Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月28日

絵描きになった物語」(1)

「才能というもの」

 

私は今、画家を名乗っている。50歳を過ぎてから絵をはじめ、何度か二科展に出品し入選受賞をしたからなんだけど、それまでの私の画歴というものは常識としては、「何もない」。

 

誰でも経験がある幼児のころの落書きも画歴にいれるなら、70数年間といえないことはない。そんなものが「画歴」のわけがないということぐらい知っている。

 

私は一般の日本人と同様、小中高校を通して、美術にかかわるものは、正規の授業以外にやったことがない。その正規の授業も、美術に関しては、いわゆるよい成績をとったという覚えはない。父が絵描きだったから、あいつは絵がうまいはずだという先入観から、私はなんとなく、級友の間で絵がうまいということになっていた。でも実際は、学校新聞に漫画を描いたり、授業中に国語の先生の似顔を描いたりしただけで、本当は、こと芸術に関してはたいした才能を発揮していなかった。

 

若いときは、生活が苦しくて、芽が出るかでないかわからない才能なんかにかまっているより、独立したら生計を立てられるようなものを身に着けることが先決だったことも手伝って、面白くもない、英語数学ばかり勉強していた。

 

公立中学校では、当時英語なんか小学生が誰も知らない中で、英語のある私立小学校から放逐された後に入った私は、当然のことながら英語はクラス1の成績をとったため、それが自分の「才能」の振りをして中学を卒業することができた。しかもクラブ活動なんか、たまげたことに「数学部」に所属していた。

 

英語は「生計」を立てる技能に直結するかもしれない時代だったから、母も、この「擬似才能」を生かすことに乗り気になっていた。

 

高校の選択教科でも、私が選んだのは、「実生活に役立つ家庭科」の被服であって、美術には近づかなかった。そして、この「実生活に役立つ勉強」は、後になって、内戦下のエルサルバドルで役に立った。

 

大学はあの「擬似才能」を生かすために、英文学科に進んだのだ。何とか余裕を持って趣味らしきものを試せるかもしれないクラブ活動は、「歴史の研究」とか、「国文学系」のクラブ等に所属していた。そういうわけで、幼いころからの才能とやらが要求される美術の世界に、私は才能が磨かれる幼少期から小中高校大学を通してまったく無縁だったのである。

 

もっとも絵が好きだったから、エルサルバドルにいたときに、絵みたいなものを描いた。それも美術としてではなくて、娘が生まれて、興味を持った動植物の現地名が知りたくて本屋を探したときに、市販の動植物図鑑がすべてヨーロッパ中心のもので、地元のものがなかったから、それなら自分でその図鑑を作ってやろうと思ったことから描き始めた絵だった。。

 

私は庭で見かける植物や小動物を片っ端からスケッチした。でも、あの時、さらにショックを受けたのは、そういった動植物の名前を地元の人さえ知らないことだった。絵は美術としてでなくて、図鑑みたいなものだったから、「題」ではなく、正確な名前が必要だった。夫は、大学の教授だったが、すべての花を「チュリパン(チューリップ)」と呼び、すべての動物を「チューチョ(犬)」と呼んで済ましていた。教育が高い人ほど、地元のものに疎かった。私は当時うちにいた使用人を捕まえて、何とか地元の名前を聞き出した。

 

そんなことを見ていた主人は、内戦で日本人がすべて引き上げて、孤立していた私に、油絵を習うことを薦めたので、短期間だったが、油絵教室に通ったことがある。それが私の油絵の絵筆を握った初体験である。しかしそれも、爆撃を逃れて逃避行に明け暮れてから、まだ描き出してから何ヶ月もしないうちに終わってしまった。同じ理由から、私が初めに計画した動植物図鑑もできなかった。日本に帰ってからは再出発と新しい生活設計のためあくせくし、絵のことなど、思い出しもしなかった。

 

その私が50歳を過ぎてから突如として絵描きになった。運命としか言いようがない。

 

母が私に頼んだ、父の遺作を画集にしてほしいという遺言をなんとしても遂行しようと、私が兄弟の意見を取りまとめている経過の中で,ほとんど偶然に,あれよあれよといううちに『なってしまった』ことだった。

 

画集を作るといっても、私には、出版の知識も、絵画に関する知識もなかった。そもそも父の死以来、倉庫に放り込まれていたあんな埃だらけの絵画を、どうすれば画集製作可能な写真が撮れ、どうすれば製本できるのかわからなかった。

 

私はそのようなことを知っていそうな級友を探しているうちに、一人、高校の友人で、国会図書館に勤めていたことのある友人がいるのに気がついて、声をかけた。国会図書館と画集がどう結びつくのかと問われたら、わけがわからない。とにかくその友人は、物知りだったのだ。

 

ところで私が相談したその友人は、偶然のことに、洋画家で芸術院会員の伯父さんを持っていた。芸術院会員て、なんだかさっぱりわからないのだけれど、その界隈では恐ろしく偉いらしい。

 

彼女はその伯父さんと連絡を取ってくれた。その伯父さんの口利きで、私はある画廊の社長で、修復の技術を持つ人物に紹介を受けた。

 

横浜画廊の菅原さんという人物である。50年近く放置されていた絵なら、まず最初の段階は修復することなのだそうだ。ああ、そうなのか、と私は芸術院会員の偉さを知らず、軽い気持ちで、そのすごい技術を持った修復屋に、数枚の父の絵を持って会いにいった。

 

その絵を見た菅原さんが仰天したのである。「これはすごい!すばらしい絵ですよ!ぜひとも私に修復させてください。」

 

私は絵がわからない。特に生まれたときから壁の一部みたいに、存在することが当たり前だった父の絵の、本当の価値などわからない。しかし、過去に人間関係で苦労した人間の常として、人の表情が伝えるものは、かなりよくわかる。私はじっと菅原さんが父の絵に見入る、その表情が、商売人の目つきではなくて、芸術作品が訴える真実を読み取ることのできる目つきであることを、理解した。

 

この目つきを兄に直接見せよう、と、私は思った。お金のかかる画集作成に、兄たちはかなり足並み乱れていた。修復にだってお金がかかる。菅原さんは、母の遺言を遂行したいという私の気持ちに感動し、友人の伯父上の、かの偉い芸術院会員の紹介だということもあって、すごく好意を持って、やってくれるというのだ。

 

兄を動かさなければならない。特に、芸術にセンスのある、あの四郎兄さんの嫁さんを抱きこむ必要がある。と、私は考えた。

 

「絵描きになった物語」(2)

「作戦」

 

私は四郎兄さん夫婦を横浜画廊に引っ張り出した。新しい絵も数枚私が選んで持っていった。その新しく持っていった絵を画廊の社長が手にとり、ためつ眇めつ眺めて、うなった。彼は父の絵の構図から、色遣いから、光の方向から、題材から、すべてにわたって、私たちに解説してくれた。 

 

「実に惜しい逸材だ、昭和25年という、戦後の動乱期に死んでしまって、世に出る機会を失ったが、生きていれば、これだけの逸材は現代の画壇を引っ張っていく存在だったはずだ・・・」と、私たちに言うのでなく、自分に言い聞かせるように呟きながら。

 

私たちは、ほとんど固唾を呑んで聞いていた。心はかなり感動していた。兄夫婦の心も動いた。特に兄嫁はあの解説を聞いて涙を流すほどに心揺さぶられていた。「絵の修復をしましょう。」兄嫁が動いた。

 

作戦は成功するかに見えた。しかし、直前にアメリカからやってきて、姉が、自分にも形見分けを受ける権利があると主張して自分の好きな絵を8点ばかり持ち去った。画集を作るからそれまで待って欲しいといっても聞き入れなかった。

 

「自分はずいぶん待った。これ以上待ったら、自分は父の絵を楽しむこともなく死んでしまう」、と言うのだ。おまけに彼女は修復という作業を、「絵の改竄」であると主張した。

 

菅原さんは、イタリアの教会のレオナルドダヴィンチの絵などの修復に当たっている職人の技術を学んだ人なのだ。修復をして置けば200年でも持つといわれる技術だった。その技術を父のために惜しみなく提供しようとしてくれた彼の好意を、姉は最後まで評価しなかった。

 

しかしとうとう、父の絵のうち、手がつけられる30点ばかりの絵の修復費用として、母のたくわえを使うことに、姉以外の兄達の合意がとれた。兄弟がそれぞれ持っている絵を私のところに寄せ集め、四郎兄さんと協力して絵を運んだ。しかし、姉の持ち去った、8点は除外しなければならなかった。

 

彼女は絵の才能も感性もある女性だったから、持ち去った絵は代表作ばかりだった。

 

事前に姉の動きを知った私は、自分のところに集めた絵を、見せろと要求する姉に、見せることを拒んだ。彼女は菅原さんの評価を信用せず、「絵は自分が評価する」といったのだ。「本当はそうじゃない。彼女は誰かが評価したらしい絵を、自分のものにしたかっただけなのだ。」と、私は疑った。

 

彼女に泥棒呼ばわりされながら、私は残りの絵を守った。私には、その絵を自分のものにしようなどと言う考えはなかった。母の遺言を実行したかっただけなのだ。

 

彼女は画集の製作にまで反対した。

「絵は写真じゃなくて、実物だけに価値がある。写真にするなどということにお金を使うのはばかばかしい。」と彼女は主張した。絵が全部自分の家にあれば、写真集は要らないだろう。そういう考えなら、西洋の絵画も、日本の浮世絵も、世界に伝わりはしなかっただろう。

 

すべてのことは、彼女が何の因果か憎んでいる私が主体的に動いているということが原因していることを、私はよく知っていた。姉は母の介護を引き受け、その臨終に立ち会った私が、母の遺言を受けたことも、気に入らなかった。

 

「自分ではなく、なぜ母はお前を信用したのだ。家族の中で、父の絵の才能を受け継いでいるのは、自分だけなのに。」常日頃彼女はそういっていた。

 

それはそうと、私は菅原さんの絵の解説を聞いているうちに、絵の描き方というものに心が動いた。昔エルサルバドルで、一時通った絵の教室では、まったく習わなかったことだった。あの時は記録写真を撮るごとく、闇雲に写体をスケッチしていた。構図を考えるなどという作業は、まったく頭になかった。

 

父の絵を感動して眺めていた菅原さんが、「遺族の中に、誰か絵を描いている人はいないのか」と聞いてとき、私は苦笑して言った。

 

「姉が子育てが終わってから、ちょっとやっているようですが、絵描きになったかどうか知りません。」

 

「あなたはどうか」、と菅原さんは私に聞いた。「そのうち、やってみるかもしれません。」私はそのとき、心に何か、揺らめくものを感じならが言った。

 

「絵描きになった物語」(3)

「赤ん坊」という絵の修復

 

修復する絵の中にひとつ、ぼろぼろで、ほとんどもとの影を残していない絵があった。私たちは、もうそれだけは修復は無理だと思っていた。で、菅原さんにその絵の修復ができるかどうかためしにたずねてみたら、もって来るようにとのことだった。筆使いの荒い絵で、赤ん坊を描いた絵だった。母がぼろぼろだけど捨てがたいと言って、剥げ落ちた絵の具ごと風呂敷に包んで保存していた。 

 

菅原さんは面白そうにその絵を眺めて、「すごい筆遣いだなぁ。立派な絵だよ。ぼろぼろだけどこういう絵の修復のほうがやりがいがあるよ」と、こぼれた絵の具のかけらをジグソーパズルのように一部つないで見せた。

 

「さあ、どのようになるのだろうか」、と私は半ば期待し、半ば疑うほど、あの絵の修復は困難に見えた。しかし修復終了の知らせを受けて見に行ったら、菅原さんは、赤ん坊の絵を自分の画廊に飾って、得意そうに眺めていた。ジグソーパズルは見事に完成して、見覚えのあるあの赤ん坊の絵に仕上がっていた。長年其の姿を現さなかったぼろぼろに剥げ落ちた下半分が、再現されていた。

 

できた絵を満足げに眺めながら、彼は再び絵の解説をした。「この、野太い線が利いているなあ、このお腹のふくらみ、握った手の指の動き、これ、すごい絵だよ。」

 

そういう彼の表情は輝いて、ほとんど恍惚境にあるようだった。「いとおしい」と私もその絵に対して、そう感じた。

 

私は絵の世界に、だんだんだんだん引きずり込まれていった。

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[絵描きになった物語」4

「医者の勧め」

 

当時、私は母を介護した疲れの所為か、更年期障害の所為か、問題がもつれ始め、紛糾の方向にまっしぐらに進んでいた母の遺産問題の所為か、体調を崩していた。遺産問題は兄弟6人が二手に分かれて紛糾していて、どっちつかずで中立を決め込んでいた私は「両陣営」から争奪戦の対象にされていた。

 

私は隣家の内科の開業医のところに、ほとんど毎日、気分が悪い、頭が痛い、どこそこが動かないと言っては診察を受けに行っていた。あまり人気のある医者ではなかったので、待っている病人がそれほどいなかった所為で、診察のときに四方山話をよくした。

 

その待合室にあるときから、素人の手になる油絵が飾られるようになった。油の生々しいにおいのする新しい絵で、殺風景な医院の待合室を明るくしていた。気が利いた好感の持てる「配慮」だなあ、と私は其の新しい絵に感心した。絵そのものではなくて、其の「配慮」が気に入った私は、診察のときにひとしきり絵を褒めちぎった。

 

その絵は、彼がもう白髪頭になってから描きはじめた物だった。「そうか、最近になってから始めた絵なのか」、興味を引かれた私は、自分もこんな絵が描けるかなあと、つぶやいた。

 

自分は、エルサルバドルにいたときに、確かに絵を描き始めはしたものの、あれがまともな「絵」だとは思っていなかったのだ。内戦で、帰国を余儀なくされた私が、帰国の旅費を作るために自分で描いた絵を売ったこともあったが、それはあの国の人々の助け合いの精神から買って貰えたものだと信じていた。

 

組織だの権威だの伝統だのランク付けだのが大好きで、高度な文化と伝統の芸術を誇る日本で、自分の絵なんかが通用するものとは思っていなかったから、其の過去の経験をむしろ恥ずかしいものであるがごとく、隠していたのだ。

 

日本に戻ってきたら、私は再び大家族の中の自信のない「末っ子」に戻っていたのだ。

 

そんなことを知らない医者は盛んに私に絵を描くことを勧めた。しかもその勧め方は、私が「精神的にへんてこ」で、「精神的へんてこ病」は、絵なんかを描いていれば緩和される、みたいな勧め方だった。

 

およそ「芸術」なんていう考え方ではなかったことに、かえって「気負い」をやわらげられた私は、「よし、よし、精神的へんてこ治療のために、絵でも描いてみっか」と思って乗り気になった。

 

私は絵を描いた。それで絵に関しては素人の医者に、近所づきあいの範囲を出ない気楽な気持ちで、其の絵を見せた。医者はやっぱり医者だった。すごく褒めるのである。何しろ私は彼の「患者」なのだ。精神治療のために勧めた絵だ。褒めて褒めて褒めまくって、私の「精神的へんてこ」をいい方向に持っていこうとしている。

 

それに乗った私は、どんどんどんどん絵を描いた。私の「精神的へんてこ」は快方に向かっていった。私は「もしかしたら・・・」と感じるようになった。それは「野心」などというものではなく、受け入れた精神治療の範囲を出ないものではあったけれども。

 

「絵描きになった物語」(5)

「油絵入門」

 

住んでいた町に、光風会の画家が住んでいた。歩いて20分くらいで行ける場所だったので、私は其の画家の教室に入門した。

 

実は私は、何時、どのようにして、あの油絵の教室に入ったのか、詳細には覚えていない。隣の医師におだてられて、自分が関係している「アマチュア絵画展」に出せ出せといわれて、出した結果入選した。

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漁師:素人展に入選した絵。

 

うれしかったのだけれども、其の展覧会に行ってみて、どうも、自分の絵はみんなの絵と違うなあと思ったのが、わずかに記憶の底にある。入門が先か、入選が先かどっちが先だったかわからないのだけれど、とにかく、初めて日本の画壇の会員である「本物の画家」の指導を受ける気になった。

 

しかし私は、はじめ入門したとき、グループに入って、どうも勝手が悪かった。なんだか変なグループだった。はじめ私はエルサルバドルの題材で描いた絵を持っていって先生に見せたのだが、彼はその絵を横目で見て、「こんなの、絵じゃないよ」といっただけで、ひどくせせら笑っていた。其の一言は、もともと自信のない私の心に、何時までも何時までも影響を及ぼし続けた。

 

其の絵は、絵の具に何も工夫を加えないで、極彩色で描いた絵で、「マラニョン」と呼ばれる植物の枝に、これもエルサルバドルの鳥、「チルトータ」がとまっている絵だった。空は真っ青で木の実はオレンジで、小鳥は黒と黄色の、子供が描く様な真っ正直な絵だった。

 

エルサルバドルの空は日本みたいに、ぼんやりしていない。おまけにあの国は季節の違いが日本みたいに顕著じゃないから、木は1本で東西南北、春夏秋冬をすべて演じている。

 

つまり、東の枝に新芽が萌え、南の枝に花が咲き、西の枝に実を結び、北の枝は紅葉している、そういう木をみて、あきれて感動した「季語の国」の国民だった私が「春秋一枝」と名づけて描いた絵だったのだ。その木がどこにでもあるエルサルバドルでは、其の絵は仲間から感嘆の表情で迎えられ、「あなたは絵を描くべくして生まれた人だ」とまで言われた絵だったのに。

 

でも、ここは日本だ。「季語の国」の画家先生が、「こんなもの絵じゃない」、と感じるのも考えてみれば当たり前のことだった。しかし、そういう言葉には、何を称して絵じゃないというかの説明がなく、したがって、私は自分の感動を説明することもできなかった。やっぱり自分はこの国では通用しないのだと、自信を失った私は二度と其の絵を誰にも見せず、家族の3分の2がエルサルバドル人の家族の中でさえも、誰にも見えないところにしまいこんだ。自尊心なんていうものではない。其の「絵じゃない絵」を持っていることが恥ずかしかったのだ。

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上の絵、実は今探してきた。家族が誰も知らないはずの「絵じゃない絵」^^

ところで「絵かもしれない絵」をやっぱりマラニョンを題材に描いてみた。どうしてもマラニョン、描きたかったからね。

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花も実も秋の葉もあるマラニョンです。「春秋一枝」ね。実はこれも春夏秋冬同じ木でみられる中米の植物だから、「絵じゃない」はずだけど、売れちゃったの。^^

 

教室では、適当に画題を与えられて描いてみる。しかし、其の題材は、まったく私に描きたいという気持ちを起こさせないのだ。くすんだ古い、コーヒーミル、花瓶と果物、重ねられた2,3冊の本。あまりにもつまらないものばかりで、何でこんなもの、描くんだろう、と思った。自宅で一人、もそもそ自分の手でも描いている方が進歩するんじゃないかと思うくらいだった。「絵じゃない絵」のほうが却って懐かしいくらいだった。

 

「絵描きになった物語」(6)

「体調すぐれず」

 

そう思っているうちに、私は自分の体の異常に気がつき始めた。腕も肩も足も痛くて、歩行困難、移動不可能なほどのものすごいつらい症状に悩まされ、20分も歩くのがつらくて、いったん、其の教室をやめてしまった。

 

激痛で歩けなくなるほどの症状が「更年期障害」によるものだということに気がつかなかった私は、肩や足が痛むから外科や骨接ぎの医者のところに行き、総合病院にいけば、内科、心療内科、精神科、耳鼻咽喉科から、ありとあらゆる科に回され、それでもまったく治らなかった。

 

あるとき食事が作れなくて、困った私は、娘のためにでも、外で出来合いの弁当を買ってきてくれるように、英語教室の生徒のお母さんに頼んだ。

 

それで始めて彼女から、「更年期障害」というものがあることを聞いたのである。

 

私は知らないうちに、老人になりかかっていたのだ。どこに行けばいいかなぁと考えているうちに、私はふと、思い出した。母を看取ってくれた老人医療専門の医者、旭先生のところに行こう。私は草履をはいて、杖を突き、よたよた歩いて、旭先生の診療所にたどり着いた。

 

それで、詳しい話を聞いた先生は、注射一本で、まるで奇跡みたいに、痛みをとってくれたのだ。あれから一度も同じ症状が起きない。足の骨は異常もなく、テレビ体操をしても、どこも痛みがなく、リュックを背負って、かなり重い買い物をこなし、靴だけはスニーカー以外に履けなくなったけれども、階段も自由に上り下りでき、ぴんぴんすたすた歩けるようになった。