Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月27日  

 

スペイン旅行2 

(ここに記すスペインの記録は1960年代の話である。現在のことは知らない。)

とうとうスペインに住み始めた。

 

1)「セビリアへ」

 

マドリードを後にしてタルゴと言う列車に乗った。セビリアに行くのだ。ただひたすらに車窓の景色を眺める。景色は本当に日本では見られない異国の景色だった。銀緑色のオリーブ畑が延々と続く。土手に咲く真っ赤な花、アマポーラ。その美しさに魂を奪われ、私は車窓に張り付いた。

 

誰かが聖書にある「野の花を見よ」と言うのは、一般に「ゆり」と訳されているけれど、ゆりでなくてこのアマポーラに違いないと言っていた。野にあってあまりにも目立って美しいから、これじゃないと其の美しさが生きないという感想だった。勝手な感想だけど、さもありなん。この真紅の野の花は、旅人の目を申し分無く楽しませてくれる花だ。 スペインに来て、後、何も見なかったとしても、私はこの車窓に点在するアマポーラの花を見たことで満足するだろう。

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写真はウイキぺデイアより

 

空は青く抜けるごとく澄んでいる。雲らしいものがない。地平線の向こうから金色の雲のようなうねりがもくもくもくもくと動いて来る。しゃららんしゃららんと空気が揺れる。何だろうと思って目を凝らす。それはなんと羊飼いにつれられた羊の群れだった。丸でミレーの絵がそこにある。これだけの平原の広がりの果てに地平線を見たのも初めてだったが、羊の群れが金色に輝く雲のように、地を這ってくる光景を見て、心から感動した。 こんなに美しいものを、私はそれまで見たことがなかった。

 

隣に腰掛けていた女性が、車窓の景色に見入っていた私に声をかけてきた。旅が退屈になったのだろう。スペイン語できるのかどうか確かめてから、できると見たら猛烈に話し掛けてきた。

 

「どこから来たの?」

「東京。」

「ああ、チナ(中国)ね。」

「東京は日本だよ。チナじゃない。」

「名前なんて言うの?」

「ルイサ。」適当に言った。(ルイサという名前は実は、私の洗礼名マリア ルイジアナスペイン語名。ただしこのとき以外は、ルリコで通したけど))

以後、汽車の中では私の名前はルイサになった。

「あなたの名は?」

「マリア カルメン。」

「あ、そう・・・」

 

スペイン人の女性に名前聞くとみんなマリア カルメンと答えるなあ。と思った。もう名前なんか聞かないうちに、「マリア カルメン!」と声をかけると、そこに数人のマリア カルメンがいて、一斉に「シ(はい)」と答える。それほどこの名はスペインでは一般的だ。

 

其のマリア カルメンは、「アンナカレーニナ」を読んでいた。

「ほう、面白い本読んでいるねえ」と言ったら、

「あなた、これ知っているのお?」と言って、マリア カルメンは喜んだ。しばらく其の本の話しになる。それから感情移入の激しいマリア カルメンにだんだんうるさくなって寝たふりを決め込む。

 

がたん。列車が止まったらしい。セビリアの駅についた。異国の駅の一人旅。白っぽい町。ロバが荷をたくさん背負わされて立っている。ロバの荷は観光みやげ用のつぼ類だ。

 

白地に青と黄色の模様のある壷を、灰色のロバが背中いっぱいに背負わされていた。その光景が白い家と白亜色の大地によくにあう。ロバか。いいなあ。旅情をくすぐる。 

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セビリアの駅の外にはマドレのお兄さんが待っていた。堂々とした体格のおじいさん。はげている。青い目が鋭い。でかい手と握手する。ある感動によって声も出ない。世界中の人間を戸惑わせるあの有名なジャパニーズスマイルも出ない。おずおずとくそ真面目に握手をした、その手の感触をかみしめた。

 

それから黙って彼のあとをついていく。荷物を持ってくれようとしたから、「あ、自分で持ちます」と言ったら、「カバジェーロ(騎士、紳士)はそんなことを女性にはさせないのだ」と言って、荷をもぎ取った。日本にカバジェーロなんかいないんだ。それに、「紳士」とやらの行動になれていないんだ、こちらは。

 

マンションの3階に其の家はあった。急な石階段を上っていく。とうとう家についた。マドレが住んだ家だろうか。見たこともないくせに、その古そうな家を見回して懐かしいと、感じた。帰ったら直ぐに、マドレのお兄さんのアントニオが電話をかける。

 

それから彼は私を呼んだ。

「電話だよ。」

当たり前みたいな顔である。

「電話?」ちょっと、ちょっと、スペイン語で電話なんかできるかな。恐る恐る、渡された受話器を取った。

 

それは懐かしい声だった。別れて2年間。忘れられない声だった。感動が体中をよぎった。

 

2)「スペインの僻地で英語教師となる」

 

マドレのいるコリアと言う村は、大きな地図にも載っていないほどの点のような村である。エストゥレマドゥーラ県カセレス市の中の寒村だ。セビリアから延々6時間バスに揺られ、カセレス市に到着するのがやっとで、そこからこの寒村まで行く人などほとんどいないから、交通の便が悪く、乗り継ぎに2時間半も待ってやっとコリア行きの小型のバスに乗り込む。

 

景色はただ一面オリーブ畑と小柄な桑の木のような姿のブドウ畑が続く。ぶどうが日本のような棚でなくて、人間の背丈より低くこじんまりとできているのが珍しかった。なだらかな白い丘に羊とロバが遊んでいる。

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ロバは灰色のと白いのと黒いのがいた。かわいいなあ。隣にいた娘にあれはなんて言うの?と聞いたら,ブーロと答えた。チナにはブーロがいないのかと聞くから、チナには多分いるけれど、日本には動物園にしかいない、と答えた。

 

誰でも、私の顔を見たら、「チナ」という。

 

ロバは私には個人的に懐かしかった。別に近くにいたわけではない。私は会いに行ったマドレの伯父にあたる人物が「Platero y Yo」と言う散文詩によってノーベル文学賞を取ったという情報を知って、私は日本で、訳文を買って読んだのだ。それはロバの物語だった。ほかならぬマドレの親族がノーベル文学賞受賞者で、それが日本語にまで翻訳されていたことに、私は、なんとなく、誇りを感じていた。

 

スペインにはどこにでもロバがいる。町にも農村にもロバがいる。私はこの動物が気に入った。

 

そうこうしている内に、あたりも薄暗くなった頃、小型の田舎バスはコリアに着いた。「寂れた」と言うより、かつて「町」になったことがない村であることは、ついたとたんに、それと知れた。

 

この寒村の小さな寄宿学校にマドレはいた。寄宿にしないと通えないほどの、さらにまたものすごい田舎の子供たちを教育するための学校らしい。だから小学校1年から寄宿生活をしている子供たちである。近所の子供たちは通ってくるが、半数以上が寄宿生だ。マドレはここでまた、年端のいかない、そういう子供達の「マドレ」をやっているのだろう。と思った。

 

ところで彼女はここで、通いの子供たちを集めて、私のために課外の英語のクラスを用意しておいてくれた。せっかく地の果てからやってきたんだ。1年くらい滞在しないともったいない。それには資金が要るだろう。と、彼女は考えた。

 

それで、私が英語を教えられるように、小学校の父兄に呼びかけて、当時のスペインの田舎の小学校では本来教えていなかった英語のクラスを編成して、待っていたのだ。あたかも、私は初めから英語教師として赴任してくる先生でもあるかのように、彼女はお膳立てをしておいてくれたのである。

 

おまけに彼女は雑誌か何かのクイズに私の名前で応募して、賞金5万円相当を稼ぎ出してくれ、当座のお金を用意までしていた。修道院のマドレの仲間たちは、私が本当に新聞を読んでクイズに応募してあたったのだと思っていて、すごく勘もよければ頭のいいスペイン語がぺらぺらの女性が日本から来たものだと信じていたのだ。これも、私が修道院の居候として、快く迎えられるようにと言うマドレの作戦だった。

 

とうとう私は其の誰にも知られないスペインの僻地の、外国人など誰も行かない寒村で、こともあろうに世界の果ての、珍しい島国からやってきた英語教師となったのである。

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私の生徒たち
 

晴れて、私は堂々と居候になって良かったのだ。私が誰はばかることなく其の学校にいても良い下地を彼女が作っておいてくれたから。

 

私は以前、日本で大学の俳論の講座を持っていたマザー広瀬の紹介で、スペイン人の子供に英語で数学を教えたことがある。成功したわけではないとしても、危ない橋はいくらでも渡り、妙なことは散々してきているので、これもまた面白い経験だと思って、さて、教授法を考えた。

 

相手は最年少で5歳である。楽しませなければと思った。

 

それでマドレに頼んでボール紙を集めてもらい、50センチ四方ぐらいのドールハウスを作った。家具も人形も作った。それにちょっとした庭園も作り、ブランコだの滑り台だのも作って、立体的な英語人形芝居をやって見せた。

 

これが受けた。何しろ面白いものの無い寒村で、超へんてこな外人がボール紙でドールハウスを作り始めたところから見ていた子供たちは、もうそれだけで喜んだ。 一つだったクラスは急に増えて二つになった。

 

おまけにどこにでもいる其の土地の名士の家から声がかかり、そのうちの子供の家庭教師まで頼まれた。なんで、他の子どもと一緒のクラスに入れないんだか知らないけれど、家庭教師のほうが実入りが多い。何でもいいから引き受けた。

 

一般の子どもたちと同じクラスに入れないで、家庭教師を独占するだけあって、こちらは近隣の子供たちとまったく違う豪華な家に住んでいた。コルドバのさる名士の、貴族の分家だそうで、その辺一帯を支配している豪族だった。

 

アルバロという5歳の男の子に英語を教えてくれと言うのだ。くるものは何でも引き受けた。

 

始まったばかりのこの生活は、自分でも面白いと思った。観光もせず、学生でもなく、日本でやっていた苦学時代の生活を、スペインの田舎の村でやっている、どう表現したらわからない妙な生活だったのである。