Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」10月2日

「2001年という年」1

 

内戦絵画に一段落したと思った後、私は平和な絵を描き始めた。2000年の9月は、二科会の東京本展に「花を売る少女」を、千葉県美術展に「ツツヒル族の老女」を出した。ともに、私が愛してやまないグアテマラの美しい手織り布の衣装を着た庶民の絵だった。

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「花を売る少女」

 

20世紀は私にとって平和に明け、21世紀の初頭を迎えたとき、夫の故国エルサルバドルに、再度未曾有の大震災が起きた。

 

エルサルバドルに大震災が起きた2000年の1月は主人はオマーンに出張に出ていた。エルサルバドルの家族に連絡を試みたが、まったく不通だった。「被災しているな?!」と私は思った。私はその頃、未だパソコンの扱いを知らず、主人は出張の仲間の携帯らしい電話番号を置いていったが、どんなに連絡を試みてもつながらなかった。日本のエルサルバドル大使館も、本国と連絡が取れないといって埒が明かなかった。私はいよいよ災害の大きさを想像し、気が気でならなかった。

 

当時私はRECOM(日本ラテンアメリカ協力ネットワーク)という、かつてラテンアメリカに派遣されて国際協力に当たっていた海外青年協力隊員のOBを中核とする、小さな組織に籍を置いていた。主に中米の内戦被害者の残された妻たちの自立支援組織だった。RECOMは現地にも隊員がいて、連絡は良く取り合っていたのだが、RECOM に問い合わせても、未だ情報は混沌としていた。一国を挙げて全てが麻痺するほどの災害だったのだ。

 

一度、帰国直後、エルサルバドルの第1次大震災で、私は大学の同窓会から、盲目めっぽうの信頼を受け、義捐金を送って、現地の日本人と協力し合って、路上で実際に苦しんでいる被災者にテントを買ったり、医薬品を買ったりして援助したことがある。

 

あの時私は自らは物ももたず、友人たちの善意によって、援助の「責任者」にさせられてしまったのだが、帰国後間もなかったために、自分の生活さえ落ち着いていなかった。だから、あの時はまったく受身だった。受身で呆然としている私を担ぎ出して、多額の援助を実現させてしまった同級生たちの無償の好意に対する感動を、私は未だ持ち続けていた。

 

内戦の真っ只中に第1次大震災に見舞われたあの国は、疲弊しきって、やっとこさ和平交渉にこぎつけた。国連の介在による内戦の後始末の最中で、あの震災からさえ立ち直っていなかったのに、何の因果か、これでもかこれでもか、というように後から後から大災害に見舞われているらしい。気の毒だ、自分だけがこうしてはおられないと、逃げてきて安全圏で生きている自分は思った。

 

私はエノクの帰りを今か今かと待っていた。こんな国を上げての大災害に、自分の主人が帰りさえすれば何とかなると思っていたのだ。その時の私はエノクをほとんど超人のごとく「尊敬」していた。

 

その尊敬は、ただの恋愛感情からだけではなかった。私は人生の中で、彼との出会いほどまったく摂理的な出会いだと思っている状況はなかったのだ。太平洋を隔てて、到底会うはずもない異郷の人である二人が東京で出会った。勤めていた学校の出来たばかりの国際学級で、スペイン語の臨時教員として雇われてきたのが彼だった。私がスペイン語とはまったく関係のない国語を教えていた高校である。その高校で正規に勉強したわけでもない、大学の第2外国語でもないスペイン語を、ほとんど私だけが知っていた。

 

どこにいっても人間関係に苦しみ、誰にも相手にされずほとんど絶望のうちに毎晩酔いどれていたときに、私は彼の不思議な言葉によって何度も救われてきた。もう駄目だ、もう助からない、とうずくまってしまう私に、かのケセラセラ民族は、当たり前みたいな顔をして、さあ、悲しいときにはお酒を飲むんじゃないよ、楽しいときに飲むんだよ、といって涙を歌に代えてしまったのだ。どんな時でも彼は口笛吹きながら、前を歩いていくかに見えた。

 

引き寄せられるように、私は彼の後を着いていった。エルサルバドルなどという、まったく存在さえも知らなかった国に行って、私たちは結婚した。内戦があり、暗殺があり、銃撃戦があり、撃ちあいの直後の町を人の死体をまたいで買い物に行った。悲壮になりやすい私の隣で、それでも彼は朗らかだった。どんなに自分に危険があっても、貧しい同胞のことを忘れなかった。エゴむき出しの私を導き、なけなしの水を分け合うことを教えた。内戦の中の彼は崇高だった。

 

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「水を求めて」(水道局のストライキがあったとき、貧民街の人々は町中の家を訪ねて水を求め歩いた。其時、エノクは自分の家の水がなくなることを心配する私をよそに、自宅の水がなくなるまで、水を分けた。)

 

日本に戻って、0から出発した私たちに、友人が当座の生活にと、10万円をくれた。(この凄い友達は、「天国払いで」という条件で、「貸してくれた」のだった。)電車通勤がなれていなかった彼は、そのうちの3万円を電車の中でスリに会ってなくした。蒼白になる私に、しばらく悲しそうにしていた後で、彼が言った。

 

「なくなったものの事を考えるのはよそう。誰かがそれで今日を生きたんだ。」

 

なくした本人がそういうのだから、私が青くならなくてもいいのだ。どうしようもないことをくよくよしていたら一層不幸になって暗くなるだけだ。手元にある7万円で何とかすればいいんだ。「ただでさえ何もないときに、人様に恵んでもらったお金が盗まれたというのに、あんなことが言えるなんて、ただの人じゃない。」と私は思った。

 

かつて子供の頃、使い古して5センチになった鉛筆をなくしたといって母に怒られ、探すのに3日もかけてまで、物と言うものを大切にして育った私は、一度なくなったものをあきらめることが出来ずに、消えたものを取り戻すまで苦しんだ。彼はいつもそんな私に、「ないものに執着するな、あるものをあり難がって生きよう」、といってきた。彼は私にとって、いつも預言者のようだった。

 

内戦の巷から逃れてきて、今こうして平和な日本にいるときでさえ、私は彼を「戦友」と呼び、いつも彼の意見を仰いだ。

 

私は彼の国の未曾有の災害に立ち上がりたいと思った。恩返しというような、通り一遍の形式的感情ではなかった。こういうときに何もしないで自分が平和をむさぼっていたら、私は馬鹿だ、と考えた。

 

かつてのように、私は無一文ではなかった。エノクは仕事を持ち、私は英語教室に50人もの生徒を抱えていた。そして私は「画家」になっていた。何か出来る、と私は思った。

 

「2001年という年」2

「家族離散」(2)

 

エノクがやっと出張から帰ってきたとき、高校を出て浪人をしていた娘が3度目の受験に失敗して、もう、後がないといって悲嘆にくれていた。後がない、ということは父親の定年が迫っていて、経済的に娘を支えきれないという状況だと娘は考えたから。

 

帰国以来、私たちは計算をしながら生きてきた。娘がストレートで大学を出れば、ちょうど卒業の年に主人が定年を迎え、なんとかぎりぎりで娘を社会に送り出せるはずだった。娘の学費として、私はあらゆることに優先させて、預金をしていた。普通の私立の大学なら、娘自身がアルバイトなどをすれば、何とかやっていける金額を、私は娘が高校を卒業するまでの間にためたのだ。

 

娘は小学時代、3年のとき問題のあった公立の小学校から転校させて私立に入れたのが失敗して、通う時間に取られ、私は自分で作った塾で忙しく、ほとんど娘の学力に対して対策が取れなかった。その頃私は娘にはたいした学力がないのだと思っていたため、成績はともかくとして良い教育と良いしつけをしてくれる学校に入れて、高校まで出せばいいくらいに考えていた。

 

おまけに家庭的にちょっと問題があった。海外に出張ばかりしていたエノクは、たまに帰れば娘を盲目的に愛していた。それはほとんど、娘の成長の妨げになるほどであった。それほど、常軌を逸したかわいがりかただった。

 

宿題をしている娘に、勉強ばかりさせてはかわいそうといっては、机の前から娘を引っこ抜いて、抱っこしてテレビを一緒に見せ、宿題をさせずに、学校に出した。夕食後の皿洗いを手伝わせようとする私に、娘を虐待しているかのように怒り狂って、娘をベッドに運んでしまい、皿は自分で洗うのだった。私が部屋の片づけをさせようと命じたことを、言下に私の面前で「部屋の片付けなんかする必要がないぞ」といったから、当然娘は便利な方に従った。

 

それまでほとんどしなかった夫婦喧嘩は常に、娘のことが原因で起き、彼の言い分は明らかに理不尽だった。娘はそのことを良く知っていて、自分のことで逆上して私に殴りかかる父親と私の間に「私が悪いの、お母さんが悪いんじゃない」と叫んで飛び込んできて、手元がくるって的をはずした父親の鉄拳を浴びることさえあった。この彼の異常さは、事前のどんな冷静な話し合いも無駄だった。ほかのことでは優れた見識を見せるこの人物の煩悩ぶりは、ただ娘の扱いだけ異常だった。

 

エノクが40を過ぎてから故国を捨てて日本という国にやってきて、日本の会社の中のストレスに耐え、苦しみながらも何とか家族を支えるために我慢をしていることを私は知っていた。

 

彼は故国を愛していた。友人を愛し、故国の家族を愛していた。しかしながら、日本に来て7年たってから、仕事の都合上、エルサルバドルの国籍を捨てて日本国籍をとった。

 

彼の仕事は物理探査の仕事で、多くはJICA関係の開発途上国での仕事だったため、日本のパスポートが必要だったのだ。愛する故国を捨てた彼の気持ちを私はいつも思いやっていた。日本国籍をとるときの姓だって、私はあえてエノクの片仮名姓を家族の姓にして、日本名を名乗らなかったのは、エノクの気持ちを思いやったからだった。

 

人間関係の難しい、外国人にとっては「不自然な」日本で、彼は友人もなく、親戚もなく、血縁といえば、たった一人の娘だけだった。私の家族は始めの頃、彼を受け入れなかった。そのころは私の家族は彼を苗字で呼び、決して家族の一員として迎えなかった。私はそのエノクの心を思い、娘に対するあの盲目的な愛情は、仕方ないことと許してはいた。

 

しかし私はひそかに娘の発育を心配していたのである。教育に対する両親の考えに統一がない。父親は母親がしつけと考えることを全て虐待の一種と考えて、自分の部屋の片付けさえさせない。私が自分の考えでしつけをすることが出来るのは、エノクの出張中だけだった。

 

教育のことを心配していた私は密かに、自分の卒業した大学が地方に寮のある学校を持っていることを念頭において、娘にその気になるように仕掛けをして、受験させてみようかと考えていた。

 

そういう時に、娘がある本を読んだ。寮生活をしている女学生が主人公の本だった。私が読ませたわけではない。友人から借りた本だった。それを読んだあと、「寮って面白いな。中学は寮のある学校がいいな」と娘がつぶやいた。まるで私の密かな思いが伝わったような「偶然」だった。

 

「本気なら受けてみる?」と私は娘に聞いた。娘の心が動いたのを確認した私は、自分の修道院時代の仲間が教師として務めているその姉妹校に連絡を取り、受験させたら、受かった。その学校は良家の子女が集まるといっても、自分たちの生活に不適切なほど伝統的にハイソサエティーの子女の集まる東京ほどのレベルじゃない、北海道札幌の姉妹校だった。学力のレベルにいたっては考慮の外にあった。受験した人が全員受かってしまうんだから。

 

学校のランクはともかく、私はこの学校の教育の理念を知っていた。エルサルバドルの第1次大震災のときに、立ち上がって援助に手を貸してくれたのは、全てあの大学の姉妹校の寮の教育を受けた高校の出身者だった。だから私はその学校の教育の理念を心から信頼したのである。

 

あの学校の寮に入れば、兄弟のいない一人っ子として社会性が欠落し、家では父親の盲目的な愛情によって偏っている娘にとって、より適切な教育が受けられるだろう。そう思って送り出したとき、私は娘にまったく学力向上の期待などしていなかった。

 

高2のとき、私は進路の相談で、札幌に飛んだ。担任の先生が、娘の希望は東京の薬科大学だというのを聞いてたまげてしまった私は、そのときまでに私が気にも止めていなかった娘の成績を聞いたのだ。「お嬢さんは勉強は真面目にするし、寮生活では年下の寮生全員から絶大な尊敬を集めています。化学の偏差値は85。数学の偏差値が92!お嬢さんはお友達に数学を教えています。」

 

100点満点の点じゃなくて「偏差値」ですよ、「偏差値」!

 

その数字を聞いてあきれてしまった私は思った。よほどほかの子供たちが出来が悪いんだ。そうでなければ偏差値92なんてありえない。きっと御山の大将なんだろう。この高校で成績が良くても、東京で薬科大学なんて合格するわけない。私は数字を信用しなかった。

 

ところが娘は、ほとんどの級友が系列の大学の推薦入学をしていく学校の寮生活をしていると、他校の受験勉強が難しいからと、札幌の代ゼミに入りたいといってきた。代ゼミなら全国レベルの位置がわかるし、まあ、いいだろうと考えた私は、それを許可して予備校の費用、10万円を送ったのである。

 

彼女が代ゼミで出した成績は、数学化学が全国で2番だった。心からたまげた私は、納得し、彼女の希望校受験にやっと賛成したのだ。

 

秋、彼女は推薦を受け、東京の薬科大学2校を受験した。面接から帰ったとき、彼女は変なことを私に言うのだった。「1校の面接官から宗教の話ばかりされる。もう1校では面接官が自分を見てバカにしたようにせせら笑った。」私はそのとき、大学は多分、ミッションスクールという名前に、ある先入観を持っているのだろう、位に思っていた。推薦は落ちて、2月、彼女は落ちた2校の入試を受けた。それも失敗したとわかったとき、彼女はぼそりといった。「私が数学を教えていた同級生が、薬科大学に受かった。。。」

 

彼女は浪人を決め、東京の代ゼミに籍を置いた。医科薬科受験組みのクラスで、彼女は其処でも成績を上げ、いつも希望校の合格線上に乗っていた。2年目、再び、推薦を受け、別の大学も合わせて4校受験した。事前に代ゼミで保護者面接があって、希望校は高位合格線上にいるから、滑り止めなんか必要ないとまでいわれていた。

 

ところが全部失敗した。彼女はぼそりといった。「今まで名前も発表されていないほど下位にいた学生が、合格した。父親が教授をやっている大学だって。」

 

「つまらないところに行きたくない。もう1年ためさせて」と懇願されて、私たちは再び浪人を赦した。3回目の受験で失敗したとわかったとき、彼女はベッドに突っ伏して、「自分は日本では受け入れられないんだ」と号泣した。初めて見せた涙だった。

 

私はフト、内申書の内容を不審に思った。それで、彼女が受験を予定して、受けなかった学校への内申書をそっと開けてみた。其処に書いてあった言葉を見て私は仰天した。

 

「この子は良い子で、学業に熱意があるばかりでなく、特に宗教的に感性が豊かで、クリスマスの大天使の役割をしっかり果たしました。」東京の、化学の殿堂、一流薬科大学受験の内申書である。

 

「大天使の役割」って何事だ?科学の殿堂に「大天使」?こいつ、バカか?

 

「この先生、どういう先生なの?」と娘に聞いた。娘は言下に答えた。「数学の先生だけど、高校の数学なんか教えられるレベルじゃない。」

 

私はその先生の数学のレベルは知らない。しかし、高3受験生の担任として対外的にものを書く常識を持っていないことは確かだ、と私は思った。結婚前に高校教諭だった私はかつて高3の担任をしていた時代がある。学生の受験には相当気を使っていた。特に大学に推薦文を書く場合、大学の傾向に合わせて、かなりの神経を使って書いたものだ。

 

ふと考えた。そういえば、娘は中学時代、夏休みに帰宅するたびに、短期間の家庭教師をつけて欲しいと私に言っていた。毎日必要かと思ったら、娘は言うのだった。「その日に教わったことを理解して、質問の準備をしたいので、一日おきが良い。」「いい勉強の仕方をしているな」と私は単純に思い、娘の言うとおりに家庭教師の派遣を頼んだ。

 

その家庭教師が私に言ったことがある。「自分はこのお嬢さんほど教師をうまく使う生徒に会ったことがない。自分が教えてきた生徒の3倍は勉強するし、確実に進歩しています。」「ほう、そうか」と私は単純に考えていた。彼女は学校ではなく、その家庭教師の短期講習で、力をつけたのだった。

 

国外から帰ってきたエノクは、数ヵ月後には再び出張が控えていた。娘の状況を見て彼は思いついたように誰かにメールを書き、返事を待っていた。それは、彼のかつての仲間、内戦の間アメリカに逃れて、ついでに博士号をとり、アメリカに留まって、オハイオ大学の教授をしている人物だった。

 

ばたばたとことは運んだ。6月、娘は傷心の思いを抱えながら、その教授を頼って、オハイオ大学に留学した。同じ6月、エノクは再び出張に出た。家族がみんな国外に出ると決まった日、出発の20分前に、私はエノクからパソコンの操り方と、メールの送受信の仕方を教わった。その日私は60の手習いとして始めてネットの世界に突入したのだった。そしてこれが3人の家族の別れの始まりだった。