Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月4日

 

 「マイアミの難民部落へ」 1

 

私は姉の夫婦に、「じゃあ」と言って別れた。「じゃあ」が精一杯の別れの挨拶だった。彼らが何を言ったのか、または、何も言わなかったのか、記憶にない。ただ、 もう顔を見たくないという思いが一杯で、通り一遍の挨拶さえ出てこなかった。

 

飛行機に乗ってから気がついたが、乗客は私と娘だけで、後はパイロットがすぐ目の前にいるだけだった。まるでタクシーみたいな飛行機だった。そのときまでに、旅客機は大きいものと思っていた私は、子供を抱えてかなり恐怖を感じていた。

 

外を見ると、まるで、景色の中を飛行機が泳いでいるみたいに、身近にはっきりとあたりの様子が見えるのだ。下を走る車も、町の様子も、カンサスのただっぴろい平原も、一望に見渡せる。ちょうどビルの屋上から下を覗いているみたいに、ぞっとする。私は子供を抱きしめ、非科学的なことに「子供が落ちないように」身を硬くしていた。

 

疲れていた。大きな旅客機のあるカンサスの空港なら、全てを機械が自動的にやってくれるから荷物などの 運搬には便利だったが、カンサスまでの車の便を申し出てくれた二人の友人の気遣いも、姉の「立場」のために、断らざるをえなかった。それでなんだかプライベートな飛行場みたいなところから、このおもちゃみたいな飛行機に乗るはめになった。多分、アメ リカではこういうのもタクシーみたいに普通の交通機関なのだろう。今なら楽しめるかもしれないけれど、その時は無理だった。

 

その ときの私は、内戦で1世紀も発展の遅れた中米の田舎からやってきた田舎者だった。冒険をするのは、内戦の実戦だけで十分だった。

 

小さな4人乗りの飛行機は、心に余裕があったなら、面白いといえば面白かっただろう。しかし飛行機の中に、2歳の子供を抱えて大きな3つの荷物を運び込むのも大変な作業だった。それらをパイロットに手伝ってもらって、自分で運んだ。冬物や子供にクリスマスプレゼントとしてそっと買っておいたおもちゃがあったから、荷物はだいぶ不ぞろいにかさばっていた。状況の変化を肌で察してか、荷物を運ぶ私に、子供はしがみついて離れなかった。

 

終わったな、と私は思った。一つの人間関係が終わった。自分がエルサルバドルの 内戦のために一時的にでも避難しなければならなかったときに、自分は病気だったにもかかわらず、引き受けてくれた姉とその一家に対して、私のそのときの心は感謝をしなかった。それどころか私はものすごく傷ついていた。苦しんでいたかもしれない姉を受け入れる度量は、その時の私にはなかった。私は姉がまさか、あれほど精神を病んでいるとは思っていなかったから。

 

姉の精神の狂いに翻弄されて、私は子供を抱えてつらかった。実家で姉と一緒に育ったときも苦しかった。あの姉が原因で私はどんなにあの家庭生活に苦汁をなめたことだろう。そんなことばかりが頭に浮かんでは消え、自分がどうすべきだったかということは考えなかった。 自分のほうにも非があるということは、まったく考えなかった。

 

彼女が放った、私の夫の民族に対する根深い人種差別が、私の心に引っかかっていた。超大国アメリカで、彼女の夫は精神科医の世界的権威として成功したという誇りを彼女は持っていた。そのアメリカの介入のため国中をかき回されている中米の弱小国のエルサルバドル人を、妹の私は夫に持った。

 

私の夫に対する彼女の発言は、アメリカの権威を傘に着た日系人独特の同人種への卑小で醜い差別に見えた。虎の威を借る尊大さでもって同国人を見下す日本人を私はどのくらい、国外に出てから見てきたことだろう。私はあのエルサルバドル国内の日本人からでさえ、傷つけられた。低級な 原住民の3流の日本人妻として。

 

私は、あの小さな国を愛し、祖国のために自分の持てる力を最大限に出し尽くそうとしていた、自分の夫に心からなる敬意を持っていた。貧しい中で助け合い、 自分が飲む水さえ同胞のために提供する、謙虚で優しい私の夫、そして、自分の 家族を2の次にしても他人の危機を助けようとする、あの貧しい中米の民衆を心から愛していた。

 

そして今、私が最後に頼り、そして向かおうとしているのは、自らも難民となって祖国を去り、マイアミにやってきた、そんな境遇でも同胞を助けようとしているエルサルバドルの一家の難民部落の家なのだ。

 

たった今、後にしてきた人々と、今から頼ろうとしている人々との違いを私は極端に考えた。

 

「マイアミの難民部落へ」2

 

その「タクシー飛行機」はカンサスの大きな空港に隣接したまるでバス停みたいなところに着いた。地上に立ったときはホッとしたけれど、さて、荷物を引きずって予約しておいたホテルに向かうのが問題だった。明日のマイアミ行きの便を待つために一晩過ごすためのホテルだ。荷物を運ぶためのベルトコンベアもなく、ワゴンもない。私がその当時持っていた荷物は、今普通に見られる旅行かばんみたいに車の附いたものではない。

 

不安におびえた子供が私にしがみついているが、おんぶする紐もないから片手で子供を抱え、片手で車のない荷物を引きずっても、荷物はもうふたつある。空港のホテルに行くには一度空港のビルの中に入らなければならないが、そこまで行き着くにも、ポーターもいないから、誰かを捕まえて応援を頼むしかない。

 

しかも其のときの私は、英語も、日本語も、失語症状態で、スペイン語しか出てこなかった。持っていたはずの教養も論理も役に立たなかった。とにかく言葉はスペイン語しか出ないのだ。

 

後にこのときの自分の状態をどんな他人に話しても、みんな、私がスペイン語が出来ることをひけらかしているのだと誤解した。冗談じゃない。私はひけらかすほどのスペイン語を知らないのだ。それどころか私は、日本人がいなくなってしまった内戦下のエルサルバドルで、日本語を忘れないよ うに、500冊の本を繰り返し繰り返し読みつづけていた人間だ。

 

こういう場合の精神状態を経験したことない人に、決して自慢にならない不完全なスペイン語以外の言葉が出てこなかった其のときの状況を理解させることなどできない。簡単に言えば神経症にかかっていて、言語障害になっていたのだと思えば良い。

 

其のとき私はただただ途方にくれ、子供を抱えて立っていた。疲労し、混乱し、助けを呼ぶでもなく、何か別の手段を考える知性もなく、途方にくれて立っていた。

 

其のとき。一人の男性が建物の中から出てきて、何も物を言わず、私の荷物を持ち上げ、運び始めた。

 

え?何が始まったのだろうとポカンとしている私に、一寸あごを斜めに動かして、私に向かって付いて来いと言うような合図をし、大きな二つの荷物を運び始めた。何も物を言わなかった。ただ、ある独特の表情をして、私を一瞥し、黙々と荷物を運んでくれた。私に何も聞かず、私が何語を話すか気にもせず、私の人種を確かめもせず。

 

その時の私の心は傷ついていた。いくらなんでも病気らしいとは察しがついても、実の姉から自分の家族の人種を貶められたのは胸にこたえた。私はあの時、怒りもせず家族を守る為に抗弁もせず、黙って耐えた。しかし敗北感はひしひしと身に迫り、情けなかった。そしてもう、この私を助けてくれる他人がいることを期待していなかった。

 

その男性の寡黙な行動を見て、私はやっと理解した。

助けてくれようとしているんだ、この人は。

私は今、助けられているんだ。

そう感じたとき、私は思わず涙があふれ出るのを感じた。

 

その人の沈黙の行動のなんと神々しく見えたことだろう。冷静になって考えてみれば、こういう場合、誰でも一番近くの人が、こういう行動をとるのかもしれなかった。

 

しかしあの場合の私には其の人物が普通の人とは思えなかった。一番助けのほしかったときに、助けてくれた人。助けてくれと頼みもせず、こちらから何のサインも見せなかったのに、それが自分の仕事でもあるかのように、あたりまえの顔をして荷物を運び、礼も言わない私を尻目に、そっと消えてしまった人。

 

同じようなことが私の人生には時たまあったなあ。

其のとき私の脳裏に浮かんだのは、「あの人々」だった。「あの人々」。小学生のとき、私たち姉妹が、お腹がすいていているのを知って、そっと物陰に私達を呼んで、誰にも見えないように風呂敷に包んだパンをくれた、学校給食のおばさん。私はその方の名前から表情まではっきり覚えている。「みながみさん」という名前だった。優しい表情をした丸顔のおばさんだった。

 

電車に乗って友達の家に行った帰り、迷子になって途方にくれて、他人をみんなおそれていた私が、勇気を奮って恐る恐る前を歩いているおじさんに道を聞いたとき、そのおじさんは駅までの道は遠いからと、都電に乗るお金をくれて、都電の乗り場まで連れて行ってくれ、私が乗るのを確かめて私を見送ってくれた。そういう「あの人々」。

 

それらの子供のときに出会った親切な人々のあの独特のまなざしを思い出した。「あの人々」、ほとんど何も話さなかった。寡黙に、ただある表情を見せて、静かに去っていった。

 

私は走馬灯のように、過去の「親切だった 人々」の表情を思い出した。子供だったけれど、しっかり心に捕らえて忘れない、あのときに見せたあの人々の、気遣いとともに。

 

あれは「小さき人々」だ。私が病気だったときに見舞ってくれ、おなかがすいていたときに食べ物をくれ、寒かったときに着せてくれ、牢獄にはいっていたときに尋ねてくれた、その人は、病気のイエス様を見舞い、お腹のすいたイエス様に食べさせ、裸のイエス様に着物を着せ、牢獄にいたイエス様を訪ねた人なのだ。

 

私は一晩をカンサスの空港ホテルで留まり、それから万感の思いを胸に、マイアミに向けて出発した。

 

「マイアミの難民部落へ」3

 

マイアミは明るかった。でも町はまるで私の知っている中米のように、白亜の貧しい家々が立ち並んでいて、白い人々がいなかった。浅黒い人々が懐かしいスペイン語を話し、場末には、賑やかだけれどどことなく哀しいラテン音楽が流れていた。

 

マイアミの空は、厳しさも何もない、だらしないあの中米の、埃だらけの空に似ていた。町を歩く人々の顔には余り希望らしいものが感じられず、故郷を後にして命からがら逃れてきた人々の、ある諦めのような影が漂っていた。

 

しかし彼らとすこしでも話してみると、彼らの表情は陽気にほころび、人懐こく、愛情深く、楽しげだった。歌を口ずさみ、すぐに体を動かして踊りだす、彼ら独特の陽気な民族性がそこいら一体の雰囲気を変えた。彼らは人生を精一杯楽しんでいた。それがどんな人生であろうとも。

 

彼らの外見はみすぼらしく、多分、格好よくはなかっただろう。知性も教養も一流とはいえなかっただろう。

 

私はほんの昨日まで、庭にプールとテニスコートのある広大な屋敷、その屋敷から庭の隅で遊んでいる子供に大声をだして呼んでも私の声が届かないほどの広大な敷地の中にある、全てが電化された豊かな家にいた。

 

4人の子供が一人一人大きな部屋を持っていて、みんなスクールバスの出迎えのある私立の学校に通っていた。豊富な食べ物は冷蔵庫の中にあったが、それには持ち主の名まえが書いてあって、頼んでも、お金を出して買いたいといっても、手をつけてはいけないそれぞれの所有権を持った代物だった。

 

そして私はあの大きな豊かな家の中で「幸福」も「平和」も感じなかった。

 

迎えられて入った其の難民の同朋の家には、日本風に言えば一部屋4畳半くらいの2DKのある家で、その中に7人の人が生きていた。家の中にベッドは一つしかなかった。私はどこにいればいいのだろう、と始めは戸惑った。私が入り込めそうな隙間がないと思ったから。

 

でも其のベッドで寝ていた私の友達は、「あなたは子供がいるんだから」と言って其のベッドからさっさと降りて、ベッドの脇に自分の巣みたいな場所をこしらえ、私達親子に、その家にあるたった一台のベッドを提供してくれた。

 

思わず遠慮がちになる私に、「あなたは子連れなんだ。こんなことあたりまえでしょ」といって、遠慮なんか受け付けなかった。

 

そしてここに住むメンバーは、エルサルバドルでは歯医者さんだったり、お医者さんだったり、弁護士だったり、それなりの社会的地位にいた人たちだった。その彼女達が、ここで、家政婦をやったり掃除婦をやったりして生計を立てていた。

 

自分の夫も「あの時」拒む私を制して、自分のうちの水が尽きてしまうまで、水を求めて群がってきた子供達に、水を上げたのだったな、と水道局のストライキのときの記憶を静かに思い起こしていた。 

 

私達親子が入って、この家の住人は9人になった。私達親子をいたわってくれる者はいても、自分のために良い場所を争うものはいなかったし、りんごが1個手に入れば、りんごを9切れに分けて食べた。りんごの一切れに自分の名前をつけ ,冷蔵庫に保存するものはいなかった。この人たちは、コップ一杯の水があれば 、きっと一口づつみんなで分け合いながら飲むんだろう。誰も自分のために保存をしないで、明日の水は明日になって探すんだろう。天から神の命令が響いてこなくても、彼らは今日飢える隣人を尻目に、自分のために明日のたくわえをするという行動はしなかった。

 

ここ数ヶ月、自分に起きた出来事を思うにつけ、その体験はほとんど不可思議な体験だった。

 

冷蔵庫の食べ物に、いちいち持ち主の名前を記入して保存しておく、有り余るものでも他人には譲らない、お金をはらうといっても、自分の息子のために買ったものだと主張して、同居しはじめた2歳の子供にアイスキャンデイー1本分けてくれない、そういう精神状態を持った人は「文化人」だ。

 

しかも其の「文化人」は、どんなに困っていようとも、ラテンアメリカ人は不潔だから家に入れるのは息子の教育上問題であると言って人種差別を平気でする。自分達は多分、心に平和もないくせに、世界的に第1級の教養と文化と学問が身についているという誇りを持っている、そういう人々だった。

 

そして、一方、足の踏み場もないのに場所を譲る難民の家族。たった一つあるベッドを降りて、新しく来た親子に其のベッドを提供する難民の女性。1個のりんごをみんなで分けあうこの精神。しかも私達親子が寝るベッドの下に雑魚寝をしながら、彼女達は「平和」な、充足した表情をしていた。

 

とっても不思議だった。平和がどこからくるかということが。充足がどこからくるかということが。

 

その昔、3つのパンと5匹の魚を5000人の人々に分け与えた男がいた。人はそれを奇蹟と呼んだが、それを奇跡と片付ける前に、其の精神はなんだったのかを考えてみてはどうだろう。

 

彼は偉い神の子だから、そのような奇跡を起こしたのか。神の子以外に、できないことを彼は蒙昧なる民衆の前でやって見せたのか。何のために?自ら祭壇に登るためか?祭壇に登って、蒙昧なる民衆の信仰の対象になるためか?挙句の果ては、自分を旗印にした殺戮隊を全世界の、彼らが「未開で野蛮な」人々と考える生き物を淘汰するために送り込んで、「世界の王たる主」になるためか。

 

彼は5000人分を調達するために、買い物もせず、盗みもせず、それらの選択肢の中から「分ける」という方法を選んだのだ。パンをこなごなにして5000人分に分ける。魚を細かく引き裂いて5000人分に分ける。「分けて共に生きる」という精神を、彼は教えたのではなったか。

 

足の踏み場もない場所に、隙間を作って、しかも一番良い場所を提供する精神。自分は下に敷物を敷いてうずくまり、平和な顔をして寝る。私は其のベッドの上で充足し、一切れのりんごに満足した。

 

一切れのりんごは腹を満たしたか?否。

心は満たしたけれど、腹を満たしたわけではなかった。

 

パンの粉は人を満たし、魚の切れ端は人を生かした。愛とは、平和とは、分け与え、共に生きることにある。充足とは物の大小ではなく、どれだけ多くの人々と、ひとつのものを分け合ったかにある。

 

私は神の子と呼ばれたあの男の「愛と平和の奇跡」を、今理解した。神の子だからできたのではない、私もあなたも実行可能な手のひら大の「奇跡」を。 いな、「心の革命」を。

 

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マイアミで連れて行ってもらった水族館にて。