Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月22日

 

「回想」7

「高校受験」と高校の女傑校長との出会い

 

高校を受験した。実はこの高校、小学校5年で他界した姉が通っていた学校で、幼稚園から高校まであるミッションスクールだった。実は後で知ったのだけど、名門受験校らしかった。しかし、私がその高校を受験した理由は、他界した姉の学校だという理由以外になかった。

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父が描いた亡くなった姉

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学校の制服を着た姉
 

受験などというものは、「楽しい」物ではない。しかし、私には、この高校の受験ほど、記憶に残っている「受験」はないのだ。

 

テスト問題は、どこでも勉学の成果を見るもので、さして特記することもない。しかし、この高校には「面接」という言うものがあって、その「面接」が曲者だった。

 

烏賊のくちばしみたいな真っ黒なベールをかぶったシスター(フランス系のためマダムと呼んでいた)校長で、あと、男女見分けのつかない白髪頭の女教師と数人の教師が面接会場にいる。主にやり取りは烏賊マダムであって、白髪はそばで筆記している。後は、私の視界にも記憶にもほとんど入らない。

 

学校がカトリック校で、受験生の私がカトリック信者だからか、質問はそっちの方面から始まった。

 

「教会の教えで一番大切なのは、なんだと思いますか?」と聞かれて、私は答えた。

「イエズス様のご受難とご復活だと思います。」

 

彼女、意外そうな顔で私を見た。どうも、烏賊マダムはクリスマスだという答えを期待していたらしい。

 

「クリスマスはどうですか?」と聞くから、「受難と復活かがなかったら、ただ生まれても意味がないと思います。」と、クリスマスばかりで子供の機嫌を取る教会のシスター相手とやりあった癖で、答えたら、相手は、「お!」と言う顔つきをした。

 

「人は何のために生まれたのだと思う?」と聞かれて、「公教要理の答えなら、『人は天主を知り天主に仕えついに天国の幸福を得るために生まれてきました。』です。」と小学生のときから暗記させられた言葉を言った。そしたら、彼女、聞きとがめて、「公教要理の答えならって、それ以外の答えもあるの?」と追求してきた。

 

「いえ、自分がわからないことを聞かれたので、答えが出ません。教わったことをそのまま答えるのが無難だと思いました。」と答えた。

 

「ほう!」彼女、強烈な目で「こいつ、いうぞ!」という顔つきで、私を見た。いつもの癖で、其の目を私は見つめかえした。相手の目を見て話せとヒトは言い、目を見て話すと、反抗的だと散々言われた其の目を、烏賊校長はしっかりと捕らえていた。

 

「教えの中で一番大切なのはなんだと思いますか?」と聞かれたので、「隣人愛だと思います」と答えたら、ちょっとニタッと笑って、「あなた、それできるの?」と聞く。「15歳じゃ、愛とは何かも、わかりません」と答えたら、烏賊校長、ちょっと思慮深げに私を見た。

 

個人情報の質疑以外は、たったそれだけのことだったが、そのやり取り、私は気に入ってしまった。

 

教会のシスターと違って、なんだかこの烏賊マダムは、15歳の中学生に、ほとんど対等で話をしていたという印象を受けたのだ。

 

それまで私はどんな指導者からも拒絶ばかり受け、小中学生の私の、別にたいした考えでもない考えに、まともに耳を傾けてくれるものなどなかった。すべての指導者は反論も質問も、自分の言葉で言い直すことも許さず、ただ言われたことを無条件に繰り返すことが正しいことだった。小学時代にいたると、ただただ暗記一転ばりの教育で、今でも同じ質問だされれば、機械のごとくすらすらと答えが出てくる「公教要理」という宗教教育しか受けなかった。

 

受けた高校の面接とはいえ、私に向けられた問題は、本気で答えざるをえない質問であって、教えられたものでもなく、準備したものでもなく、日ごろ思っていて、相手にされなかった考えを、ただ正直に披露しただけだった。

 

面接だから、議論にはならないだろう。しかし、私は相手の表情を見逃さなかった。

 

「この人、本気で真剣に私の言葉に反応している!」

 

その表情は、ひとつの「出会い」を感じさせるほど、私の心に焼きついた。面接が終わって出て行くとき、出口で私は満足してお辞儀をした。そして言った。

 

「この学校、うからなくても、お話しに来ていいですか?」

 

母にさえぎられ、答えは得られなかった。しかし、母は帰り道、しばらく黙っていて、それから一言言った。

 

「あなたの答えは、なかなか立派だった。」

 

私は無言だったが、暗がりの中で、そっと母を見た。「この母が私の存在を認めた!」

 

生まれたときから、恐怖の対象でしかなかった母が、其の一瞬、私をある価値ある存在として認めてくれたような気がした。

 

実は例のカトリックの小学校を退学され、公立の中学校に行ってから、宗教教育はもっぱら所属教会のシスターが引き受けていた。で、そのシスターの教理の時間の時、シスターが盛んに、「イスラエル民族はイエス様を殺した民族だから、諸国をさまよい、決して国を作れないということになっている」と言っていた。

 

ところがそのころ私は新聞で、イスラエルが建国をしたのを知っていて、ちょっとそれを指摘したところ、そのシスターは、ありえません、ありえませんとほざいて、かんかんに怒ってしまい、マント翻して教理の授業を中断し、吹っ飛んで消えてしまった。以後私は教理の授業に出られなくなった。小中学校でへんてこなシスターばかり見てきた私は、この高校の校長の態度がすごく気にいったのだ。

 

それで私はその「名門」とやらの高校に入った。私には「名門」などどうでもよく、あの懐かしい姉が小学校を過ごした学校に入れたことを喜んだ。

 

回想8」

「次郎兄さんの独立」

 

高校2年生ぐらいのとき、一家の大黒柱だった次郎兄さんが結婚した。父が亡くなった時に唯一成人していた兄だったから、彼は母に従い、まだ学齢にあった、年下の4人の成長を助けた。

 

彼と私の年の差は14年。私の子供時代、彼はすでに大人だった。

 

彼はその時まで、一家の経済を担っていた関係で、家の権力者として君臨していたから、私にとって彼は兄以前に支配者であり、ただただ恐かった。しかし、それまで彼に経済的に頼っていた一家だったのは確かだから、当然彼の独立離反は一家に経済的危機をもたらしたものの、実は私にとっては、ほんのわずかな春の訪れを意味していた。

 

次郎兄さんは敗戦のとき旧制中学4年で、新制度発足とともに卒業させられた年代で、そのまま、建築系の専門学校に入り、建築士となった。

 

彼は、父の知り合いのある人物に騙されて一家が破産し、問題未解決のまま父の死をむかえ、その後の訴訟と続く、一家の危機の状況の中で、次男とはいえ事実上の長男として、青春を犠牲にして9年にわたって一家の重責を担ってきた。彼は、建築士とはいいながら、あの時代の仕事は不安定で、職場を転々とし、外で気を晴らすほどの度胸がなかった所為で、家庭では子供の私が顔見たら震えるほどの暴君だった。

 

父の亡くなった年彼は22歳。それから7年間、じぶんの青春時代のすべてを母を助けて弟妹の養育の責を担った彼は、多分我慢の限界が来ていた。

 

母は彼にはそれでも気を使っていて、苦労させたから、誰よりも立派な嫁さんをと思っていたらしい。しかしこの思いは母の基準にかなう人でなければ許せなかったため、母はたびたび彼の恋愛に介入してつぶした。母はいつも彼の選んでくる女性に反対して火のように怒り、乱暴に、解消させた。

 

彼は母を間に入れては結婚できないと、追い詰められたのだろう。

 

近所に母をひそかに批判していた池谷さんという婦人がいた。兄はこっそり彼女に自分の家庭の事情を相談した。それを聞いた池谷さんは、母に隠れて次郎兄さんとある婦人とをお見合いさせ、ひそかに結婚式をあげさせてしまったのである。

 

母を逆上させたのは、母に隠れて二人の挙式をしたのが、教会の主任司祭だったことだった。それは、母が戦後の混乱期を乗り切るために、食べるものがまったく無くなったときでさえ、欠かさず行っていた命よりも大切な教会の、心の支えであった教会の、一家の事情を知らない新しく赴任したばかりの日本人の主任司祭だった。 

 

母が父の死後、訴訟を起こして家財産を取り戻したときに、原告側の証人になった人物、其はその教会のドイツ人の神父さんであり、食うや食わずの状態で、子供を7人育てていた母に、配給で手に入ったばかりの食料を夜中に持ってきてくれ、窮状を救ったのも、同じドイツ人の神父さんだった。母にとって教会とは、一家のすべてを託して、ほとんど生命維持のための救護施設であり、よりどころであった。

 

新任の日本人神父さんは、其の事情をまったく知らず、兄に言われるままに、母を差し置いて、秘密裏に結婚の挙式したのだ。

 

しかも次郎兄さんは、のっぴきならない恋愛したわけではなく、紹介されて数日後まったくの交際を抜きにして、相手をほとんど知りもせず、結婚に踏み切ったのだった。お見合い後数日しかたっていなかった。恋愛を反対されて、やけくそで結婚したとしか思えないやり方だった。

 

すべてが済んでからそれを知った母は半狂乱になった。次郎兄さんもかなり逆上していて、すでに母の手に負えなくなっていた。お嫁さんの父親が、二人が住むために買った家は、どこにあるのか明かされなかったけれども、私達の住む実家から1時間としない距離にあったらしい。

 

次郎兄さんは、一番年下の弱い立場にある高校生だった私には、まるで異常としか見えないような行動を取った。

 

時々突然飛び込んできては家族を威嚇し、家族の寝ている家の屋根に夜中にやってきて上っては、上で地団太踏んで騒音を立てた。

 

やっていることが常軌を逸していて、母と兄の関係や兄の言い分を知っているわけではなかった私は、毎日わけもなくおびえて暮らしていた。あるとき飛び込んできた彼の剣幕におびえて別の部屋に逃げ込んだ私を追いかけてきて「俺が出したお前の教育費を返せ」と叫んで、私の胸倉つかんで掴みかかった。

 

私は次郎兄さんを振り切って裸足で庭に飛び出し、塀を乗り越えて逃げた。ほとんど生命の危険を感じたのである。それ以来私は周りの空気を感じ取って、一人でいることを避けていた。

 

ことは財産の問題と、関連していたのである。父の死後、裁判で取り戻した家屋、土地などの財産は、母と兄弟全員の名義になっていたが、彼は、裁判を勝ち抜いたのは自分であって、財産の所有権は他の兄弟にない、すべて自分に所有権があるのだから、結婚を契機に、全部自分の名義にせよと要求した。しかし、まだ学業半ばだった4人を育てるためにといって、母はそれを拒否した。

 

示談が成立したとき、次郎兄さん以外の弟妹が成人していなかったことは確かである。裁判の経過に幼い弟妹がかかわっていなかったことも確かである。そして彼が一人、職を転々としながらも、戦後の混乱の中を7年間に渡り一家を支えたことも。

 

しかし母は、まだ学齢にあった子供達の養育費を得るために、画家であった父のアトリエを改築して学生下宿を営んでいた。すべてを次郎兄さんの要求どおりに名義を書き換えたら、残りの5人の生活費を捻出することができなかった。

 

特に彼はいろいろな事業に手を染めては次から次へと失敗するという経歴の持ち主で、借金をするたびに、家財産を抵当に入れる癖があった。すべてを彼に渡せば、いつか全員が共倒れしそうな状況があり、母としては残りの4人を独立させるまでは収入の道を絶たれるような用件は飲めなかった。

 

そこで、調停のために、名古屋の修道院で修行中だった三郎兄さんが戻ってきて、財産の3分の1を次郎兄さんのものとし、残りの3分の2を母と、5人の弟妹の名義にすることで、やっと決着をつけたのである。

 

残りの兄弟は全員学生だったが、まだ高校生だった姉と私を除いて、四郎兄さんと五郎兄さんは大学生だった。二人は国立大学で、学費は安く、アルバイトを目いっぱいして稼ぎを家に入れていたし、母が経営する学生下宿もあき部屋もなく収入源になっていたので、みんなでがんばってこの危機を乗りきろうと話し合ったのだ。

 

大黒柱がいたとはいえ、私達は経済に関しては力を合わせて、子供のときからできる仕事はみんなやっていた。庭は全部畑にし、野菜だの芋だのを作っていた。中学生の頃から兄たちは、新聞配達、アイスキャンデー売り、袋張り、造花つくりなどの仕事を持ち込んで、小学生の姉も私も手伝って稼げるお金は片っ端から稼いだ。

 

しかし誰も悲惨とは思っていなかった。自分が一家の収入につながることがができることは、むしろ誇りでさえあったのだ。

 

私は育英会奨学金の上に、学校独自の奨学金の給付を受け、高校時代を何とか乗り切り、1960年、ミッション系の私立大学を受験して、合格した。

 

 「苦学時代」1

 

私は高校時代、歴史が好きだった。大学に行ったら古代史の勉強をしたいという希望を持っていた。クラブも歴史研究部に所属していた。高校から歩いていけるところに国会図書館があったから、放課後よく国会図書館によって本を借りて読んだ。

 

国会図書館は今の三宅坂でなくて、赤坂離宮にあった。瀟洒な建物だったから、暗かったけれども雰囲気がよかった。あの時代、私は心から歴史の勉強を楽しんだ。

 

しかし私は、自分の方向を決めることも自由ではなかった。母は、学歴と言うものを貧しさからの脱却と言う目的以外に考えていなかった。安い国公立に入って古代史の勉強をしたいという私に、そんなものは経済に結びつかないし、後からでも自分でできるから、自分一人ではできないものを身につけて、収入の道をつけなさいと言って反対した。

 

だから、英文学が売り物の名門女子大を母は強力に薦めたのである。自分の方向性から言って、当時は裕福な良家の子女しか行かない母の薦める大学は向かないことを私は知っていたが、母はその大学の学歴なら社会は受け入れる、信用があるからアルバイトの口も見つかりやすいと言って曲げなかった。

 

母にとって、大学とは、それぞれの方向にあった学問を、より深い研究をすると言う本来のあり方が第二儀的なことで、内容はともあれ、将来の安定のために学歴を身につけることが第一義的なことだった。

 

実は前の年に母は姉にその大学を薦めたけれど、姉は反抗して受験せず、ほかの大学を受けて浪人をしたものだから、今度は私に期待したのである。

 

それはほとんど母自身の夢なのだ…と私は思った。食うやくわずの頃から、何とか社会の上澄みに上るため、母は文字通り鬼になって働いた。其のことを私は見ていたから知っている。その母の夢なのだ。

 

しかたがない。私は自分をよく知っていた高校の担任の先生の忠告も聞かず、母に従い、名門女子大の英文学を受験し、合格した。 そして確かに私はその大学の名によって、合格の次の日から家庭教師を頼まれ、それからの大学時代、次々と家庭教師ばかりで収入を得ていたのである。

 

私はまだ高校も卒業しないうちに、暁星中学に合格したばかりの少年にフランス語と数学を教え始めた。母校の高校は、フランス系の修道会の経営で、高校でフランス語が必須だったし、教科書は暁星と同じものを使っていた。

 

突然家庭教師を頼まれて、お金ほしさに盲めっぽう引き受けた。年の差はたったの6歳で18にして「先生」と呼ばれる身となった。何だか不思議な感覚だった。18歳にしてフランス語の先生ですよ。もう!

 

そんなわけで、 私は大学生になった。私はどんなにこの日を心待ちにしていただろう。大学生になると言うことは、最低生活を生きていた自分自身にとっても、こうなったら、学問云々の前に、そもそも生きる基礎である、経済活動としてのアルバイトができると言うことであり、兄たちと一緒に、一家のために自分も稼ぐことができると言うことだった。

 

母は子供たち全員に学歴をつけると言う、自分で自分に課した義務を遂行するために努力した。一人だけに学歴つけてもほかのものが中卒ではいつまでも一人を頼りにして誰も独立できないといつも言っていた。

 

民生員の助けを必要としたほどの困窮を知っていた、しかもそれを見かねて助けてくれた人たちは母の姿勢を批判したが、母は頑としてその考えを通した。そのために兄達3人の延べ7年間に渡る浪人生活を許した。最後の私が大学に入ったとき、一年間は全員大学生だった。

 

私のはじめの学費は、四郎兄さんがアルバイトの費用で出し、靴は五郎兄さんがやはりアルバイトで稼いだお金で買った。

 

自分の初めてのアルバイトで、一月3000円を稼いだが、まだ母には食費を出すほどにはならなかった。しかし私はひとつだけ、心に秘めていた思いを果たした。

 

鬼のように怖い母だったが、親としての責任に関しては、すべてを犠牲にして働く母だということを、私は子供の頃から知っていた。

 

どんなに恐怖の対象であっても、私はいつも母のそう言う姿を見つめていた。自分のものは何も買わないで、ぼろの毛布を継ぎだらけにしてくるまっていた母に、私は自分が大きくなって働くようになったら毛布を買ってあげると約束していた。その「約束」を私はまるで、自分の使命のように、何時までも覚えていた。

 

自分が家庭教師をやって稼いだ、始めての2か月分の給料で、約束の毛布を買おうと思った。初めて一人でデパートを探し回り、4000円の毛布を買った。

 

本物の毛ではなかったけれど、得意だった。しかし母は次郎兄さんの突撃結婚以来、魂が抜けたみたいになって、家族に背を向けていた。私の毛布を横目で見て、あまり反応を示さなかった。

 

それでも、いい。自分は小学生のときの約束を果たした。母と同様、何もいわなかったが、約束を果たせたことがうれしかった。

 

大学に入ってから親しくなったシスターから、次々と付属の小中学生を紹介してもらい、アルバイトは、一日3件もこなすようになった。勉強をする時間が取れなくて、勉強はすべて通う電車の中や、大学の図書館や、アルバイト先の待ち時間にやった。どうせ好きで取った学部ではなかったので、単位さえ取れれば成績なんかどうでもよかった。

 

家庭教師でも、生徒が理解するまで時間が過ぎても相手をしていて、夜帰るのは12時を過ぎていた。3年になる頃、私は母に1万円を納めることができるようになった。私の通っていた私立大学の年間の学費が5万円前後の頃の1万円である。

 

1万円を家に納められることができたことを私は得意に思った。お金、お金、と私の頭の中は、お金のことが渦巻いていた。毎日毎日かかった費用を計算した。私は遠い将来を遠望して、地道に貯金をしていった。

 

交通費を最低限にするため、歩けるところは歩いた。友人が遊びに誘っても、応じなかった。ノート買うのも節約し、単位のために仕方なく出ているつまらない授業のノートは新聞の綴じ込みの広告の紙を閉じて使っていた。余計なことにお金は使えない。私は守銭奴になった 。

 

「苦学時代 2」

 

私は中学時代から、自分の肩書きみたいに友人達から名前と一緒に当たり前のように記憶されている「変人」の称号を、やっぱり大学時代も引きずっていた。

 

名門女子大と言うところは、苦学生が来るような所ではない。アルバイトをする学生もいることはいるが、目的が社会見学だったり、遊ぶお金が目的だったりする。

 

アルバイトそのものをする必要などまったく無いし、学費や生活費のためアルバイトをしているなんて言うことを想像もしていないのだ。なぜ私が友人の誘いにまったく乗らず、昼食にさえ付き合わないかわからない。パンがない庶民の話を聞いて、お菓子を食べればいいじゃないの、といったとかいわなかったとかいううわさのある、マリーアントワネットみたいな表情で、彼女たちは私を見ている。

 

アルバイトに明け暮れて勉強時間がないから、満員電車の中で、本を小さく折り曲げて、頭の上で掲げてまで勉強する私の生活が理解できない。しかも授業が終わったとたんに脱兎のごとく門を出て、同じ方向に向かう友人を尻目にアルバイトに向かう私の姿は反社会的なただの変人にしか見えなかった。

 

夜は夜で私はアルバイト先のある地点から次の地点に移動する途中で、一人で駅の立食堂でも入って夕食を取る。誰かと歓談しながら食事を楽しむなどという行動は取ったことがない。

 

ある時期、それが新宿の地下街の小さな立食店でカレーを急いでかっ込むと言う生活をしていた。ほとんど毎日同じところで同じメニューで夕食をしていたのだ。

 

その所為かどうかわからないが、私は毎朝毎朝電車の中で胃痙攣を起こすと言う習慣がついた。そのたびに電車を下りてトイレに駆け込まなければならないから、授業に間に合わせるために2,3台前の電車に乗り、時には2,3回電車を換えて学校にたどり着いたのである。

 

病院の内科に行けば必ず神経科にまわされる。神経科でくれる薬は必ずと言って良いほど同じ物で、しかも、それを飲むと神経を落ち着かせる薬の所為か、2日ぐらい眠ってしまって、仕事も勉強もできなくなる。冗談じゃないと思って一回しか飲まなかったから、その睡眠薬ごとき物が手元にだんだん増えていった。

 

体を酷使して働いた所為だろう。高校時代には感じなかったものすごい生理痛が、毎月毎月私を苦しめた。始まる数日前から神経が異常に高ぶり始め、数人の友人と喧嘩し、家でも荒れ狂い、自分の神経の異常に疲れて寝込む頃、どどっと生理がやってきた。時には数日間起き上がれないほどの激痛だったが、それが病気であるとは思わなかった。

 

そのとき喧嘩した友人達とは、すでにあいつは偏屈で、キチガイだという先入観に妨げられて、仲直りもせずに卒業まで持ち越した。

 

家の中は暗かった。子供たち一人一人が自分の力で何とかやっていけるようになったら、お互い家族と言う意識が薄れていった。「ただいま」と言う普通の挨拶にも返答するものはいなくなり、背中を向けてテレビを見ている。

 

3件のアルバイトを巡って、へとへとになって12時過ぎに帰って、「お風呂沸いてますか」ときいただけなのに「誰があんたのため風呂沸かすか」なんて言う返事が返ってくる。喧嘩した覚えもなくただ口を利くのが面倒だという状態だ。

 

多分自分でも制御できない神経の高揚のとき、喧嘩をしていたのを記憶がなかっただけかもしれない。初めはそれでも、「今晩は遅くなる」などと言う電話をしていた。たまたまそれを姉が取る。私の声とわかると、「それが何だって言うんだ。うるさいからいちいち電話するな」、とつっけんどんに、姉は言って電話を切る。だんだん私も口を利かなくなった。

 

自分がどのように他人に見えるかという事を考えもせず、私は勝手に傷ついた。

 

子供のときから自分はこの家に存在してはいけなかったのだ、という思いが再び頭をもたげ、自分を哀れんで自分の影と問答をした。

 

いくら荒っぽい家族でも、苦難の時代、助け合いながら生きてきた。皆それぞれ自分の経済を自分でまかなうようになったら、お互いに側にいることがうるさく感じられるようになった。もう、期待はしなかった。

 

でも期待しなくても、寂しかった。夜遅く一升瓶をぶら下げて帰り、敷きっぱなしのせんべい布団にあぐらを掻いて、一日の出来事を日記に記しながら、一人で飲んだ。中学時代のように、私の相手は再び、日記帳だけになった。

 

「苦学時代」3

「姉との決闘」

明美姉さんは2歳年上だった。二人が似ているところは、声だけだった。

 

明美姉さんは子供のときから、神経質で几帳面で、成績もよく、私はずぼらでだらしなく、成績がよいいかどうか以前に、成績の意味を知らなかった。

 

小学校低学年のときなど、そもそも成績がどうのと言う観念を持っていなかった私は、算数で27点もらって、27点ももらったと言って喜んでいた。その当時塾だの何だのに子供を入れて、なんとしてでも成績を上げようなどという時代ではなかったから、わからない宿題は上の兄達に聞いたりしてその場をしのいでいただけで、27点がどう言う意味かも知らなかった。

 

私は学校に入る前から兄たちの本を相当読んでいたから、文字も読めたし知識はかなりあったはずだけれど、学校が知識を生かす場だと言うことはしらなかった。

 

それで姉は私を馬鹿だと思い、妹のせいで自分が恥を掻くと言っていつも腹を立てていた。彼女はよく勉強もしたし、生真面目に学校の規則を守ったし、絵を描かせれば、対象を写真のように正確に、猫の毛を一本一本描くほどの器用な手も持っていた。そしていつもその猫のひげのようにぴりぴりしていた。私が笑うとき、彼女はいつも怒っていた。

 

小学生の頃、ある先生がテストの模範解答を壁に張ったとき、その模範解答が間違っていた。私はそれを見つけて、腹を抱えて大笑いしていたのだが、彼女はものすごく怒ってその先生に抗議をしに行っただけでなく、そのことを60過ぎた今にいたるまで怒りつづけている。

 

学校の成績がすべてだと思っていた明美姉さんは、成績の悪い私が自分よりも優れたものを持っているはずが無いと思っていた。近所に友人を持たなかった私達はよく兄弟で遊んだが、カルタやトランプなど、勝負をするもので私に負けると、姉は逆上して私に暴力を振るい、力で私をねじ伏せた。それが能力に関係の無い偶然のこと、たとえばじゃんけんのようなものでさえ、彼女は私が勝つはずがないと思い込んでいた。

 

家族に一台の自転車があったけど、私がそれを練習し始めたとき、兄たちが「あいつのほうが明美よりうまいな」と一言言った。

 

以後その自転車に私は触ることもできなかった。何しろ、私が自転車に触ると、飛び出してきて体を張って妨害したのだ。以後私は、50年自転車に乗る機会を失った。

 

子供のとき、私はたまたま彼女の後ろを歩いていたが、いきなり振り返りざま、石を投げつけ、それが私の眉間にあたったことがある。彼女はその理由を50を過ぎてから私に説明した。

 

「妹だからと言っていつも自分の行動範囲にいるのは許せなかった」と。じゃあ、妹じゃない人が自分の行動範囲にいたらどうなんだろう。なんて、私は考えた。もう、何でも良いからいなくなってほしかったらしいとしか言いようが無い。

 

大学時代彼女は浪人して私と同じ学年になった。これは彼女の自尊心を深く傷つけた。彼女は勉強家でいつも遅くまで勉強していたが、私が近くで勉強するのを妨害し、特に音を立てていたわけでもないのに、「鼻息がうるさい」だの、「こっちを見るな」だの、私の行動にいちいち抗議してきた。

 

こちらもそれでは勉強ができないから、私は彼女の寝るのを待って、朝起きて勉強すると言う手段に出た。交代勤務は朝の3時である。ところが、彼女は自分が寝るときにまたひどく大騒ぎするのである。布団をできるだけばさばさと音を立てて敷き、まるで一度天井に飛びあがってから布団に飛びこむのでは無いかと思うほど騒音を立ててふとんにはいる。

 

私は地響きによって目を覚ます。仕方無く私は自分が寝るとき彼女の布団を敷いておいた。それがまた彼女の気に触った。「よくも私の布団に手を触れたな!」と叫び、布団を全部引っぺがして、もう一度敷きなおした。それを見た私はげらげらげらげら笑った。こんなの笑う意外に無いじゃない。

 

すでに一触即発の神経の緊張状態にあった私と姉との仲はついに破局を迎えた。自分の縄張り地帯に私の洗濯物が1ミリ入り込んだと言うことで、彼女はその洗濯物を投げつけて怒った。8畳の部屋に母と姉と3人で寝起きしていたのである。各自の箪笥はあるけれども、畳の上に境界線があるわけではない。私が取り込んだ洗濯物が彼女の歩く、一般の目に見えない彼女だけの縄張りに1ミリ入り込んでいたのだそうだ。

 

この人は1ミリとか、1円とか、一滴の水滴とか言うことに、宇宙のすべてがあるみたいにこだわりを持つ人である。彼女は自分で、父の芸術的才能を受け継いでいる唯一の人間だと言って恥じないだけあって、人には見えないものが見えて見えて仕方ないらしく、身もだえして苦しみながら一生を送っている。

 

私はその時いつものようにげらげら笑って済ます余裕を持っていなかった。

 

家族が住む空間はその頃自分で下宿代を母に払って下宿宿のほうに住んでいた四郎兄さんの部屋を除いて、2部屋しかなかったからそれ以外はどこも家族の共有の場だった。誰かの縄張りと言うものははじめから無いのである。明美姉さんが主張する縄張りは誰にも見えないのだ。海の境界線に入った魚は誰のものなんて言っているようなものである。

 

私はその時物も言わず、姉の体に突進していき、初めて実力で反撃を開始した。くんずほぐれつ取っ組み合いをやり、手に触れるあらゆる物を使って戦った。誰もいなかったから、ゴングは鳴らなかった。姉は私の髪を引きずり腹をけり、私がうずくまって動かなくなるまで応戦した。力で姉は勝った。いつものように彼女は負けない自分を確かめて勝負を終えた。その時以来私は姉に襲われる事を想定して、警戒して歩くようになり、姉は私に対して、今まで暴力に訴えてまでしなかった反撃をいつまたやらかすかわからないやつと思ってか、これもまた警戒していた。

 

この状態は四郎五郎二人の兄が卒業して企業に入り、家を離れて私達も個室に住めるようになるまで続いた。其のとき二人とも大学4年になっていた。

 

「苦学時代」4

「大学院に入る」

 

大学最後の学年になった。学長が直接一人一人の学生の進路の希望を聞くと言う時代だった。もう20も過ぎていたから、自分自身は別にいまさら進路指導を受けようと思ってはいなかった。でもこの際、私はかねてから考えていたことを実行に移そうと思って、其の面接に臨んだ。

 

英文学は母のためにやったんだ。だから成績悪くても、まるで気にせず、アルバイトしながらしのぐことができた。単位を収め、学士号さえ取ってしまえば、その先は自分の好きなことをやれば良い。どこかの大学に学士入学をして自分が望んでいた勉強をしよう。アルバイトアルバイトで守銭奴になった自分は、友人もできず、楽しい思い出がなかったから、この大学に残る気はなかった。

 

その時私は学費と家に収める下宿代以外に将来の独立資金のための蓄えを持っていた。国公立ならそれだけあればそんなにアルバイトに苦労しなくても、専門学部だけなら凌げるくらいの蓄えだった。

 

私は古代史研究の希望をあきらめられず、大学でも史学クラブと言うクラブに属していたが、3年のとき部長とうまく行かなくなって、そこをやめ、国文クラブに入っていた。そこで私は講演に来た二人の作家と会い、影響で作家になりたいと思いはじめた。日記という形で、私は小学校2年のときから、文を書くのは慣れていた。妄想の世界で、自分の現実から逃れることが習慣になっていた所為か、日記はすでにノンフィクションの枠を超えて、「創作」になっていた。「妄想」が生んだ自分の作品もかなりあったのだ。

 

それで私は古代史か国文か迷っていた。私の在籍した大学は、史学に強い大学ではなかったから、史学に関する単位はほとんど取っていなかった。その時その学長はこともなげに言ったのである。「国文をやりたいなら、ここの大学院に残れば良い。」私は思いがけない言葉にじっと疑わしげに学長を見た。一瞬意味がわからなかった。何しろ学長はアメリカ人で、一言も日本語を話したのを聞いたことがなかった。

 

私はそこでおもむろにひとつの質問し、もうひとつの希望を言った。

 

「学部は英文科なのに、国文で大学院にはいれるのですか?」

「自分はこれ以上費用のことを考えながら勉強し続ける気がないので、少したくわえがあるから、国公立で本気で勉強をしたいと思っています。」

 

其れを聞いて学長はこともなげに言った。

 

「単位さえ取れば、学部と違う研究でも問題無いし、学費は免除するよ。」私はかなりあっけに取られた。私はこの大学でもかなりの問題人間で、停学処分も食らっているし、毎年毎年学内値上げに抗議して、かなりこの学長とは反目した仲である。

 

私はむしろこの学長を嫌っていた。学内値上げの抗議に対して、学長は私にだけ値上げを免除した。しかし、私は屈辱を覚え、この学長に感謝せず、頭を下げたことは、なかった。経済に問題を抱えた私にだけ値上げを免除すると言うミッション独特の福祉みたいなやり方に私の自尊心は荒れ狂ったのだ。私は卑屈に成ったことがなく、むしろ、苦学を誇りにしていたから。

 

この学長にとって、自分は何だよ、乞食かよ。そんな思いがあったのだ。

 

おまけに私は、この学長が日本に布教に来ている修道女でありながら、まったく日本語を解しない人間として反感を持っていた。アメリカ的な慈善の対象になっている自分が忌々しかった。腹いせに私は「ここはアメリカの植民地じゃないのだ」と何度彼女に毒づいただろう。抗議の末値上げ免除をしてくれたことに私は礼を言ったことすらなく、すれ違っても、私より背の低い彼女を倣岸と見下ろしていた。私は彼女が自分をどんな意味でも評価しているなんて夢にも思わなかったのだ。彼女のみならず、自分を評価する人間がこの世の中にいるなどという事を、当時の私は考えなかった。

 

自分は自分だけが評価していた。友人達の誰もしていないと思われる「自立」を、自分は18の時からしているんだという自負が、私を支えていた。

 

今、私はその敵みたいな学長から、学費免除するから大学院に残って国文を研究せよと言われているらしい。私は自分の英語力に疑問を持って、ほかの仲のよいシスターを通じて、その真意を聞いてもらった。結果、私の英語力は正しかった。私は卒業した1964年、大学院に入った。

 

同時に私は大学と同じ敷地内にある付属のインターナショナルスクールで、国語を教える仕事をもらった。そのために、もうほかにアルバイトをする必要がなくなり、時間と経済に余裕ができた。

 

「苦学時代」5

 

「院生時代ー国語教師体験 」

 

私は大学院に入って、同じ敷地内にあるインターナショナルスクールで、初めて教師として教壇に立った。国語を取る生徒は10人足らずだったけれど、複数の生徒相手というのは初めての体験だった。

 

生徒は外国暮らしが長い日本人の子供か、日本に来ている外国人の子供ばかりである。その子たちに国語の授業をしたときに、えっ!と思うことに気がついた。子供たちは親に付いて国外にくらした結果、同世代の日本人の子の言葉遣いを知らず、親の世代の言葉遣いで話しているのだった。

 

14歳の中学生が「先生、わたくしの答え、これでおよろしいんですの?」とか、「ごめん遊ばせ、先生、お宿題、あまりよくわかりませんでしたのよ。ご説明いただいてもおよろしいでしょうか?」とかいっている。

 

同年の友達同士でさえ、「左様でございますわね」などといっている。ありゃま、と思った。

 

私は以前、明治時代にブラジルにわたった日本人が、電車のことを「おか蒸気」、映画のことを「活動写真」と言っていると言う話を聞いて、こっけいだと思って笑ったことがあった。

 

でも、「おか蒸気」や「活動写真」なら今の言葉を教えさえすればすむことだ。親の言葉遣いを同世代の言葉遣いに直すのはどうすれば良いかと考えた。聞きながらちょっと唖然としてしまうのだけれど、馬鹿なことを言って傷つけるわけには行かない。

 

それでふと思いついたのである。私が中学校を過ごしたあのあたりでは、子供たちはある方言を使っていた。「どしたらよかんべい」、「2じかんめはなんだんべい」、などなど。

 

自分の土地を離れて私立の女子だけの小学校で学び、自分の住む地域から遊離していた私には、奇異な言葉だった。言葉の面でさえ私は孤立してしまう要素を持っていた。

 

中学生ながら、友人がいなくてあの方言を客観的に眺めざるを得なかった私は、図書館に行って孤独に方言の研究をし、それが関東侍の古語から来ていることを突き止めたのだ。よかるべし、たるべし…が訛った言葉である。あれだあれだと私は思った。

 

「方言の成立の研究をしようよ。」と私は生徒に持ちかけた。ひとつの言葉がお互いに交通機関のなかった地域でわかれて、それぞれ発達を遂げた言葉を研究するうち、自分たちが不在だったときの日本で、言葉がどのように変化し、自分たちが外国にいたときの言葉がどのように自分たちの中で凍結したかと言うことに気付かせてやろうと思ったのである。

 

これが受けた。うまくいった。おまけにうまくいったどころではない。

 

問題は中華言語圏とかアーリア言語圏という広がりのある言語論争から、遠く古代の民族移動の問題まで発展していった。自分がやりたかった「古代史」がここにつながる!

私はちょっと興奮した。国外に出た子供たちは、日本だけに生活した子供たちより、言語と歴史の問題に敏感だった。そして其れを学問として、追及の手を緩めない、面白さがあった。

 

私はそのとき22歳で、彼女達はまだ中学生だった。彼女達は実に屈託なく、私と自由な論争を楽しんだ。検定教科書とか教授資料に頼らない、自由な雰囲気の授業だった。私はおかげで、専門でもない言語学民族学にまで、首を突っ込むことになった。指導するからには本を読まなければ、到底彼女達を相手にできない。相手にするというより、新しい「知的友人」として彼女達と付き合うことが楽しかった。

 

いくら若くても、彼女達が経てきた人生は、私の知らないものだった。国外で生きた日本人の体験を私は学ぶということを通して、私はこの与えられた新しい環境に満足した。いろんな体験が役に立つ、と私は思った。マイナスの体験として中学校時代のことは自分の記憶から抹殺しようとしていたものが、ひょんなことからあの時代の「方言の研究」を思い出し、暗い時代の思い出をプラスに変えることができたことにも、私は気をよくしたのである。

 

「院生時代ー山歩き」

 

時間を気にせず、収支の計算をせず、机を前に、落ち着いて座った初めての学生生活が、やっと自分のものになった。

 

あのころ、私が時間契約で家庭教師をしていたとき、熱意のあまり時間を超過しても教えていた私に言った。

 

「先生、300円オーバーしましたよ。」

何分オーバーしたといわずに、契約時間をその子は計算したのだ。私は何時間オーバーしようが、お構いなくわかるまで教えるのが常だったが、超過料金を請求したことなんかなかった。時間以内に理解させられないのは自分の責任だとおもうほど、私はくそ真面目だった。

 

あのときの屈辱感を、私は忘れなかった。自分の誠意が300円か、とその時私は思った。一人の生徒が言ったに過ぎない言葉だったが、すべてのものが自分の存在を、計算しているように思えて仕方なかった。自分の存在する時間を、いちいちお金に換算する、そう言う生徒の相手をする生活が、つらかった。同じ職種の講師とはいえ、今は月謝を生徒の手を通さないで、給料という形でもらう。自分より豊かな生徒から、存在をお金に換算して評価される心配がなくなった。それだけでも、私の心は落ち着いた。

 

やっと少し余裕のある時間ができた。さて遊んでみるか、と思ったとき、自分の周りには一人も友人はいなかった。大学院に残ったのは英文科から3人、国文科から一人、後は学位を取るためにどこかから来た修道会派遣のシスターばかりだった。そのうち誰も知り合いはいなかった。わずかに口をきいていた友人たちはもうそれぞれの道を歩き出していた。

 

すでに私は遊ぶ方法さえ知らなかった。遊びとはなんぞやなんて哲学的思索を楽しむぐらいしかなかった。

 

家には独立した兄が置いていった山歩きの装備をすこしあった。中央線沿線に住んでいたので、ちょいと足を伸ばせば、山が近かった。山歩きは最もお金のかからない娯楽だった。私は黙って登山靴をはき、リュックを背負い、山に出かけた。

 

国鉄中央線を下っていけば、好きなところに降りて山に行ける。たいして考えもせず、ある朝おにぎりをつくりリュックにりんごや乾パンを放り込み、ヤッケと水筒を持ってふらりと出た。相模湖で降り、登山道を探して上り始めた。開けたところに出ると道が分かれていた。棒を拾ってぽんと放したら左に倒れたから左に歩き出した。

 

右へ行けば高尾、左に行けば影信、陣場から戸倉三山を経て五日市へ出る。

 

陣場までは登山客に会うが戸倉三山を知っている人はあまり無い。1000メートルに満たない散策向きの連山であまり高くないから、スリルを好む人はわざわざこない。しかしそれを一日で登るためにはかなりのスピードで歩かなければ行けない。自然が手付かずで残っていてごみも無い。このコースを私は偶然見つけた。

 

景色を楽しみながらどんどん歩く。あまり人が通らないだけあって、登山道とは名ばかりの獣道みたいなところを生い茂った草を分けながら歩く。開けたところでおにぎりを食べる。すがすがしい。それから遠くに向かって、腰に手を当てて放歌する。踊ろうが叫ぼうがさえぎるものはいない。

 

これだけ馬鹿やっていれば、熊も驚いて出てこないだろう。熊ぐらい出てくると面白いななんて思いながら歩いた。途中道に迷ったりしてへとへとに疲れ五日市に下りるときは真っ暗だった。

 

休みになればそう言う生活をしていた。奥高尾は、すでに自分の庭のようになっていた。陣場山の山上にある茶店のおばさんが、私の顔を覚えていて、親しげに挨拶してくれた。

 

山歩きを一日してきて、真夜中家に戻った。誰も待っていないし、家を出たことも帰ったことも、誰も気がつかなかった。

 

院生になってから、ちょうど空き部屋ができたので、私は母に部屋代を払って、個室に住んだ。個室にはせんべい布団が待っていた。ごろりと転がり、窓からもれる月あかりを見た。ひょっとすると自分はさびしがっているぞ、とその時私は思った。