Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月2日  

 

「母とはこういうものなのか」

 

旅が終焉に近づいた頃、マドレからの世話でただで泊まった宿泊所で、マドレの封書を受け取った。封書の中に彼女は200ペセタを送ってきた。「世話になった人々にお礼に何かを買って行きなさい」という言葉が添えられていた。私はその手紙と、200ペセタをじっと見た。私はお金を稼いだことはあるけれど、こうした形で、他人からお金をもらったことが一度もなかった。戦後の窮状を家族が助け合ってしのいだ。お互いにこういう意味の金銭が行き来する状況がなかった。

 

だから私は、そのお金に対して、どうしてよいかわからなかった。お金をそういう形で使うものと言う常識もなかった。しかもその200ペセタを、修道女である彼女がどうやって捻出したのかも知らない。何も疑いはしなかったが、あくまでも私の「母」であろうとするマドレの気遣いに心打たれた。

 

あの時。家族との不測の関係に苦しんだ私が、自らの命を決定しようとしたときに、マドレは、私の耳にささやいた。「私があなたの母になる。あなたはあなたのお母さんの母になれ。」私はその不思議な言葉を心に抱いてきたけれど、それをどのように実行に移すかを知らなかった。念仏のように、私は彼女の言葉を唱え、胸に抱いて生き続けた。

 

「愛とは、本能なんかではない。イエス様は本能を掟なんかにしなかった。愛とはもっとも高尚な精神で、育まなければ育つものではない。人は愛されなければ愛することができない」と彼女が言っていた、其の言葉を思い浮かべた。そして彼女は私を「愛し」私は彼女に愛された。「愛」とやらが育つ地盤を彼女は私の心に植え付けた。

 

彼女の私に対する行為は、決して、修道女のにおいのする、表面をつくろった「精神的にして高尚な」代物ではなかった。母が赤子にするごとく、具体的で人間的で当たり前かもしれない、しかし、私の知らなかった、あふれるような情愛を、ただひたすらに注いできた。私を抱擁し、私にほおずりし、私を赤子のようにはぐくんだ。私は赤ん坊であった。そのことが異常であろうと何であろうと、自分の状況を傍らで眺める自分自身が、その事実をなんと表現しようと、赤子になった私はまさに猛然と、「母の幻影」にむさぼりついた。私はすべてをなげうって、目蔵めっぽうに、ただただひたすら会いたくて、彼女の元に地球の裏側からやってきた。

 

そうか。母の心のあり方とは、こういうところに及ぶのか。送られた200ペセタから、その時私が学んだことは、貸し借りの関係を0にしろなどと言う 、浅はかな人間関係のあり方ではなかった。

 

「金のブレスレット」

 

8月の末、私は秋の深まったマドリードに戻った。マドレと町を散歩して、手持ちのキャノンのカメラを売った。これもちょっと面白い物語だ。

 

マドレはこの一年、私の家族にいろいろとスペインのめずらしいものを見つけては送りまくっていた。どこからどう言う手づるで手に入れるのか知らないけれど、あるいはまた懸賞金などに応募したりしてお金を手にいれ、当時母のもとに一時同居していた姉の家族、私の甥や姪にいたるまでいろいろとプレゼントをしてくれたのである。

 

そのマドレがずっと私の母に金のブレスレットを買いたいといっていた。ブレスレットに対するスペイン人女性の思いは特別なのである。婚約の象徴は指輪でなくてブレスレットであるため、年取った夫人が持っていないことなど考えられないらしい。

 

いつかマドレのお兄さんのアントニオに聴かれて、母はブレスレットなんか持ったこと無いと言ったら、それはそれはこちらが何事だと思うほどかわいそうがっていた。 と言うのは、女性は結婚して子供が生まれると、其のたびに婚約のブレスレットに小さなメダルとつけると言う習慣があって、ブレスレットには子供の数だけメダルがついているらしい。マドレのお母さんは11個のメダルをつけていた。結婚生活が続く限り幸福な家族の象徴でもあり続ける、そう言う意味を持つのがスペイン女性のブレスレットなのだ。

 

9人の子供を生んだ、私の母は9個のメダルをつけるはずなのに、其の土台のブレスレットを持っていないなんて、ひどい、とアントニオは思った。そして彼はその代わりに、貴族だった彼の家に伝わる先祖代々の銀の蜀台を母のためにくれた。歴史もので歪んでいたが、まさに「銀」。母の死後私が引き取り、今でも家庭祭壇に飾ってある。

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本物の金のブレスレットはやはり高いから、マドレの錬金術では間に合わなかった。其れで彼女は旅の終わりに私のカメラを売ろうよと言い出したのである。どうせ帰ったら修道院に入るのだ。カメラはもう要らないだろう。日本のキャノンには定評があった。高く売れる。一年使ったものでも、うまく行けば買った値段より高く売れる。

 

彼女はお金が手に入るように、幼子のような心で祈った。町を歩いていたある時、通りかかった教会に偶然入った。やっぱりそこにはマリア様がいて、其のマリア様は”Perpetuo Socorro”と言う名前がついていた。「永遠の救済」と言う意味である。そこに偶然入っていったとき、ここで祈ろうとマドレが言った。 私はなんでもいいからそういう祈りに付き合った。

 

其れからぶらぶらと街に出て、ある貴金属商の窓を眺めた。素敵なブレスレットがあった。カメラをぶら下げて中に入った。そこにいた客が私のカメラを見て、「いいカメラだなあ。日本のか?売ってはくれないだろうか」と持ちかけてきたのだ。

 

なんか5分ぐらい前に、マドレがお祈りしようよと言って教会にはいって出てきたばかりだったので、いくらなんでも驚いた。なんだ、なんだ、なんだ・・・これ事実?

 

あきれてしまった私は、商談はマドレに任せて、その様子を他人事みたいに見物していた。なんと、もとの値段の倍近い値段でカメラはその場で売れてしまったのである。

 

いい気になった私たちは 其の店では母に金のブレスレットを買った。マドレは記念にと言って、あの教会のPerpetuo Socorroのマリア様の姿の彫られた金のメダルを私に買ってくれた。 母には、ブレスレットだけではなくて、以前マドレがどこからか仕入れた、これもスペインの女性が必ず身に着けている金のメダイを出して、裏に母の名を刻んでもらった。

 

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金のブレスレット

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左がperpetuo socorro,右は、母へのメダイ(仕入れもとは知らない)

 

物と言うものは不思議なものだ。金や銀其のものに価値を感じる人がいる。私は其の手の装身具に興味をもったことが無かった。しかし私は其の金のメダイに、ことさらの価値を感じた。物に、そこに出会った人、愛する人の思いが宿ってはじめて、かけがえの無い、お金には代えられない価値を感じることができた。

 

あのメダイとブレスレットを受け取った母は、泣いて喜んで、一生それを身に着けて離さなかった。マドレは私ばかりでなく母の心に愛の炎を点火した。今私はマドレと母の二人の心の宿ったブレスレットを身につけている。其れは金ではなくて愛なのだ。

 

「別れと始まり」

 

旅の終わり 9月、雨が降った。真っ黒な雲が空をいく。上着の襟を立て、振るえながら私は町を歩いた。ひりひりと身を切るような寒さが襲う。私は別れを噛み締める。

 

思い立って私はセビリアに向かった。マドレの家族、アントニオとピラールにわかれを告げるためにだけ私は列車上の人となった。あれから一年が過ぎた。アントニオの家は、何をしても良い家、何もしなくても良い家だった。私はあの家で新聞を読み、日記を書き、旅をしては実家みたいに戻ってきた。

 

アントニオとピラールはいつも迎えてくれ、こちらが黙っていれば黙っていて、物を言えば相手をしてくれた。 今彼らを前にして、ここに初めて来た時と同じように万感迫って、私は沈黙したままだ。

 

私はスペインを発つ。何かが終わり、何かが始まる。私の心は清々しく、そして寂しい。寂寥感が心のそこから襲う。すべてが終わって清々しく、すべてが終わって寂しく、そしてすべてが終ってある種の満足感もある。それらのすべてを表現する言葉が無い。 私は涙を流す。別れが私の心を締め付ける。

 

スペインの空と別れ、愛情深い人々と別れ、私の心の母と別れる。

 

愛が奇跡を生み、信仰が奇跡を生んだ、奇跡が日常的なものだった、私の人生のこの不思議な時期と別れを告げる。

 

一年と言う期間は長かったろうか、短かったろうか。スタンダールの墓碑に、「書いた、生きた、愛した」と書かれているそうだ。彼の一生をこの短い言葉であらわした、良い墓標だなと思う。 私がこの不思議な時期の最後に書くことばがあるとしたら,其れはこんな言葉だろう。

 

「私は愛と出会った。そして私は愛することの出きる人となった。」

 

この旅の終わりは確かにひとつの意味ある次の旅の始まりなのだ。