Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」7月24日

 

「赤ん坊誕生」

 

1)「死ぬかと思った出来事」

 

この家に来てから、何回か水飢饉に悩んだ。人が集中的に使わない深夜にしか水が出ない。出てもちょろちょろという程度だ。ストライキではないから、多分地域のせいだろう。原住民のばあさんはよく働き、エノクもよく働いて、深夜の水集めをやってくれた。しかし、こういうときの水洗トイレの掃除は、人にやってもらう気がどうしてもしなくて、自分でやったのだが、そのために疲れて昼間は眠っていることが多かった。疲れているし体の調子も磐石ではなかったけど、体もだんだんこの状況に慣れてきて、横になればすぐに眠れた。

 

そんなある日、エノクはコスタリカに出張になった。この国の出張はほんの数日でも奥さん同伴が普通なのだけれど、大事を取って私は行かなかった。夫はチカさんを頼りにしていたし、日エル夫婦が、エノクの留守中、私に万が一のことがあったらと、立ち退きを数日伸ばしてくれた。

 

といってもこの夫婦は深夜にしか家にいないから当てにならない。

 

5月20日、予告されたゲリラの攻勢は不発に終わり、案外平穏だったが、エノクはくれぐれも家内を頼むとチカさんに言って出かけた。

 

定期検診のとき私の体はむくんでいた。しかし自分では何も感じなかったので、特に何もしなかった。夜中、私は家中の物音の聞こえない、世界から遮断されたあの立派な寝室で、一人で怪しげな腹痛を覚えた。眠ってしまえばいいかなと思って、我慢して眠り始めた。しかし痛みは激痛に変わり、ベッドのふちにしがみついて耐えたが、とても耐えられるような痛みではない。うめき、絶叫し、壁をたたいて、誰かにしらせようと試みた。

 

その壁、日本の安普請のアパートの壁とは違うのである。打ってもたたいても響きさえしない。昔スペインの北部を旅したときに見た堅固な城砦を思わせる、何が崩れてもこの壁だけは残りそうな代物である。汗を掻き、声もかすれ、何とか這いずって電話のところまで行こうと思ったが、これも堅固な立派な扉を私が寝る前に閉めてしまったから、立つこともできないのにノブまで手が届かない。

 

痛むおなかを何とかマッサージしてみようかと、昔母から習ったマッサージを試みた。おなかはかちんかちんに固まっていて押してもへこみさえしない。なぜ人間のおなかがこんなに硬いのだ、と思うほど、壁やドアと同じように硬く感じた。もうだめだ、死ぬかもしれないと思った。

 

チカさん、チカさん、とお手伝いのばあさんを呼んだ。しかし彼女は屋上の自分の小屋に入ったまま朝の6時まで起きないだろう。そんなところまで声が届くような家のつくりじゃなかった。

 

布団を噛みベッドのふちを握り締めてうなっていたとき、ほんのり白んできた夜明け前近く、外に人の気配がした。多分あの日エル夫婦が帰ってきたのだ。「池田さん!」と私は呼んだ。返事がない。「シルヴィア!」と私は奥さんのほうを呼んだ。やっぱり返事がない。うめいた。叫んだ。壁をたたいた。あのドアと壁はそれほど堅固で、どんな物音も聞こえないようにできていた。二人とも、私の声に気がつかなかった。

 

しかし、シルヴィアはベッドから出てこない人間に常識的に声をかけてもいい時間になって、多分朝、8時ごろ、私の様子を見に来てくれた。「大至急、電話を頼む!」

 

しかし、電話といったって、戦時下のこの国の救急活動なんか当てにならなかった。

 

私はエノクの同僚の奥さんである、マルタの電話番号を覚えていた。あのバンドを結成してパーティーなどで音楽を引き受ける6人兄弟の中の唯一の女性である。

 

あの人なら親切だ、と思った。シルヴィアにマルタに電話をしてもらって助けを求めた。彼女は飛んできて自分の運転する車で自分のかかり付けの産科に運んでくれた。彼女も妊娠していたことを私は知らなかった。とても元気でもともと太っていたから、予定日が私と2週間しか違わないということもそのときも気がつかなかった。

 

助かった。多分私はあまりに大事を取りすぎて運動不足だったのだろう。赤ん坊が成長して腸が圧迫され、つぶれて閉塞状態になっていた。どんな治療をしたのか覚えていないけれど、マルタの紹介した女医は、すごく温和で親切で、彼女の手当ての結果楽になり、安堵した。

 

後で池田さん夫婦に夕べのことを話したら、チカさんはいったいどうしたんだといって怒っていたけれど、すべてはこの家のつくりのせいで、神経やみの私が人とあまり親しくしなかったせいでもあった。

 

あの孤立したベッドルームが好きだったが、体に問題があるときは孤立は命取りになることを、このときほど思い知ったことはない。

 

2「とうとう赤ん坊誕生」

 

「身重」というのはまったく読んで字の如しで、身が重い。妊婦服を数着作った。こういうものは日本のデザインに限る。日本には大きなおなかを目立たないように見せる工夫をしたきれいなものが多いが、エルサルバドルアメリカのものは、いやというほどおなかの大きいことを目だたせるようにできている。だから妊婦はみんなヒキガエルが立ち上がったような姿で歩いている。

 

あんなのいやだ。日本の雑誌からとったデザインで作った妊婦服を着ていたら、もう臨月なのに誰もそうとは気がつかない。ヒキガエル風の服じゃないから、わからないのだ。

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自作の妊婦服

 

姑は私の臨月を疑って、おなかを見せろという始末だ。戸惑っていたら、いきなり自分のおなかをびゃっとあけて見せて、ほら!とかいう。別にばあさんのお腹なんか見たがっていないんだけど、何だろうと思ってたまげた。

 

彼女にしてみれば私が恥ずかしがるのを、自分が見せることによって安心させようという「繊細な」思いやりのつもりらしい。彼女はそのころおなかの手術をした。傷口を見せたくて仕様がないらしい。見ろ見ろと言われたって、美しいものでも、滑稽なものでもなく、ただ醜いだけじゃないの。

 

こういう文化っていやだね、私は。

 

予定日は8月21日だった。だけど、チカさんはそんなはずないという。

 

「子供は満月に生まれるのだ、21日には生まれない。」と彼女は月を見ながらきっぱりいう。臨月になってから医者が代わって、エスコランという名前のあまり評判のよくない医者になった。チカさんは医者の言葉なんか信じない。月の満ち欠けで子供が生まれると信じている。私はチカさんの説のほうが正しいと内心思っていた。自然のことは自然に生きている人間のほうが正しい見方をする。

 

エスコランははじめから私の年齢を知って、何にも診察なんかしないで、有無を言わさず帝王切開するといって構えている。私はなるべくなら自然分娩がしたい。エスコランのところに行く前に赤ん坊が出てきてくれないかな、と思って、友人に送ってもらった本にある、自然分娩の呼吸法などを試してみる。ひーひーふう。

 

21日はまったくその気配がなかった。22日もその気配がなかった。23日もその気配がなかった。チカばあさんは空を見上げる。「まださ」、といって済ましている。

 

24日になった。私はそろそろ心配になってきた。まるでその兆候さえ見えない。しかし夜になって、なんだか怪しい痛みを下腹に感じた。あ、といったら、エノクがそばで、今夜かなといった。電気をつけておいた。丑三つ時まで何度か痛みを感じ、どうも、これが破水らしいという感じのものを感じたので、そばに寝ていたエノクを起こした。ひょっとすると破水らしい。といったら、エノクはがばと跳ね起きて、すぐに出かける用意をはじめた。

 

上のほうからぴたぴたぴたという足音がした。裸足だから足音が動物のようだ。チカばあさんが降りてきた。明け方3時ごろである。この人は月でも見ていたんだろうか。普通なら起きている時刻じゃない。みるとちゃんとエプロンをして、普段の姿を整えている。不思議な笑顔を浮かべて、「いよいよですね、じゃ、いってらっしゃい」とかいっている。ばあさんの表情がいつもの表情と違うから、「あ!」と思って空を見た。

 

空は満月だった。

 

エノクが運転する車の前方に、その月は浮かんでいた。黄色い月だった。私は現代科学が予定日とした日でなくて、原住民のばあさんが納得した日に子供が生まれるのが満足だった。

 

しかし私たちが病院に到着するとすぐに、藪医者エスコランは、何も診察しないで、ただ自分が考えた予定日より遅いということだけで、私を手術台に乗せ、帝王切開を決めてしまった。抵抗しても無駄だった。日本の呼吸法も役に立たなかった。動物としてのこの最も自然の厳粛な儀式を、私は現代科学にゆだねることを余儀なくされたことを、私は残念に思った。

 

原住民の勘でチカさんが月が満ちるのを待っていた、そのことが否定されるのが悲しかった。チカさんのほうが、この帝王切開で金儲けしようとたくらんでいる男より、正しいのだ。

 

ヽ(`⌒´メ)ノあほんだらめ!

しかし、じたばたしても、だめだった。

 

5分おきに陣痛は起きていた。手術なんか必要ない、何とか自然分娩を乗り切りたい、とおもった。しかし私は手術室のまぶしい電灯の下に運ばれ、あきらめて医者たちに自分の体をゆだねざるを得なかった。体を丸められ、腰椎に麻酔をかけられた。足がジーーーンと死んで行くのを感じた。私の観念しきった表情を見て、看護婦が、私たちいじめているみたいね、といっていた。いじめているのじゃなくて、料理してんだろ?

 

上半身と下半身との境に幕がかけられた。下半身で手術が始まるのを上半身は意識した。上半身は恐怖におののき、天井をにらみ、必死で祈った。

 

落ち着け、あきらめろ、体に力を入れるな、怖気づくな!!そう自分に励ました。

 

本当に痛かったのか、痛いに違いないという強迫観念のせいか、右下腹部にプチリというメスの音がしたように思った。そしてそのメスの切っ先の一点のみに、自分の上半身の意識は集中した。うめき声を出し、歯軋りをした。両手が震え、その手で下のシーツを握り締めた。自分の体は切り刻まれている、と思った。

 

昔読んだ、スペイン占領時代の中米の歴史が頭を掠めた。スペイン人がレイプしてインデイオに孕ませた子供を、腹を裂いて引っ張り出して、洗礼を授けてから殺した、そんな悪逆非道の中米史だ。あれみたいに、私の赤ん坊は引っ張り出されるのか!と思って口惜しかった。どういうわけか、私は最初からこの医者を信用しなかった。

 

後ろにいた補助の医者が私の顔に触れていった。どうした、痛いのか?痛い!と私はうめいた。足が動くか?と医者が聞いた。動かしてみたが動いたのかどうか知らない。しかし突然上半身の意識も消えていった。全身麻酔に変えているな!と、かすかに思い、安堵の気持ちを感じて、そのまま眠りの底に沈んでいった。 

 

看護婦が私を起こした。手術が終わったのだな、と私はなんだかがっかりして思った。病人運搬用のベッドに移され、自分の体が自分のものでないような感覚を感じながら、運ばれた。赤ん坊の産声も聞かなかった。赤ん坊が生きているのか死んでいるのか、女なのか男なのかも知らされなかった。私はとうとう誰でも経験している自然を経験できなかったことが恨めしかった。

 

赤ん坊の体外脱出に立ち会わなかったような気がした。匂いも感触もなかった。昔飼っていた飼い猫が出産したときの、あの新鮮な驚きさえ自分のときにはなかった。赤ん坊はどうしたんだろう、とおぼろげに思った。誰も何も教えてくれなかった。

 

移された部屋は全体が緑っぽかった。エノクは一人部屋を取っておいてくれた。ちょっと見回して、この部屋高いだろうなと思った。この国でいろいろな病気をして大体どんな階級がどんな病室にいるかを知っていた。麻酔から覚めて痛みを感じ、体は余裕をとりもでしていなかった。腕に点滴の管がつながっていた。点滴を見ると自分は動けない病人なんだと思ってしまう。

エノクが入ってきた。「もう、赤ちゃん、見たでしょ?」と彼は言った。「まだ。」と短く答えた。「見たよ。色白で丸い顔の女の子だった。顎がちょんと出ていてかわいいよ。」「そう。」と答えた。

 

痛みのために、生まれた赤ん坊に対する前向きな感情が沸いてこなかった。「いい部屋だろ。」とエノクは得意そうに部屋を見回していった。「うん。ありがとう。」痛みをこらえ、やっとのことで答えた。

 

エノクが帰ってしばらくして看護婦が赤ん坊を連れてきた。朦朧として何も感情が沸かなかった。看護婦は私の横に赤ん坊を置いて、でていった。私は自分の赤ん坊にはじめてあったときに感ずべき、すべての感情をかき集めようとした。しかしあまりの苦しさに優しい感情が沸くゆとりがなかった。「これが私の赤ん坊なのか」と、私はなんだか離れた気持ちで、病院の白い布に包まった赤ん坊を見た。「誰にも似ていないな。」それから私は微笑まなければいけないような気がした。しかし私の顔はこわばっており、苦しんでおり、手術のはじめの下腹部に入れたメスのプチンという音を思い出していた。

 

今の日本人は知らない。でも私の時代の日本人は、自分の痛みや苦痛に大騒ぎをしなかった。後でわかった話だけど、エルサルバドルの患者たちは、少しの痛みや苦痛も耐えることをせず、やたらに絶叫したので、ものを言わない私は痛くないものと思われて放置されていた。注射のときに子供でさえも、我慢をするように先にしつけられていたから、医者は注射を見せて泣かない子供がいると、あなたは日本人ですねといったそうだ。私はあの時、手術で痛いのは当たり前だと思っていたが、この我慢が後でとんでもないことだったと言うことがわかった。おなかの傷は細菌に感染しており、高熱が出ていたのだ。

 

その夜、数時間おきの痛みのためにうめいて目を覚ました。2回ほど看護婦が来て注射を打っていったが、朝までこれで大丈夫という看護婦の言葉に、そうか、もう呼んではいけないのかという風にとれて、痛みをこらえて明け方を待った。この痛みが本に書いてあった、子宮収縮によるものか、手術によるものかわからなかった。赤ん坊も時々見たが、私には赤ん坊を見たらすべての痛みを忘れるとか、目に入れても痛くないとか言う表現がロマンチックな御伽噺のように思えて、予定していたような感情は沸かなかった。朝、看護婦に苦しいといったら、ちょっと体に手を触れて、たまげていった。これは普通じゃない、すごい熱だ、なぜ何も言わなかったの!?

 

熱が出て、治療のために抗生物質が投与されている間はもう赤ん坊を連れてきてくれない。赤ん坊に抗生物質入りの母乳を飲ませることができないからだ。

 

赤ん坊を見て何も興奮しなかった私は、こうなるとにわかに動揺をし始めた。どうして見せてくれないんだろうと思いながら涙ぐみ、なんだかもう一生赤ん坊に会えなくなるのではないかと思ったりした。しかし私は臆して看護婦に質問もしなかったし、赤ん坊はどうしているというようなことを尋ねもしなかった。ただ元気に周りをうろつく看護婦が恨めしかった。移る病気じゃないのに、見せるぐらい見せてもいいだろうに。

 

病院で子供を産むということ、ましてや帝王切開で子供を引っ張り出すということは、すでに自然ではないのだ。こんな世界で人間的、または動物的な自然を要求するほうが間違っているのだ、と私は自らを納得させた。自分が産んだはずの赤ん坊が人によって親から離されているということに、私は異常にこだわっていた。故国を離れ、この内乱の国に来てから、たったいま存在し始めたまったく唯一の肉親である赤ん坊に、私は執着し始めていた。

 

ちょっと熱が下がった次の日、看護婦がやってきて、もう起きろという。熱で朦朧としていたから時間に気づかなかったが、手術したのは昨日の明け方だった。丸一日しか経っていない。起きろといわれたって、寝返りを打つことも、手術と関係のなかったはずの足を動かすこともできない。おまけに自分でも驚いたが腕に力がない。まるで背中はベッドに張り付いているのだ。

 

身動きできない私を見て、看護婦は力ずくで私を転がし、向きを変えた姿勢で背中に枕を置いていった。ギャア、と私はうめいた。あまりの痛みに私は看護婦が行ったら元の姿勢に戻った。その夜エノクがいっしょに泊まってくれた。

 

3日目、エスコラン医師がやってきた。日本では考えられないことだが、白衣なんか着ていない。ものすごくおしゃれをしてきて、例のとおり何も診察しないで、冷たい視線で一瞥をした後、早く起きろという。もう、この医者を見たくない、早く退院したいと思って起きる決意をしたが、午後までかかっても自分の力では体が動かない。

 

エノクと看護婦が協力してなんだか重たい石を転がすみたいに、やっとベッドの縁に座った。めまいと呼吸困難で、体が支えられない。看護婦に深呼吸をしなさいといわれて試みたが、息切れがして深呼吸どころか普通の呼吸だってできない。それを看護婦が無理やり立たせた。呼吸が乱れ、血の気が引き、めまいがする。一歩進めというから足を動かそうとしたが動かない。

 

何を感じるのかと看護婦が聞く。めまいを感じているようである、と答える。看護婦は私をそのままにして、何かを取りにいった。ファハと呼ばれる腹巻をもってきた。これをギャッというほどきつくまきつける。ハハア、おなかを固定して歩かせるつもりだ。意を決して呼吸を整え、そろりそろりと歩いた。看護婦はベッドから離れたところにおいてある椅子に私を腰掛けさせ、出ていった。自分で歩かなければベッドに戻れないようにしたな。にゃろめ!観念した。

 

ふと傍らに入院のとき持ち込んできた自然分娩の方法が書いてある本がおいてあるのが目に入った。自然分娩をしていればこんなことにならなかったのにな。恨めしかった。

 

ちょっと無理すると熱を出す。熱を出すと赤ん坊を取られる。赤ん坊を取られては精神的に不安定になる。病院は早く追い出そうと思って、無理をさせる。そんなことを繰り返して1週間もたった。健康な人は赤ん坊を産んだすぐその日に退院して、さっさといなくなるから、あれよあれよという間に、私は病院に一番長くいる厄介者となった。あの藪医者め、私が年甲斐もなく子を産んだのが悪いみたいなことをいう。うるせえ。聖書には90歳で子供を産んだ女だっているんだ。まあ、イスラエル民族の先祖だけど、ばあさんから生まれる子というのはすごい使命を持った子かもしれないんだぞ。

 

(イサク:旧約聖書B.C.2066:アブラハム100歳、妻サラ90歳のときに神の約束によって誕生した子。あはは)

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仕方がない、こんなところ早く出たい一心に、せっせと自分でリハビリをしてがんばっていたら、エノクの親戚たちがお祝いを持って見舞いにきた。お祝いなんかくれる人を期待していなかったから、私は子供のために1年分の衣類とぬいぐるみまでこしらえておいた。後で自分が生まれてくるのを誰も喜んでいなかったなんて思われるのが悲しい、自分には自分の誕生の記録を撮った写真一枚もないのを心ひそかにさびしいと思っていた思いがあるから、自分の赤ん坊には大げさな準備をした。

 

そういうわけで、「あらまあ、来てくれたのか!」とエノクの兄弟たちの訪問に涙を流して喜んだ。姑が、生まれた子はお父ちゃんそっくりで、どこも母親の私には似ていないといって喜んでいた。ま、いいや。とにかくおはぎをつぶしたみたいな顔で、相好崩して喜んでくれている。

 

実は赤ん坊はアメリカの姉の子供そっくりだった。どこから見ても東洋系の顔立ちで、看護婦たちは一番長く残っている新生児室の私の子を見て、「チニータ、チニ-タ」と呼んでいた。まずいぞ、うっかりすると差別の対象になるかな、と心配していたが、姑が色白の東洋系の顔立ちの子供の顔を見て、「真っ黒でお父さんに似て、かわいい、かわいい」といっていたので、滑稽だったけれど、救いだった。どうして姑って世界中どの民族もこういう反応をするのだろう。

 

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誕生祝い、上のぬいぐるみは2点は私の作品