「自伝及び中米内戦体験記」9月1日
「自伝及び中米内戦体験記」9月1日
「スペイン人の日本人感」
周り残した北部のほうを旅しようと、私は7月の末、起点のマドリードに戻り、また怪しげな寮にとまった。安く済まそうとした結果だけど、おかげで、多くの人と出会い、新しい言葉も身につけることができた。人を知り、言葉を覚えたかったら、こう言う旅行の仕方は面白いんだ。
其の寮の主は趣味が豊かだと見えて、古い壷だの像だのいろいろな骨董品を並べている。たいていの家には銀の食器や骨董品の一つや二つは在るものだが、この寮はちょっとした博物館の趣があった。ただし食事も怪しげだったし、同宿のメンバーも怪しげだった。
あるとき得体の知れない食事をした後、みずからが骨董品みたいな白髪の老婆が寄ってきて、彼女の日本人感を聞かせた。「日本人の顔は皆同じだねえ。黄色くて、目が突っ張っていて、礼儀正しくて、やさしくて、おとなしくて、好きだよ、愛しているよ、かわいいねえ。」
そして私の肩に手を回し、しわがれ声でいきなり、ひいひいと歌い出した。
なんだ、なんだ、何事だ!?と怪しんで我慢しながら聞いていたら、一節終わって、「知っているだろ?」と私の顔を覗きこむ。「え!?なんだろ」と私は変な顔をした。「なんだ、知らないのか。」と言った老婆の落胆の表情に慌てた私は、「聞いたことある曲だけど、其れだけじゃわからない」と言ってごまかした。
そこで老婆は立ちあがって弓矢の弦みたいな格好をして、全部歌った。「しまった!どうしよう。全部聞いてもわからない。」当惑し、おどおどする私を見て、老婆はあざけった。
「なんだ、日本人の癖にマダム バタフライを知らないのか!」
「マダム。。。ひぇえ?よせやい、知るもんかそんなもん。マダム バタフライを喜ぶのは日本人に優越感を持っているヨーロッパ人だけだよ。其れに日本人が皆突っ張った目を持っているからといって、皆同じ曲をそらんじているわけではないさ。日本人が誰でも知っているのはラジオ体操の曲と君が代さ。」
マダム バタフライにおったまげて私は馬鹿みたいなことを口走った。
それで私は其の二つの曲を歌わされる羽目に陥ってしまったのだ。「あた~らしい あ~さがきた、きぼうのあさ~だ....」そして、尊い「君が代」を歌い出したとたんぎょっとしたね。
だだだだだっと全員起立してしまったのだ。私は新制度になったばかりの小学生の草分けで君が代に対してそのような態度をとる世代ではない。大体戦後毎日ラジオに流れていたラジオ体操の曲と君が代を同じレベルで歌う不敬な世代である。びっくりしちゃって、君が代の次ぎの歌詞を忘れてしまった。
私の態度がなんだかあまりにへんてこなので、ばあさんはやさしく慰めてくれた。「お前はヨーロッパ人に似ているよ。」誉め言葉らしい。町に出れば皆私をじろじろ見て、「チ~ナ!!」と1年間呼ばれてきた私にとって、いまさらヨーロッパ人に似ているなどと言われたくないね。む~っとした。
でもひょっとすると、マダム バタフライにとりあえず手をたたいたりせず、歌えと言われて恥ずかしげもなくへんてこな歌を歌い、腹を立てたら、きちんとむ~っとするところが、日本人離れしていたのかもしれない。スペイン人の腹のそこによどんでいる白人優越意識を散々知っている私は、あの日本人の国民芸のジャパニーズスマイルでごまかすことをしなかったから。
「バルセロナ」 1
日本の新幹線の技術を輸入して作ったと言う列車に乗って、バルセロナに向かった。其の車中乗り合わせた数人の客が、後ろで 私がスペイン語できないことに決め込んで、「あいつは何人だろう」と私のことで賭けをしている。
アメリカ人(つまりスペイン人にとっては中南米人のこと)だろうか、フィリピン人だろうか、…そう、どちらも彼らがDNAをばら撒いた国である。日本人だとは思っていないらしい。
其のうちの一人が貧乏籤を引き、猫に鈴をつける役割をして、私のところに来た。 指を私に突きつけて言う。其の態度の無礼なこと。多分自分の国の植民地の下等な人種だと思っているのだろう。
「Filipina? Americana?」「 どっちでもないよ、ハポネッサ(日本人)だ、両方とも負け。残念でした。」とスペイン語で答えた。「なんだ,スペイン語できるのか。」どやどやと皆でやってきた。
「日本ていう国はなんでも小さいと聞いたけど,汽車もミニなのか?」トランジスターラジオや小型のテレビのことを言っているらしい。のみならず、カメラや車も日本製の小さいのがこの国に入っていた。こう言う連中に対しては少しこっちの知識が上だと言うことを示したほうが良い。
「ミニの汽車って言うけど、そう言うのどうやって普通の人間が乗るんだい?」と私が言ったら、「人間もすごく小さいって聞いたよ」と答える。等身大の私と話をしているのに、「日本人は人間もミニだ」と決め込んでいる。
そう言った女性に、「私は身長157センチだけど、あなたはどのくらいあるんだ」と言ったら、「ええ?私より大きいじゃない」と言って驚いた。あのばばあ、140センチくらいしかないくせに。
スペイン人はそんなに大きくない。日本に来ていたシスターたちも私より背が低かった。彼らは多分日本に来たアメリカ兵から、戦後の栄養失調時代の日本人のことを聞いたのだろう。
其れで,ミニ製品を作る日本と言う連想から、ミニの汽車に乗るピグミーを連想しているのだ。目の前にいる人間さえ、自分と比べりゃわかるだろうに、自分たちと同じであるはずがないと言う先入観から、私がミニに見えたのだろう。明らかに、私の157センチに納得していなかった。(なお私はこれを記述している現在、病気のためか縮みに縮んで、154センチになっています。)
ちなみに其のころのスペインのテレビは ひとつの箱にすべての機能を内蔵している、われわれが知っている物ではなくて、箱の外に機械がでていて、外で操作しなければ映像が映らないという代物だったから、機械が大きすぎて一般家庭には置けなかった。一般人の世界に対する知識のレベルも、ものすごく低かった。
コルドバの金持ちが日本の皇帝が一夫多妻で、その上芸者をはべらせている野蛮人だと言っていたのも、彼らが知ることのできる唯一の異邦人の国、しかも中世のアラブか数世紀前の中国と間違えていたのであろう。
(まあ、権力者の一夫多妻は江戸時代まで、確かにあったけれど、一夫一婦制になった現代もそう思われているのは、迷惑だわ。ただし、結婚しちゃ離婚して再婚を繰り返すのと、一夫多妻とどうちがうのか、わかんないっす。私はバカなんで。)
それはインターネットはおろか、テレビも世界に普及していない1960年代のことだった。
「バルセロナ」2
バルセロナは一度、ローマからピレネーを超えて来たことがあるけれど、一晩宿を取っただけで、観光をしていなかった。今度はじっくり観光をしようと2週間滞在することにした。バルセロナを観光するのなら2週間じゃ足りないと途中出会った旅行者が言っていただけあって、何しろここは歴史の古いところだ。
アルタミラみたいな原始人の洞窟から始まって、ハンニバルのピレネー越えで有名な地点だから、汽車の窓からの景色も、遺跡 遺跡 遺跡…。ゴート人、ケルト人、ローマ人、地上に現れるすべての人種が其の足跡を残していると言う。原語はカタラン語、この地方の正式な名前がカタルーニャ。
スペイン人、つまり、スペインの国家をおもに形成しているマドリードを中心にした民族カステリャーノではないそうだ。そこら辺の事情には現地の人は神経を立てるが、日本で話題になるようなことではないから、私にはよくわからない。バスコと共に独立の機運まであるそうだけどね。
カサ デ パジャスと言う博物館を一日見学。よく見るためには3日必要だそうだ。地下がローマ時代の宮殿の跡になっていて、もぐりこんで行くと柱、井戸、炊事場の跡がある。地上の街の下にあるので、上から現代の生活の音が聞こえる。彫像が立ち、城壁が在り、入り口にあたる階段がある、つまり地下全体がローマの街なのだ。表に出るとカテドラルの入り口、この中のマリア様は美人だったぞ。(崇拝してないから騒がないでね、プロテスタントのかたがた、でも美人は好き)
casa de pallas(アクセント記号割愛)
サンタ マリア デル マール教会の天井の高さに口をあんぐり。とても姿が美しい。サンタ マリア デル マールとは海の聖母という意味。いろんなところに聖母っているんだね。
メルセッドの聖母教会、ここの聖母像もきれいでしたよ。何かにあこがれると人って言うのはさまざまな芸術品を生み出すものです。スペイン中の聖母像集めてもかなり優れた芸術品のコレクションになりそお。
モンジュイの城(表記が違うらしくて、検索しても出てこない)というのを見学。昔からの武器を陳列した博物館があって面白かった。丘に上ると、見晴るかす限りなく広い海。後方にバルセロナ全景を眺めることができた。ほとんど一年旅をしているくせに、旅をしているなあ等と今更感じて良い気分だった。
モンジュイックというのがあるからこれかも。
動物園に行った。実はラクダを見たかった。今、日本の動物園にラクダはいると思うけれど、私は其のころまで、動物園でもラクダを見たことが無かった。
母が昔満州で買ったというパンツをものすごく大事にしていて、其のパンツを「ラクダのパンツ」と言っていた。ベージュの温かい下着だけれど、綻びができても、穴があいても、其のパンツだけは毛糸で継ぎをしてはいていた。どんな思い出のある代物か知らないけれど、多分一生あのラクダは手放さなかっただろう。其れで、私はあの尊いパンツの原料を拝見したかったのだ。ラクダからパンツを想像できても、パンツからラクダは想像できないもんね。
ラクダは10数頭いた。ひとこぶのもふたこぶのも、子供も白いのも茶色のもいた。わーい。パンツのラクダだだ。パンツが歩いているぞ。私は一人で興奮した。でも其のパンツはあまりかわいい動物ではなかった。足はごつごつしていて,ちょぼちょぼとひげが生えている。黒いべろを時々べろりんと出すところなんか見ちゃうとギョッとする。座り方も無様だ。関節の曲げ方がいやらしい。エロチックな感じさえする。やっぱりお前はパンツにされる為生まれてきたんだね、などと残酷なことを言って動物園のパンツ見学をおしまいにした。
「バルセロナ 」3
モンセラッと言う名所に行った。カタラン語で「閉ざされた山」という意味だそうだ。ベージュ色の角の丸く磨かれたような岩が幾重にも重なる珍しい山である。岩の間に背の低い繁みが這っていて、何も無いところにいきなり幾重にも岩が生えているから神秘的にして雄大な面持ちをたたえている。古代の人々がつけた名前だろうけれどいかにも閉ざされた山だ。
頂上より少し下にここの守護神のようにマリア様が祀られている。平地のたいして特筆すべきでないところにだって、満遍なくマリア様がいるのだから、こんな神秘的な山にマリア様がいなかったら却って怪しい。
前にも言ったけれど、多分初期のキリスト教徒がスペイン布教の際に土地の守護神を布教の便宜上皆マリア様に変えちゃったのだろう。其の土地其の土地のマリア様は、其の土地のある特別な雰囲気をたたえているのを見て、その時もそう思った。
其れが世界をキリスト教化することに使命を持った布教者の知恵だったのだろう。
モンセラッのマリア様はどう言うわけか真っ黒である。そして原始的であどけない顔をしている。マリア様の原型になった土地の神様がきっと真っ黒であどけない顔をしていたのだろうことを彷彿とさせる顔である。木像で、なかなか良い顔立ちだがスペイン人の顔ではない。むしろ仏像に似ている。
そして其の参拝客が、マリア様の足に触れ、台座に触れ、其の手を体のあちこちに擦り付けていた。
え、これは?と思った。日本の地方のお地蔵さんなんかも、触れると目がよくなるとか病気が治るとか言うのがある。あれだ。
なぞが解けたような気がした。初代のキリスト教布教者達は、土地の人々の心を破壊しなかった。其の土地の信仰の在り方をキリスト教の中に組み込むことによって、地方の神々と妥協したのだ。きっとこのモンセラッに祀っていた病気を治す神様に、そっと其のままマリア様の服を着せて、この土地の人々に返したのだ。
やさしい、やさしい布教者達。人を殺さずにそっとだました、しかしこの知恵をスペイン人達は受け継がなかった。アメリカ大陸に行って、彼らはキリストの名においてすべてを破壊し殺戮した。なぜだ!
(実は写真を撮らなかったので、真っ黒けのマリア様をネット検索したのだけど、出てきたのは、私が50数年前に見たのと違うようだ。当時見た時は信仰心に満ちた人々が、じかにさわれる場所にあったのだけど、ネットで見たら、かなり厳重に保管されているので、意外だった。)
これじゃ、触れられません。
バルセロナの空に雲が流れている。橙色の雲である。ちぎれているが間隔を変えずに静かに動いている。灰色の雲が其れを追っている。遠くに白いいわし雲が動かずに浮いている。
ところで、報道では、人間が月に行ったそうだ。目的も無く行ったそうだ。人間はいつも自分の行動の偶然の結果だけを信じて目的もなく行動する。アビオン(イワツバメ,飛行機)が飛んでいる。この鳥を見て、人間は飛行機を作り、アビオンと名付けたのだ。雲が全部灰色になった。宿泊している建物の窓から見えるテイビダボの山は真っ黒である。
「パンプローナとバスコ地方 」
日本で先史時代の壁画と言えばアルタミイラが有名である。(スペインで日本語式にアルタミラと発音して、散々な目にあった。ミイラを強調しないとわかってくれない。これも、最後の手段で筆談で理解してもらった。)でもアルタミイラまで行くすべも無かったので、私はバルセロナの最後の日にモンジュイ公園の考古学博物館に其れと似たような洞があるというので見てきた。
先史時代からいた画家の足跡がここにもあった。石の鏃をこしらえながら壷に模様を描き、壁画を描き、多分月を眺めて詩を作ったのだろう。そして同じ手で武器を作り、人と戦い殺し合いもしたんだろう。20世紀,其の詩文の対象の月にはじめて足をつけた人間のことを考えながら、先史時代、洞に壁画を描いた人間を思った。
秋風の立つ8月半ば過ぎ、私は北部、パンプローナに行った。いつもの通りバスの最前列の席で雄大な景色を楽しみながら旅をした。大パノラマ。
パンプローナについてから体の調子のためちょっとぐずぐずしていたが、サンセバスチャン、エステーリャと旅をし、レイレのモナステリオ、イエサの沼、ハビエル城を見学した。
ハビエル城とは、どう言うわけか日本語ではザビエルと発音されている、あの有名なフランシスコザビエルのお城である。ザビエルが日本に着たとき、英語圏を通過したわけではないのに、なぜザビエルと言う発音で日本語に定着したのだろう。前から不思議に思っている。
ハビエル城
そこはすごく寒かった。そして陰気だった。私がいままで旅をしたスペインの陽気な趣はここには無かった。人間も陰気ですすけた感じがして、やっぱり人種も違うかに見えた。顔は青白く、目が青く、冷たそうで、なんだか情より理性のほうが勝っているなと思わせる表情をしている。 其の陰気な景色の中に、お城と言う華やかさの無い、質素な堅固な城砦があった。
この城砦の中でフランシスコ ザビエルは生まれ、育ち、武人として成長した。こんなところなら、武人としてしか成長できなかっただろう。彼がその後イグナチオロヨラと出会い、其の出会いを通して布教への使命感を掻き立てられ、まさに武人の心を持って世界に布教のため船出して行った、其の彼の精神の萌芽の故郷として、この清涼と言うか、むしろ冷たい空気に接したとき、なんだか変に悲しかった。
バスコはスペインの正規の政府と相容れない、絶えず絶えず独立を試み、統一王朝と対峙してきた民族の地である。原語もスペイン語とは語源を異にしているそうだ。(一説に日本語と兄弟関係にあるというのを聞いたけれど、まさかね。)
つまり幸福ではない。幸福ではないものの常として必要以上の誇りを持っている。
不当な弾圧に耐えてきたと言うフラストレーションがある。其の必要以上の誇りを伴うフラストレーションが布教と言う使命感に向いたとき、向けられた世界の非キリスト教徒の運命が決まる。 私の今の心の状態と重なる。思いは深く沈潜する。
「いかにかすべきわが心」と唱えながら諸国を行脚した西行は、出家しながら常に浮世を見つめていた。
(注;以下にウイキペディアで調べた、「ハビエル」の発音についての説明を記す。
ハビエル城 (スペイン語: Castillo de Javier)またはシャビエル城 (バスク語: Xabierko gaztelua)は、スペイン・ナバーラ州ハビエルにある城。日本では聖人の一般的な呼称に因んでザビエル城やサビエル城と呼ばれることもある。)