Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月31日  

 

 

「或る友人の訃報 」 

 

高校の時であった一人の友人がいた。名前を紘子という。歴史を戴した名前である。親父さんが軍属で大陸に暮らしたころ生まれたから、八紘一宇の紘をとって紘子である。9人兄弟の私の一家も、大陸生れの兄たちの名前は、歴史を物語る名前が付いている。変換しても出てこない、昭和天皇の幼名から取った文字だとか、戦艦の名前さえある。

 

まあ、それはどうでもいい。

 

その友人の訃報を、私はスペインの寒村のコリアの小さな修道院経営の小学校の一室の中で、受け取った。彼女は、私と青春の懊悩を共にした、高校時代の最も親しい友だった。

 

高校2年のとき、集団検診で私と彼女は肺に影があるということで、引っかかった。私は休学とまで行かず、体育の授業を見学する程度に留まったが、結核治療のため1年休学していた彼女は1学年さがって私の学年に復帰してきた。

 

見覚えのあるのは、私だけだったと見えて、「おう!あのときの結核仲間か」、と声を掛け合い、其の日から友人になった。

 

彼女は、私とは正反対の性格で、すごく自由で行動的で、豪快な性格の人物だったが、なんだか私と気があった。年齢が上だったにもかかわらず、学年が下がって、友人がいなかった彼女は、勢い、出会った事のある結核仲間の私に近づいた。私といえば、別に喧嘩を好んだわけではないにせよ、とかくに孤立しやすい人間で、議論になると、自論を吐いて鋭く同級生と対立する。彼女はそんな私が気に入ったのか、以後、ほとんど私の庇護者みたいになった。

 

深刻に真剣になりやすい私に、彼女はげらげら笑いながら、「お前は正しい、お前は絶対に正しい、お前に反対するやつは私が行ってぶん殴ってやる!」とほんとにそういう言葉を使って常識人の攻撃からの防御壁になってくれたのだった。しかも、時には彼女は言葉にたがえず、私を非難する友人に食って掛かり、撃退してしまうほど、本気になって私をかばった。

 

大学は別々になり、ある時、国会図書館に本を借りに行ったとき、偶然彼女にあって交流を新たにした。さらに、もう大学を卒業して私が院生をやっていた時代、彼女は家族ごと私の住む東京武蔵野市に引っ越してきてからは、私の住みかであった物置のパラシオに直接やってきて、散乱していた私の日記を読んだ。その結果、なんだか、茫然としていった。

 

「あなたを心から尊敬するよ。」

 

クラブその他の友人はいたものの、まさか「尊敬」などされたことのない私は、ちょっとポカーンとした。自分を特別な親友だと思ってくれる仲間もなく、物置の中で、青春の懊悩の真っ只中にいた私が、他人の「尊敬」を受けるなどということは想像も期待も出来なかったから。一人彼女は「あなたを本気で尊敬しているぞ」といいながら、私のパラシオを訪ねてきた。

 

私の行っていた高校も大学も、当時からかなり名高い名門校なんだそうで、集まる子女はとんでもない大金持ちだというイメージがある。現実はそうではなかったことを、あの学校の奨学金とアルバイトで切り抜けた私は知っているが、大金持ちがいたことも事実だった。その大金持ちのイメージを帯する友人の中で、あの物置に私を訪ねてくれたのは、紘子だけだった。名門校の学生である人間が、実は物置に住んで、開けても暮れても金稼ぎに余念ない生活をしていた、その事実を知っていたのは、彼女ただ一人だった。

 

その彼女は「私の影響で」、カトリックの洗礼まで受けた。私は誰にも受洗など全く勧めた覚えはない。しかし彼女はお前の影響で受洗するんだと言い出した。そんなわけで、彼女は私を「代母」と言われるカトリックの受洗時のゴッドマザーに選んで、受洗した。変人で名高い私を代母にしたがる友人など、考えてもみなかったとき、彼女をあえて私を代母に選んだ。

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紘子の洗礼式。肩に手をかけているのが、代母の私

 

そんな関係で、彼女は私の修道院入りの決意も知っていたが、何度か私に其の決意を変えさせようとして手紙をよこした。私はそういう紘子にスペインから長い長い手紙を出し、修道院に入る気になった思想を物語った。その手紙を読んだ彼女は返事をよこした。

 

「あなたの手紙を読んで長い長い吐息をしたよ。天を仰いで誇らかな気持ちになった。貴女は痩せたソクラテスだ。ソクラテスは深甚な思想に生き、太った豚の俺様は不倫して男と駆け落ちだ。」

 

彼女は現実的で、あまり夢は見なかった。アメリカに住むお姉さんのところに行っていたが、私がスペイン滞在中に、何か問題を起こして婚約を解消したとかですごく落ち込んでいたため、私がスペインからスパイン周遊旅行に合流するよう誘っていた。

 

「なんで、痩せたソクラテスと太った豚しかいないんだ。太ったソクラテスや、痩せた豚も選択肢に入れろ。ついでに私と一緒に太ったソクラテスとして修道院に入る気ないか。」そう彼女に当てた私の最後の手紙は、封を切らずに、彼女の訃報と一緒に戻ってきた。

 

当時私は本格的には絵を描いてはいなかったが、彼女は油絵を描いていて、スペインの美術に興味を持ち、スペインならプラド美術館に行きたいといっていた。だから私はプラド美術館を一人で見ずに、彼女と合流したら一緒に見ようと思って旅の最後に残しておいたのだ。

 

彼女はかなり裕福な出らしくて、私が貧乏学生時代、いつも美味しい物を奢ってくれた。彼女のおごりを私がうまいとは言わず、「ううう、栄養ある、栄養ある」と言って食べたので、面白がって家にまで誘ってご馳走してくれて、「ほら、これ栄養ある肉よ。肉って知っている?」なんていくら私でも肉とわかるものをわざわざ教えてくれた。冗談ばかり言っておかしいやつだったが、彼女はその時も、何だか私の思想を肉と引き換えにもらうんだとか言っていた。

 

其の紘子が死んだ。私がマドリードで彼女と合流して最後の旅を考えていたので、そろそろ帰国の準備として手紙類を処分してしまった直後の6月13日、私は其の通知を受けた。アメリカのお姉さんの住むオハイオ州の、あるハイウェイで、対向車と正面衝突したとのことだった。其の通知を受けて3日間、私は文字通りぼおっとして何もできなかった。死んだのは、5月25日のことだったそうだ。それから2、3日たって,私は其の25日の消印のある彼女の最後の手紙を握り締め、泣いた。声を上げ、髪振り乱して泣いた。

 

寂しかった青春時代、何も持たぬ私の、持っていた唯一の「思想」のみを、かくも大事にしてくれた唯一で最大の友の死を、スペインの僻地の小さな学校の一室で、声を限りに泣いて悼んだ。壁を震わせ、窓がびりびりとなった。身も世もなく号泣する私を、誰も抑えることが出来なかった。葬儀にも告別式にも出席できなかった私の、其の泣き声だけが彼女への葬送の歌だった。

 

花の美しい6月、私の部屋は其の地方のありとあらゆる花が飾られた。マドレが子供たちを使って私を慰めるために持ってこさせたのだ。ゆり、ゼラニウム、バラ、名も知らぬオレンジ色の花、紫の花。

 

カテドラルの塔の上の鴻の鳥の巣では、雛が大きくなっていた。

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高校卒業式
 

「コリア出発」

 

6月一杯で1年の学期が終わるのを待って、私はまた旅支度をし始めた。もうここには帰ってこない。万感の思いを胸に、私は遣り残した仕事をした。

 

カルメン テジェスという私の英語の生徒、10歳。この天才児に、残った英語の教科を全部教えて行こう、と思った。たった9ヶ月しか教えなかった。其の9ヶ月の間に私が教えたことをこの子はひとつも逃さずに覚えた。もっと入る頭を持っていた。他の子に教える間、この子はじっとおとなしく待って手持ち無沙汰にしていた。このままにしておくのは惜しい、と思った。この後この村に英語を教える後任者が来るかどうかわからない。

 

カルメンを呼んで特別指導した。日本の中学3年ぐらいまでの事を教えてしまおうと思った。私が作った教科書を全部終わらせればそこまで行ける。彼女はついてきた。其れが終わったとき私は彼女に9ヶ月教えた手製の教科書を渡して、あなたに教えたことをあとで皆に教えてあげてね、と約束をさせた。澄んだ美しい褐色の目がじっと私を見つめて、彼女は其れを約束した。

 

それから私は子供たちとよく散歩をしたアラゴン川の岸辺に一人で行った。遠くにカテドラルが見えた。カテドラルの塔はコウノトリの巣だらけだ。そのコウノトリの雛が巣立ちを迎えて舞っている。

 

コリアに観光名所は無いかと思っていたが、実はこのカテドラル、一年に一回国王陛下が見えるほど、国宝級の「或るもの」が納まっている、大切なカテドラルなのだ。其の古さは2世紀か3世紀の建物だそうで、収められているものは、キリストの受難の「茨の冠」だったか、手足を十字架に打ち付けたときの「釘」だったか、とにかく其の類の代物があるのだそうだ。何でゴルゴタの山で処刑されたキリストの刑具が、スペインの寒村のカテドラルにあるのか、歴史を知らないから、わからない。

 

三郎兄さんの話しでは聖ヨハネの首と称するものは12こもあるそうだから、この手の類のものは、歴史とか科学の対象ではなくて、象徴かもしれない。

 

水は流れていないかのように見えたが,近づくと林の間から見える青い帯は生き物のように動いていた。林が風にゆれて、シャッシャッと音を立てる。冷たい色だと思った。いつもこのあたりに起居していた遊牧民のヒタノと呼ばれるジプシーの一家は、暑くなって北上したと見えて、陰も形も見えない。藪に干してあった洗濯物も無い。マドレはこの一家とも親しかった。

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もう親しくなっていたこのあたりの住人にいちいち挨拶をした。「もう日本に帰るよ,長いこと友達でいてくれてありがとう。」真っ黒な顔をほころばせて皆挨拶に答えた。「もうこないのか?」「ああ。もうこない。」「残念だなあ。あんたが好きだったよ。」やさしい人々。草の豊富な斜面で灰色のロバが草を食んでいた。見なれた景色。ロバがいないスペインなんて考えられないほど、ロバは景色の一部だった。

 

壁に二匹の青いヤモリがくっついていた。デブとやせ。二匹で追いかけっこしている。デブがやせを追っている。やせは思わせぶって時々とまる。ふふふ。かわいいやつ。ヤモリに別れを告げ、6月25日、コリアを後にした。

 

コロンブスを乗せた船 」

 

コリアをたった其の足で、私はウエルバ、ラビダ、パロス、モゲールを訪れた。実はこの地は私だけが意味を感ずる小さな旅だった。今は観光地の端にも上らない、しかし世界歴史にとっては意味のある小さな街である。

 

マドレの一族の出身地。パロスには彼女の祖先の銅像が立っている。マーティン・アロンソ・ピンソンという。コロンブスに船を提供した貴族だそうだ。マドレの本名は、マリア モンテマジョール フェルナンデス ヘルナンデス ピンソンという長い名前だ。つまりマーティン アロンソ ピンソンの一族らしい。

 

アメリカ発見の第二の主役だと言っている。まあ、アメリカ原住民にとっては迷惑な話しだが、世界の歴史を変えた一人の主役がここにいたらしい。ラビダはイサベル女王の関係のある修道院のあるところで、其のラビダ修道院長であったフアン ペレス デ マルチェーナとともに、マドレの祖先のピンソン家の主が、コロンブスの航海の計画を立てたのだそうだ。

 

ウエルバはなんでも3つの川の接点にあって、コロンブスの船出の地点だそうだ。

 

歩いたって何も無かった。ただ其の地がコロンブスゆかりの地で、マドレの祖先の土地だと言う知識が無かったら、感慨も糸瓜も無かった。 そしてモゲールは。マドレの故郷である。同時にフアン ラモン ヒメネスと言う、ノーベル賞作家を出した土地でもある。

 

既述のように、日本語でも、「プラテーロと私」と題するヒメネスの詩集が出版されている。其の人がマドレの伯父さんだということを聞いてから私は日本の本屋を探して一冊買って読んだ。ロバの話しである。ほとんど一年、スペインを旅して、私はヒメネスが描くロバと人間の心の交流を理解する。

 

其の土地で出会った素朴で親切な少年が村を案内してくれた。マノロという名のその少年に限りない親しみを感じた。マドレは幼少の頃、マノラと呼ばれていた。マノロと名づけたマドレのお兄さんが、マドレが生まれる前になくなったということで。

 

そのマノロ、ちょろちょろ歩いてどこからとも無く現れて教会の鍵を持ってきてくれ、古い教会を覗かせてくれた。マドレが洗礼を受けた教会。崩れかけた、何も見るべきものを持っていない、ただの建物。

 

でもかわいい、マノロ。ひなびた田舎の少年。ありがとう。楽しかったよ。何よりも、この地を訪れたかったんだ。限りない愛惜をこめて、マノロと握手し、別れた。かさかさに乾いた少年の手の感触が残った。私の心のアルバムにこの感触を残しておこう。きっとあの子はプラテーロの友達だ。子供の消えて行った道端で、ロバが白い花をむしゃむしゃ食べていた。

 

アヴィラ」 

 

小さな旅のあと、中継点のセビリアに戻った私は、資格試験を受けるために首都に向かうマドレと合流し、一緒にマドリードに行ってから、一人で最後の観光を続けるために、アヴィラを目指した。

 

アヴィラと言う町の名前はテレジアという大聖女が活躍した場所として記憶していたが、其のテレジアがなにをした人かは知らない。何しろスペインと言うところはマリア様だけでなく、聖人と言う種族がうじゃうじゃいるところなのでいちいち覚えていられないのだ。

 

小テレジアと呼ばれている聖女は、ものすごくかわいらしい肖像画が私の実家にあって、子供のときからなじみだったが、この大テレジアと言うのは、其の「小」のほうと区別するためにいつも「アヴィラの」と言う枕詞がついて「アヴィラの大テレジア」と呼ばれていたから、ただそれだけで、このアヴィラの名を知っていた。

 

其のアヴィラでは、小さな寮にとまった。其の寮は平均年齢90ぐらいのおばあさんばかりで、面白くなかったから、ここでも一人で観光した。

 

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ウイキより

 

ここはトレドと同じやはり堅固な城壁に守られた街である。町全体が中世の騎士道物語の舞台みたいだ。城門を出入りするだけでも楽しい。城門を出て城壁にそい、岩だらけの道を歩くと、城壁のわずかなくぼみに、小さなバラ園ができていて、老人が涼んでいる。其の老人ごと良い景色である。蛇のような形のホースは鎌首をもたげてバラに水を飲ませている。ホースまで凝っているなぁ、と思った。

 

城壁と街道の間にある歩きにくい道を私は好んで歩きつづけた。遠くにエンカルナシオンの教会が見える。背の高い木が見え、水が見え、川が見えた。岩でできた不ぞろいの階段があったので登って行った。寮の窓から見える見なれた山々の景色が目の前に広がって見え、「おや、一回りしちゃったのか」と思った。白い布を一枚だけ敷いたかに見える雲のかけらが、他よりも幾分高い山の上に見えた。ジプシーの物売り女が寄ってきた。こう言う人のほうが文明を誇っている人より魅力あるのはなぜだろう。

 

私は誰もいないアヴィラの城壁に上って歌を歌った。昔学生時代,一人で飲みながら歌った歌だし、仲間と山登りをして歌った山の歌だった。其の歌を、最後の手紙で紘子が聞きたいといっていた。一度だけ彼女と大菩薩峠に登ったことがあって、彼女は私がこの歌ばかり歌っていたのを知っていた。

 

「北帰行」の替え歌なのだけれど替え歌のほうも孤独な歌だった。この旅の最中に、歌を歌ったことなんかなかった。

 

私はもともと一人旅だったにもかかわらず、帰路に差し掛かったら、友を失ったことを日を追うごとに、深く深く感じていた。思わず出てきたその歌は、やっぱり友をしのぶ歌だった。

  

  • 今日も静かに暮れて
    ヒュッテに灯火ともり
    囲炉裏囲み 想い果てなし
    明日はいずこの峰ぞ
  • あわれはかなき旅よ
    人はみな旅人か
    なにを嘆きなにをかいたむ
    憧れの峰越えて

(本来の歌「北帰行」

窓は夜露に濡れて

都すでに遠のく

北へ帰る旅人ひとり

涙流れてやまず

 

今は黙してゆかん

何をまた語るべき

さらば祖国愛しき人よ

明日はいずこの町か)