Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月25日

 

「スペイン旅行 序」

 

修道院と家族との間で自分の心はいつまでも揺れ動き、決定を実行に移しかねていた私は、日本から退去を余儀なくされてスペインに戻ったマドレとの間で手紙のやり取りを続けていた。

 

それはまるでラブレターみたいなものだったが、彼女はそのラブレターに、いつもいつも答えてきた。彼女のラブレターには、スペイン語の自作の詩まであって、私の狂った倒錯状態に対して、非難も批評も教訓も宗教的な指導も、一切無視して、私の異常性に付き合い続けた。

 

(現代のように、pcがあって、こういう便利なブログに発表する機会があったら、あのマドレのスペイン語の詩も発表できたのだけど、今、あの膨大な記録がどこに沈んでいるか、探しようがない。記憶ばかりでなく体力がないから。)

 

私はとうとう、何が何でも、あなたに会いにスペインに行くぞと連絡をしたら、彼女は非難もせず、逃げ腰にならず、教訓もたれず、「よし来た、引き受けた」と答えてきた。

1968年、とうとう、そのマドレから、任地が決まったのでいつ来ても良いよ、という手紙が来た。いつ行ってもいいのだ!

 

「旅費を稼ぐ」

 

私はそこで、独立資金として学生時代以来ため続けた貯金を数え、1ドル360円均一の時代のヨーロッパ行きの旅費としては心細かったので、翻訳をやって稼ごうと思った。

 

其の頃、マドレの修道会の院長から一冊の本の和訳を頼まれていた。会の創立者の伝記である。原書はスペイン語だった。

 

貧乏学生で苦学した私は、自分が少しでも出来る仕事なら何でも引き受けた。高校時代たった3年間、しかも基礎しか学んだことのないフランス語の論文を訳したり、スペイン人の子に、英語で数学を教えたり、出来そうもない仕事でも、兎に角私は食いついた。

 

スペイン語にいたっては、当時学校で習ったわけでなく、私がフランス語を少しできると知っていた大学の変人シスターに、あるときいきなりそそのかされて、始めただけだった。

 

本一冊のスペイン語訳なんか、できるわっきゃない。しかし私は食いついた。食いついたまますっぽんのように放さなかったのが、気に入る人がいてくれて、今回も創立者の伝記を任されたのだった。

 

私がこの本の翻訳に一番困ったのは、両国の感情表現の違いである。二つの国の言語を並べているうち、二つの国の歴史から、言語の成立に必要な民族性の違いにまで気を使わなければならないから、もうほとんど不可能に近い。

 

どうしても深入りせずに、字面をあわせていくしかない、かなり厄介な仕事だった。

 

論文ならいざ知らず、愛情表現にいたっては、相手を呼びかける言葉でさえ、日本語にするときざになる。

 

マドレが私を呼びかけるとき言っていたスペイン語を仮に直訳してみると、

 

「私のかわいい娘、神様の贈り物、私の心の宝...。」ということになる。 

 

ちなみに執筆中のこの時(娘が高校時代まで)私の家庭はスペイン語族の夫と日米原住民族合体の娘の3人で暮らしていたが、娘がよく言っていた。

 

「お父さんの言葉って日本語にするとヤバイねえ。『君の美しい声が僕の心を幸福にするよ、わが愛する娘よ』なんてことになって、ぎょぎょぎょだねえ。」いかがですか、みなさん。

 

でも引き受けた以上やらねばならないから最後の1週間は夜も寝ずにコーヒー飲んでがんばった。完成の暁に私は3日間ほどぶっ続けに眠り込んだ。

 

それがスペイン旅行費のためだということを理解した修道院長は、私がスペインに行ったら、スペインの本部で翻訳代を支払うからといったので、スペインペソと円のレートも調べず、信用だけで、その気になって、往復の切符だけ持っていったのだ。若いということは無鉄砲なものである。

 

1)新潟港出発ナホトカへ

 「ソ連通過」

 

1968年9月3日、私は新潟港から船でナホトカに渡った。其の年の8月にソ連チェコの改革に立ちあがったドプチェク政権に介入して、チェコに侵攻した直後のことである。(いわゆる「プラハの夏」。

 

初めての海外旅行で一人だからそれなりに面白かった。こちらは20代の女の子であるから、一人となると、何かと男がよってくる。甲板のベンチに腰掛けていたら、猿から進化して間もないような毛むくじゃらの男が勝手に隣に座って声をかけ、写真をとったりしてくる。

 

私の3倍も体重のありそうなおばちゃんが、「グ―テンモルゲン」と挨拶する。ドイツ人らしい。英語通じるかなと思って自分は「ケルン」に行くんだと英語で言ったが、ケルンの発音が通じなかった。文字に書いたら「なんだ、キョルンか!」と、やっと通じた。ケルンじゃ通じないんだ。

 

「ギヨオテとは俺のことかとゲーテ言い」 という川柳を思い出した。なるべく原語に近い発音表記を考えた森鴎外が、ゲーテをギヨオテと表記したことをからかった川柳である。やっぱり鴎外は正しかったのだ。ケルンじゃなくて、キョルンだよ^^。

 

イタリア男も声をかけてきた。こっちはもっとHな目をしている。やっぱりこんなHな目にみつめられちゃ、気味悪いから、距離を置いた。

 

ナホトカの税関検査の女性の役人が珍しかった。髭が生えている。ソ連は女も髭が生えるのか。制服もおっかない。フレッシュフルーツあるかと聞くから、船酔いよけに持っていたレモンを見せると匂いをかいでいる。表情が猿そっくり。

 

なぜレモンを嗅ぐのかわからなかったが、今思えば入国管理で、生物を調べていたんだろう。後にメキシコ旅行をしたときは、大きなオレンジを持っていたら、入国管理のお役人が、持って入ってはいけないといって、その場でお役人が食べちゃった。ソ連の髭女は、メキシコよりはさもしくなかった。

 

ナホトカからハバロフスクまで汽車で行く。駅で待っている間、駅の反対側から子供がわいわい騒いでいる。3人の男の子がマッチとかタバコとか差し出して、チェンジ、チェンジ、チューインガムと叫んでいる。顔が大人びている。裸足の女の子。5歳ぐらいか。貧しいんだ。無為の表情をしている。

 

初めての外国、大国といわれたソ連の印象は、悲しかった。

 

ハバロフスクのトイレ」              

 

一人旅というものは何語でも、なに人でもすぐに仲良く話ができて面白い。それにしても、日本人と日本語で話すとき、なぜあんなに気を使うのだろう。

 

汽車の同室の人はイギリス女性で、日本には学会のため来たのだそうだ。骨ばった女。地質学の学者だそうだ。お前は何だ?と聞くから、ただの旅行者だよと答えた。一人で怖くないか?というから、まだ怖い目にあってないと答えた。

 

どどどっと家族のような一団が乗ってきた。労働者のような感じだなと思った。貧しそうな身なり。座席に陣取ったとたんにパンをがつがつ食べ出した。

 

すごくゆれる汽車だ。外を見ると白いちゃちな家々が見えた。汽車の中のベッドは上段でも安全ベルトもついていない。こんなにゆれるのに寝ている間に落ちてしまいそう。

 

ハバロフスクについた。まずトイレに駆け込んで驚いた。婦人用のトイレに入ったのだけれど、床の上に数カ所ぼこぼこと穴が空いており、隣との仕切りも、もちろんドアもない。其の穴に向かって並んでしろということらしい。

 

そばにいた女性にあきれて聞いた。これでも女性用なの?

彼女はげらげらと笑い、イエスと答えて、隅のほうを指差し、あっちならnot too bad だと教えてくれた。穴の反対側には巨大な鏡がある。げげげ!

 

これも不思議なら、入り口に守衛が立っていて鏡に映る人間を見ているらしいのもすごい。妖艶なポーズの裸婦なら、見て見甲斐があるのはわかるけれど、脱糞中の女子便所の女性を見て、うれしいなら、変態だね。

 

日本人の女性が、「ああ、これか、知り合いがトイレには傘を持って入れといっていたのは!」と変な納得をしながら、言っていた。だけど、仕様がないから、衆人環視の元に、出すものを出した。監視されて脱糞したのはこれが最初で最後である。

 

「軍用機らしいものでモスクワへ」

 

ハバロフスクから飛行機でモスクワに向かう。隣はノルウェーの学生。仏教に興味を持っている。其の隣はアルジェリア人、フランス語を話す。ヅヅというあだ名だそうだ。意味を聞いたら、ゴリラのまねをして見せた。ズズとはゴリラのことらしい。真似をしなくたってしなくたって、たいして変わらないのに...キャハハ。

 

パリ大学の学生は経済を勉強している。岡山県の民家に1ヶ月民宿していたそうだ。機内の様子では、 モスクワが近いらしい。飛行機がものすごい急降下。酔って物が言えなくなった。隣の学生が私の様子を見て、心配している。

 

Are you sick? Are you sick? と盛んに聞く。

 

一言も声が出ないほど苦しい。地面に降りたときは生きているのが不思議だった。軍用機を改造したものだそうで、だから機内の撮影も許されなかった。思い出して後で日記に絵を描いたのがあるだけ。

 

モスクワでとまったウクライナホテルは日本人だらけだった。写真に注意しろよといわれる。うっかり撮影すると引っ張られるぞ。

 

モスクワを観光した。政府宣伝用の観光だから、ガイドのひげつきおばさんの言うこともすごい。「チェコは指導者が指導を誤った。彼らのうちの数人は其の地位を失い、チェコ国民の意思で、新しい指導者を選び社会主義の義務を遂行するのだ。」だとさ。

 

クレムリン宮殿の、写真などで見慣れた景色の場所で、彼女は言う。

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ウクライナホテル

 

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ガイドによれば「営業中の教会」

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ガイドに命令されて撮った写真「クレムリン」 

 

「ここで写真を撮りなさい。」

「はい。」とりあえず写真を撮った。

 

聞きしに勝る不自由な国だ。ガイドの目を盗んで子供や浮浪者が近づこうとする。ドルをねだる。ボールペンをねだる。こちらは頭の中には写真機が内蔵されているのだぞ。とってほしい写真ばかりは撮らないぞ。そっと絵を描く。

 

モスクワの大使館に勤務のある人物の奥さんが私の同級生だ。ネオキチって呼ばれていたな。で、彼女を尋ねた。子供が2人。出してくれた果物とおにぎりがうまかった。次の日その友人のご主人にプーキシン美術館を案内してもらった。

 

共産圏の美術館てすごい。壁にも天井にもぎっしり、絵がかかっている。隙間もない。所々重なってさえいる。美術館というより絵の収容所という感じだった。案内役のこの同級生のだんな様は、今は宮内庁にいる。

 

ソ連がロシアになってからこの美術館に行った従弟に聞いたら、美術館は体裁よく整えてあったというから、体制が変わったら美術館の扱いも変わったのだ。

 

9月7日のモスクワは、町の人がアイスクリームを買って食べていた。次の朝、私は何か普通でない暖かさの中で目覚めた。部屋に暖房が入っているので、窓の外を見たら、人々は防寒具に身を包んで、エスキモーのような身なりで歩いていた。

 

たった一日の気温の差、30度。すご!これも初体験。食べ物がすごくまずかったけど、ばてるのを恐れてみな食べたから、太って冬物を着るのに困った。

 

2)「西ドイツへ」

 

9月10日、西側に向けて汽車に乗る。西側、つまり当時の自由圏。西ヨーロッパへ。

 

ケルン、ボン、フランクフルト、 モスクワから西ドイツまでの汽車内で二つばかり、共産圏の国境を越す。国境でいちいち検査のため、パスポートと切符を取り上げられ、役人がどっかに行っちゃってなかなか返してくれないので不安だった。ポーランドからの車窓の景色は大変のどかで美しかったが、国境でまた怖い思いをした。

 

役人がフランス語しかできない。隣のコンパルトゥモンの人が通訳してくれるというから頼んだら、冗談じゃない発音で、私を指してこれは連れのチナだというのでギョッとして青くなり、そのとたんに私の口からフランス語が出てきた。後にも先にもフランス語で話したのはこの時だけ。

 

何とか通過。ケルンについたときは景色がまっ黄色に見えるほど疲労困憊していた。 有名な大聖堂のそばの旅行案内所でホテルを見つけ急行。バタン。キュウ。

 

ひと寝入りしてから大聖堂を見物。広場のベンチで一番印象に残ったのがすずめの大きさ。私の10倍もありそうなばあさんが、なれた雀に餌をやっていた。雀の大きさ日本の2倍。こんなの相手じゃ日本も戦争に負けるワイ。わけのわからない感想。日本はドイツに負けたんじゃない。それ自体が博物館みたいな大聖堂に赤い衣を着た坊さんが首に献金箱をぶら下げて歩いているのも、不思議のひとつ。

 

ボン到着。大学の姉妹校がここにある。宿泊を頼み、私と英語がどっこいのシスターと話す。見たことのない人との会話はそれなりに面白い。

 

旅行中日本人にも会ったが、彼らも会話に飢えていて、よく話す。でも内容が貧弱。すぐ一緒にとまろうとか言っていやな奴ら。疲労のためボンは観光せず、フランクフルトに向かう。

 

フランクフルトには私が中学時代から文通していたペンフレンドのうちがある。彼女とは実に今(この文を書いた当時)に至るまで54年間文通を続けている(現在は彼女視力を失って、文通ができない)。しかし彼女は其のときアメリカに行っていた。老いたご両親が迎えてくれた。ヘルガという其のペンフレンドはウエルカムメッセージを書いてくれていた。

 

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この写真は、ヘルガより前に文通していた、ヨハンナ。

 

それからフランクフルトについた。フランクフルトの駅で三郎兄さんと会う。

 

この兄、私が物心ついたときは家にいなかった。彼の其のときの身分、カトリック司祭。ヴァチカンで聖書学の博士号を取るためヨーロッパにいた。彼と合流しドイツを見物する予定だったが、肉親を見て気が緩んだか、私はとうとう熱出して彼の友人のうちでダウン。1週間動けなかった。それからずっとイタリアまで、三郎兄さんの案内で旅を続ける。 

 

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これ多分、ケルン大聖堂

(当時の写真は、部分撮りして切り貼りしなければならなかったので、かなりへんてこだけど、これも「歴史」