Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月18~21日

夏バテで、ちょっと中断しましたが、再開します。 

 

「母の母になる理由」1

 

「帰国の意味を深く考察せざるを得なかった。」

 

私が8年間に渡る内戦のエルサルバドル生活を切り上げて、難民となって日本に戻ってくるとき、機上で考えたことは、それは第1希望だったオーストラリアにも、第2希望だったカナダにも受け入れてもらえず、抗っても抗ってもどうしても日本に帰らなければならなかった、その意味と理由だった。

 

誰でも人は常識的に考えて、こういう場合に私はまず日本に帰ることを希望するはずだと思うことを知っている。そう思わない私は「素直ではない」と人は言う。「本心を偽っている」と人は言う。

 

しかし私には日本に帰りたくない理由があった。私は本当に自分が独立して作った家族を愛していた。結婚を決めたとき、私は35歳だった。出身家族の反対と、母の哀願を振り切って、当時の日本で、知られていない国の男と結婚した。

 

膝をついて私に行かないでくれと哀願した母は強い母だった。あの強い母が、手を床について謝るから行かないでくれという哀願を、私は振り切って日本を後にした。仕事も財産も、人の信用も、すべての過去を清算して日本をたった。

 

「独立」の機会はあの時しかなかった。あの時を逃したら、私は独立できなかった。だからすべてを振り切って、自分が生きてきた世界を後にした。

 

だから私は、何が起きてもこの結婚生活を崩壊させてはならなかった。何が理由であろうとも、私は出身家族を「捨てた」のだから、家族全員が帰国反対をしてくる理由は、私の側にだってあったのだ。だからこそ、私はどうしてもこの結婚生活を崩壊させてはならなかった。8年間、かけてきたこともない国際電話をかけてきてまで、帰国を反対した出身家族のしがらみの中に戻って、私は自分が作った家族を引き連れて苦しませたくなかった。

 

日本の難民政策は、メキシコのオーストラリア大使館で係官に噛み付かれて以来、どういうものか察しが付いた。私が自分の家族を引き連れて日本に帰るとしたら、私が自分の家族を守って対決する相手は自分の家族だけでなく、日本人すべてのように感じてそら恐ろしかった。その恐怖は、出身家族の間で、決して穏やかな日々を送ったわけではなかった自分の半生の記憶があるからこそ、生々しく現実的なものだった。

 

このようなことは、9人兄弟の末っ子なら、なめるように可愛がられて育っただろうなどという「常識」しか考えられない一般人に理解できるはずもないのを知っている。

 

だから、どうしても選択の余地なく、日本に帰ると決まってしまって、機上の人となったこの期に及んで、私はどうしても、その「意味するもの」を考えざるを得なかったのだ。

 

この状況を「使命」と呼んでいいかどうかわからない。

 

私の過去には希望も夢も、夢を実現させたい意思もあったし努力もした。しかしその夢はいつも挫折し、希望はいつも粉砕され、まるで何か別の意思によって押し流されるごとく、怒涛の中を小船に乗って見知らぬ岸に流れ着いた。今私は再び、小船ならぬ飛行機に乗って押し戻されるように、抵抗する私の心に斟酌もなく、ある意思によって、日本に帰ることになった。それは「ある意思」そのもので、突きつけられて見つめなければならない、私の使命のように感じざるを得なかった。

 

かつて私は作家になりたかった。院生時代、先生について文章の修行をし、原稿もかなりたまっていた。しかし当座の経済がなり行かず、いつも生きるための仕事に追われていた。何時も何時も、ものを書いた。しかし、それを発表する機会も場もなかった。生きるための仕事そのものに対しても、家庭教師という、相手があって、いい加減にできない仕事ばかり選んだから、文章をものにする時間が取れなかった。私はいつも責任と義務の亡霊に押しつぶされていた。

 

私は古代史研究にも熱意を持っていた。母がかつて、大学で古代史の勉強をしたいという私に、古代史なんか生きていくための仕事に直結しないといって反対して、強く押した英文学科に進んだため、古代史に関しても一人でこつこつと図書館の本を読んで、自己満足的な研究を原稿用紙に書いていた。夢は二つとも、趣味の範囲を出なかった。実に物書きと、この古代史研究は、エルサルバドルの内戦で、外出が危険になったという「機会に恵まれた」状況の下で、続けていた。 

 

「マドレの言葉の意味を問う」

 

私はあの飛行機の中で、自分にはいかにも理不尽に思われる人生の意味を、一所懸命考えた。そのときひらめいたのが、23歳のときに出会い、25歳で別れた、あの「マドレ」、まるで神様から直接私のもとに遣わされた天使のような、あのスペイン人の修道女の言葉だった。

 

子供のときから私は母とも兄弟ともうまく行かずに苦しんでいた。苦しみのあまり自殺未遂事件を起こした私をマドレが腕に抱いていった。

 

「私があなたの母になる。貴女は貴女のお母さんのお母さんになりなさい。」

 

意味不明な不思議な言葉だった。その意味を私は長い間量りかねていた。自分に課せられた人生の宿題のように、私は決して忘れなかったが、何も行動に移せなかった。

 

ちょっとやそっとの「親孝行」でごまかすことのできそうにない深い意味を、私はあの言葉に感じていたのだ。とりあえず私はできる限りの「親孝行」をした。しかし母はどんな種類の親孝行も、それが疑似親孝行だということを見抜いていたのだろう。何をしてもやりがいがなく、何をしても喜ばれなかった。

 

母が生涯一所懸命「自分の義務と思われること」を遂行するため、邁進していたことを私は知らないわけではなかった。母の理不尽も、子供の時に受け続けた激しい暴力も、非情な仕打ちも、記憶の底に消えなかったが、むしろそれだからこそ、あのマドレの言葉が心の底に引っ掛かっていた。

 

「あの時」、過去の私の話を聞いたマドレは指摘した。「あなたのお母さんは心に愛情を持ちながら、何かの原因で、表現ができないのだ、お母さん自身が過去に心の傷を負っている。」と。

 

母を振り切ってエルサルバドルに行ってからも、私は母に何度も何度も手紙を書き、気に入ってくれそうなものを送り、母を気遣っていたが、母はもうそれに答えなかった。

 

それどころか、難民となって、エルサルバドルをあとにする決意をして、かの村瀬先生と連絡を取ったときに、日本の家族は全員で立ち上がって、日本に来るなといってきた。確かに歓迎など期待していなかったとはいえ、内戦の中で8年を過ごして、決して自分が引き起こしたわけではない事情のために帰国を余儀なくされたとき、日本の家族の示したあの反応はショックだった。私は夫に悟られないところで、身をよじってむせび泣いた。

 

だから、できることなら、私はエルサルバドルから戻りたくなかった。あの家族の中の人間関係のしがらみに、再び身を投じて、自分が作った家族もろとも、苦しむかもしれないのが、恐ろしかった。しかし、避けられない運命が、私をとうとう昔船出した岸に押し戻した。

 

私は観念した。観念すると同時に、自分はこの運命を何とか肯定的に捕らえなければならなかった。「これには意味がある、」と私は思わざるを得なかった。遣り残したマドレの宿題を、今成就するべく期待されている、と私は信じた。これは理屈でも理論でもなく、むしろ信仰だった。

 

私はマドレがあの時、苦しむ私をただ助けたのではなくて、私の心に「愛の種」を植え付けたことを知っている。マドレが私の心に咲かせた花、あれは私だけが自分の心の静謐に、しまいこんでおくようなものではなかった。

 

「母の母になる。」私は自分に言い聞かせた。「そのために自分はこの国に呼び戻されたのか。」

 

註:マドレ=スペイン語で、本来「母」のこと。ただし、修道女もマドレと呼んでいた。1960代のバチカン公会議以後、日本における修道女の呼び名は、スペイン系、フランス系、英語圏系を問わず、「シスター」という呼称に統一された。私が後述する修道女に出会ったとき、彼女は「マドレ」と呼ばれていて、それ以外の呼称を私の感覚が受け付けないので、出会った当時の呼称で記述する。

 

「回想」1

 

以下に記す「回想」は、自己満足のためだけに書くのではない。

世の中に起きる青少年の殺人事件が、「理由の分からない犯罪」といわれるていることから、たぶん「理由」があるだろうなあ、と思って書いておこうという気になった。ある青年がいきなり無関係な小学校の児童の列に突っ込んで、殺害する、そういう事件が時々起きるたびに、犯人はただのキ違いにされてしまう。

私は犯罪を肯定するわけでもなく、犯罪者をかばう気もない。しかし「理由」はあるだろう。私は似たような人間として成長し、あのときマドレに救われた。

 

「夢とうつつの間」

 

私の人生のほんの始まりのころから、実に40代になるまで、私が見続けた悪夢があった。

 

いつも同じ夢の中で、私の耳に、声が聞こえていた。その声が最高潮に高まった時、私は絶叫しながら目を覚ますのが常であった。

 

夢の中の映像は、映画のように鮮やかだった。2歳の幼女が木に括り付けられて、もがきながら泣いていた。庭にある3本の棕櫚の木の一本に、その幼女は縛り付けられていた。棕櫚の木肌の網目が、もがく幼女の体に食い込むたび、幼女は泣き叫んだ。泣き叫びながら幼女が見ている先に、彼女が参加できない平和な一家団欒の風景があった。

 

あるときは、やはり音から始まった。庭の物置の内側から激しくたたく音だった。その中からおなじように絶叫が聞こえていた。闇におびえ、助けを求め、声をからして泣き叫んでいる幼女の声だった。映画は、その物置の反対側に、幼女が参加できない一家団欒の食事風景を映し出した。

 

時が突然変わり、あの幼女は10歳前後になっていた。少女はあの棕櫚の木の下に丸太のように転がっていた。しかし、少女はすでに声を出さなかった。何時間にわたって殴られたのか解らない。泣きもせず身動きもしない。体は痛みも感覚も失っている。すでに殴られる運命を子供は受け入れていた。

 

少女は全くの抵抗もせず、黙って殴られつづけていた。泣くと言う行為を少女はもう忘れている。丸太のように腫れ上がった自分の腕がふらふらと歩いているのを少女は見ていた。腕はふらふらと歩くものなのだなと、いかにも客観的に彼女は認識していた。ふらふら歩く腕を目で追いながら少女の意識が遠のいていった。

 

場面が変わった。少女がただひたすらにずんずん歩いていた。目的があるわけではない。なぜあの家から出て行かなければ知らないけれど、「出て行け、もう帰るな、」と言われた言葉を真に受けて、少女はひたすら前に進んだ。

 

太陽は照りつけていた。道があるから歩いているだけだった。少女は長い長い道のりを、前を見ながら歩いていた。

 

夜になった。少女はもと来た道を、自転車に乗った男に首をつかまれて引きずられるように戻って行く。男は自転車の速度を緩めず、少女は引きずられて走るいがいにない。自分の首が男の手とつながっていたから。

 

その先何が起きたか少女は一再の記憶を喪失するという、精神の安全装置を働かせたらしい。

 

あの少女が坂を疾走している。下降して行くと言ってもいい。下降していく。下降していく。果てしなく膨大な無の世界へ。

 

ウワッ、ウワッ、ウワアアアアアアアアアアアツ。

 

そのとき、絶叫しながら目を覚ます。

 

見なれた何時もの夢である。この夢を何十年も見ていると、ある種の親しみさえ感じる。目を覚ましたとこの中で、私はずっと映画の余韻とともにぼおっとしている。

 

ああ、また泣いていたな、あの少女。また歩いていたな、あの餓鬼。同じ道を、ただひたすらに歩いていた。客観的に私は夢を思い出す。

 

うつつの世界で夢を見る。子供がやっぱり登場する。

 

「今日の気分はどうだい?」と私は子供に尋ねてみる。

「小さい母様が縄を解いてくださいました。」と子供は答える。

 

小さな人形を持っている。「それどうしたの?」 と私は子供に聞いてみる。人形がちょっと壊れている。

「小さい母様を待っています。」と子供は答える。

「小さい母様はどこへ行ったの?」

「小さい母様は天国にいらっしゃいました。小さい母様が天国からお帰りになって、人形を直してくださるのを待っています。」

 

うつつの世界で夢を見る。子供がやっぱり登場する。

「今日の気分はどうだい?」と私はまた尋ねてみる。

「お父様も天国にいらっしゃいました。」

「そうか。」と私は子供を見る。

「でも、あそこにいらっしゃいます。」

子供は自分の斜め前方を天に向かって指をさす。斜め前方の指の先に子供は何かを見ている。その見えない空の途中に子供の目の焦点は完全に合っている。

 

うつつの世界で夢を見る。子供はへらへら笑っている。風に舞うかみっぺらのように、意味もなくへらへら笑っている。

「おい、どうした?」 子供はへらへら笑い続ける。

「おい、どうした?」

子供は突然表情を変える。

「だまれ、このくそばばあ、おいらがどうしようとかってじゃねえか。」

 

子供は視界から突然消える。

(小さい母様:亡くなった姉のこと)

 

「回想」2

「人食い川」

 

今JRと呼ばれている旧国鉄の中央線の武蔵境駅の南に、私のうまれ育った実家があった。カトリック信者だった私の一家はその二駅先にある教会に日曜日毎に通った。しかし戦争中、有る友人から全財産を搾取され無一文で終戦を迎えた父が結核に倒れ、悶死してから、食事にもことかいた私達は、その教会まで何時も歩いて行った。切符を買う事ができなかったからだった。

 

その二つの駅の間に、その昔、太宰治が愛人と供に自殺した川が有った。その川は私の中学時代の友も飲みこんだ、通称人食い川と呼ばれた所である。戦後のどさくさの時期、実に多くのものが絶望にさまよい、身を投げた川である。

 

(人食い川=「桜上水」:現在は人が身を投げられるほど、水をたたえていないが、昭和20年代の川は濁流滔々たる危険な川だった。)

 

小学校5年の時、私は多くの身投げの先輩達と同じ思いで、人食い川のふちに立った。本気で身投げしようと思っていたのである。

 

家の門限は五時だった。その門限5時という鉄則は、私が大学に入って学費と生活費を稼ぐ為にアルバイトで守れなくなるころまで続いた。記憶する限り私は、其の当時生存していた家族のどのメンバーからも阻害され、すべてが恐怖の対象だったから、私に課せたれた規則に違反すると言う事など、考えても見ないほど、其の門限5時という規則は、絶対的なものだった。

 

私はそのころクラスで発行する新聞の記事を書く係りだったから、放課後残されて遅くなった。当時の国鉄(現JR)は、快速電車などというものがない。今では30分とかからない学校から家までの電車は、当時、1時間もかかった。4時に出なければ、門限に間に合わない。門限5時を守らなかったら何が起きるかを知っていた私は気が気ではなかった。

 

あたりは暗くなってきて、明らかに時間は普段の下校時間を過ぎていた。しかし私はその当時、年上のものを恐れていたので、先生はおろか、一つ年上のものにさえ、物が言えるほどの度胸が無かった。

 

ごく近いところに住んでいる一人の生徒が、もう帰らせてほしいと文句を言ったのを契機に、やっと新聞作りから開放された私は、一目散に駅に走り、のろのろしてなかなか到着しない電車の中で、胸のうちに、殺されませんようにと祈りながら帰ったのである。

 

門限は10分過ぎていた。恐怖に身を硬くして、私は母にあらかじめ決めておいたうそをついた。友達が先生に言ったことばをそのまま自分が言った事にして,それでも先生は帰してくれなかったと言ったのである。

 

私が今までに殴られても蹴られてもうそだけはつかなかった、むしろ正直過ぎてへまをやることを知っていた母は、私が窮余の一策として嘘をついたのを見抜かず、担任先生に対して烈火のごとく怒った。

 

幸い母は働いていて忙しく、学校には行けなかったので、激しく先生を非難した手紙を書いて私ではなく、姉にもたせたのである。其の手紙は当然姉の手を通して先生の手に渡った。

 

先生はすぐに反論の返事を書いた。私はその返事が内容を見なくても、もう解っていた。私の嘘を知った母は、逆上のあまり、私を撲殺してしまうだろう。かつての幼児のころからの記憶が、私の脳裏をかすめ、自分の命はこれでおしまいだと本気で思った。

 

夢にまで出てくるあの思いで、あのときのように、2時間に渡って苦しめられて死ぬよりも、自分から死んでしまうほうが楽だった。

 

私は良く母から折檻を受けたが、その折檻の理由は、今思い出しても、些細な理由だった。それは今考えたって、私がとりわけ悪事を働いたとか、扱い難かったと言う理由ではなかった。

 

母は自分を「武士の子」と自認し、誇りに思っていて、形式や格式や外見を非常に重んじる人間だった。そして亡くなった父を一生涯敬愛し慕い敬っていた。父が亡くなったとき50歳だったが、貧乏にうらぶれた写真を飾る事を恥じて、30歳の時の、モーニングに蝶ネクタイという礼装した写真を飾った。

 

画家だった父が描いた自画像が、胸をはだけたラフな姿だったので、他人はおろか家族にも見せなかった。その自画像は、母が亡くなってから私が見つけ修復にだして、父の死後半世紀後、今私の家で日の目を見ている。

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父の自画像

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たった1枚の父と撮った写真
 

私は9人兄弟の末っ子として生まれたが、母は私に愛情を感じなかった。母が自分でそう言うのだから、これは私のひねくれた憶測ではない。兄や姉の写真がたくさんある中で、私の写真は2枚しかなかった。一枚は、夭逝した姉が抱いている赤ん坊だった私の入った集合写真で、もう1枚は父が死ぬ1年前に私を抱き寄せて撮ってくれた写真だけである。

 

子供のころ、後にも先にも私が父と撮った写真はこれしかない。ところでその写真は父が胸をはだけてラフなシャツスタイルで椅子に座っている、しかも食料にさえ事欠いていた極貧のころの写真である。私はその写真をたった1枚の宝として持っていた。しかし其の姿を恥じた母はそれを持ち出して他人に見せる事を禁じたのである。

 

ところで学校で或る時宿題が出た。何の教科だったか覚えていない。家族と撮った写真を持ってきて、家族の説明をしなさいと言うものだった。

 

そんなこと言われたって私には、2枚しか家族と撮った写真なんて無い。

 

私がまだ1歳にもなっていないころの写真は、家族といっても、そのうち二人は死者である。だから私は何時も肌身離さず持っていた、例の門外不出の写真を見せた。

 

それを姉が見咎めて、禁を破ったと、姉が母に告げたのである。

 

母にとっても父は宝だった。その宝は祭壇に飾った蝶ネクタイの写真に象徴されるような、誰にも恥じない姿で記憶されねばならなかった。それを私が冒涜したと、母は感じたのである。それは家族の恥、なくなった父への冒涜、禁を犯した犯罪であった。私の「宝」は母の「恥」であったのだ。

 

母を怒らせたのはそのような価値観のずれであり、彼女の要求する武士道的な価値観を私がつねに泥足で塗っていた。と母には映ったのだ。

 

後に成長した私が、母に反抗して、武士道武士道言うけれど、武士なんてただの人殺し集団じゃないかと罵声を浴びせたこともあったが、母が亡くなるまで私は母と価値観を共有しなかった。

 

あの人食い川のほとりに思いつめて私が立ったのは、小学生の私にとって、くだらない事ではなかった。私は身を守るために嘘をついたのだ。其の嘘が先生の反論によって露見すれば、何をされようと自分はものを言えない。

 

殺される前に死ぬと言うのは、もしかしたら皮肉にも、母の武士道的価値観によるのかもしれない。私は本当に殺される恐怖より身投げする方を選んだ。

 

しかし流れる川の水を眺めていた私はその時、学校で教えられた、ある言葉を思い浮かべた。

 

「自殺をした者は天国に行けない。」

 

自殺者は埋葬さえも禁止するカトリックの戒律があった。自殺が罪だと言われても、死の先に何も無ければ罪もへったくりも無い。しかし私には、満たされない現実から回避するための、妄想に近い信仰があった。

 

「死後に約束された天国がある。天国に行くには条件がある。」

その天国には父も姉もいるはずだった。私にはとらえられる楽しい現実がなかった。あったのは存在しない人々と幻影の中で遊ぶ世界のみだった。

 

「天国」を「父も姉もいる空間」としてのみ捕らえていた小学生の私にとって、天国と言う未知の楽園を信仰する事は救いだった。たとえそれが、科学や知性で以って証明できない、でたらめの夢であっても、全くこの世に楽しみを味わえない子供にとって、生きつづけるためには必要な夢だった。

 

私は人食い川のふちに立ちながら、其の天国にさえもいけない自殺という結果を、恐怖に満ちて、考えた。

 

私は先生の手紙を開けて読んだ。それはいかにも正当な、正しい私への死の宣告の内容だった。自殺よりも、殺されるほうが、少なくとも、天国にいける。と私は考えた。先生の手紙は、破って川に投げた。うそをつきとおせるかどうか解らなかった。

 

しかしその時私は「天国に行く条件」に執着し、父と姉に邂逅する条件を失わないため、再び、母をだまそうと考えた。

 

「回想」3

「ある殺意」

 

小学校3年生の時、算数のテストの時間に私の隣に座っていた友だちが、机の中からそっと教科書を出してみていた。私はそれに気がついたけれど、黙っていた。後ろから通りがかった先生がそれを咎めた。

 

ところで、その先生はその友達本人よりも、隣に座っていた私に詰問した。「あなたはお友達が隣でカンニングしていることをお知らなかったのですか。」

 

うそをつく知恵のなかった私は、知っていたから「知っていました」と返事した。「知っていたのにどうして先生に知らせなかったんですか?」と先生は私に迫った。

 

入学以来一番仲がいいほとんど唯一の友達だった。二人には14歳年上の同じ年齢の兄がいて、学校も同じ同級生だったから、母同士も長い付き合いだった。先生に期待されるようなことは9歳の私にはできなかった。

 

それ以後仲の良かったその友人とは、一緒に遊ぶことも、一緒に勉強することも、一緒に帰ることも禁じられた。その事は申し送り事項として学年が代わっても、次年度の担任に引き継がれた。クラスの友人達は担任の先生が変わると、必ず新しい先生に、「あの二人はいっしょに座ってはいけない事になっています」と、告げた。

 

新しい先生は何も疑問を持たず、「ああそうなの?」と納得して、私が病原菌でもあるかのように、席を特別の場所に置いた。

 

戦後始まって間も無い私立校だったから、少人数で、一学年一クラスしかなかった。焼け跡の地下室から始まったミッションスクールである。校長はスペイン人で、副校長が日本人だった頃の入学のとき以来、副校長は「敗戦後の日本人はみんなお互い大変なんだから」と言って、制服も決めていなかった。

 

適当な持ち合わせの白いブラウスに紺色のスカートぐらいでよかった。ところが2年になって、突然副校長もスペイン人になってからは、子供自身に責任のないことにやたらに厳しくなった。

 

自由な服装で学校に来ていた子どもたちを見た新副校長は、いきなり子供の腕を捕まえて、「あなたはこんな服を着ていてもいいと思っていますか?」といきなりしかりつけた。

 

だいたい、子供達には、いきなり権威者が変更したことなど知らされていないのである。その中での突然の詰問に、良いか悪いかわからないけれど、有無を言わさず、「いけません」と答えざるを得ない雰囲気を子供達は悟った。

 

其の一言で、服装は突然変わり、統一された紺色のジャンパースカートが制服になった。

 

家にそれしかないから茶色の靴下をはいていた私は、あるとき突然校長室に呼び出しを受け、とんでもない校則違反を犯したといってしかられた。大勢の兄弟の末っ子だった私は着るもの持つものすべてお下がりだったから、すべてのものは私のものになったときに寿命が来た。靴下の穴は自分で修繕したが、すぐにまた別のところに穴が開いた。

 

穴が開いた靴下を特に好んではいていたわけでもなく、子供の修繕能力には限界があって、繕っても繕っても、その日のうちに穴が開いた。

 

穴の開いた靴下を調べられて、「恥ずかしげもなく、みっともない姿をしている」といっては、いちいち校長室に連行されて、連帯責任で姉まで引っ張り出され、「この子は学校の恥だ」といわれながら、何時も意味も知らず、ごめんなさい、ごめんなさいといって、頭を下げていた。

 

自分の身に何が起きているのか、さっぱりわからなかった。

 

わけもわからぬままに、私はだらしなくて、校則を守れない子供というレッテルが貼られた。大人を恐れていた私は、何を言われてもただ従っているより仕方なかった。

 

戦時中、敵国の宗教を奉じる一家としてマークされていたらしいし、一般の人からは敵国のアメリカ人に見えるドイツ人の神父さんが出入りしていたので、胡散臭く思われ、スパイ容疑で隣近所から訴えられたこともあった。まるで共産圏の中の西ベルリンみたいだったとのちに兄が述懐するほど、近所とつながりが無かったのだ。

 

だから戦後財産を失った父が、食うやくわずの状態でありながら、敢えて私立のミッションスクールに無理して入れたのは、近隣の四面楚歌の状況を憂えてのことだった。

 

3年生の時父が死に、母は父の友人を相手取って詐取された家財産を取り戻す為訴訟を起こした。示談になって、母は借金をして家財産を取り戻した。その時成人して経済を支えていたのは、洋裁をやっていた母と次郎兄さんの二人だけだった。

 

食事に困った母が一度捨てたジャガイモの皮を丸めて団子にしたのを食べて吐いた事も有る。飼っていた猫が隣から盗んできた魚をもぎ取って焼いて食べたこともある。一家七人に配給の芋が一つなんていう時代、食べられそうなものは何でも食べた。

 

それなのにあの私立の小学校に通っていた。今にして思えば、その事の方が異常事態だったが、子供の私には事情はつかめなかった。自分は家庭は愚か、学校からも迷惑がられている存在だという事を、何時も私は感じさせられていた。

 

カンニング事件があって1年後のことだった。今度は体育の時間に見学している友達と、ちょっと目を合わせて声を掛け合ったら、私だけが罰として教室に返された。多分、先生に教室にもどれといわれたとき、泣けば良かったのだろうと今の私は思う。「教室に行きなさい」ときっぱりいわれて、私には別の行動が思い浮かばなかった。大人から言われたとおりに従わなかったら、ひどい折檻を受けることが怖かった。おまけに「素直に」教室に向かう私の背に、友人達は「帰れ帰れ!」とはやし立てた。

 

言われたとおりにしただけなのだけれど、そう言う行動は常に「素直」とは逆の意味に取られることを、私は何度体験しても学習しなかった。

 

また1年が過ぎた。あるとき私は副校長に、いきなり、退学を宣言された。驚いて理由を聞いたら、過去のその2件と、身なりが汚いから学校の恥だという理由だった。しかられた当時も退学を言い渡された時も、母には何も連絡が無かった。カンニングをした本人も、見学していて目があった相手も退学にはならなかった。なぜだかわからないから、「自分はなんでもいいから、問答無用で存在してはいけないのだ」と、私はただ思った。

 

時がたって私は公立の中学入った。ところでどういうわけか、母はわざわざ自分で新しく作ってまで、退学になった小学校の制服を着せて私を中学に通わせた。小学校の制服は2年の途中から現在の制服に決まったのだが、小学校にいた当時は、母が兄達の学生服のズボンを仕立てなおして着せてくれていた。本当の制服ではなかった。ところがもう制服が必要も無くなった中学に行く時わざわざ着た事もない小学校の制服を自分で仕立てて着せたのだ。

 

当時公立の中学校に制服は無かった。ズボンだろうがもんぺだろうが有る物を身につけていかなければならない時代だった。そこに通うのにわざわざ母が自分で仕立てた、退学された小学校の制服を着せると言う事は、どう見ても理不尽なことだった。

 

武士道精神を生きた母だったから、今にして思えば、娘を退学にした小学校に対する母の面子をかけた面当てだったのだろう。しかし退学になった学校の制服を着るということは、私にとって拷問以外の何物でもなかった。「緋文字A」を胸に着けて歩かされている事と同じであった。「この人物は、この制服の学校を退学になった。」という看板をつけて、私は中学校に通ったのである。その制服を見、退学されたらしいことを知った中学の先生がことある毎に私をからかった。そればかりでなく新しく出来た同級生の友達に英語の先生がわざわざ言ったのである。

 

「あの制服の学校であの人はカンニングをして退学になったのよ。」

 

それを聞いた私は逆上した。「そのように、内申書に書かれたのだ。理由のない退学の正当化のために!」

 

私は始めて逆上した。頭に血が上り、目を吊り上げ、その先生の胸倉つかんで吼えた。自分でも何を言っているか解らなかった。13歳になっていた私が、始めて大人に反抗した。

 

今まで自分を指導する存在として、決して抵抗を試みず、何を言われても何をされてもただ従っていた先生という神聖な存在に、私は体当たりをして抗議した。腕づくで職員室から追い出された私は、廊下に身を震わせてしゃがみこんだ。事情を知らない別の先生が通りかかり、私が病気だと思った。私は家に返された。

 

私が殴りかかったあの教師は知らん顔をしていた。殺してやろうとその時思った。殺してやろうと思うたび身が振るえ、頭の中が緊張した。どうやって殺してやろうかと具体的な方法を考えた。当時、手回しの鉛筆削りなどというものがなかったから、誰でも鉛筆を削るために、鉛筆箱に小刀を持っていた。そうだ、あの小刀であの教師を刺してやろう。

 

家に帰ってから私は割れるような頭痛ととめどない鼻血に苦しんだ。鼻血は2週間出続けた。布団は血糊でがばがばになって、何時も血の海の中で目が覚めた。

 

体はがりがりにやせた。とうとう医者が呼ばれ、輸血しなければならない事態となった。真相を知る家族は誰もいなかった。子供の時から何時も何時も病気だったから、「とうとうこいつも死ぬのか、俺が棺おけを作ることになったな」と家では大工仕事を何時も引き受けていた次郎兄さんが母にこっそり言っていた。 

 

「回想」4

「心の闇の時代」

 

あの出血で一ヶ月学校を休んだ後、私は再び中学に戻った。習字の道具とか、図工で作った素焼きのつぼとか、上履きなど、私が休む前に学校に置いてきたものが、全部どう言うわけか壊れていた。そしてまた、私の心象風景も変わっていた。小学生のときも学校休んだ後味わった疎外感だったが、一ヶ月間も続けて休んだことは初めてだったから、その疎外感はひとしおだった。

 

おまけに私は自分の地域の中学校に入学したにもかかわらず、知り合いがいなかった。まったくの別世界からやってきて、特定の友人を作る前だったから、久しぶりに来た私を迎える友がいなかった。

 

黙って壊れた靴をはき、黙って壊れた道具を糊付けし、壊れたつぼを捨てた。ぽつねんと机の前に座った。自分はそこにいながら存在しないかのように感じた。

 

自分が自分の不在を感じていた。デカルトはこう言う感覚を知っていただろうか。「考える自分は確実に存在するのだ」と言った、あのデカルト先生は。

 

学校に戻ってから、母の連絡帳か何かで、私の頭痛のことを知った担任の先生が、廊下で私とすれ違うとき、私を気遣ってこう言った。

 

「君、頭大丈夫か?」

 

私は、「大丈夫です」と答えて余り気にもとめなかった。ところがそれを一人の同級生がきいていた。彼は面白がってみんなにそれを言いふらした。

 

「あいつは先生からまで頭大丈夫かなんて聞かれるきちがいらしいぞ。」

 

私はそれ以後先生のお墨付きのきちがいだということになり、定着した。誤解を解こうにも、聞いてくれる友人がいなかったから、放置した。自分が、阻害されているという感覚が定着すると、自分の行動がどうであったかと言う事より、記憶の中には被害者意識を増長させるような他人の言動しか残らない。

 

私は、たまたま同じ方向に歩いていただけで、前を歩いていた姉から、ものも言わず振り向きざま眉間に石を投げられたことを記憶している。血を流し、ものも言わず、泣きもせず、生きていた。

 

あれは、「耐えた」なんていうかっこいい状態じゃない。自分に向けられた「悪意」という其の事実をしっかり記憶し、そして、自分の鼓動を感じながら、生きていた。また、同じ頃、五郎兄さんからは、「どうしても方向も時間も代えられなくて、同じ道を歩くときは、自分の後方10メートルは歩行距離をとれ」と言われていた。私はたまたま前方に家族が見えたら、即刻危険を感じて道を変えた。

 

人間すべてに対する憎悪がゆらゆらと自分の中で動くのを感じた。自分を受け入れる人間が世の中にいる可能性を、私はそのとき信じなかった。私はいつもポケットに小石をしのばせ、そのひとつを握り締めながら歩いた。

 

「心の闇」と人は言う。目に見えて理解のできない犯罪者の行動を「心の闇で何があったか?」、などと週刊誌は書いている。

 

あるとき突然、わけのわからない叫びとともに、人が刃物を振り回して、まったく関係のない他人を襲うとき、「理由もないのに」と人は言う。神戸の池田小の宅間容疑者の事件も、「理由もないのに」関係のない他人を襲った犯罪である。

 

2001年6月8日、大阪府池田市大阪教育大学附属池田小学校に男が乱入し、刃物で次々と切りつけ、児童8名が殺害され、教師含む15人が重軽傷を負った児童連続殺傷事件。)

 

池田小の事件は、私がこのエッセイを書き始めるきっかけになった事件だった。犯人が子供の頃どうだった、成人してからどうだった、家族関係はどうだった、と、マスコミが書きたてている記事を読み、私はひそかに、「犯人のために」心を痛めていた。

 

過去の述懐を書き直している現在も、常人には意味が理解できない殺人が横行している。そのときのリアルタイムの「意味」はおそらく、きっかけであって、たいした意味を持たないだろう。しかしその本当の「意味」は殺人者の心の中で、生まれたときから用意されて続けていたのかもしれない。

 

ある時代の私も「理由もなく」他人に石を投げ、攻撃し、罵声を浴びせ、逆上し、喧嘩をした。私は何時もポケットに石ころを忍ばせて、腹を立てれば、相手に罵詈雑言を浴びせていた。取り押さえようと、人が近づくと回りのものを手当たり次第投げつけて抵抗していた。

 

教会関係によくいる、自分を「救ってくれよう」なんて言うやつが一番嫌いだった。表面礼儀正しく、他人にやさしい声をかけながら、本当は冷淡な人間を鋭く見抜き、そう言う人間が近づくことをひどく嫌った。私は鎧兜を身につけながら、刀を握って床につく武人のようであった。

 

それが私の中学時代だった。