「自伝及び中米内戦体験記」7月25日
「母の手紙」
入院が長引いたが、体調がやっと落ち着いた。そこでエノクは部屋を個人部屋から二人部屋に代えた。その差があまりに歴然としていたので、ちょっとショックだった。部屋はあきれるほどみすぼらしくなり、看護婦はこなくなり、呼んでも応答もしなくなった。それだけではっきり「安くなったのだ」ということがわかる。
部屋が代わったらいったん落ち着いたかに見えた体は再び不安定になり、熱が上下し始めた。ものすごく感じの悪い医者が、患者の熱でいらいらして薬を代えた。熱は寒気を伴い、体はがたがた震える。毛布を要求したがこの国にまともな毛布がない。持ってきた灰色の敷物みたいなあまり清潔そうでもない代物をかぶって悪寒をしのいだ。
こういうとき、子供時代の、病気勝ちだった惨めな思い出が頭をよぎる。一月の半分ぐらい学校休んでは病み上がりで出ていった学校には、迎える友達がいなかった。勉強も進んでいて、手がつけられない状態だった。自分は世界から取り残されるという思いを何度抱いて窓際にぽつねんとしていたことか。あの子供のときから背負わなければなかった孤独の運命を、身動きの取れない病床にあって思い出すのはやるせない。
母からはじめて2通の手紙がきた。恐る恐るあけてみた。本気で怖かった。状況によって神経が乱れ、熱がそのたびに上下する人間にとって、危険な手紙かもしれなかった。しかし意外なことに母は、生まれる赤ん坊のために、布地をたくさん集めて送ってくれているということを知らせてきた。へえ、一応孫だと思ってんだ^^。
赤ん坊の名前。夫も親戚たちもおなかの子があまり暴れるので、てっきり男の子が生まれると思っていた。出生以前に性別が分かるのは、ごく最近の医学だ。だから皆、男の名前ばかり勝手に決めていた。
ところで、こちらの国はたぶんスペインの習慣で、長男には父親の名前を、長女には母親の名前を襲名させる。それと洗礼名で名前は二つになる。
ところで、生まれたのは女の子だったから、本当は私の名前を襲名させるのがこちらの習慣だけど、どうも抵抗があったので、私の人生でであった懐かしい二人の名前をつけた。洗礼名は23歳の時出遭ったあの恩人、スペイン人のシスターの本名、そしてもうひとつの名は自分が3歳のころまで慕っていた、早世した姉の名前、櫻子。
それを知らせたら、母はその名前に異議を唱えてきた。「あなたの子供なんかに私の大切な子供の名前をつけるのは反対です。」
ひぇえ!
私は4年ぶりの母の音信に感激しながら、やっぱり泣いた。孫の誕生にある反応を示しているのは間違いなかったが、文面からは歓迎とは見えなかった。母の毒舌は、今に始まったことではなかったとはいえ、「あなたの子供なんかに」という言葉は、相手の顔が見えない手紙の文面で見ると、こたえる。
母が生まれる孫たちに難癖つけていたのは、何も私の子が初めてじゃない。東京にいたとき、兄たちの子供の名前で、横合いから母をたしなめたり訂正したり、ごまかしたり、おちょくったりして、何とか和を保とうとしていたのは実は末っ子で独身だったこの私だった。
生まれた孫が「お父様(私の父、母の亡夫、つまり兄の子供たちのおじいさん)に似ている」などといおうものなら、「お父様に似ているわけがない。お父様みたいに立派な顔立ちの子がこんな嫁から生まれるはずがない。」とか言っていた。そのときの表情は、今から思えば滑稽かもしれないが、端で見ていて物凄すぎて、取り繕うことなんかできなかった。
あれにくらべたら、私の姑が「チニータなんかに似ていない。この子はパパ(エノク)とうりふたつなんだ。色白なんかじゃなくて真っ黒でかわいいんだ。黒いほうがいいんだ。」といって、客観的にどう見たって色白の東洋系の顔の孫の誕生に喜んでいる姿のほうが、同じく滑稽だがよっぽど優しい。
(チニータ:チナ、つまり中国人の女性形。スペイン語では、小さいものには、語尾にita、itoとつける。)
まあ、いろいろあった。体は万全ではなかったけれど、入院してから十日後私は赤ん坊を抱いて、足取りおぼつかない病み上がりの体で、赤ん坊ほどの大きさのある大量の抗生物質の袋を持たされて退院した。
「お祝いに来てくれた!!」
私が退院をする前後から、うわさを聞いた人たちからお祝いが集まってきた。国際結婚組みの3人の日本人、この国にやってきて始めて知り合ったサンタアナの下宿の女主人マルタ、サンサルバドルで初めて住んだ家の大家のドン.ベト、主人の友人の奥さんたち、バイレス夫人のマルタとデイナ。
うれしかった。くらくらと目眩を感じるほどうれしかった。知らせたわけでもないのに、子供の誕生をどこかともなく聞きつけて、祝ってくれる人々がいる。サンタアナのマルタ夫人なんか、別れてからどこにも接点がなかった。どうやって知ったんだろう!見当がつかなかった。
何故私の子供の誕生にこんなに文句無くみんなで喜んでくれるのだろうと、エルサルバドル人の、赤ん坊誕生に対する気持ちを知らなかった私には、このことは実に珍しく新鮮で理解を超えたことだった。
お祝いの手紙や品物の記録
生まれて間もなく撮った写真
そのとき私は39歳だったが、それまでにお祝いというものにあまり縁がなかった。およそ日本文化の中で祝いが必要な行事、誕生も七五三も入学も卒業も宗教上の祝い日も、自分は無関係だった。戦後の混乱を6人兄弟の母子家庭で生きた小学校時代、祝いなどと言うものは考えることさえ不可能だった。私は世間でそういう行事が個人に向けて祝われていることを、ほのかに知っていたけれど、むしろ子供のころから自分はそういう世界に住んでいないのだということを納得していた。だから、さて祝われたときにどのような態度をとるかということの訓練ができていなかった。
たまに何かのはずみに手に入っちゃったお祝いみたいなものがあると、戸惑いを抱き、おどおどし、ほとんどストレスになったりしたものだ。常識的な言葉が出てこないから、変人だと思われた。だから、お祝いというより「贈答品」というものはそれだけで、どえらく恐ろしいものだった。おまけに、その品物がたまたま高価だったりすると、ありがとう、うれしい、だけですまなくて、社会常識が優先して、いくらの品物にはいくらで返す、なんていうことが求められるという、とんでもなく面倒な儀式が待っていた。物なんかもらっちゃうと後がおっかなくて素直に喜べないのである。
お祝いはともかくとして、家庭教師をやっていたときと、学校に勤めていたときに、物品の形式的な贈答は経験していた。でもそれは自家製の野菜とか手作りの品物や、または個人的な好みの品物は別として、デパート経由の品物は、極めて形式的で、むしろ機械的でさえあった。それに習って自分もそうすべき相手かもしれない社会的関係に対して、盆暮れの挨拶を「常識」として行っていた。往々にして「常識」を堅持するということは心がどうのというよりも、自分の身を守るためにやっているものだ。これは社会人となった人間の「社会人資格試験」みたいなもので、利害関係が消滅すると同時に、思い出しさえもしない相手にたいする儀礼でしかない。
自分が受けた盆暮れの挨拶は、もらったときは貧乏だったからそれなりにうれしかった。でもそれはなんだか、貧乏な私の生活を見かねての「物資援助」的な面が強かった。だからそれはむしろ「役に立った」からうれしかったのだ。
毎年同じ時期に紅茶が手に入ったり、石鹸が届いたりするのも悪くはない。しかし自分はいちいちお礼状を書いてはいたが、自分が社会的常識にのっとってする贈答品に対してお礼状をくれる人は少なかったのを考えても、あれは「心」を伝えるものではないようだ。
それらの高度に発達した社会学上の常識を尊ぶ日本文化を、今の私は優れていると思う。あれほど冷淡に客観的に人間の心というものの不確かさを、形式の中に凝縮して突き放す文化は日本においてほかにない。しかしあの頃私はあの文化の拘束をかなぐり捨てて、生々しく愛し合い、傷つけ合う、動物に近い人間関係を求めて、野越山越え太平洋を越えて、この国に飛び込んできた。自分は形式を離れた哺乳動物としての体験をそれがごく当たり前の幼児期に、体験していなかったから。
自分に赤ん坊が生まれた。この事実は誰から何を言われようと、または言われなかろうと、それだけですでに何にも代えられない「宝」を得たようなものだった。喜びも興奮も感動も自家生産的であり、自己完結していた。しかもそれは相手が生きている限りほとんど永続するものらしい。他人からのお祝いがあるとかないとかということは意識の上にもなかったとき、風の便りに一人の人間の誕生を聞いて集まってきた人々の贈り物に、社会分析も心理分析も哲学的解説もなく、ただやみくもにうれしかったのは、そこに怪しい形式がなかったからだ。
思えば、夫の親戚たちは、親戚の中に異民族の血が入ることに、抵抗どころか、楽しみにしていたきらいがある。白い子が生まれるだろうか、黒い子だろうか、はたまた黄色か縞縞か、なんていって騒いでいた。この国は混血国家だから、いろいろな色が生まれる可能性がある。万世一系を尊ぶ習慣はない。主人の兄弟も民族が違うかと思われるほど、みんな色も顔かたちもが違う。それで異質な新しい子供が生まれるのをみんな本気で喜んでいる。それがいかにもうれしかった。
赤ん坊を嬉しそうに抱く舅
出生証明。足跡が珍しかった。