Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月13日   

 

ロスアンジェルスのイミグレーションで」

 

ロスの空港についた。ここで、途中下車しなければならない。エルサルバドル内戦の勃発の直前まで、当時日本の間組が日エ直行便を計画していたらしいが、インシンカの日本人社長殺害以降、すべての日本人が引き上げ、その計画は遂行されなかった。だから日本に行くにはロスで乗り換えなければならない。

 

それで、ロスに住んでいた教え子のうちに数日間留まる約束になっていた。引越し荷物を山ほど運ばなければならない。時代劇なんかに時々出てくる市中引き回しの罪人を入れる大籠みたいな籠が二つ。自分が日本を出るときに持ってきた旅行カバン二つ、新しく買った巨大な旅行カバン一つ。それらをワゴンに乗せて、その上に子供を載せて、イミグレーションに向かう。

 

子供に私は大きな虎のぬいぐるみを持たせていた。あの空き巣に会って、金目のものを盗られてから、奥にしまってあったために免れた貴金属類を、いざというときにお金に換えられるだろうと思って、持っていた。しかし、さて、どうやって盗難を防ぐか考えたとき、思いついたアイデアがあった。私は貴金属を一つ一つしっかりと布地に巻いて、綿でくるみ、黄色のタオル地に縞模様をつけて虎のぬいぐるみを作った。

 

それを私は日ごろから子供に抱かせて程よく汚しておいた。これからどこを通過するのでも、面倒な書類を書いたり、疑いを受けたり、挙句の果ては付け狙われたりすることがないように、子供にいつもその虎の子を抱きしめているように誘導したのだ。

 

当時はまだ、今は常識になっている貴金属探知機など、空港に、ましてエルサルバドルの空港に備わっていなかった。

 

そのときの私のいでたちは、引越し荷物を作ったときから着っぱなしのデニムの頭陀袋のような作業用のオーバーオールに、どうでも良いようなよれよれのTシャツ。機内で着る、デニムの上着。機内持ち込み用のリュックに、子供の換え着や食料などを入れたバッグ。今から思えば、どこから見たってまともな奥さんには見えないような姿で、私は虎の子を抱いた4歳の娘とともにロスアンジェルスのイミグレーションに立った。

 

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これが荷物。

 

ところが、私の耳は降下する飛行機の中で、気圧の所為で、完全に聞えなくなった。

子供の世話をしていたから、自分の耳を保護することができなかった。係官が質問するのを聞き取れなくて、私はなにかを自分で言っているのだけれど、自分で言っている声さえ聞こえない。

 

暫くすると、係官が別の係官を連れてきた。仕方ない、私は筆談で自分の体の異常を訴えようと思った。 ところが私はその筆談さえスペイン語で書いている。そのことを自分で気がつかない。

 

係官は急にスペイン語で応対始めたらしい。

 

おまえは何人だ?という声がかろうじて聞こえたような気がした。そこで、日本国のパスポートを出す 。お前は日本人じゃないか、といっている。それに対して私は、「si,si」とスペイン語で応えている。

 

日本人て、なんかいけないんだろうか、自分がどのように見えるかなんて一切考えなかった私は首をかしげた。何しろオーストラリア大使館の女性に罵倒されて以来、日本て、なんだか変な国らしいと感じ始めて、不安になっていた。

 

そんな私を不審に思ったらしい係官が数人で、私を取り囲み、なんだか取調室のようなところに連れて行った。これ、ひょっとして連行か?

 

薄暗い、机と椅子がひとつずつあるだけの、灰色の部屋。そこに私は長いこと座らされた。

 

ただ待つだけ。どうしたのだろう。子供がもう眠がって、私に膝にもたれている。水もない。人影が動いたから頼んだ。ミルクを作りたいからお湯をくれないか。見張りに立っていたおっかなそうな女性の係官がミルクを造って持ってきてくれた。彼女の口元にうっすらと見えるひげを上目遣いで見た。

 

昔スペイン旅行の途中でとおり過ぎたソ連のナホトカで、やっぱり大柄の女性役人が、ひげを生やしていたっけ。妙なことを思い出した。 なんだか白人の女性役人て、みんなひげを生やすんだ。ふふふ

 

誰も来ないが、見張り役がずっと出入り口に立ってこっちを見ている。なんだかわからないから、それでも待っている。誰も来ないし、解放もされない。大体、何が問題だかわからないというところが、余計に不安を喚起する。

 

後でわかったことだけれど、世界中で活躍中の日本赤軍との関連を調べられていたらしい。日本国籍を示すパスポートを持ちながら、怪しいスペイン語を操って、ぼろを着ている親子連れ。何を聞いてもスペイン語でしか通じないのに、日本のパスポートを持っている。

 

怪しい。きっと日本のパスポートは偽造したんだろう。過去の情報を調べ、犯罪者ではないか、本物の日本人か、とにかく開放しても問題ない人間かどうかを調べたんだろう。

 

ふん。私ほど善良な市民はいないんだ。

 

しかし、何の説明もなく、やっと数時間後に解放された。

 

入り口付近で待っていた私の教え子が、「一体如何しちゃったのかと思っていました。」という。いや、こう言うことだったと、説明したら、げらげら笑って、多分こう言う意味だと推測つきの説明をしてくれたのが、日本赤軍説だった。

 

そのときの私は日本の情報をまったく知らなかったし、大体自分がどのような人物に他人の目から見られるのかということに、無頓着だった。国を超えて旅行するときに、あんなホームレスみたいな姿はないだろうと、今の私は思う。難民なんだからさ、礼装なんかしているわけないでしょ?

 

「あの」日本へ戻ることの意味を考えた

 

数日後、私達は再び機上の人となった。とうとう太平洋を渡る。機内には懐かしいというか、やっぱりこれが大和民族の同胞だと思われる人相の乗客がわんさわんさと乗っていた。

 

日本へ、日本へと、機上の人となった私はつぶやいた。私は「あの」日本に行く。経済大国日本。富士山の国日本。あの繊細な芸術を生む国、日本。あのうそざむい国、日本。あの、人間関係の複雑に絡まった国、日本。私を拒絶し、個性の育たない国、日本。そして、私をかくも複雑に育てた国、日本。私の故郷、日本。

 

私は一体、何故オーストラリアに行ってはいけなかったのだろう、と考えた。いったい何ゆえに、わざわざ兄弟も、母もお前を受け入れないと、日本出国以来初めて国際電話までしてきて、来るな来るなと私を拒絶してきた日本へ、行かなければならないのだろう。大体いくら家族だって、40を過ぎた大人である私個人を日本国に受け入れないという権利なんかない人々が大騒ぎしているだけで、それを気にする年齢ではなかったにもかかわらず、私はそれにも意味を感じていた。「家族親族でさえ」自分が受け入れられない国に私が行くことの意味」とは何か。

 

この期に及んで、まだ私は考えていた。飛行機で太平洋を渡る時間は長かったから、本心は抵抗を感じているこの帰国の意味を、私は考えざるを得なかった。自分はできる限りの抵抗をした。これ以上の抵抗はもう無理だと思うほど、抵抗した。

 

しかし私は運命に押し流されるように、私の乗った船が否が応でも私を日本に運んでいくかに思われた。

 

万策尽きて、刀折れ、矢も尽き果てて考えた。やっぱり、これはあの大いなるBeingの意思なのだ。そうでも思わなければ、自分のこういう理不尽な運命を受け入れることができなかった。

 

私は村瀬先生に心の底から感謝していた。

 

村瀬先生は、親戚縁者がすべて拒絶する私達を助け、義務もないのに3人分の旅費まで送ってきてくださった。エノクが頼った友人さえ、「日本で受け入れる人なんか誰もいない、低開発国出身で日本に貢献度の少ない英語もできない男」とエノクは認定されたのだ。

 

おまけにその面倒な男の就職のために尽力しながら、エルサルバドルに待機していた私たちを、実家の事情のことはあえて尋ねず、ご自宅に引き受けるから安心せよと言ってくださった。私にとって、村瀬先生は、まさに、この世ではありえない人間だった。

 

あのときの先生は、私にとってすでに人間ではなかった。日本大使館で私は「身元引受人」のことで立ち往生していたとき、あの先生の姿がひらめくように脳裏に浮かんだということそのものが、すでに超自然的現象だった。

 

学生時代親交があったとはいえ、私はその後20年間、盆暮れの挨拶状のやり取りしかしていなかったのだ。

 

就職が決まり次第呼ぶと、電話口でいっていたエノクの言葉を制して、まだ就職が決まらなくていいから、ご自宅に私達親子を引き取るといってきてくださった先生が、私にはほとんど、天上の存在のごとく思えた。有り難かった。涙が出るほどうれしかった。いや、実際に涙は勝手に頬を伝って、流れっぱなしだった。

 

それにしてもBeingの意思とはなんだろう。私が日本に行かなければならない、目的とはなんだろう。

 

前途多難は手にとるように明らかだった。それを思えば、私の心は暗かった。あの先生はいつも「明日のことを思い煩うな」と言っていた。私はいつも「明日のことを思い煩って」いた。先生のうちに一生ご厄介になることなんかできない相談だった。先のことを考えると心が暗かった。

 

一体何故、「あの日本」じゃないといけないんだ。なぜコアラの国じゃ、いけないんだ。そのことを思えば恨めしかった。

 

私が日本に行かなければならないなら、その目的とはなんだろう。私は繰り返しつぶやいた。

 

そのとき、ふと私の心にひらめいた言葉があった。23歳のとき出会い、私の命を救ったあるスペイン人のマドレ(スペイン語でシスターのこと)の言葉だった。家庭に問題を抱えた私が自殺未遂を図ったとき、彼女は私を抱いてささやいた。言った。

 

「私があなたの母になる。あなたはあなたのお母さんの母になれ。」

 

あの不思議な言葉を私はいつも心に抱いていた。解釈不能の言葉として、私は自分の人生の宿題の様に、時々自分の過去の日記から取り出しては考えていた。

「私があなたの母になる。あなたはあなたのお母さんの母になれ。」

 

そうか。あの言葉を成就するために、私は日本に行くのか。

 

私は24歳のときに別れたあのマドレを慕ってスペインまで彼女に会いに行った。旅費を作るために、1週間寝ずにある本1冊翻訳をして稼いだ。冗談じゃなく無謀な、24歳の一人旅。海を越え、ソ連を超え、西ドイツを回り、イタリアから夜行列車でスペインに行った。あの時、ただただマドレに会おうという目的以外に何も考えていなかった。誰が見ても意味の分からぬ、突拍子もない旅行だった。

 

1年間の滞在を経て私は日本に帰国した。人生紆余曲折を経て、私は再び、無謀な旅をした。めくらめっぽうに、自分の過去とは永遠の決別をするつもりだった。ところが私は押し戻される。「押し戻される」と私は考えた。日本帰国が自分の意思でないかのように。

 

やり残したこと、それがあるとしたら、あのマドレの言葉以外になかった。

「私があなたの母になる。あなたはあなたのお母さんの母になれ。」

 

「きっと多分、これからあなたの言葉を成就します。」「貴女の言葉を成就するために、私はきっと日本に行くのです。」

 

日本へ、日本へ。私は、「前途多難」を受け入れた。あの命の恩人のマドレの言い残した不思議な言葉を、意味を知らずに受け入れた。

 

自分に何かするべきことがあるから、日本にいかなければいけないのだ。そう思って納得しようとした。不安を抱え、懊悩しながら。 

 

「成田空港」

 

私は8年前国を出るとき、羽田国際空港から出た。まだ成田空港は闘争の真っ最中で、開港されていなかった。だからこれから到着しようとしている成田空港は初めてだった。自分の国の玄関口、ちょっと留守にしていた間に、玄関先から変わっちゃう国だ。いったいどうなっているんだろう、と思いながら、私は世界の果てのいなかっぺとして、成田空港に降り立った。1984年9月25日のことだった。

 

ここが日本か、と私はつぶやいた。ここの国は、隣近所の人間の行動を見て、同じことをすれば間違いない国だ。昔住んでいた自分の国が、確かそういう国だったことを思い出し、私は隣の人が動き出してから、その後をついていった。

 

真夏の国から来ると、9月末の日本は空港に着いた人々の服装からして、暗く重苦しく見えた。

 

娘は不安そうに私にしがみついていて、分けのわからない言葉を話す怪しい人相の人々の群れにおびえていた。娘は日本語を知らないのだ。

 

荷物が吐き出される化け物のような大きな黒い口から、自分の荷物が出てくるのを待った。何だか江戸時代にしかなかったような大きな竹篭が二つ、網に包まれて出てきた。私が24歳のとき初めてのスペイン旅行に持っていった豚の絵を描いた旅行鞄が出てきた。エルサルバドルで買った、更に大きなかばんが出てきた。ワゴンを持ってきてそれらをみんな担ぎ上げ、その上に娘を乗せて動き出した。

 

そのまま入管の列に並んだら、係りの男性が出てきて、「引越しですね?」と聞いた。ああ、日本語だ。日本人が日本語を話している!

 

へんてこな反応をして私はその男性の顔をしげしげと見た。彼は私を誘導して、一時的な旅行客が並んでいるところとは別のカウンターに連れて行った。

 

やめてくれ、また連行かいな!私の反応はいちいち、内戦下のエルサルバドルの癖が出た。それは連行ではなかった。子供づれの引越し家族らしいから、特別に手続きを簡単にしてくれようとした配慮だった。

 

私が出した書類の中から、8年前出国時に携行する貴金属として届けを出した書類が出てきた。その貴金属を見せるように求められ、私は苦笑した。私は娘がしっかり抱いている虎のぬいぐるみを見せた。「この中にみんな入っています。」

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文字通りのトラの子

 

係官はあきれて私の顔を見た。「何で、そんな面倒なことしたんですか!?」

 

私はかいつまんでエルサルバドルの内戦の中で、盗難や殺人を避ける為にしたことを説明した。

 

「中、破ってみてもいいですよ。どうぞ。」と私が言ったら、

「いやあ、子どもさんが自分のおもちゃだと思って抱いているんでしょ」といって、何もしないで通してくれた。

 

日本人はなんて温和なんだ!エルサルバドルでもメキシコでもロスアンジェルスでも、凹凸の激しいおっかない顔の係り官ばかり見てきた私は、その日本人の男性の、まったいらな顔をつくづく見て、平和とは、なるほど平らなことだわいと思った。

 

再び子どもを荷物に乗せて私はワゴンを押して出口に向かった。そこにはエノクが、村瀬先生のお嬢さんのご夫婦と一緒に待っていた。立ち止まって私は彼が彼であることを確認した。私は無言だった。ワゴンの上に載っていた娘をエノクが抱きしめたのだけど、娘も何だかわけが判らないような顔をして、ものを言わなかった。あれは「感動」と呼べそうなものではなかった。むしろ感情停止状態だった。

 

笑顔も涙もなく、私はじっとエノクを見た。笑顔も涙もなく、娘もじっと父親に抱かれていた。

 

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マドレサンタルシシオ