Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月29日

 

「絵描きになった物語」(7)

 

「再訪したエルサルバドル:兵どもが夢の後」

 

当時、主人は海外出張が多く、元気になった私は一度娘を連れて、エルサルバドルに行こうかと考えた。娘は中学3年になっていた。中高一貫校だったから、受験というものはなかったけれど、高校生になれば忙しくなって、旅行にはいけないだろうと思った。エルサルバドルを後にしてからちょうど10年たった頃で、その間エルサルバドルには都市を壊滅させるような大地震と、イエズス会の神父さんたち7人の虐殺と、ゲリラの大攻勢という、国難を経過し、多大の犠牲者を出した後、アメリカ主導で停戦合意がなされたばかりだった。

 

娘が4歳のとき、内戦のさ中にあった夫と娘の故国を後にして、飛行機に乗ったときの感慨を逆に辿る機内で、私の心は沈んでいて、決して帰郷を楽しむ雰囲気ではなかった。見送る主人も、エルサルバドルはまだ危険だといっていたし、治安の回復など、期待もしていなかった。ただ、主人の年老いて病気勝ちの両親に、成長した娘を会わせ、高校進学直前の娘にも自分の故国の真実を見せたかった。

 

サンサルバドルの空港に、主人の両親が出迎えてくれていた。年老いたな、と思った。会うといきなり義母が、よく来てくれた、これがもう今生の見納めだ、と言いながら抱擁してきた。ほとんど寝たきりだと聞いたのだけど、起き上がって空港まで来てくれたのだ。家族に会えるとなると、この人はいつも元気を取り戻す人だった。

 

再訪した内戦直後のエルサルバドルは、私が住んでいた10年前より疲弊していた。迎えの車から外を見ても、町に人がいなかった。戦乱の中だって、幹線道路を通ってもどこからともなく現れた物売りも、まったく出てこなかった。

 

どの景色も悲惨な思い出に満ちていた。空港から入るハイウェイで拉致されたアメリカの修道女たちが、レイプされて殺害され、木に引っかかって発見された森らしいところを見て、私は、「アア!」と小さく慨嘆した。爆撃によって半壊し、銃弾の跡を残した建物が、その後二重に起きた大震災にも耐えて、そのまま修復されずに立っていた。私はそれをみて、「アア!」と再び慨嘆した。

 

私が宿舎に選んだのは、年老いた両親の家ではなくて、娘の洗礼のときの代父母を務めてくれたキロアの家だった。年老いた両親は、自分達の居住スペース以外は人に間貸して生計を立てていたので、気を使わせたくなかった。

 

キロア夫婦は、昔われわれ一家が危機にあったときに家を提供して助けてくれた人たちで、今回も喜んで迎えてくれたが、なんだか彼らの表情は昔のように明るくなかった。長男はアメリカに行っていて、次男は大学生になっていた。彼らは危険が町にあふれていると言って、一日中家の中にこもっていた。

 

買い物に付き合おうとしても、「外国人は特に危険だ」と言って、ほとんど外出させてくれない。銃弾の飛び交う町を、ほんのわずかの静けさを頼りに買い物にいった経験のある私にとって、これは異常事態だった。

 

それでも何とか頼み込んで車を出してもらい、昔隣人だった日本人の家を訪れたのだが、はじめ、どうしても家が見つからなかった。何しろ住んでいた通りの家々は、私が住んでいた当時とは趣が変わっていた。玄関先のスペースにはフェンスもなくて気楽に出入りしていた近隣の家々は、まるで城砦のような高い塀の中にあって、見えないのだ。通りを隔てて、直接高い塀がそびえているので、中に家があるのやら、表札もベルも見当たらない。

 

仕方ない、位置関係から見て、ここに違いないと思う家の出入り口らしいところにへばりついて、大声で「武田さ~~~ん」と呼んだ。開けゴマみたいな感じで見えなかったドアが開いた。やっぱりそこが目当ての家だった。武田さんが昔と大して変わらぬ顔をして出てきた。「この町の状況はいったいどうしたんでしょう?」と聞いたら、私たちが去ってから数年後、ゲリラの大攻勢があって、連日の銃撃戦に耐えるため、城塞を築いたのだと言う。

 

城塞か!やっぱり!

 

それ以上、何も聞かなくても想像が付いた私は絶句した。文字通り、彼らは内戦の中をあらゆる手段で、生き抜いたのだ。苦労したんだなぁ!

 

「ところで、停戦後も町は危険なのですか?」・・・多分、私は馬鹿なことを聞いたんだろう。武田さんはしばらく沈黙し、何から話そうかと言葉を選んでいるようだった。

 

「内戦の間, 戦争のためだけ使われた俄仕立ての兵士が停戦で職を失い、少年の頃人を殺すことしか学ばなかった人間が統率もなく町にあふれた。同時に停戦を聞いて内戦を避けてアメリカなど近隣の諸国に行っていた人々が難民として戻ってきた。アメリカで最下層階級としてすごした彼らの子供たちが、アメリカで麻薬汚染されて戻ってきた。彼らは麻薬とこの国では考えられなかったような腐敗した習慣を持ち込んだ。町はそれらで満ちていて、彼らは10ドル稼ぎたいだけで、人を殺す。」

 

淡淡と、武田さんは話し出した。

↓かつて隣に住んでいたころの平和な写真:武田さんの3人の男の子とそのいとことロシオ

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それから娘の幼友達を一所懸命捜し歩いた。成長した幼友達を二人だけ見つけたが、探しに探した、マルタの一家は見つからなかった。

 

マルタは、主人の友人の奥さんで、内戦のさなか成人だったすべての家族を失い、子供4人とどこかで生きているはずだった。ご主人が暗殺された後、生まれた赤ちゃんを見たのが、彼女に出会った最後だった。不思議なことに、マルタを知っているはずの誰も、マルタの名前を聞くと、尋ね人に協力しては暮れなかった。いったいマルタはどうしたのだろう。

 

マルタのことは避けるように返事もしなかった義父母が、もそもそと言った。

 

「大攻勢のとき、町は兵隊でいっぱいで、外出ができなかった。食べ物がなくなって、買い物もできず、一つのジャガイモを1週間みんなで少しづつ食べた・・・ラ・ウカ(La UCA;イエズス会カトリック大学)に政府軍が押し寄せたときは、家が近かったから、直ぐ前の通りも兵隊で埋め尽くされていた。あの大学で、神父さんたちが虐殺されたのも知っていた。怖くてカーテンを開けることもできなかった。」

 

ラ・ウカの構内で、7人のイエズス会士が虐殺されたというニュースを、日本の教会の機関紙「カトリック新聞」でみた覚えがある。その後、国外にあって虐殺を免れた、彼らの友人のイエズス会士が、事件の全容を本に著した。しかし其の本は、あまりに興奮して上ずった書きようで、読みにくかったから、かえって全容がわからなかった。

 

一つのジャガイモを1週間みんなで少しづつ食べた・・・。ふとマイアミの難民部落を思い出した。あの時もこの民族は、9人ぐらいで、一つのりんごを食べていた。子供づれだった私に、たった一つしかないベッドを提供してくれた・・・。

 

世界が餓鬼道に狂って、自分だけの富を求めて戦っていたときに、貧しさの真っ只中の、この民族の最下層の餓えた人々は、たった一つの食べ物を、分け合いながら生き抜いた。この人たちはイエスなんだ。五つのパンを5000人に分けたイエスなんだ。

 

ちょうど其のとき、ラ・ウカは7人の犠牲者の何周忌かで、展示会をやっていた。私はキロア夫人のグロリアに頼んで、其の展示会を見に行った。其の展示会は、息を呑むような光景の写真が並んでいた。

 

銃弾で蜂の巣のようになってさらされた神父さんの仰向けの姿、ばらばらに切断されたまま放置された死体、肉片・・・。そして、神父さんの食事の世話をしていた女性は、股を腹の辺りまで刃物で切り裂かれて死んでいた。

 

私はぎょっとして、あわてて娘を外に連れ出そうと思った。しかし遅かった。娘はすべての写真を見てしまった。何を考えただろう・・・。私は娘をそっと盗み見たが、物が言えなかった。

 

殉教者として尊敬を集めていた犠牲者の何周忌かの展示会に、まさかこんな写真集が張られているとは思っていなかった。エルサルバドルは、神経が麻痺しているんだ。たかが写真とはいえ、阿鼻叫喚のあの世界を丸ごとそのまま展示するとは!

 

そうだ。私もあの内戦の世界から日本に帰国した当初、あの世界が「普通」だと思っていた。後ろから「奥さん」と人に呼ばれて、たったったったと思わず走った後、がばっと振り向きざま、反撃の姿勢に転じたっけ・・・。

 

運動会の始まりを知らせる爆竹の音に、すわ!銃撃と思った私たちは、子供だった娘の部屋に娘を助けに行って、3人で伏せの姿勢で息を潜めたっけ・・・。内戦直後のエルサルバドルは、まだ心が内戦の呪縛から解き放たれていなかったのだ。

 

「絵描きになった物語」(8)

「絵のテーマになるかな・・・」

 

そういうわけで、私たちのエルサルバドル再訪は、やるせない思いが募っただけで、あまり楽しめなかった。実のことを言うと、かなりの旅費を払って太平洋を渡ってきたのに、他人のうちに、ほとんど閉じこもっている以外に何もできない状態で3週間もすごすのは、苦痛だった。

 

昔の知り合いを2軒訪問し、ぎょっとするような、内戦の展示会の写真を見、親戚が一度、一堂に会して集まりを設けてくれ、あとは主人の友人が、別荘に一度誘ってくれたのだが、それで5日間の日程が終わって、あとはどこに行っても予定以外の外出を硬く禁じられたのだ。

 

一度、グロリアと買い物に行ったことがあったが、駐車場から道路を一本渡るとき、グロリアは、私が首につけっぱなしにしていた、母の肩身の面白くもないペンダントを見咎めた。そしていうには、「車から出る前に、其のペンダントをはずしなさい、強盗がどこに潜んでいて、ペンダント一本のために襲ってくるかもわからないから。ほら、其の腕時計もはずしなさい。腕時計を取るために、彼らは腕の一本や二本、切っちゃうのよ。」

 

「うへ!腕を切っちゃうのか!」

 

其のペンダントはカトリック信者がなんとなくつけている代物で、珍しいものでもなんでもなかったが、まがいなりにも金だった。腕時計は、金メッキで、これもどうという代物ではなかった。どっちにしても「命」と引き換えになるほど高価なものではなかったから、「大げさじゃないの?」と思いつつ、「現地の人」の言うとおりに従った。

 

やれやれ、と私は何度もため息を付いた。考えてみれば自分たちだって、まだ内戦の傷がいえない状態のところに、内戦を避けて安全地帯に逃げていった友人の家族を預かれば、万が一の事態に備えて、自由を奪うのは当然のことだった。私は日本に10年いて、すでに感覚が「平和日本」になっていた。

 

絵の題材でも見つけるか・・・。家に閉じ込められるなら、おとなしく、絵でも描くべい。仕方なく私はそう考え、昔見たことのある植物を庭の中で探した。しかし、故郷に幻想を抱いてきた、言葉もわからない14歳の娘は不満そうだった。だからって、どうしようもないじゃないの。

 

グロリアの家にはマラニョンがあった。あの四季の変容を一本の木で体現していたために感動して私が絵を描いた木だ。でも其の時見たマラニョンは、庭の隅の、家と塀に隠れているところにあって、全体が見えなかった。実はなっていたし、かすかに花もあった。その実を一つだけとって、しっとりした肌の懐かしい感触を思い出し、手の上でマラニョンの実を眺めた。

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仕方がない、私は娘に其のマラニョンなる植物がどれほど珍しく、おいしいものであるかを思い出させるために写真に取り、絵を描いてから、パインとレタスを細かく切って、マラニョンと一緒にフレスコ デ エンサラダと呼ばれる飲み物を作った。昔よく義父が作ってくれて、私が大好きだった飲み物だ。「ああ、この味、覚えている・・・」と娘はしきりに記憶を呼び起こすようなそぶりで、其の飲み物を味わいながら、言った。

 

もう一人の主人の友人のペドロの家には、アラヤンと呼ばれるグヤバの一種があった。見上げると薄緑の実をいっぱいつけている。根元にもたくさん実が落ちていた。娘は首をかしげながら拾った一つの実を食べてみる。

 

「ああ、この味も覚えている・・・」娘はそういって其の緑のすっぱいけれどもさわやかな味の果物をかじっては眺め、齧っては眺めた。

 

ペドロの別荘にはパパイアも在った。木の周り中におっぱいがぶら下がっているような木で、昔これを見たとき私は「豊穣の女神」と名づけたものだ。「わあ、おもしろい!」と娘はいい、その自然が作った豊穣の女神の彫像を見上げた。日本では見た事がないもの、懐かしいもの、舌が味を覚えているものを、そうやって、私は娘に紹介した。娘の舌は健全で、自分がかつて、この国に住んでいたことを思い出させた。

 

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私は、この娘が幼女だったとき、エルサルバドル人としてのアイデンティティーを植えつけてやろうと思って、手当たりしだい、熱帯植物をスケッチしてまで、エルサルバドル植物図鑑をこしらえやろうとしたのだった。

 

娘が3歳のとき始めて自宅の黒板に描いたのは、庭に入ってきたタクアシン(オポッサム)の絵だった。保存の仕様がなくて、私はあの黒板を写真に収めたっけ。あのタクアシンやアルマジロが見たかった。あの動物たちに出会ったら、娘が喜ぶだろう。だが、こちらの人はあの動物を食用にするのだから、市場に行けば見られるはずだと思ったが、市場も動物園も、危険だ危険だといわれて、行くことができなかった。

 

グロリアの下の息子は、大学生になっていた。主人の身に危険が及んで、この家にかくまってもらったとき、まだ生後4ヶ月だった娘を「僕はこの子と結婚するんだ」といっていた4歳の少年が、立派な青年に成長していた。彼はラテンアメリカ人としては物静かで、趣味としてギターを抱いていたが、しゃらんしゃらんという沈んだ旋律の、まるで琵琶法師を思わせる、古い日本人好みの曲を弾いていた。絵になるなぁ、とその姿をみて思った私は、スケッチをし、写真にも収めた。

 

まだ、自分の絵のテーマとして、固定したものは何も持っていなかったが、エルサルバドルを描いてみようと、私は其の時ぼんやり考えていた。

 

「絵描きになった物語」(9)

「再度絵に挑戦した」

 

私たちは、夢見心地で帰国した。あの国は、まだ内戦の傷がうずいている悲しい国だった。娘が何を考えたか知らないけれど、多感な中学3年最後の「楽しい思いでつくりの旅行」というわけには行かなかった。彼女の心の動きを多少気にしながら、私は自分たちにとってはいつもの変哲のない生活に戻った。

 

それからしばらくして、再び絵を描きたくなった私は、適当な理由を儲けて、一度辞めた同じ先生の門をたたいた。曜日を変えて個人レッスンを受けることにしたのだ。画家だけで身を立てている画家先生は、貧乏だ。彼は金稼ぎのために私のわがままの理由を尋ねもせずに引き受けた。

 

個人レッスンなら、画題も勝手に私が選べるし、仲間に進度を合わせる必要もない。こちらにはこちらの描きたい題材があるから、其の題材を描くための初歩を身につければいいんだ。そう思って私はせっせと自宅で絵を描いて、もっていった。自分でできる時間を設けては、週に2枚の割合で絵を描いた。しかし先生の評価はなかなか得られず、自分は自分を慰めるために、隣の医者のところにもっていって、代わりに褒めてもらって安心していた。

 

一方、やり始めたら、もう何とかして「本物の」先生の評価を得たいという気も起きてきたので、私の絵の量は日を追って多くなっていった。先生のほうが私のペースに合わせるのに、苦笑して、そのうち、「もう、あきれて尊敬しちゃうよ」などといわせるほど、絵を描きまくった。

 

半年も経たない頃、松戸市が開催する市民のための絵画展というものがあって、それがちょうど、其の年25周年記念にあたっていた。出せばすべて飾られる、展覧会で、落選というのがない。先生が、記念になるから、絵を1点出しなさいというので、絵を描き始めた。でもそれを聞いたときは開催日を2週間後に控えていたときで、時間があまりなかった。

 

私はエルサルバドルで簡単に描いたスケッチの中から、一つの題材を選び出した。ギターを弾いている青年の絵である。グロリアの息子が弾いていたギターのしゃらんしゃらんという音を思い出し、人物を見ないで適当に描いた。先生がその絵を見て、なんだかつくづくと言ったもんだ。「へたくそな絵だって10年も描けばその人の趣が出る・・・」

 

しかしじっとその絵を見ていた先生が、「この絵を松戸の展覧会に出そうよ」と言い出したなり、やにわに筆を執って先生自身が描き込みはじめた。あれよあれよといううちに、先生は私が描いた「10年待てば味の出るかもしれない」絵を日本画壇が「絵」であると認めるかも知れない絵に変身させてしまった。

 

ありゃりゃ?と思ったが仕方ない、その絵は松戸の市展と呼ばれる絵の展覧会に出品する手はずが整ってしまった。しかも私が自分の名前を自署した「先生が描き直した」絵が佳作賞を得てしまったのである。

 

なんだか苦い気分だった。自分の絵ではないものに、賞などもらいたくなかった。ところが、先生は言うのである。来年は次を目指せ。次は奨励賞を取るような絵を描けというのである。自分の力でもないものにもらった賞を皮切りとして、どんどん上を目指していくうちに、成長するはずだと、彼は言う。

 

私は一年間一所懸命絵を描き続けた。その努力は決して生半可ではなかったし、時には、先生が「オー、ここまで一人でかけたか!」と感心してくれるほどの絵も描いた。ちょっと得意になって、私は、こっそり父の絵の修復をやってくれていた、横浜画廊の菅原さんに、「描き始めましたよ」といって見せに行ったことがある。

 

彼は正直だった。「絵の具の使い方が、まだ素人だけれど、これだけ人物を描けるなら、10年も描けば何とかものになるよ」(やっぱり10年なんだ!)と私は思った。

 

先生が題材は変えない方がいいというので、次の年の市展用に、私は主人の弟がギターを弾いている写真を持っていたので、今度は義弟を描いてみようと思った。しかし今回は、先生に筆を入れられることを恐れて、「賞なんか要らないから、一人で描かせて下さいね」と断って、市展搬入期限直前に「出来たつもりの」絵を持っていった。

 

それを見て「う~~ん。ここまで一人でかけたか、」とうなった先生は、腕組みをしながらしばらくその絵を眺めて、再び筆を執り、あっけにとられてなすすべもない私をを尻目に、2時間、筆を放さずに、「直し続け」たのである。

 

「直す!」といっても、それは度を越していた。横向きになっていた人物を正面に向け、人物は義弟にはおろか、私が後で参考にしようにも、誰にも似ていない架空の人物に描きかえられた。

 

しばらくして、歩いて20分の先生の家と私の家とのちょうど中間に、一人の女流画家が教室を持っているのを発見した。で、其の女流先生が、自宅をデッサン教室にして生業を立てているという噂だった。週に1回モデルが来て、人体デッサンが出来る、と電話で確認した私は、人数に余裕があるのを確認して申し込み、デッサン教室が首尾よく見つかった話を間抜けな顔して光風会先生に報告した。

 

そのとき始めて彼は激怒した。「あの先生は芸大を出ているからな!!芸大出ている先生なら満足だろう。」というのだ。

 

私はその女流画家が、芸大を出ていることなど、知らなかった。私は自分の目的を気にしたかもしれないが、誰の学歴も社会的背景も、門地出自も気にしたことがない人間だ。そして、光風会先生は、自分で語ったことだけれど、北海道の農村の出身で、子供の頃から絵がうまいというので学校の先生から可愛がられ、青年の頃農民として終わるのを嫌って、東京に飛び出してきて、独学で絵を学び、光風会の会員となり、日展の会員にもなった人物だから、絵画に関して「学歴」というものを持たない画家だということも知っていた。

 

そのことを、私は、すごいなあと思って聞いていて、決してその物語が、彼の学歴コンプレックスには聞こえなかったのだ。私は単純に、独学で日展の会員になるほうが、「学歴」より、よほど凄いと思っていた。私はむしろ、先生のそういう努力を聞くたびに、彼を尊敬さえしていたのだ。

 

私は二人の画家がどんな学歴を持っているかなんていうことに興味がなかった。自分の目的を満たしてくれる先生を探して、同時に地理的状況がかなっているからたどり着いたに過ぎない。

 

しかし、いつも穏やかだった光風会先生の形相は、鬼気迫るほどものすごかった。その剣幕に呆然とし、自分のどこが悪かったのかどうかもつかめないまま、私は光風会先生の教室を去らねばならなくなった。

 

とにもかくにも、「自分が必要だと思うこと」を優先して私は先に進んだ。絵に関してド素人の私は、そのときも、絵を描くには順序がある、基礎を学ばねば自分の絵がかけないと思い込んでいたから。

 

新しい教室の女流先生はさばさばした女性だった。なんだかひどく不本意な思いがして、後で妙なことにならないように、彼女の門をたたいた事情を話した。

 

彼女はいった。「誰がどんな事情でどこの教室に何軒行こうと自由だから、安心しなさい。」彼女のこの姿勢は一貫していて、私が独立して去った後も、今も変わらない。

私はやっと人体のデッサンを、人体を見ながらできることになった。モデルは女性も男性も来たし、裸婦も着衣もあった。どこで描こうと自由で、私はモデルの周りをぐるぐる回りながら、2時間の間に何体も描いた。満足だった。

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油絵を描く機会を失った私は、さてどうしようかと、彼女に相談したら、「自分はデッサン教室以外の別の教室を持っていて、ちょっと電車で行かなければならないけれどよかったら、どうぞ」というので、見学に行った。

 

そして驚愕した。光風会先生の家では、普段はせいぜい15号の絵しか描かず、展覧会の絵だけ30号の絵を描いていて、しかも彼の教室で30号の大きさを描くのは私だけだった。女流先生の教室で見学のとき、どうせならなにか描いていくように言われて、私は大きすぎるのではないかと、内心メンバーからいやみを言われることを恐れながら25号のキャンバスを持っていった。ところが女流教室では、20人ぐらいのメンバーがみんな50号を描いているのだ。その光景は壮観だった。

 

女流油絵教室の方は人体ではなくて、静物を描いていた。静物は、あまり見たこともない代物で、牛の頭蓋骨だの、どうでもいい木の切れ端だの、古時計だの、貝殻だの、どこにでもあるガラス瓶だの、綺麗でもなんでもない変なもんが雑然としていた。

 

なんだよ、これ・・・。題材を見てぼんやりしていたら、先生はにやにやしながら、見えるものを画面の上で勝手に整えて描けと言うのだ。私は手も足も出なかった。おどおどとして、メンバーの描く絵を見て回った。