Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月17日

 子育てに苦労した話

 

1)「家族の日本国籍取得」

 

小学校に上がる前、私は娘の為、日本国籍を申請をした。本来なら、私しか日本の戸籍を持っていなかったから、娘は私の戸籍に入り、姓も私の父の姓を名乗る筈だった。

 

(日本人の女性は国際結婚をすると、外国人の夫は日本に戸籍が無いから、日本人の妻は実家の姓のままである。だから娘が私によって日本国籍を取れば、娘は必然的に、私の実家の姓を名乗るようになる。現在は法律変更で、これは1980年代の話))

 

私は娘に主人の姓を名乗らせようと思った。父親の姓は外国姓である。その姓は彼のアイデンテイテイをあらわす、彼の父祖の姓だ。

 

私は遠い昔、学校で教師をやっていたころ、韓国籍の生徒が悩んでいたのを思い出していた。彼女は父親の深い思いから、小中学校のころは日本人の姓を名乗り、高校になってから韓国姓を名乗り始めた。そのために彼女の心は帰属の問題で揺れていた。

 

私は、古典の授業で古事記を扱い始めたとき、彼女につきあって一気に古代の日朝関係を彼女と共に研究し、現代にまで影響を及ぼしている日朝関係の歴史を古代に探ろうと試みた。あの子が帰属の問題で苦しんだのは、父親が初めから韓国姓を名乗らせなかったからだ、と私は思っていた。

 

名乗らせなかった理由は差別を恐れたからにちがいない。しかし、差別を恐れること自体、差別に屈せず韓国姓を名乗ることによって自民族の誇りを守ることを、大切な幼児期に娘に教えることをはばかって、親の世代の屈折した心を娘に植え付けたことになる…と私は思っていた。

 

自分の娘には初めから父親の姓を与えよう。自分がエルサルバドル人の父親の子であり、同時に日本人の母親を持つという特殊性を初めから納得させて育てよう。ただし、そのためには自分が夫の姓を名乗らなければならない。

 

其れは夫婦別姓などと言う考えから遠いものかもしれない。しかし娘が私の実家の姓を名乗り、ニッポン人の中に埋没して行ったらそのうち多くの国際結婚の家庭がそうであるように、娘は外国人の父親の存在を疎ましく思うようになるだろう。

 

其れを避けるため、私は家裁に申し立てて,戸籍を実家から独立させ、新しい戸籍をエスコバル姓とする手続きをした。其れから娘の帰化手続きをし、私の戸籍に入れるなら、娘は父の姓を名乗る事ができるのだ。

 

日本の法務省の松戸の出張所に、私は何度も足を運び、「日本の姓を名乗るほうが身の安全のためによい」と勧める法務局の役人を相手に、エノクと娘のアイデンテイテイを守るため、断固としてエスコバル姓を名乗るのだと主張して譲らなかった。

 

その手続きが済んで、今度は娘の名前の番になった。彼女の名前はスペイン的な命名法で、2つの名前がついている。私は彼女に一つはスペイン語名を一つは日本名をつけていた。

 

国籍取得の登録のとき、私は娘の名を日本の名だけにしようかなと思ったが、娘はまだ5歳で、なぜ急に名前が変わるのか理解できない。子供ながら、本来の自分の固有の2つの名前にこだわった。

 

それで一策を案じ、私は娘のスペイン語的な名前を意味を取って漢字表記し、2つの名前を漢字3文字に合体させて、読みを変えずに登録した。娘の名前は本来「Rocio Sakurako」 という。Rocioはスペイン語で「露」という意味である。だから、「露桜子」と表記して、そのまま、「ロシオサクラコ」と読ませて知らん顔していればいい。もともと漢字の訓読みはそういうものなんだと私は思った。

 

法務省の役人は又忠告してきた。

 

「この名前では日本人として通用しませんよ。もっとあたりまえの名前のほうが良いでしょう。」それが「親切な助言」であったことを私は疑ったわけではない。

 

しかし、私はこういった。

 

「では森鴎外はまったく混血でもない自分の子供たちに、オットーだの、ルイだの、マリだのアンヌだのという命名をしても身の危険を感じずに暮らせたのに、なぜ昭和60年の現代になって、混血の子供に限って日本の伝統的な名前にしなければいけませんか。日本の漢字の読みというものは、もともと、中国語の和訳でしょう。私のこの使い方こそ伝統にのっとった、漢字の使い方でしょう。」

 

私の気迫に彼らはしぶしぶ私の申し立てを受諾した。それで私の家族は3人、後で帰化して日本国籍を取った主人も含めて、世界に二人といない姓名を名乗って暮らすことになった。

 

「小学校入学」

 

地元の小学校の入学式。これもまた初体験だった。入学式に又派手なドレスが必要らしいという情報をえて、私はデパートを見たが、品のないピンクのひらひらしたのがとんでもないほど高くて、買う気になれない。

 

また母が長いことストックしていた布の中から、割と渋いけれど光沢のある色の布をもらってきて、仕立てた。足りなかったから胸に紺色のレース地を貼り付け、子供服の仕立て方の載っている雑誌を参考に、布を子供にあわせながら自分でデザインして、儀式にふさわしいドレスができた。それを着せて、自分も母から譲り受けた布地を仕立てて、こう言う場合こう言う姿をするべきだと考えていた衣装を着て、出かけた。

 

ところが、入学式用に子供にはそれなりの服を着せているお母さんも、自分はジーンズで自転車で来るという人もいれば、式服の人もいて、なんだか勝手が違う。自分は又浮いたのかなと感じて、恐ろしいので縮こまっていた。

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式服

 

小学校は、大人の足なら歩いて5分くらいの距離にあった。私は中学校以外全て私立ミッションで過ごしたので、日本の公立の小学校というところが、どういうものか全く知識がない。先生との付き合いどころか保護者同士の付き合い方も知らない。おまけに晩婚で4年目に生まれた一人娘なので、娘の同級生のお母さん達は、私より10歳から20歳くらい若くて、世代がまるで違う。付き合い方が判らなかった。

 

子供が3人くらいいて、娘の同級生が末っ子と言う条件でも、お母さんの年齢は10歳前後私より年下だ。幼稚園のお母さん達の付き合いで、かろうじて3人娘のお母さんという人と仲良くなって、情報交換していたが、学区が違うため、娘の入った学校から、人間関係が又新しくなった。

 

で、みんな私の外国姓のため、薄気味悪そうな顔で近寄らない。入学式のとき、名簿を見ていた後ろの列のお母さんが、カタカナ姓の娘の名前を見て、「なんじゃ、こりゃ!」といっていたのを聞いて、苦笑。

 

幸い幼稚園2年目で、バスに乗せることにしたので、同じ幼稚園からの同じ学区の友達ができて、クラスにも友達が何人かいる。入学式のとき、見慣れた顔を見つけて、思わず駆け寄った。でも男の子のお母さんばかりだった。何もわからないので、いろいろ教えてくださいね、よろしく、という程度の挨拶でも、何とか人間関係のきっかけができたのはうれしかった。

 

2)「根回しという意識」

 

初めてのPTAの学級集会というのに出た。これは先生との保護者会ではない。PTAの学級集会とかいうもので、それぞれの学級から選出するPTAの役員を決めるための集会だった。正副委員長とか書記とか会計とか、広報とか、いろいろの役目がある。組織がどうなっているのか見当がつかない。おとなしくしていようと思った。

 

ところがである。2時間たっても、役員が一人も決まらなかった。入学したばかりでお互いに知らない人も多く、指名することもできない。どうしたらいいのかわからず、帰るに帰れず、ちょうどそのころ始めていた、英語塾のことも気になって、業を煮やした私はとうとう沈黙を破って手を上げた。まず「広報委員」というものはどういう事をするのかを聞いてみた。PTAが出している新聞の編集だということなので、それなら自分でも経験があるからできると思い、「では私がそれを引き受けましょう、用事があって帰らなければいけないので、私でよかったらどうぞよろしく」といって「有難う御座いました」という司会のお母さんの言葉も聞いて、帰ってきた。

 

ところでその後、1時間くらいしたとき、玄関に誰かがやってきた。そして言う事にゃあ、「役員は全て根回しで決まっていたのに、横合いからああいうことをしてもらっては困る。」というのである。「広報委員」は神田さんに決まっていたのに、あなたが広報委員になったら、神田さんが委員長を引き受けなければならなくなる。各学級の委員長はPTAの方から更に上のPTAのコミッテイーメンバーとして引っこ抜かれる可能性があって、神田さんは上にお子さんが2人もいらしてこの学校では知られた人だから、人望が厚いので、委員長にしてしまったら必ず引っこ抜かれる。そうしたらクラスのまとめ役がなくなって学級としては損失だ。だから広報にしたのに、あなたが横合いから神田さんの役割を取るのは困る、ということだった。あなたなら、PTAから引っこ抜かれる可能性はないから、委員長はあなたがなって、広報は神田さんに譲りなさい、というのだ。

 

げげげのげ!!

 

あきれた。初めから根回しで決まっていたのなら、何故2時間も討議して、無駄な時間を使わせたのだ。決まっていた人が手を上げて、しゃんしゃんで終わらせるのならまだしも、あの2時間はなんだったのだ。私は帰るに帰れず、痺れを切らせて手を上げたまでのこと、決まっていたのなら、降りるから、どうぞ決まったとおりにしてください。と、そういった。

 

そうしたらその奥さん、怒り出して、手を上げたからには委員長を引き受けなさいという。頭に来た。私は自分でできることとできないことを良く知っている。国外に8年も暮らした後の私は日本の人間関係のやり方も知らない。統率者になるなんてとんでもない。人をまとめる力がない。広報のような文章に携わることならできるから手を上げた。できないものを押し付けられても困る。そういって私は委員長など引き受けなかった。

 

そうしたら、その奥さん、全く関係のないことを言い出して毒づいて帰った。「あなたの始めた英語塾、どうせお遊びでしょ?あなたのご主人、エチオピア難民?英語なんていったって、ブリテイッシュできないでしょ。日本はブリテイッシュじゃないと通用しないのよ。」

 

殆どの人がエルサルバドルという国の存在を知らないので、「エ」から始まる外国なら、何でもいい。以後の私は、エチオピアエジンバラエクアドル、などと間違えられ続けた。それにさ、私、日本人で日本の学校出ているけれど、ブリティッシュ話せる日本人の先生、あったことないぞ^^。

 

3)「松戸語になれる」

 

実は、私は母国語だったはずの「日本語」に、松戸に着てからかなり戸惑った。

 

娘の友達が、自分のお母さんに告げ口している。

 

「おかあさん、ロっちゃんの言葉変だよ。『いってくるね』っていうのを『いってまいります』なんていっているよ!おかしいよ。」

 

「ロっちゃんが『便所』のこと『お手洗い』なんていっているよ。便所で手を洗うみたいで、変だよ。」

 

「ロっちゃんはお母さまなんていって訛っているよ。おかあさんて言えないんだね。あれ、外国語?」

 

この幼い「疑問」に、初めの頃、私は面食らった。私は、別に気取っていたわけじゃなくて、自分が育った時代の昔の生活言語を、当たり前の日本語だと思って、ただ話していただけだけれど、それが娘の口から出ると、異様に聞こえているんだ・・・。

 

そのうち娘の友達のお母さんと仲良くなった。そのお母さんが下の子供をつれて、通りからうちに駆け込んできて、言った。

 

「おい、一寸しょんべん貸してくれい。」

 

これには、対応に困るほど仰天し、物が言えなかった。まさか、こういう人相手に、「何でございましょう?」なんていう言葉を使えなかったし。

 

「げ!しょんべん貸すって…。何をかせばいいんだ?」

 

私は別に気取ってみたり、他人と「階級が違う」と思い込んだり、そういう意味で言葉にこだわったのでは決してなかった。ただ、単に、聞いたことがない状態の松戸の日常会話に、通訳が必要な状態だったのだ。私にとって、松戸語は、「外国語」の一種だったのである。

 

自分の言葉に別に固執する気がなかった私は、それらの言葉におされにおされ、自分の実家の本来の言葉遣いを通すとストレスを感じるので、ついには「しょんべん言語」を取り入れ、松戸の社会に同化してきた。ところで、その「しょんべんかしてくれ」のおばさんは、すごく心のいい人で、学校が変わって、進路を別々にした後も、娘はその友達と付き合いを続け、そのおばさんが好きらしい。

 

4)「転校」

 

娘が小学校3年になるころ、通っていた公立の小学校は暴力教師がいたのと、同じ学年に万引きの首領がいて、娘がその手先に使われたということがあって、喧嘩で解決するのが面倒だった私は、あるカトリックの学校に転校させることにした。実は、教会から村八分を受けた私は、松戸から毎土曜日、四谷までの教会学校に娘を送っていくという煩瑣な生活もすこし緩和するためでもあった。

 

転向してから、ある年の夏休みがあけて、保護者会があったので出席した。そうしたら宗教を担当しているシスターが私を呼び止めた。何か問題でも起こしたかな、と一寸心配して話を聞いた。なんだか、夏休みの宿題として、宗教のクラスから「一日一善」というのが出ていて、各自、一日一善を心がけるよう、実行した「善」は毎日表に記入して夏休みの後提出するよう、というのがその宿題の趣旨だった。で、その提出があったら、誰にでもご褒美をあげることになっているのに、お宅のお子さんだけ出していない、ご褒美が上げられなくて困っているから、提出するように言ってください、ということだった。

 

別に、教育の段階の宿題として不適切でもないし、出さないのは怠けているのかなと軽く考えて、シスターには子供に宿題の提出を促す旨、約束して帰った。

 

ところで、帰ってから娘にこの話をしたら、思わぬ反撃が帰ってきた。

「シスターがおっしゃることはおかしい。イエス様は右手がやったことを左手にも知らせるなというほど、自分の行いを自慢することを禁じたと教わったのに、自分がやった良い事をいちいち表に書いて公表するなんて、そんなのファリサイ人がやることじゃない。そんなことをそれを教えているシスターが宿題に出すなんて間違っている。」

 

ぎょ!

 

「だって、シスターはあなたのために取っておいたご褒美をあなたに渡したいからいってらっしゃるのよ。あなたを責めていらっしゃるのじゃないのよ。」といってみた。

 

娘はいった。「自分がした良いこと発表して、ご褒美って言う考えが、イエス様の考えじゃないっていっているの。」

 

ひぇえーー!と思った。

 

この子、苦労する。正論を吐きすぎる。論駁のしようもないこの親は、シスターの気持ちを刺激しすぎず、何とか丸くことを収める方法はないものだろうかと一晩考えた。

 

私はシスターという種族を知っているのだ。使命感を持って仕事をしている。一所懸命だ。だから、自分の行動の矛盾などを当の教育対象である子供から指摘されることに弱い。

 

私にだって記憶がある。子供のときに、女性信者が被る義務があった白いベールという代物が在った。私のは死んだ姉のお下がりだったので、黄色く変質して、どんなに洗濯しても、当時の洗剤では真っ白に仕上がらなかった。

 

それをシスターが、不従順と判断し、責めて責めて、「ベールの色は心の色を表します」とかいって、私を追い詰めた。猫に追い詰められたねずみよろしく私は言った。「シスターのベール、真っ黒です。」

 

そんなことが重なって、私はあの学校、退学になっちゃったのだ。

 

少なくとも私と違って、娘は他人に自分の意見を公表してはいない。娘に二の舞をさせてはならじ、と思った私は、娘を転校させるときにお世話になった、昔の同僚に助けを求めた。彼女はその学校で先生をやっていたから。

 

彼女、この娘の意見を凄く面白がってはいたものの、やっぱり、「参ったね!」といって舌を巻いていた。で、何とか収拾を引き受けてくれるというので、お任せして私は表舞台から引っ込んだ。それで、娘の意見は人前で公表されるという事態を避けて、裏で丸く収めたのである。

 

5)「鼻くその処理事件」

 

その小学校の4年のとき、娘が自分のクラスのある子が鼻くそをほじって食べる癖があるといって、みんなに嫌われて仲間はずれにされていると、心配して私に報告してきた。なんでも、学級会でそれを議題にして、「鼻くそ食べるることはまかりならぬ」と決定たらしいのだ。

 

変なことを問題にする学級会もあったもんだ。

 

私はおもむろに娘に聞いた。

 

「その子、誰の鼻くそ食べているの?」

 

「え?自分のだけど…」と娘は怪訝な顔で私を見た。

 

「だったら良いじゃないの、人の鼻くそとって食べるなら泥棒だけど、自分のを食べているのなら、その子の権利でしょ。嫌う必要ないし、何が問題なの?」

 

娘はいたく納得し、学校に行って、学級会で発言した。

 

「自分の鼻くそを食べることを学級会の問題にするのはおかしいです。他人の鼻くそを無断で食べるのは問題だけど、自分のを静かに食べているのですから、それは本人の権利だと思います。」

 

それで、問題が解決したか、しなかったか、私は知らない。とにかく、この問題の解決法を聞いた先生も生徒も、これはエルサルバドル方式だと思ったに違いない。

 

人のやっていることに、集団で干渉したりしない、かの国の文化の中に8年もいると、集団になじまない子供を徹底的に、クラス会の議題にしてまで従わせようとする、虐めの蔓延する日本の学校社会を、私はほんのすこしの諧謔の精神でゆさぶってやりたかった。

 

長年月外国生活を経て帰国した自分たちだけがカルチャーショックで呆然としていると考えがちだけれど、日本にいて日本の常識を守って生きていて、帰国子女の変な考えに出会ったほうも、ある種のショックを覚えていたことは、確かなことだ。

 

6)「寄宿中学校に」

 

その小学校が、なんだかひどく中世的なカトリック思想から脱していないのを知って心配になった私は、中学の時、別のカトリックの学校を受験させた。帰国後間もなく起きた、エルサルバドルの大地震のときに同級生が見せた、援助に対するすばやい反応に感動して、娘をこの系列の学校の教育理念の元で教育して欲しいものだと思ったのだ。

 

生まれたときから塾に入れないと入れない東京校を避けて入れたその学校は、寄宿のある中高一貫教育で、娘はそこでかなり宗教的に純粋培養されてしまい、いつも宗教的阿呆を繰り返していた。

 

高校2年のとき、娘は東京に戻ってどこかの薬科大学を受けるんだといって、札幌の代ゼミに通わせて欲しいといってきた。それで私は当時娘の学費として死に物狂いで働いて積み立て貯金していたものの中から10万円を引き出して送った。

 

ところがその同じ年、中米を襲ったハリケーンのニュースを受けて、学校は生徒から義捐金を集めた。その義捐金に娘は代ゼミの学費ために私が送った血と涙の結晶の10万円のうち4万円を寄付してしまったのだ。ぽかーんとして、「お母さんだってそうするでしょ?」という娘に、私はかんかんになって怒った。

 

「自分が稼いだわけでもないお金を勝手に別の用途に流用するな。一人の人間がもぐりで10万円稼ぐにはどれだけの苦労があるかということを考えてみろ。これ以上びた一文も送らないから、自分でこの結果には責任取れ。」

 

たまげた彼女はこの責任を取るため、付き合いを全くせず、寄宿舎から食事の出ない土曜にも食事をせず、しのいだらしい。後から聞いてみると、馬鹿も散々やらかしたらしいが、変に純粋培養された、こういう部分は、今も変わらず、そのために紆余曲折の人生を送っている。

 

7)「あの演技は成功した」

 

娘を父親の腕の中に返すように、私が必死に演じた芝居に乗って、私と一緒に父親の首に飛びついていった娘は、「父親が外人なので」絵もうまく、「父親が外人なので」お勉強もでき、「父親が外人なので見目うるわしく」成長し、何年かたったある時、電車の中で会社から帰宅する父親に会った。

 

混んでいて、側には行かなかったらしいが、帰った娘は私に目を輝かして報告して言った。

 

「お父さんてかっこいい!!」

「 へえ、」と私は、娘が父親の外見のことをいうのかと思って聞いた。

 

娘は言うのである。「いい年したおじさんがエッチな漫画を読んでいるそばで、お父さんは、スペイン語で物理の本を読んでいたの。かっこいいなァ。」

 

そこにはひと目で其れと分かる、父親の民族の違いに対する差別意識も屈託も何も無かった。ただ自分の父親が他の誰とくらべても素敵な人なんだと言うすなおな感動の色があった。

 

私はそこに父親を尊敬している、純粋培養で成長した娘の姿を確認した。うれしかった。

 

成功したんだ!私の演技は完結したんだ!

 

私は口笛を吹き、逆立ちをして20歩ぐらい歩きたい衝動にかられた。有頂天になって私はエノクにその事を告げた。彼はなんだかもごもごと、照れ隠しの表情をし、それでもうれしそうに勉強している娘をそっと後ろから覗いていた。