のアパート代とわずかな生活費を残していっただけだった。一家の移住が完全に決まったわけではなくて、仕事がどうしても見つからなければ帰ってくる以外に仕方ないから、彼は「無給休暇」を取ったのだ。

 

私は、日本で私の預金の管理を依頼した人物に連絡をとって、エノクの日本滞在費をそこから出してくれるように頼んだ。自分がここに来るときに持ってきた持参金代わりの退職金は、度重なる引越しや、逃走費に使って、底を突いていた。

 

私は「ケセラセラ民族」でなくて「働く蟻民族」の日本人で、「働かざれば食うべからずの聖書民族」でもあった。私が何もしなければ丸裸になるぞと思った。すでに属性となっている、「生き延びるためには他人に頼っていられない、自分がある種の経済活動をしなければならない」という思いが頭をもたげた。

 

親族でもないし責任もないのに、3人分の帰国費用を送ってくれた村瀬先生のご好意を黙って受け取るわけにはいかないと思った。

 

自分の身の回りを見渡した。サンタアナにいたころ、閑に任せて人形を作り、それを売ったら売れたことがある。自分には何かができるという思いがあった。さしあたって、今、何をしたら収入が確保できるだろう。

 

考えた。じっと自分の手を見て考えた。

 

そうだ、と思った。困りあぐねたときに脳裏にひらめく、そのひらめきを信じてみた。そして、いちかばちかの賭けをやった。

 

以前、絵の先生が、お前の絵は売れるといってくれた。私は日本人的猜疑心と慎重さと常識で持って、描き始めて半年も経っていない人間の絵が売れるわけないと思っていた。私は何でもやるときは一生懸命やったから、その勉学の姿勢を認めてくれた言葉だろうと思っていた。かつて、私の勉学と勤労の熱意を買って、大学の学長が、大して秀でていたわけでもない私に月謝免除で大学院で勉強させてくれたことを思い起こし、絵の先生も励ましに誉めてくれているのだなあと思っていた。あの時私は自分の絵を売ることを実現させようというほどの自信も意欲もなかった。

 

しかし今、情勢が変わったのだ。

 

私はただ閑を持て余して趣味の絵を描いていられる有閑マダムではないのだ、と、急にそう自覚した。

 

よし、絵を売ろう!と思った。先生は私が描いた絵のうち、特に3枚を必ず売れる絵だと言ってくれた。これを売ってみようと私は思った。先生に相談したら、彼は快く、自分の絵を売りに出している店に私の絵を並べてくれた。

 

それから私と同様国際結婚した居残り組の日本人に、私のエルサルバドル生活の8年間を知的に支えてくれた本類を二束三文で良いから買ってもらおうと思った。昔ここにいた日本人が帰国のときいつもお互いに融通しながら、荷物になりそうなものをガラージセールで売りさばいていた先例を参考にしたのだ。

 

私の持っている家具類はみんな帰国組みの日本人から買ったもので、もうあれから8年も経っている。私が彼等に残すとしたら、本しかなかった。私の蔵書は日本人の誰もが持っている種類のものではなかったから、図書館代わりにしてくれれば良いと思った。

 

話を聞いた日本人がやってきて、帰国の事情を聞いた後、部屋を一渡り見回して、「日本はここと比べて格段に進歩をしていて、生活も便利になっているから、いろいろもって帰ろうなんて思わないで、不要なものは全て売ったほうが良いよ」といってくれた。そして彼が買ってくれたものは、本でも家具でもなく、なんと私が描いた1枚の絵だった。

 

期待をまったくしていなかったこの収穫に、私は驚いた。友情とはいえ、絵は毎日家の中で見なければならない代物だ。日本人みたいな繊細な美意識を持った人が、私のような駆け出しの初心者の絵を買うということを期待していなかった。

 

思わぬ結果を見て私は、ひょっとする と?と思った。そして私はそれから余暇を全て使って絵を描いた。

 

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バナナ

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これ多分、「イランイラン」
 

絵は先生の店に出した3枚と、注文をとって描いた2枚の肖像画も含めて、9枚売れた。それでも私には自分で自分の絵が優れているとは決して思えなかった。自信というより不思議な感覚だった。一方に帰国に対する抵抗が、自分の心にあったのだが、大した絵でもない絵が売れるということに、自分はすでに、日本への帰国を促されていると感じていた。

 

2)「最後のピニャタ」

 

8月25日、娘の4回目の誕生日がきた。父親がいない初めての誕生日で、去年予想したように、情勢が変わって、大勢の子供を招んでお祝いすることができなかった。

 

父親がいないこと、休職して日本に職探しに行っていること、もしかしたら近日中に一家全員がこの国を後にすることは、誰にでも知らせていいものではなかった。経済的にも、それは許されないことだったけれど、規模の小さなお誕生会をしてやりたかった。

 

その年は娘の幼稚園の友達とわずかな親戚だけ招んで、そっと、お別れ会をかねて小さなピニャタを買い、通りに見えないように中庭で祝った。娘に毎年私が作ってやっていた手作りのプレゼントとしての衣装は、そのときはある思いがあって作らなかった。その代わり、親戚のものから贈られたエルサルバドルの民族衣装を身につけて、娘は最後のピニャタの棒を握った。

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4歳の娘は今年と去年の違いに気づいていたかいなかったか、わからない。大人の私にはある感傷があった。4歳の子供に関係のない、内戦という悲惨な情勢の中で、子供がいやが応にも、自分の帰属すべき社会を換えられていく。この子をエルサルバドル人として恥ずかしくないように育てようとしていた私の思いも、軌道修正しなければならない。心に深い思いがあって、私はわざわざその最後のピニャタに、エルサルバドルの民族衣装を着せたのだ。

 

子供が自分がどこの人間として生まれたかを忘れないようにという、親としての思いがあった。私がエルサルバドル人の男性と結婚したときに、私はすでに自分の人生をエルサルバドルに帰属させるつもりだった。

 

しかし私は又、自分が一度後にした国に戻らなければならない。

 

そのことを、ただ内戦だから、死にたくないから、怖いから、安全地帯に行かなければならないから、という意味だけではなく、私には、自分が後にしたあの国でするべき何かがあるのだと、何かが再び示されているのだと、考えざるを得なかったのだ。 

 

3) 「ガラージセール」

 

日本に行ったエノクからは、なかなか朗報が来なかった。彼は自分が何とか就職したら、エルサルバドルを引き払って、私たちも日本に発つようにゴーサインを出すつもりだった。しかし9月の声を聞いても、就職したとの情報が来なかった。

 

さすがに私は心配になってきた。アパート代は9月分までしかなくて、私が絵を売ったって、持ちこたえるほどの収入にはならないことが判っていた。内戦の中で絵を買うゆとりのある人なんて、9人いただけでも、奇蹟に近いことだったから。

 

それで私は意を決して、さしあたって生活に必要のない本類とか、趣味で集めた中国製の食器のセット、日本から持ってきた日本文化の象徴としての着物などの、有ってもなくても生活できるものを「ガラージセール」で売ることにした。

 

それらの「物」に私が何も執着しなかったわけではない。全ては家族として8年この国に暮らし、自分なりの生活のパターンを築いてきた思い出の品々ばかりだった。しかしそれは0からの出発には重荷になりそうなものだった。

 

私がとうとう「ガラージセール」で持ち物を売りさばくことを、初めに知らせを受けた親戚や居残りぐみの日本人達が、来てくれて、協力してくれた。

 

新潮社の日本史全集23巻、世界史全集18巻、重くて持ち運びに大変な聖書、哲学書、読みまくって内容を暗記してしまった世界文学、日本文学の文庫本類。

 

それらを買ってくれた日本人のなかにあるキリスト教の一派の伝道師がいた。伝道師としてきているのに、「聖書」がないから売って欲しいといってカトリックが出した旧バルバロ訳聖書を買ってくれたから、なんか、滑稽で記憶している。だってあの人、「ものみの塔」の伝道師だったはずだから、カトリックの聖書、異端のはずだったのにね^^。 バルバロ訳聖書はしっかり訳注がついていて、その訳注を各プロテスタントキリスト教は、まったく認めていないのに。

 

それからぽつぽつと近所の人に口コミで私の「ガラージセール」は伝わった。趣味のインテリアなどを買ってくれた人、私が作って、もう娘がきられなくなった一寸可愛いドレス、日本から持ってきたきり、履かなかった私の優雅な靴。趣味で集めて、もう手に入れられそうにもない中国製の食器の12人分のセット。

 

この国の多くの家庭で普通に使っているプラスチックの食器にうんざりして、私は毎月少しずつ、セットを増やしていた。買うのなら全部一緒に買って欲しいといって、ある金持ちそうな奥さんに押し付けた。

 

若い頃の思い出の着物。この国でなら着ても差し支えなくても、日本に帰ったら、もう着られないと思われる着物だった。これも趣味で欲しいというある金持ちそうな奥さんが買っていった。自分の着物を見送ったときは一寸哀しかったけれども、まあ、楽しんでもらえるほうが、着ないで箪笥の中に寝ているよりは良いと思った。

 

物が売れて、まとまった金額を手にするたび、銀行でドルに換金した。そのことだけ、メモに書き記してある。

 

「よし、今日は、536ドル換金。」「今日は135ドル。」

 

2000ドルを目標にしていたらしい。あの時代のあの国の2000ドル。1ドル100円時代の今の比ではない。儲けを毎日計算すること。これは学生の頃の守銭奴時代に私が身につけたことだ。「あの時代に戻ったな!」などという感慨がわいたけれど、感傷に浸ってなんかいられない。

 

まだゴーサインがでないので、日常品を手放すわけには行かず、私の「ガラージセール」はいつまでも続いた。

 

自分のものなら、欲しいといってくれる人がいると、さっさと売った。当時、私は家にいるときは動きが簡単なトレーナーを着て歩いていた。青くて黄色の筋が入ったものだ。で、ある日、それを着て、通りで見かけた大きな木に咲く花をスケッチしていたら、そのスケッチを覗きにきた人が、「あんた、あそこでガラージセールをやっている奥さんだろ。そのトレーナーも売るのか?」と聞く。

 

一寸驚いたけれど、欲しければ売っても良いよといったら、欲しいというので、じゃあ、ここで脱ぐわけに行かないから家まできてくれといって、一緒に家に行った。で、かれは私が脱いだばかりの生あったかいトレーナーを25コロンで買っていった。

 

日本でそういうの一頃はやっていたらしい。なまあったかいパンテイ‐は特別の値段で買う男がいるんだってね。秋津島瑞穂の国は、なんだか妙な国になったこと! 

 

余談だけれど、そのときスケッチしていた花は、誰に聞いてもみんなが違う名前を言うので判らない。その名まえの中で、「イランイラン」という名前が一番面白かったから、その花を「イランイラン」という題にして油絵に描いた。それは今も私が記念に持っている。

 

そうこうしているうちに、9月10日。エノクからでなくて、村瀬先生から電話がきた。

 

「ロッチャン(娘のことを、先生は、こう呼んでいた)の写真を見ていたら、風が吹いて、ロッチャンが僕のところに吹っ飛んできたよ。ロッチャンが日本に来たがっているという神様の思し召しだよ。もう、みんなそこを畳んで、日本に早くいらっしゃい。」

 

私は一人微笑んだ。エノクの就職はまだ決まっていないらしかった。しかし村瀬先生は、何が起きても祈って神様に言うことを聞かせるつもりらしかった。という不遜な憶測より、彼はもう、エノクが日本で就職することを神様が決めたのだと信じていた。彼がそう信じ始めたら、もうだれも彼の信仰を覆すことなんかできない。私はちょっと心が優しくなって、そう信ずる彼の信仰に賭けよう、と思った。

 

売れるすべてのものを売り出した。売れるものなら買ってほしい衣類、日用品。すべて使い古したものばかりだった。でも隣近所の人たちは、ちびたスリッパまで買ってくれて、私に協力をしてくれた。

 

優しい、優しいエルサルバドル人。ここでも私は彼らに救われた。犬騒動で疎遠になっていた隣人も、協力してくれた。

 

しかし私は子供のものだけ気を遣って売らなかった。子供の環境が今から激変する。子供が大事にしていた人形、肌身はなさなかった汚い蛙のぬいぐるみ、プレゼントにもらった数々の思い出の品、クリスマスの飾りなど、子供が大事にしていたもの、環境が激変するとき、それに耐えられるよう、子供のものだけはしっかり回りに置いておこう。と思った。

 

一番激変するのは大人の子供に対する扱いだろう。エルサルバドルでは大人は誰でもどんな立場の子供でも可愛がる。子供が嫡出か庶出か等と言うことで差別をしない。親の職業とか、親の立場で差別しない。混血かどうかなどは問題にしない。あの国はすべて混血だから。更に宗教、人種、世界には色々な差別がある。そして日本は建前上はともかくとして、それらをすべて差別する国だ。

 

何でも「同じ」でなければいけない国。個性教育とかいいながら特定の「優良な」個性を押し付ける国。教師だったから知っている。教師が何をどのように生徒を差別するかを。

 

そんなことを考えながら、私は日本で「差別を避けるための」物を選別する。暗い心を抱えながら。

 

4)「ミシンを手放す」

 

この国にいた間、部屋の飾りから自分の服から子供服まで作って、自分の一部となっていた、ミシンを売りに出した。現地通貨で300コロン。普通なら1000コロン以上するという事を聞いて、中古だからと思ってつけた値段だ。

 

でっぷりと太ったいかにも裕福そうな夫人がそれを聞いて駆けつけた。そして値切り交渉が始まった。この国ではあたりまえのやり方だ。

 

しかしこれは私の8年の思いがこもったミシンだった。本当にミシンが必要で、本当に本来高いミシンを300コロンでしか買えない人に売りたかった。お金はあるけど、けちなだけで、別に中古のミシンなんか買う必要もない人になんか売りたくなかった。いくらものを売り出したからといって、私は誇りを持っていた。

 

でもその夫人は、なんだかそのミシンを物凄く気に入って、「ね!150って言ったでしょ。150でもっていくから、それでいいよね!」と勝手に値下げしてお金を150コロン握ってきてミシンを持っていこうとした。私はその態度が気に入らなかった。それで私はきっぱり言った。

 

「いえ、これは300です。これは私の大切な立派な日本製のミシンなのです。これは150コロンで買えるような安物ものではありません。これ以上1コロンも安くできません。」

 

近くに住んでいるアパートの家主が次の日、やってきて、ミシンを見せてくれといいにきた。「実はミシンを前から欲しがって、一生懸命お金をためている人がいるのだけれど、新しいのはその人には買えないから、できればその人に売って欲しいのだけれど・・・」というのだ。値段はいくらかと聞くので、300コロンだと答えた。

 

彼女はいったん帰っていって、「その人」を連れてきた。若いご主人も一緒である。その婦人の顔を見て思い出した。彼女は毎朝、頭の籠にトルテイージャを乗せて、「ケサデイーア、トルテイージャ」と呼ばわって売りに来るあの原住民の女性だった。裸足で辮髪の浅黒い原住民の女性だった。

 

私の心がかすかに震えるのを感じた。娘が彼女の呼び声を真似て頭に籠載せて、遊んだっけ。

 

彼女が大事そうにしっかり握ってきたお金を見た。そのお金は皺を伸ばし、時には破れをテープで張ったりした痕のある1コロン紙幣300枚だった。300枚の紙幣は生暖かかった。彼女が毎朝毎朝早くおきて、トルテイージャをつくり、通りに出て、売り歩き、一枚一枚この紙幣をためて、いつかミシンを買おうと夢見ていた、その姿が心に浮かび、胸が一杯になった。この300コロンを集めるのに、いったいどのくらいの歳月を要しただろう。私は300枚全て確認してから言った。

 

「じゃあ、これはお釣りです。150コロンで良いよ。ミシン、大事に使ってね。」

 

若い夫が手を差し出し、「ありがとう」といって握手を求めた。彼の感謝が伝わった。うれしかった。夫婦はすごく幸福そうに喜んで、ミシンを持っていった。あのミシンが本当の意味で生きる。行くべき人のところに行った。と私は思った。傲慢で、金持ちの癖に、人をごまかしていいものを手に入れようとするあのデブに売らなくてよかった。

 

「すごい売り方をしますねえ、セニョーラ!気に入りましたよ!」と、傍らで見ていたロシが言った。私はちょっと得意そうに、ロシを見て、にやっと笑った。

 

5) 「船荷を作る」

 

Cargoと呼ばれる引越し用の船荷を作る段になった。縦横高さの寸法が決まっていて、その寸法以内でいくらというふうに値段が決まる。で、その寸法は運んで持っていってもらう荷を業者に任せて、荷造りしてから測るのでなく、日本人の噂によると、業者は散乱した荷物をざっと見て、勝手に寸法を目測して値段をつけるということだった。

 

そうさせてはならじと私は思った。それで、すぐに必要になりそうな身の回りのものを飛行機で持っていくことにして、船荷にするものを決められた寸法にあわせて正確に直方体になるように、ジグソーパズル形式で組み立て始めた。手放せない本類は四角だから問題ない。問題は、気に入って買ったため手放せない鍋釜類のような、丸かったりでこぼこだったりするものを組み合わせて隙間なく、無駄なく、直方体の形を作ること。執念でもってそれに数日をかけ、崩れないようにロープをかけ、業者を呼んで見せた。

 

「はい、これで寸法どおりでしょ。」あっけにとられてその業者は積まれて寸分たがわず全くの直方体に固まっている荷を見上げた。大きな箱に収まっているわけでもないし、囲いを作ったわけでもないのに、直方体が動かない。彼は、私が苦労して最低料金に寸法をあわせて組み合わせたその荷物を崩して運んでいった。

 

あの荷造りだけは、私が今に至るまで自慢に思っている技だった。日本人の駐在員は引越し費用は会社が出すのだし、業者を頼りにして、全ての仕事を業者に任せるのが常だったら、あんなことは考えなくて済む。費用を最低限に抑えたいという一心で私はあんなジグソ-パズルの組み合わせをやったのだ。変な才能が私にはあるものだとそのとき、私は自負していた。

 

家具も荷物もなくなった、がらんどうの部屋で、自分の築いた8年が、終わるのを実感した。

 

6)「治療無料の病院」

 

娘の鼻の病が激しくなった。鼻水が絶えず、口は開けっ放しで苦しそうな呼吸をしている。咳もよくする。今まで夫がそばにいたから、自分で娘を医者に連れて行くということがなかった。おまけに保険は切れていたし、お金がなかった。

 

山の上の先住民の医者も、自分は車に載せられていったから、名前はおろか、地名も知らなかった。日本みたいに近所に気楽に行ける開業医があるわけではなく、薬局もなかった。(ちなみに、薬局はどういうわけだか、このエッセイを書き始めた2008年でも、入り口は厳重に鉄格子で閉ざされていて、檻の外から大声で店主に呼びかけ、医者の処方箋を見せて買うという仕組みになっていて、相談ができるような状態ではないのだ。)

 

仕方がない。姑に相談した。そうしたら彼女は、低所得者のための「治療無料の病院」があると言って、連れて行ってくれた。この国にそんなものがあるの?とたんに日本の似たような施設に当てはめたら、どういうところだろうかと想像した。

 

一所懸命考えたけれど出てこなかった。古代の「施療院」かな、と思ったけれど、「施療院」といわれるところを日本で覗いたことがないので、「治療無料」かどうかはしらない。

 

その病院にいってみた。なんだかおっかなびっくり及び腰だった。病院は混んでいた。この病院は姿を見ればそれとわかる「低所得者」階級の人々がまるで国連の機関から食事を提供されるのを待つよう難民の群れのように、並んで待っていた。

 

裸足で辮髪の先住民のおばさんが布に子供を巻いて抱えていた。ぼろを着て足のない男が人々の群れに押されてよろけていた。これは彼らの「救護院」、救いの場らしかった。

 

私は決してそのことを、自分のために恥じたわけではなかったが、場違いな気持ちだった。私は日本人で「低所得者」ではなかった。世界に「経済大国」といわれている国の、それだけに「低所得者」に対しては責任のある階級の人間のはずだった。

 

私はあのメキシコに出てきていたオーストラリアの難民受け入れのための事務所の役人から言われたことを、思い出さずにいられなかった。自分は何をしているのだと、かつて持っていた使命感が、静かに心に沸き上がった。自分は本当はこの列に加わる人間ではなくて、救済のほうに回る人間でありたかった。

 

今たまたま、経済的事情が許さず、彼らの「救いの場」を利用しに来たことを、なんだか後ろめたく思った。私は彼らの列の後ろに並んで待った。

 

順番が来るまでに子供の咳がひどくなった。見回っていた看護婦が気がついて、列から私を引っ張り出して、診療室に連れて行った。それは「高額所得者階級」のきれいで立派な建物の中で、患者がどんな状態でも杓子定規に順番を守らされる、あのやり方とは違っていた。ここの救護院は、その目的を果たしている。内戦の中で、貧者に対して門戸を開く、救護の役割が機能している。

 

娘が其時かかっていた医者が鼻の手術が適当だといっていたと話したら、その病院の医者が言った。

 

「最近の医者は『鼻が悪ければ鼻をとってしまえ、耳が悪ければ、耳を取ってしまえ、水虫なら足を切ってしまえ』などと平気で言う。アデノイドはあっていいもので、切ったら鼻水が出ないということはないのだ。」

 

この土地の底辺の民衆の治療を多く手がけてきている医者の慣れた対応に、私は彼のいうことを心から信用した。彼は冗談交じりでいろいろ説明をしてくれた。治療には時間がかかること、発達段階の幼児の病気でいちいち、手術を考えないほうがいいこと等を言って、薬をくれた。

 

本当にお金を取らなかった。お金を払えない意味も聞かなかった。彼らは「お前はあの経済大国の日本人じゃないか?」「なぜここに来た?」とも言わなかった。ここに来るからには事情を聞かなくても、事情があるはずだ。聞かれないことの優しさが身にしみた。

 

内戦に追われて国を後にするエルサルバドルの最後の日々、私が高所得者の利用する美しい、設備の整ったクリニックでそれがあたかも自分の権利であるがごとく、治療を受けたのでなく、底辺の民衆の視線に立って、「無料の救護」を受けたことの意味を深く心に感じた。

 

7)「ロシとの別れ」

 

エルサルバドル最後の日がきた。私が置いていってもいいかなと思って、荷の中に入れなかったありったけの人形を、「置いていっちゃ可哀想」といって両腕に抱え、娘が泣いた。

 

「ロシも日本に連れて行ってよお。ロシも日本に行くんでしょお。どうしてロシはここに残るのお?」

 

泣き叫ぶ娘をロシが涙を流して慰めた。

 

「又戻ってきたら一緒に遊ぼうね。私はママやパパのところにいなければならないの。あなたもパパのところに行くんでしょ。」

 

「いやだ、いやだ」と、娘が泣いた。「ロシも一緒に行くんだ」と娘が泣いた。おばあちゃんが「さあ、さあ、ロシもおばあちゃんも、後から日本に行くからね。」とうそをついてなだめた。

 

それを聞いたとき、私はこの娘が私と同じDNAを持っているなら、そういう嘘は危険だと思った。私は2歳半で死に別れた姉のことを一生涯覚えていた。「天国に行った」と言い聞かされた姉が、「帰ってくるのを」いつまでもいつまでも、門の所で待っていた。あの哀しさを、あの初めての人生の悲哀を私は一生心に刻んでいた。

 

そして私は39歳で自分の娘が生まれたとき、27年間心に抱いた姉の面影を思い、娘の日本名に姉の名前をつけた。あの姉がやっと帰ってきた。天国から帰ってきた。

 

子供にはどんな嘘もついてはいけない。少なくとも親は嘘をついてはいけない。そう思った。

 

「ロシといたいだけ一緒にいなさい。思いっきり抱っこしてもらいなさい。あなたがママやパパと一緒にいなければ悲しいように、ロシもママやパパと別れられないのよ。又この国に戻ってきたら、ロシに会いましょうね。」

 

娘は気が狂ったように、ロシにしがみついた。時間がきて、私と見送りの親戚達が促すまで、娘は泣きながらロシにしがみついていた。そして、それから諦めたように、自分でロシを離れて車に乗り込んだ。別れを、娘は悟ったのだ。彼女はけなげにロシとの別れを受け入れた。

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エルサルバドルの空港には、エノクの両親と、弟、それからキロア(避難する我々を一時、守ってくれた)の一家が送りにきた。最後の抱擁。誰も、「また会おう」などという、あまりに内戦の状況下にそぐわない「挨拶」の言葉を言わなかった。

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そして私は内戦の国を後にして娘とともに日本に向けて旅立った。