Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月8日

「子育ての記録」1

 

私は大勢の兄弟の中で育ったが、末っ子だったから、かつて3歳の自分の娘のようなこんなに小さな幼児を扱った経験がない。それで、自分の子供を眺めていて、良く驚かされる。比べる相手がいないから、これが普通なのかどうなのかわからない。

 

娘は絵が好きらしい。ひよこを描いたり、アルマジロを描いたりする。それと言われないと判らないけれど、なかなか面白い。しかも不思議な現象を擬人化するのも得意だ。一月ほどまえ、地震があった。娘にとって初めての地震である。彼女には其の体験が不思議でならないらしく、いつまでも興味を持って地震とはなんなのかを訊いてきた。

 

そこで娘は自分で捕らえた「地震」なるものを絵に描いた。丸の周りにたくさん毛が生えている。そういう形を描きながら、娘は自分で捕らえた「地震」なるものに補足をしていく。「地震には目があるの?」とか訊く。地震のとき例の臆病な犬が恐怖のあまり大騒ぎした。それで、彼女は聞く。「クマの部屋にまだ地震はいるの?それとももう、おうちに帰っちゃったの?」彼女にとって、家を揺らすほどの生き物だから怪物にちがいないと思うらしい。

 

雷がなったら、又絵を描いた。日本の伝統的な、褌つけてガラガラ持った鬼ではなくて、いびつな円にたくさんの足がぼうぼう生えている。

 

私は自分の意識を変えなければならない。自分は人間の発達は想像力より模倣力が先行すると思っていた。親を模倣し、言葉を覚える。親を模倣し文字を覚える。親を模倣し常識的感覚を身につける。でも娘は地震や雷を見たことがなく感じただけである。大人が描いたそれらしい絵を見せたこともない。自由な発想で絵に表している。

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自分の記憶する限り自分はそんなことしたことない。成長の段階で、私の周りには大人がいすぎた。大人は私がすることにいちいち批評をつけ、空は青くなければいけない、太陽は赤くなければいけないという常識を植え付けた。記憶する限り私は自分の考えをそういう常識で持って修正しながら、「正しい知識」を身につけた。実際に「赤い」太陽を見たことがなくても、「常識」では太陽は赤かった。それが知識というもので、模倣は知識の基本を身につける行為だった。

 

娘の傍らで私は絵を描いていたが、私の絵は完全な「実写」であって、そこに新しい創造力などの入る隙間もなかった。庭のマラニョンを描き、バナナを描き、庭に来る珍しい小鳥を描き、通りに出ては火のように燃える名も知らない花を描いた。

 

私が教室で描いた鯛の絵を誉めてくれた先生が、良くできたから店に出して売ろうといってくれた。其の絵もただの「実写」に過ぎなかった。大人たちの価値観で、それは「よい絵」だったかもしれなかったが、そこには3歳の娘ほどの「創造力」のかけらもな かった。

 

私は娘の描く「地震」と「雷」の絵に、少なからずショックを感じた。それは完全に 彼女だけの世界の作品だった。与えたのはクレヨンとノートだけだった。指導などまったくしなかった。「地震には目があるか」と聞かれて、まじめな科学的な答を出したわけでもなく、かといって、「ある」と断言もしなかった。

 

「どんなおめめかな ~」などと、曖昧な返事をしていた。彼女は自分の考える「目」を彼女の「地震」につけた。

 

「子育ての記録」2

 

娘が毎日幼稚園から泣いて帰ってくるようになった。ロンチェーラと呼ぶあのあのブリキのランチボックスが原因らしい。表にはデイズニーのキャラクターが全部載った船が付いていて、縁取りが赤い。買ったとき、娘が酷く気に入って、毎日通りに持って出て、友達に見せていた。其のときは問題はなかったのに、幼稚園では其のロンチェーラを子供たちが奪い合っているらしい。今日は女の子が髪の毛むしった、今日は男の子が 噛み付いた、今日は誰とかチャンが押し倒した。そういっては娘は其のロンチェーラを絶対に守ろうとして喧嘩になり、怪我して泣いて帰ってくる。

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幼稚園バス

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そのロンチェラを持った娘。
 

喧嘩も社会性を身につける上では大切かな、と小学校に入るまで幼稚園にも行かず、 近所の友達も持たなかった私は考えた。とにかくこれは同じ年齢の子同士の喧嘩であって、圧倒的に力が強い相手からのいじめではないと思ったから。喧嘩のことを先生にも言ってないらしいし気が付いてもいないらしいので、私はひとまず子供自身に解決をさせようと思った。「明日、あまり困ったら先生に言って注意してもらうのよ。」とだけ娘に言って、私は静観することにした。

 

あれは特別なものではなくて、普通の店で買った普通のロンチェーラだと私は思っていた。私自身はデイズニーなんか好きじゃない。でも娘はマイアミの難民部落にいた時、あるおばさんがくれた大きなミッキーマウスをいつも抱きしめて歩いていたから、娘の趣味に合わせて買っただけだ。日本にはデイズニーのキャラクターなんかあふれているから、そんなに珍しいとは思わなかった。

 

其の日娘はわんわん泣きながら帰ってきた。其の泣き方が尋常ではなかったので、私は娘の体を調べた。そうしたら、体中に噛みつかれたような歯の痕が付いて、赤く腫れていた。そろそろ限度だな、と私は思った。体を洗い、メンソレ‐タムを塗り、主人に言って、幼稚園の先生と連絡をとるように促した。主人は娘の体の傷を見て、幼稚園にはドラキュラがいるのか?と言って物凄く怒った。

 

幼稚園の先生はたいした対応はしなかったが、とにかくドラキュラ君の両親には知らせてくれた。ドラキュラ君の両親はやっぱりドラキュラらしく、息子は愛情表現としてキスしただけだといって譲らなかった。愛情が激しいと歯でキスするんだね。

 

大体あの国の親は全員親ばかで、自分の息子は世界一頭が良い、なんて平気で公言するし、息子や娘の間違いを絶対認めようとしない。しかも日本流に、「うちの子はだめなんです」などと言おうものなら、「親がああいうんだからよほど馬鹿なんだろう」などと言う評価が定着してしまい、子供は公然と馬鹿にされるようになるのが関の山だ。だから、私もこりゃまずいと思って、「うちの子は可愛くて頭が好くて、こんなに優れた子は他にいない」などと言うみっともないことを公言していた。

 

娘はドラキュラ君に恐れをなして2日間幼稚園を休んだが、仲良しの友達に呼ばれたり、先生にとりなしを受けたりして、気を取り直して、出て行った。其の日は先生も気をつけてドラキュラ君を監視してくれたと見えて、娘は元気に帰ってきた。

 

習ったかえるの歌が大好きで、例のぬいぐるみの蛙を抱いて、良く歌ってくれた。お遊戯もして見せ、絵を描き、数を数え、彼女の世界は広がった。

 

「子育ての記録」3

 

少なくとも、表面的には我々家族の1983年は平穏に過ぎた。死んだ人も生まれた人もいた。世界のどこでもあるように。死者と生者の過密地域と過疎地域があるだけで、太陽は同じように昇り、沈んだ。

  

ある時「メキシコに行ってくる。」と、主人が言った。1984年3月のことである。メキシコ にオーストラリア大使館の出先機関があって、移民申請をするということだった。つまり、オーストラリアに難民として移民する意思のあるものをオーストラリアが受け付けていたのである。家族全ての脱出だから、先に主人が目鼻をつけてきて、後で家族が合流すると言うことになった。

 

主人が出かける前、空き巣にはいられたこともあって心配だったので、ムチャチャ(子守りまたは、お手伝いさん)を雇うことにした。娘は一人っ子だし、どこの家にもいるムチャチャを、概して子供の世話をしてくれる優しいお姉さんと言うイメージで見ていたから、娘はムチャチャが欲しくて仕方なかった。「家にはどうしてムチャチャがいないの?」と娘は私によく聞いた。「なんでもお母さんがするから良いでしょ」と私は軽く受け流していた。しかしムチャチャを雇わないのは私の主義だっ た。

 

当時、彼女達は考えられないほどの低賃金で、住み込みで家事の全てをさせられる労働者だった。多くの場合、ムチャチャの部屋として与えられる場所は、庭の隅のまるで動物の小屋のような空間で、夜寝る以外はほとんど18時間働かされる。3食は家族の残り物を台所の隅で立って食べる。ムチャチャに仕事を任せた雇い主は一日中まったく何もせず、遊んで暮らす。但し心有るものは、ムチャチャが里帰りするときなど、家族に対する心遣いで、家に有るあまっているものを持たせたりする。

 

昔いた日本人駐在員の奥さん達が、そういった気遣いもせず、猜疑心ばかりで彼女達を見、しかもムチャチャをあごで遣って、いろいろ問題を起こしていたのを見た私は、炊事洗濯掃除、洋裁子育ての全てができるのに、何もしないで、マージャンなんかやっている日本人の駐在員の奥さん達の姿に、嫌悪感を感じていた。

 

だから妊娠して絶対安静にしていなければならなくなったとき以外は、決してムチャチャを雇うまいと思っていた。絶対安静の時だって、私はベッドの上で、子供の服を縫っていて、人を働かせて自分が遊んだことなんかなかった。自分がかつて苦労した、其のことが絶えず心の底にあったから。

 

雇うなら馬鹿な雇い方をするまい、と私は思った。ロシというそのムチャチャが始めて家に来た時から、娘は喜んですぐなついた。多くの家庭で一番問題なのは子供達のムチャチャに対する態度である。親があごで遣うのだから、自分もムチャチャをあごで使って良いと子供は考えてしまう。自分を送り迎えする使用人の足元に自分の学校で使う荷物をなげつけて、「もっていけよ!」と言って命令している6,7歳の女の子を私は見たことが有る。ムチャチャを雇えば、自分の子供をよほど気をつけて躾 なければならない、と私は思った。

 

「子育ての記録」4

 

ロシはなかなか性格のよい子だ。15,6だと思うけれど、素直で優しい子だ。私が仕事場に使っていた部屋を彼女のために空けて、こぎれいな夜具を整え、彼女を迎えた。小学校低学年くらいまでは学校に行っていたらしく、すこし読み書きができた。

 

ムチャチャと呼ばれる人たちは、多く最下層階級の出で、学校に行く機会に恵まれなかったから読み書きができない。それを10歳くらいから小間使いとして家において、3食与えて学校に行かせて、賃金を支払わないという雇い方もある。

 

ロシの仕事は掃除と台所の後片付け、近くの買い物と洗濯物を干してアイロンをかけること。洗濯は、私が買った、かなり昔に日本で出回った洗濯機があるから水の流れる時刻に回してしまえば楽だ。後は留守番と、子供の遊び相手。食事は今までどおり私が作るし、休憩時間も十分にある。この国のムチャチャがこなす標準的な家庭の仕事から比べたら格段の差で、給料も一般以上に与えた。

 

娘が待望のムチャチャの到来に、すごく喜んで、おしゃべりをしまくっている。アイロンをかけているロシの部屋に行っては、まだなの?まだなの?といって、相手になってもらおうとする。ロシの仕事が一段落して自分の相手してくれるので、スペイン語 がいまいちの私に話すより、言葉が豊富だ。幼稚園で習った歌、お遊戯、いろいろ披露している。ロシも、自分の知っている歌を教えてくれる。弟妹の世話をしていたのだろう。子ども扱いが上手だ。

 

その頃、娘は何かのアレルギーのような症状と持っていて、咳をし、いつも鼻水をたらしていた。当時私は日本の事情を知らなかったが、今で言う花粉症のような症状だった。喘息だと思い、いろいろ医者に通った。しかしどんなに薬を代えても治らなかった。かかりつけの医者が鼻の手術をしたほうが良いと言い出した。

 

私はなんだか疑いを持ってその言葉を聞いた。鼻水が出るからといって手術するのかなあ。そのうち私にも同じ症状が出て、咳に悩み始めた。

 

ふと私は、知らない土地の知らない病気は現地の民間療法に頼るのが良いのではないかと思い、ロシに何か良い土地の療法を知っているかどうか尋ねてみた。私の勘があたっていて、彼女は自分の村で普通に使われている薬草を教えてくれたので、姑にその話をしたら、なんだ、そんなもの、お安い御用とか言って、その薬草をどこからか集めてきて持ってきてくれた。ロシがそれを煎じてくれたので、私は柚子のような香りがするその煎じ薬を飲んでみた。

 

そうしたら、一晩で私ののどの痛みは消えた。この土地に住む先住民が先祖代代使っていたその薬を、何故この国の「近代的な」医者が採用しないのだ。

 

娘は子供だからその薬湯を嫌がってそのままでは飲まなかったので、ジュースなどに入れて飲ませた結果、娘の咳も収まった。私はふと思った。「現代医学の」医者は薬屋と結託してわざわざ治らない薬を買わせているのではあるまいか。いくらなんでも12月から4ヶ月、医者の薬を6回も換え、飲ませていたのに治らなくて、先住民の薬草では、1晩で治るなんて、嘘みたいな話だ。

 

先住民は山から薬草を取ってきて自分で煎じて作るのだから、だまされないけれど、医者は金儲けのために、何を買わせてるのかわかったものじゃない。「現代的」「西洋医学」と言う言葉は、西洋人に侵略を受けて国も言葉も宗教もつぶされた原住民の耳にどう響くかは、戦後の日本にとっての欧米に対するコンプレックスとだぶらせて考えても、よくわかる。しかしどこの原住民も自分達の先祖の知恵を否定することはないのだ。私はそのことをロシにも姑にも言った。「ほら!私たちはあなた方の薬で治ったんだ。」

 

「子育ての記録」5

 

私の3歳の娘。この子は確かに父親のDNAを持っているな、と思い当たるときがある。何かを娘にやると、娘は必ず、ロシのところに行って、それを分けたり、一緒に使ったりする。おやつとか、折り紙の類だけれど、自分ひとりのために多くとったりしない。食事のときも、お皿に分けるとき、「ロシには?」と聞いて心配している。私は夫の留守中、娘が見ている前で、必ず、食事を三等分して出した。主客転倒の問題が起きるから同じテーブルにはつかせなかったが、食事の種類にも量にも差をつけなかった。それを娘は見ていて、ロシにはもっと多くあげようとする。

 

おやつを上げても、娘は通りに持っていって、みんな友達に上げてきてしまい、まるで欲がない。「あげた」のか、「とられたのか」判らない。

 

面白い奴だと思うこともある。日本からプレゼントされた厚紙のジグソーパズルの絵を丹念にはがしている。初め破壊行為をしているのかと思ってロシがやめさせようとしている。それで娘の目付きを見た。あれ?いたずらの目付きではない。

 

暫くなにをするのか観察することにした。絵を全部はがしてから、絵のないジグソーパズルを奇麗に並べている。物凄く熱心に、組み合わせている。おや?と思った。絵をはがして、何もない状態で、形だけで組み合わせることができるかどうか、試しているようだ。この子、自分の知性を試している!

 

感心して私は娘の手元を追った。完全に組み合わせが成功したとき、娘は得意そうに私を見上げ、えもいわれぬ笑顔を見せた。ロシがたまげて、この子頭いいと連発している。

 

ある時庭に見知らぬ動物が入ってきた。それを私は何とかして捕まえて、小鳥用の籠に入れて眺めた。タクアシンの子供だ。珍しいか ら飼いたかったけれど、何を食べるのか判らない。誰か知っている人に聞こうと思って一晩置いたら、次の朝逃げられていた。娘が泣きながら絵を描いた。その絵がなかなか動きも表情もあって面白い。私のように絵と言うものの概念が作られてしまった人間の絵ではないから発想がいい。いつも感心させられる。でも黒板にチョークで描いたから保存できない。仕方ないから写真にとっておいた。ロシは娘の世話をしていると勉強になるといっている。

 

朝になると、毎日決まってすこし遠いけれど貧民窟のある谷底の入り口の、小さなパン屋でパンを買ってくる。ひしゃげた灰色の屋根のある本当に小さな小屋だけれど、 毎朝土間でパンを焼いている。それがとてもおいしかった。ロシにくっついて娘もそのパン屋に行く。温かいパンを買ってくる。ロシに預けたお金をロシのお金だと思っていた娘は、パンはロシが買ったのに、みんな私が取り上げると思っている。なんと説明しても理解しない。まだ3歳だ。理解させようとするほうが無理だ。でもそういう会話で、私には この子が凄く正義感のある優しい子かなと思えた。