Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月10日

 「乾坤一擲」

 

偶然に浮かんだ名前、村瀬先生

 

私は1%の可能性を求めるほどに緊迫している夫を助けてくれる可能性のある人物を、自分の知っている日本国内の人脈の中で、記憶の中に呼び起こしていた。ここはメキシコで、手元にすべての人脈のリストを持っているわけではない。しかも、できるだけ早くビザの申請書は出さなければならない。

 

ということはその「身元引受人」の承諾を得ている時間がないのだ。1%の可能性を期待するのだとしても、どうせならいやな思いをしないで、成功率の高い人物を考えなければならない。

 

事後承諾が可能で、しかも成功しなかった場合オーストラリアへの可能性も残せる、度量のある人物。こう言う場合に、私のような裏面工作の下手な、直接行動しか取れない人間を受け入れてくれる人物。その人自身が、人助けが可能な人脈と、社会的地位と、ある種の経済力を持ち、純粋に行動に移すことができる人物。

 

これだけの条件を満たす人は一般では皆無だということを知っていた。しかし私の脳裏に一人の人物の影が浮かんでいた。ひらめくように脳裏に浮かんだのは、私が院生時代出会った、中国文学講座の教授だった。

 

村瀬先生。極めて面白い人物だったから、私が日本を出たときにほとんどの過去を置き去りにしてきたにもかかわらず、住所録に彼の名だけは残し、細々手紙のやり取りもしていた。彼は自分のその当時の身分と履歴を名刺と一緒に私に書き送ってきて、不安定な情勢の中で、万が一のことがあるかもしれないから、必要なときがあったら利用しなさいといってくれた人だった。

 

彼はがっしりした体格のきわめて姿勢のいい男で、いつも直立不動の姿勢で教壇に立って講義をした。無骨そうに見えるその姿にもかかわらず、彼にはえもいわれぬかわいらしいえくぼがあり、それがなんだか不似合いで、ひょうきんで可笑しかった。

 

ベトナム戦争時代のことだった。彼は突然授業の途中で、身を震わせて泣き出した。しかも直立不動である。直立不動で腕を顔に当て、泣きながら涙を拭いていた。

 

学生達にはなにが起きたかわからなかった。彼はオイオイと声を上げて泣きながらこういったのだ。

 

「世界にこれだけたくさんのクリスチャンがいながら、ベトナム戦争終結させられないのは、なんと哀しいことであろう!」

 

そう震える声で言った後、「ウヲヲンウヲヲン」と声を出して泣いたのだ。直立不動の姿勢のまま。

 

純情には年齢制限はないかもしれない。しかし純情の表現には限度というものがある。失礼だけど、可笑しい。可笑しいのだけれど、笑うに笑えず、育ちのいい学生達は、先生と目を合わせまいとうつむいていた。いくら相手が教授でも、20を過ぎた学生には到底付き合いきれない純情さを彼は教壇上で露呈したのだった。

 

ところで私は院生だったから、もちろん20歳を過ぎていたが、彼のこの極端な純情に付き合うことのできる数少ない人物の一人だった。彼はカトリックではないが、無教会派といわれる日本産のクリスチャンであり、中国文学を教えながら、時々、突拍子もない無関係な聖書を引用するほど、かなりとんでもない、へんてこな授業をしていて、学生達の人気はいまいちだった。

 

しかし、私にはこう言うのが面白くてたまらなかった。彼が講座で、「史記」を教えていたにもかかわらず、史記の説明になると、まるで関係のない聖書などを引用するものだから、私は「やってやれ!」と思って、からかい半分、中国古典文学の論文形式のテストに、じゃんじゃん聖書を引用して答えた。

 

質問は、史記の時代の女性観について述べよ、というものであった。

 

「そもそも女性とはアダムとエヴァの時代から子供を生む機械だった。史記に登場する武人たちは行くところ行くところで子供を作る機械と結合し、女性たちには子宮の機能以外に、存在理由を与えられなかった。」という出だしで、私は村瀬先生流儀で、史記と聖書のごま和えみたいな落語論文を書いたのである。

 

それが痛く彼を面白がらせたのか、彼は私と廊下で会うたびに、立ち止まって、直立不動の姿勢で両手で顔を覆って「くっくっく」と笑うので、どうもきまりが悪かった。彼はこの落語論文に9という点数をくれたので、面白いからちょっと話してみようと個人的に接近し、彼のうちにも押しかけた。

 

私はそこで、村瀬先生相手に、宗教を語り、人生を語り、彼の純情さに負けないほどの純情さで、彼の持っていた知識を吸収したという、そういう間柄だったのだ。 

 

私はその時知らなかったのだが、彼は私の通っていた大学に来る前、宮内庁にしかも平成天皇のひざ元に勤務していたそうだ。従って彼はいろいろの経緯から、宮内庁にも法務省にも外務省にも多くの人脈を持っていた。

 

彼はそのときすでに70を過ぎていただろう。しかし彼に年齢による変化などないことを私は十分知っていた。

 

そうだ!村瀬先生のあの持ち前の信仰と異常ともいえる純情に訴えよう。と私は思った。

 

その当時、カト リック信者であるケネディ米大統領が泥沼化に導いていったベトナム戦争を、「世界のクリスチャンが終結できない」といって直立不動で泣く人物だ。

 

だいたい世界の戦争を手がけるのは其の「クリスチャン」が大勢を占める。世界の有色人種の国に侵攻し、白人のDNAをばら撒いたのも、ユダヤ人を集めて虐殺し、ろうそくの原料にしたのも、日本民族を実験台として2発の原爆を落としたのも、ベトナム戦争を起こしたのも、アフガニスタンイラクに言いがかりをつけて破壊し続けているのも、みんなその「クリスチャン」である。

 

キリストの本来の教えや其の信仰の真髄がどうあろうとも、「クリスチャン」は信仰の力によって戦争を終結させようなんて、もともとだあれも思っていないのだ。「クリスチャンがいるのに、戦争を終わらせられない」じゃなくて、「クリスチャンがいるから戦争が終わらない」んだろ?

 

世界戦争を牛耳るキリスト教陣営の所業を無視して、「これだけクリスチャンがいるのに、戦争を終わらせられない」と、本気で言って直立不動で涙を流すあの教授は、まともに国際情勢の分析などをするタイプではない。信仰によって国際問題がすべて解決できるはずだと思っている純情至極の変人奇人の類である。もしかしたら人間じゃないかもしれない。

 

しかしだからこそ、彼なら私たちの窮状を助けてくれる。というより、私たちを助けてくれる人物がいるとしたら、彼を措いてほかにないだろう。今必要なのは常識家でも実務家でも国際情勢通でもなく、彼のような非常識で純情な善人だ。

 

私は其のことを信じた。なぜなら私自身が、疑い深さを棚に上げれば、「非常識さと純情」において、彼と同等の人間だったから。

 

私は次の日、申請書の身元引受人の欄に村瀬先生の名まえを書いた。偶然にもそのとき、私は彼の手紙を持っており、住所もわかっていたのである。

 

それから私は彼に手紙を書いた。

 

「村瀬先生、突然のお便りお許しくださいませ。長いことご無沙汰いたしておりますが、先生はいかがお過ごしでいらっしゃいましょうか。

 

さて、緊急のことなので、前置きは省略させていただく失礼をお許しくださいませ。

 

エルサルバドルは内戦下にあり、私どもの身辺もいよいよ危険が迫ってまいりました。主人の友人達も次々と国外の縁者を 頼って脱出を図っているという毎日で御座います。私達も今内戦のエルサルバドルから脱出をしようとしていますが、難民申請をしようと思いまして、メキシコに在るオーストラリアの大使館に参りました。オーストラリアが難民を引き受けのための移民申請を受け付けているので、私たち一家も申請しようと思ったからでございます。

 

そこで紆余曲折を経てオーストラリア大使館から、日本が私たちを引き受けないのならば引き受けるという回答を得ました。家族は日本語ができず、私たちは故国を捨てて移住するとしたら日本より、オーストラリアのほうが、将来性があってよいと判断しております。

 

ところが、在エルサルバドル日本領事館の領事は一度主人のビザの申請を断りました。現在メキシコでもう一度申請してはいるものの、日本が私の家族を難民として引き受けるかどうかは、日本大使館にビザ発給の申請を出して結果を待たないとわかりません。申請書に身元引受人の欄があり、私は実家の家族と交流を絶っておりますので、考えに考えて、先生を思い出しました。以前に先生が、「何か必要なときがあったら、ご自分の名前を利用してもよい」というお言葉を下さったのを突然思い出したのでございます。

 

他にどうしても別の方の名前が思い浮かばず、お言葉に甘えて、先生のお名前を拝借いたしました。

 

身元引受人を申請書に書きますと、先生のほうに法務省のほうから受諾するか否かの問い合わせが行くはずでございます。そのときどうか、受諾をなさらないでお断り下さいませ。

 

受諾なさらなければ主人に日本のビザは下りませんから、私たちは希望どおり、オーストラリア にもう一度申請することができます。

 

最終的な移住地は、日本ではなく、オーストラリアを希望していますので、よろしくお願いいたしま す。」

 

そう。あのとき私は変化球を投げた。私は村瀬先生が、身元引受人を受諾してしまうかもしれない可能性も考えた。あの人はうそをつかない。人を疑いもしない。おまけに彼は彼流儀のキリスト教徒としての連帯意識を持っている。名前を利用しなさいといったからには、其の言葉の結果責任負う人物だ。

 

しかし私にしては珍しくその可能性を直接表現では書けなかった。我々の窮状をオーストラリアでなく日本が引き受けるかどうかという判断は、彼が彼の信仰によって神様と相談して決めるだろうと私は見ていた。私は先生との学生時代の交流から彼の思考方法を知っていたから。

 

文字通りエノクの期待する1%を、先生と神様に預けたのである。

 

私が彼に直接表現で以って身元引受人を頼まなかった理由は二つあった。一つは本当 にオーストラリアへの道を残しておきたかったこと。もう一つは、彼は必ず私の実家に連絡をとるだろうと見ていたことである。

 

実家に連絡をとったら、すべての計画が水泡に帰すことを私は恐れた。恐れたというより「知っていた」。私はまるで日本国が私の実家の支配を受けているかのごとく感じていて、実家の判断に村瀬先生がしたがうことを怖れていた。実家は猛反対するだろう。そうしたら私の日本に上陸する計画がふいになる。エノクの1%の可能性がふいになる。私はほとんど金縛りにあっていた。

 

私が8年前日本を去ったとき、私は全ての過去を振り切ったつもりだった。子供が生まれても日本語を教えなかった。不完全なスペイン語しかできないくせに、私は子供とスペイン語で話した。一生懸命私は現地の料理を覚え、特別なお客様を招待するとき以外は、日本料理を作らなかった。

 

子供には現地の子供として教育しようと、現地の動植物をスケッチし、動植物図鑑を作る計画まで立てた。子供の病気にさえ、私は現地の民間療法を尋ね尋ねて薬草を煎じて飲ませたのだ。

 

地方を歩けば、遺跡があり、遺跡の周りには遺跡の価値を知らない民衆が勝手に掘り起した石器や土器を売っている。私はそういうものを集め、閑ができたら、必ず考古学上の価値を研究して、これも子供の現地同化教育に役立てようと思っていた。

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私のこれらの思い、この国に対する愛情が、日本に逆流することでフイになる。そして我々は流浪の民、根なし草として、どこの国からも帰属を認められず、夫はガイジンと呼ばれ、娘は混血と呼ばれ、ハーフと呼ばれ、所属不明の人間となる。そのことを私は心の底から憂えたのだ。

 

だから私のあの手紙の内容の変化球の意味は複雑だった。オーストラリアにいけますように。村瀬先生が私を助けてくださいますように。自分の二重の思いをあえて伏せて、結果を最後には神様に任せようという祈りのような思いがあった。

 

私は日本を信じなかった。日本に友人がいることも、日本に家族がいることも、私には無意味だった。まったく未知のオーストラリアの大使館員から、国家としての冷淡さを罵倒されるような日本と日本国民を私は信じなかった。でも私と私の家族の運命は、人間の自分が決めることではなかった。

 

私は日本の国家のシステムでもなく、法律上の規約でもなく、一人の人物の類まれな幼児のように清らかな信仰心を信頼した。其の人物と神様の対話において、本来の行くべき道が示されるであろう。私はすでに其のときできることはすべて試した。どっちに転んでも苦しいのは同じなのだ。

 

後は神様の分野だ。と私は思った。