「自伝及び中米内戦体験記」8月23日
「スペイン語との出会い」
1964年は東京にオリンピックがあった年だ。私に学生時代の全期間を通じて、アルバイトの斡旋をし続けてくれたマザー広瀬が、「面白い仕事があるよ」と私を呼んだ。彼女は言った。「あなた、スペイン語でオリンピックのガイドやる気ない?」
「えっ?」
ぽかんとしてマザーを見た。私の第二外国語はフランス語で、それだって話せるほどマスターなんかしていなかった。
そう私が言ったら、マザー広瀬はこともなげに、言うのだ。
「だってあなた、フランス語勉強したのなら、2週間もやればスペイン語ぐらいできるでしょ。」
「あら、そう。。。」という返事を、いつもこのマザーにかかっては、つい言ってしまう。
マザーは当たり前みたいな顔をして、いろいろなへんてこな仕事を私に持ちかけてくるのが常だった。いつかは「住み込みでドイツ人の家庭のお手伝いさんやらないか」と言うので、「勉強続けられることが条件なら良いですよ」、と言ったら、「ああ、そんなもん大丈夫でしょ」と言う答えなので、事を進めようと思ったことがある。
ところがよくよく聞いてみると、その家庭は日本にあるのではなくてドイツにあるばかりでなく、勉強が続けられるという「条件」は、「そこにいればドイツ語が身につくさ」、というものだった。
いくらなんだって、学位もとらないうちに、日本を出てドイツまで、お手伝いさんやりに行くわけないじゃない。当たり前だけど、この時ばかりは断った。
ある時は、「インターナショナルスクールの子の家庭教師の口があるよ」というので、乗ってみたら、スペイン人の子に英語で数学を教えるというアルバイトだった。いつものことながら、こともなげな口調になんだか載せられてしまって、まあ、自分でも面白いと思ったから引き受けた。しかしいくらなんでも無理だった。結局私が言語混乱を起こし、1ヶ月で解雇された。こんな状態だったから、私という人間は、何でも言えば飛びついてくると、このマザーに思われていた。
でも今回は日本の一時的なアルバイトらしい。2週間もスペイン語をやれば通訳にまでなってしまうなんて、本気で信じたわけではないが、やっぱり、面白いや、と思ってしまった。
「やって見ましょ」、と私は答えた。
実はそれより前に、教会に新しく赴任してきたアルゼンチン人の神父さんから、母が60の手習いでスペイン語を習っていた。私がフランス語を知っていて、文法が似ているに違いないと母が勝手に決め込んで、よく私にスペイン語文法を質問してきた。
それでスペイン語なんか聞かれてもわからなかったから、上智大学までいって教科書を買ってきて、独学しながらも、時々母についてそのレッスンを見学したことがある。偶然にも手元にスペイン語の本があったのだ。
そこで私はその厚さ4センチぐらいある教科書を、半分ばかり1週間独学し、それから先は自分ひとりでは無理だと悟って、あるスペイン系の修道会の門をたたいた。当時大学にスペイン語の講座が無かったのである。
修道会というものは、門をたたく見知らぬ人を、布教のために良いカモだと思う癖があるので、すごく喜んで私を中に入れてくれ、院長じきじきに面会することになった。
変な期待をされては困るので、私は手っ取り早く単刀直入に切り出した。
「本格的にスペイン語を教えてください。」
「あ、そう。。。」院長は奥に行ってその場で一人のスペイン人のマドレ(当時の呼称:シスターのこと)をつれてきて紹介した。
「このマドレに日本語を教えてください。」費用はスペイン語のレッスンとの交換です。」と言う条件だった。
気は進まなかったが、ただほど怖いものはないのを知りながら、腹の減っている私には、ただほど魅力あるものもなかった。
其の条件で二つ返事で引き受けて、それから、何かときっかけをつかんでは私に宗教の話をしようとするマドレのたくらみを退け退け、私はほとんど日本語を教えないで、もっぱらスペイン語を盗んだ。幸い相手はものすごく善人だったから、私の一方的にただでスペイン語を盗んでやろうという初めからのたくらみに気がつかなかった。
スペイン語を習得してやろう。意欲に満ちてスペイン語を学んだ。まさか、ガイドはできなかった。しかし一度食いついたものは物にするまで離したら損だ。そう言う精神で、初め紹介を受けた、マドレ マラビジャと私はスペイン語で深く付き合うようになった。
(注:マザーとは現シスターのこと。マザーテレサで有名な、あの方も、シスターです。)
「物置に住む」
或る時私は数日間山を歩いて、家を留守にした。帰ったとき私の部屋が無くなっていた。
建築家の次郎兄さんは、実家の隣の自分の地所となったところに家を建てて住んでいた。母は次郎兄さんの薦めにしたがって、戦後父のアトリエを改造して建てた下宿屋をもう少し現代的に建て直す事に同意して、私がいない間に、実行に移されていた。
私が借りて住んでいたアパートの一室は跡形も無く、家具などは残りの部屋に山積みになっていた。
修士論文を書く時期だったので、困った。私の書物はみんなひとまとめにして庭に応急に作った物置に入っていた。母屋のほうはほとんど住む空間がない。その他の私の所有物はガラクタとみなされて皆母屋に山と積み重ねられていて、整理も不可能で足の踏み場もない状態だった。
何かを試みるのは無駄と悟った私は決めた。
「面倒だ、この物置に住んじゃおう。」とりあえず卒論に必要なものを確認して、三畳に満たないその物置にベッドを入れて、自分の机も入れたら、後はくずかごを置く場所ぐらいしかなかったが、ちょっと面白いわい、と軽い気分で住み始めた。
その物置には、もう、誰にも会わずに門から直接出入りできるようになった。鍵もない庭の中の物置で、外から見ると、貧民窟の掘っ立て小屋だ。
まあ、いいや。とにかく名実共に独立だ。あまり仲良くない家族とはいえ、こんなに完全に一人になったことは初めてだった。まだ夏の余韻が残っている頃は、それでもよかった。暮らしやすいように中を整理して、いい気分で寝起きできた。迷い込んだ猫を一匹、同居人にした。
これが当時の私の巣。この机と私の後ろにベッドが1台。
秋になった。一応取り付けた窓があって、庭が見える。ぼおっと外を眺めていると、私はいつしか過去の追憶にふけるようになった。当時の秋は、かなり寒かった。仮設の物置だから、夜の温度はまるで外にいるのと変わらず、かなりこたえた。
卓上の小さな電気スタンドに40ワットの明かりをつけた。40ワットの電気でも、手製の和紙でできた笠がわずかに温まる。火鉢なんか置く隙間がないから寒い。その笠のぬくもりに手を置いたり頬を寄せたりして暖を取る。
何だかわびしく孤独を感じた。庭の外れの物置で、隙間風に身をさらし、40ワットの電灯で暖を取る自分の姿が、客観的に見てもなんだか哀れかも知れないと感じた。
本当は何にも哀れではなかった。今迄で一番豊かな、贅沢な時間と空間を独り占めにしていた。危険だから暖房を入れることができず、あらゆる衣類に包まって、猫を湯たんぽ代わりにして、自由自在に私は、論文を書いたり詩を書いたり、短編小説を書いたりしていた。
しかし一人になった私はそのときやたらに過去を思い出していた。生まれつき体の弱かった私は、体も凍る冬という季節が、とりわけ精神の下降するときだった。精神の下降は妄想を呼び起こし、自分が成長して、今あることを忘れてしまうほど、昔の悪夢を呼び覚ましてしまったのである。
庭には、生まれてこの方いつも同じところにたっていた3本の棕櫚の木が見えた。幼女の頃、私が縛り付けられて泣き喚いたあの棕櫚の木だった。小学生の頃、私は数時間棒で殴られた挙句、一晩中外に放り出され、あの棕櫚の木の下に丸太のように転がっていた。
あの棕櫚の木はいつも非情な思い出と共にあった。出て行けと母に罵倒され、あの棕櫚の木を後にして、自分はあのとき、家を追われ、あてどもなく、野山をさまよった。
昔、絵本の中に、かごに入った猫の絵を見た。その絵があんまり可愛かったから、自分の猫をかごに入れてみたいと思った。物置の中から、果物なんか入れたこともない古い果物かごを見つけて、飼っていた猫を入れて遊んでいたら、母が突然烈火のごとく怒った。
怒った理由がわからないので、おびえるだけでじっと母を見ていたら、怒っているのに謝らないといってますます怒った。母の怒りが激しくなればなるほど、私は縮み上がって物が言えなくなった。母はまるで状況を理解しない私にいらだって、「なぜ猫を果物かごに入れたのだ」、と何度も何度も詰問した。
「なぜ入れたのだろう?」といつものごとく、私はまじめに考えた。しかしうまい答えが出なかった。そこで母は今度は答えないといって腕をつかみ、腕をへし折るがごとく攻め始めた。いつものことだったけれど、本当になぜと聞かれると、意味なんか、わからなかった。一言もものが言えないまま、母を見つめるばかりだった。
逆上した母は、「あなたみたいな子供はもう、家において置けないから、出て行きなさい」といった。立てといわれれば、立ち、座れといわれれば座り、出て行けといわれれば出て行かざるを得ない。それが「素直」というものだと、いまだに私は思うのだが、世の常識はいつも私を「言われたとおりにするのは反抗的だ」と攻め立てた。
本気だろうかと私は母を見つめ、その形相のすざまじさに、もう、だめなんだと観念して、私は家を出て行った。
家を出たら方向なんかかまわずに、メクラめっぽうに歩いた。ずんずんずんずん歩いた。川があり、森があった。長い長い街道が地の果てまで続いていた。ずんずんずんずん歩いた。疲れたら、身の丈ほどもある草の中にもぐりこんで、寝た。目が覚めたら、また歩いた。もう帰っちゃいけないのだと本気で思った。これからどうなるなんて考えなかった。
出て行きなさいといわれたから、私は帰ってはいけなかった。ただそれだけのことだった。抗いようもない母の命令に従っただけだった。
メクラめっぽうだったが、夜になって、もうあたりが見えなくなった頃、盆踊りの音楽が聞こえてきて、つられて音のする方向に歩いていった。
ちょうちんの明かりを頼りに、私は森の中を通り、盆踊りの会場にたどり着いた。その時後ろから、怖い怒鳴り声がして、私は腕をつかまれた。恐怖に震えて振り返ると、それは四郎兄さんだった。自転車に乗った四郎兄さんが、ものも言わず、恐ろしい顔をして、自転車を降りようともせず私を引きずって家まで走った。
私は自転車の上から兄に腕を引きづられ、付いていけずに、首に縄を付けられた犬のように、あえぎながら走り、走っても追いつかず、引きずられながら、転げては立ち、夜の街を家に向かって引っ立てられていった。
家には仁王のような形相をした母が立っていた。
家から出て行けという母の命令に、私は従っただけだった。それが悪いことで、そのために虐待を受けるのなら、私はただ虐待されるために生まれたのだと、あの時も悟らざるをえなかった。
世の中の人間が怖くて怖くて仕方なかった。さりとて怖い人間から逃れようもなく、いつも下から上目遣いで人を見るのが常だった。お前は泥棒かと家族が言った。悪事を働いているから、まっすぐ人を見られないのかと、私を威嚇した。
だから、また、まっすぐ人を見る練習をした。それでまっすぐ人を見ていたら、何も言わず何もしないのに、反抗的だと学校の大人たちから嫌われた。人という生き物は、私が何をしても、また、何もしなくても、また、いわれた通りの事をしても、ただ私に罵声を浴びせ、ひっぱたき、追放し、生まれたことがそもそも間違いだったのだという考えを植えつけた。
そっと40ワットの電球で温まった和紙の笠に頬を寄せていると、幼女の頃の自分の泣き声が聞こえてきた。その笠のぬくもりは、遠い昔に亡くなった姉を思い起こさせた。あの人が私を助けてくれ、あの人が私の縄を解いてくれたんだ。
それは本当にそうだったのだけれど、どう計算しても、あの姉は10歳で死んでいた。10歳の姉を、私は2歳のとき「小さい母さま」と呼んでいた。10歳の「小さい母様」は、20を過ぎた其のときの私にとっても、ずっと「小さい母様」のままだった。
2歳半のときあの人が死んでから、思えば自分には暖かい人間関係がなかった。ただの記憶は怪しい幻影に変わり、自分の中で非情な思いが肥大化していった。声を殺して泣いていた、少女の頃の自分が現れては消えた。
論文なんかはかどらない。妄想を振り払い振り払い、歯を食いしばって、論文を書き続けるのだが、振り払っても振り払ってもいつか自分は再び三度、妄想の中に戻っていた。
現実に誰も私を苦しめていたわけではなかったのに、私は過去を生きていた。
秋が深まった。一時凌ぎに建てた物置は立て付けが悪いから、あちこちに隙間がある。そこから風がはいると寒さよりむしろ情けなさが身も心も蝕む。人が恋しくてたまらないのに、自分には訪ねるべき友人も思い当たらなかった。恋しい、恋しい、人が恋しい。狂おしく人が恋しい。半狂乱に人が恋しい。私は幻影の中に自分を受け入れる友人を描き、死んだ姉を登場させ、ありえないほど優しい母を創造した。
私は宙を引っかき、幻影を追って絶叫した。
「学生寮に入る」
あるとき思い立って、私はふらりとあのスペイン語を習った、マドレ マラビジャを尋ねた。修道会が学生寮を経営していたのを知っていた。冬の間だけ泊めてもらいないかなあと思った。院長に簡単に事情を説明し、修士論文を書く間だけ置いてくれないかと頼んだ。院長は気軽に承諾してくれた。
その寮には個室は無くて畳敷きの大部屋にみんな寝泊りしていた。個人の机は廊下に置いて皆一緒に並んで勉強をすると言う形式だったから、何とかスペースを確保できた。
寮生はほとんど地方から出てきたなんとも素朴な学生達で、皆私より若かった。私にとって、初めての他人との共同生活だった。
スピノラ寮
見知らぬ他人でも一人で、あの暖房のできない物置小屋で冬を越すよりはよかった。私は多くを望まなかった。人間づきあいの仕方を知らない変人でも、人が側にいるのはいい。
おはよう、と言ったら、返事が来る状態。すごい!これが常識なのかもしれない。人間界の『常識』の響きが、新鮮で珍しく、心地よかった。
やっと落ちついて、論文に取り掛かった。雰囲気を変えたら論文は案外、すいすいと捗り始めた。挨拶意外な何も交流をしないで、論文に熱中することができた。もう、妄想はわいてこなかった。
スペイン語と日本語を交換条件にマドレ マラビジャのところに来ているとき、顔見知りになったマドレがいた。マドレ サン タルシシオと呼ばれていた。彼女は、どういう理由によるのか、私に初めから興味を示していた。それで、用事もないのに、ちょくちょく私のところに話しに来た。
私は論文論文と思っていたから、あまりにしばしば彼女に声をかけられて、実はかなりうっとうしかった。
基本的には優しい人だ。別に何も言わないのに、私の心の孤独を多分感じたのだろう、すれ違うだけで、すごく親しげに手をとったり、頭をなでたりする。そう言う扱いを受けた事の無かった私は、初めは薄気味悪かった。しかし、礼儀に反することはできないから、とまどった。
子供頃からスキンシップに慣れていなかった私は、同時に、他人に優しくされることを警戒していた。私はいつも象牙の塔にこもっていたから心のうちを感づかれることが我慢ならなかった。苛立たしかった。おはよう、と言ったらおはよう、と言う答えが返る、そう言うつつましい人間の存在感しか望まなかったし、期待しなかった。期待するにはあまりに傷つきすぎた過去があったから。
愛情と見せかけて、人は何をするかわからない、そう言う疑いがいつも頭の片隅にあった。私は人の愛情に対して素直ではなかった。むしろ他人の愛情の発信は、経験上防御しなければならない邪魔物だった。特にあまりに極端な愛情表現は信用できなかった。
かつて、日ごろ鬼だった人が鬼の面を脱いだとき、本当の鬼の心に触れたことがあったから。
私は体に手を触れられる事に嫌悪を感じていた。子供のとき、人と手をつないだ記憶が無かった。4歳のとき母のひざの乗ろうとして振り落とされた経験以来、もう自分は他人に甘える年齢ではないのだと思い知らされた。
家族で国鉄の2駅を歩いて教会に通ったときも、私はいつも手を引かれたことはなく、小走りに、母の背中を見失わないように付いていった。
大人に「可愛い」などといわれて頭や顔に手を触れられると、自尊心が傷ついた。スキンシップなどという人間関係のあり方は、「気持ち悪い」と言う感覚しか持っていなかった。外見上の「「優しさ」に対して、私はいつも後じさりしていた。
ましてや20を過ぎて、公衆の面前でこのようなやさしさを受けたとき、かろうじて守っていた孤独の牙城に土足で踏み込まれたと感じ、乞うてもいない哀れみを受けて、他人の前で見せたくもない本心を暴かれたような屈辱さえ感じ、自尊心がひどく傷ついたのである。
私はとうとう怒り出した。他人の優しさ。私は他人の優しさに触れて戸惑い、腹を立てるほど、その感情表現に慣れていなかった。同時に、自然の心が要求する愛情の中にのめりこみそうな自分が忌々しくもあった。
なぜなら、私の繊細な神経は、触れられたことのない自分の皮膚に触れられる、温かい他人に指の先の、ほんのわずかな3ミリ平方の接点から、閉ざされた内部の激情がほとばしり出てくるのを感じてしまったから。
はじめは丁寧に、「論文を書かなければいけませんので、申し訳ありませんが、一人にしておいていただけませんか」と、言っていた。
そのうち、「そばに来るな、離れていろ、うるさい」などとかなりすごい言葉を浴びせて追い払うようになった。とうとう私は彼女から逃れるために、学校の図書館にこもったり、町の図書館にもぐりこんだりして時を過ごすようになった。
私はその時、自分の弱さと戦いながら論文を書いていた。人のやさしさを恐れていた。自分が20年間守ってきた、この孤独の城を守らなければ、論文がかけない状態になることを、ほとんど本能的に感じ、警戒していた。
この状態を受け入れたら、もう元に戻れなくなる、立ち直れなくなると思っていた。それほど危うい心の状態を、私は自分の中に感じていた。
他人に自分の心の渇えを悟られまいとしていた私にとって、マドレ サン タルシシオの愛情表現は、私を奈落に突き落とすサタンの誘惑であった。
どうしようもない。「本当はどうしたいか、」と考えるのが恐ろしかった。「どうしなければいけないか」を優先させる癖が23年の生涯の間、私には身に付いていた。自分の責任でなく自分は生まれ、ほとんど自分の責任ではないところで、私は生きてきた。つらかろうが苦しかろうが、「ねばならない」と言うところで自分は生き、「どうしたいか」などと言う事は恐ろしくて、考えたこともなかった。
18になったら、食べるためにも勉強するためにも、生きるためにも「働かねばならない」から働いた。「母に従わねばならない」から従った。「ねばならない」ことの実行を妨げるものはすべて排除しなければならなかった。
他人の愛情の発信に触れて、私の心は否が応でも動揺した。動揺を胸に抱え私は町に出た。図書館に入り、図書館を出た。本屋に入り本屋を出た。公園のベンチで時を過ごし、時々ベンチを代えて座った。
其のうち足が自然に実家の方角を向いた。自分の生家の家族の冷たさが懐かしかった。あれが一番正しいのだと自分は思おうとした。久しぶりに我が家に行ってみようと思った。もう夜だった。ヒマラヤスギのうっそうと茂った黒い影の下に、私の家が建っていた。そこの一角だけが夜の森のようにシーンとしていた。
何も知らせないで行ったから、裏の鉄の門が錠前がかかってあけられなかった。別に誰が悪いのでもないのに悲しかった。誰も待っていない事が当たり前なのに悲しかった。やっぱり自分は寂しいのだなあ、と思った。
家に入れないから、きびすを返し、寮に帰ろうと思った。もう寮の門限を過ぎていた。門限!門限を守らなかった所為で、私は母にうそをつき、人食い川に身を投げようとしたことがある。其の門限が、当然学生寮にはあった。
しかし、行くところがないから、電車に乗り電車を下りた。適当なバスが無いから歩いた。暗い夜だった。自分の足音におびえ、身をこごめて早足になった。回りを見て人がいないか確かめ確かめ走った。寮の近くになって、さてどうやって挨拶をするべきかを考えた。
厳しい修道院の学生寮だ。修道院というところは、自分の配下の学生に、修道院の規則を課す癖がある。いつか門限破りをひどく厳しく怒っている寮長を見ていたから、緊張した。
とにかく謝ろう。謝るせりふを用意した。
寮の通用門から中に入ると、マドレが三人立っていた。
うわあ、三人か...。緊張した。硬くなって、まるで兵隊のように、靴のかかとをカチンとそろえ、紋切り型に言い始めた。
「規律を乱して申し訳ありません。ちょっと自宅に行ってみたのですが入れなかったので、戻ってきました。夜に電話しては、皆さまの邪魔になると思ったものですから電話をご遠慮いたしました。」
ところが、意外なことに、三人のマドレはおろおろして異口同音にいった。
「ここ、あなたのうちです。何時に帰ってもあなたのうちだから大丈夫。」
たどたどしい日本語だった。
「ホント、ホント、ホント、ダイジョウブ。
ココ、アナタノウチ...ココ、アナタノウチ」。
そのたどたどしい日本語に私はいきなり苛立った。3人もでて来て迎えられた事にも苛立った。他の門限破りの学生にはひどく厳しく、私には猫なで声を出す、その差別にも苛立って、私は声を荒らげた。
自分が特別哀れまれている・・・。その屈辱感に私は突然攻撃的になった。
「ここが私のうちのわけないでしょ。私のうちならね、門限5時ですよ。門限破って五体満足にいままで生きていられるような家ではありませんよ。5分遅れて自殺しそうになったことだってあるんだ。門限が決まっているところに住んで、門限過ぎたりしたら、罰則に順ずるのが当然でしょ。他の寮生にはうるさいくせに、なんで3人も出てきて私には猫なで声出すんですか。ここが私の家のはずないでしょ。ここはね、私が居候している、他人の家です。」
三人はいよいよ心配そうな顔をして、私のそばにやって来た。
「ココアナタノウチ、ホントホントダイジョウブ...ダイジョウブ」。
一人のマドレが私に手を触れようとした。
突然私は身構えた。そして吼えた。
「演技をするなあ!寄るなあ!近寄るなあ!私から1メートル離れろお!!1メートル以上近づくなあ!!」
驚いたマドレたちは、望みもしないのに、いつも私の世話を焼いていたマドレ サン タルシシオを残していなくなった。私は院長の計らいで論文のためにだけ、夜は応接間を使う事が許されていた。私は応接間に逃げ込んだ。
マドレ サン タルシシオが心配そうについてきた。彼女は私に触れようとした。振り返りざま私は自分の手に触れた椅子を振り上げた。
「さわるな!さわるな!さわるな!1メートルはなれろお!」
マドレサンタルシシオは机を隔てて向こうに回った。それを確かめ椅子を下ろした私は、突然壁にへばりついて、泣き出した。平たい壁に爪を立て、声を絞り出して嗚咽した。12年間人前で流した事の無かった涙だった。
「私が汚いですか?」とマドレは言った。頓珍漢ではあったが、悲しそうな声だった。まるで、なにをしても自分の誠意が受け容れられなくて、どうしたらいいのだろうと困っているような声だった。まったく私をとがめる気色はなかった。善意丸出しで、何とかして助けてあげたいと言う姿勢がわかった。
泣きながら、それでも私は叫んだ。
「うるせー!私を触る女は殴るために触るんだ。男はみんな凌辱するために触るんだ!兄貴だってそうだったんだ!ばかやろう!」
自分でも予期しない言葉が自分の口から飛び出した。はっとした。そしてがたがたがたがた震え出した。
決して決してこれだけは口が裂けても他言するまいと思っていた10歳のときの忌まわしい思い出を、優しい声で近づいて、鬼に豹変した男の思い出を、私は口走ってしまったのだ。
その夜私は薬を飲んだ。ありったけの薬を袋から出して飲み込んだ。餓えた犬が餌にむさぼりつくように、腹ばいになって飲み込んだ。神経科からもらってのみ残しておいた、大量の精神安定剤だった。
「悪夢」
無数の氷のような刃が私に向かって襲ってきた。私は刃に囲まれてうめいた。身動き一つできなかった。その後から、ぬめぬめとした真っ黒な肌を持つ悪魔のような動物がうじゃうじゃと出てきて私を取り巻いた。口のとがった、腹の妙に膨らんだ、形はカンガルーのようなやつだった。そいつも刃を持って私を襲ってきた。
「うううううう、うううううう」と私はうめいたが身動き一つできなかった。
それが去ると緑色の巨大な芋虫が現れた。嫌悪感を顔に表して目をそむけようとする私に、そいつは赤い口をあけて振り返って言った。
「おまえだって同じじゃないか!おまえだって同じじゃないか!」氷の刃が再び襲ってきた。密集して切っ先をそろえて私を取り囲んだ。大きな動物が牙を向きだし正面から私に飛びかかってきた。逃れようとしてもがいた。
「ううう、ううう、ぐああああ、ぐあああ、ぎゃああああああっ!」
寮生全員が跳ね起きて集まってきた。同室の寮生は恐怖の面持ちで壁を背にへばりついていた。誰も物を言わなかった。私は布団をたたいて身を起こし、立って私を囲んでいる寮生たちを、夢に出て来た悪魔の大群だと思った。私は身を起こして悪魔の大群に向かってうなりながら突進した。
寮生達はおののき、跳ねのいて私を遠巻きにした。廊下の電気しかつけていなかったから、薄暗かった。なおも私は自分を取り囲む悪魔に向かって突っかかっていった。誰かが呼んだのか、マドレ達が駆けつけた。暴れる私を取り押さえ、応接間に急ごしらえしたベッドに、数人で私を運んでいった。
誰も私が薬を飲んだ事を知らなかった。なんか問題を抱えて、悪夢を見ているとだけ判断したから、救急車を呼ぶものもいなかった。一晩中私は絶叫しつづけ、それから深い眠りについた。
遠い遠い無意識のかなたから、意識の世界に移行していく夢現の中で、ミルク色のもやを破って、静かにあけそめる黎明の中で、ずっとささやく声が聞こえていた。
「hijita,hijita,hijita mia...イヒータ、イヒータ、イヒータ ミア...」
その声はずっと聞こえていたようでもあり、初めて聞こえるようでもあった。
私の意識は戻ってきた。誰かの柔らかい体温を感じた。誰かの腕が私の肩の下にあるのを感じた。私は何か快い、長いこと出会わなかった遠い世界に行った、別れた人々に出会っているような気持ちがした。
「マドレ サン タルシシオですか?」顔がはっきり見えなかったけれど、私は、その名前しか浮かばなかった。
「Si, hijita, que te pasa? 」
小声でささやくような声だった。
註1:hijita mia:スペイン語:「私の娘」スペイン人のマドレが自分の指導している相手を呼ぶ言葉でもある。
註2:madre:スペイン系の修道女、シスターの事、同時に母の意味。
註3:Si:はい
註4:Que te pasa? :どうしたの?
彼女はそのとき、片言の日本語を話さなかった。生死の境にいる人間と真剣な対話をするとき、片言の外国語などは出て来なかったのだろう。
「私はいったいどうしたのだろう?」
誰に聞くとも無く私はつぶやいた。何かを超えたような感覚が自分の心に存在した。私はいつのまにか、マドレ サン タルシシオの抱擁を受け入れていた。
「有難う。ずっとここにいてくださったんですね。マドレ」
「もちろん。あなたが苦しんでいたから。貴女の側にずっといたのよ。」
「そう・・・」
「私に言ってごらん、あなたの苦しみを。」
マドレは心配そうな真剣な目つきで私を見、肩を抱いて促した。
「何が苦しかったのかなあ。寂しかっただけかもしれません。苦しんでいたのかな、私は。覚えていないんですよ。」
ぼんやりと、記憶を手繰り寄せながら私は言った。そのとき、自尊心を守ろうなどという感覚は、すでに消えていた。一所懸命、マドレに答えようと、自分はどうしたのだろうと思い出そうとした。
「言ってごらん、あなたの秘密は守るから。私を信用して言ってごらん。何があったの?子供のとき。」
「ああ。子供のときですかぁ・・・、色んな事がありましたよ。」
母の事、次兄の事、悲しくても泣けなかった事、人が全部怖かった事、弱みを見せる屈辱に耐えられなかったこと、ぼそぼそとスペイン語で話した。マドレのほうは日本語に耐えられなかったし、私のほうは自国語で真実を語るのに耐えられなかった。
途切れがちな私の話を聞いたマドレ サン タルシシオが言った。
「愛はね、本能じゃないのよ。もし、愛がもともと人間に備わっている本能なら、イエズス様は愛をわざわざ掟とはしなかった。本能に愛と呼べるものがあるなら、それは自己愛しかないのよ。イエズス様の愛は自己愛ではない。」
「愛ほど難しく高尚な精神は無いから、わざわざイエズス様はたった一つの掟としたのですよ。愛されたことがない人は愛せない。愛は神様からのお恵みであって、自分で生み出すことはできないものなの。」
私はかつて、こんな丸出しで、「愛」を主題とした話を、誰ともしたことがなかった。教わっていた、キリストの「愛」が「情愛」ではないことだけは知っていた。しかし、「愛」が人間に本来備わっているものではないこと、母性愛の純粋さなどという物は存在するものではないこと、それは自己愛に過ぎないという説を、其のとき初めて聞かされた。
「そうか。愛は本能じゃないのか。愛は難しい高尚な精神なのか。愛せなくて当たり前なのか・・・」私はそのとき、変則的な関係しかもてなかった自分の家族を思った。
本能だと思うから期待し、期待が裏切られるからますます愛から遠のいていく、そう言う自分を納得した。自分はわが子を愛する本能ももたない母を受け入れるために、「少なくとも自分が母の胎内にいたときは、母によって守られていた。」と言う事だけを考えて、自分を納得させようとしてきたのだ。
ぼそぼそと語る私の話を聞いてマドレは言った。
「多分あなたに問題があるのではなくて、問題はあなたのお母様にあるはずだと思います。あなたのお母様が小さいとき、家庭で愛を受けられたかどうかに問題があるはずだと思いますよ。」
「そうか・・・そう言えば・・・」と私は言った。
子供のとき母とお風呂に入った。母の下半身に自分には無い不思議なくぼみがいくつもあるのを見つけて、なんだろうと思ってじっとみていたら、母は言ったのだ。
「子供のとき、おとう様に折檻されて焼き鏝を当てられた跡よ。」
母は実母と8歳のとき死別した。兄弟はばらばらに親戚に引き取られたが、母だけは父親がこの子だけは離せないと言って手元に置かれ、父のそばに残った。
ところがその後実父は後添えをもらい、以後折檻が絶えなかったという。その生活に耐えられず16歳で家を出て東京に出た。ある中将の屋敷に奉公したが、母がいつも自分は女中などになる身分ではなく、武士の娘なんだ、と誇りを持っていたため、却って面白がられて、その中将から定時制の女学校を出してもらった。
などと言う話をきかされたのを、私はその時ぼそぼそと語った。
「そうでしょう。」とマドレは言った。「お母様が子供のとき愛情を受けてないから、愛情の表現の仕方を知らないのよ。愛されないものは愛せない。愛の芽は育てなければ育たない。」
一呼吸を置いて、マドレは言った。
「これからは私があなたのお母さんになるから、あなたはお母様のお母さんになりなさい。」
なんとも不思議な言葉だった。「私があなたの母になる。貴女は貴女の母の母になれ。」
「花」
なにがあったのかなかったのか、私は回復して、再び論文に取りかかった。
初冬になっていた。ある時町を歩いていたら、花屋があった。きれいだなあと思ってしばらく立ち止まって眺めた。鉢植えの菊を眺めていたら、店員が出てきて、いろいろと勧めてきた。濃い赤いビロードのような菊の見事な株が気に入った。
形を整えたしだれ菊だ。あれがほしいなあと思って値段を聞いた。手持ちのお金では買えなかったし、ちょっとその時の私には高価すぎた。寮に帰ってからお金を数えた。寮は朝夕だけ食事が出る。昼は自分持ちで食べる。昼を1週間抜けば買えるな、と思った。
私は一度銀行に蓄えたものは出さないという決意で、将来の独立資金をためていた。だから何か買い物をするのに足りないとき、昼食を抜いたり、バスに乗らずに歩いたりして費用を浮かすと言う方法をいつもやっていた。大学に入ってから五年間ずっとやってきた事だから珍しい事ではなかった。
その時なんだかむしょうに花がほしかったから、いつもの癖で昼食を抜いてお金を浮かすことにした。自分としてはこの計画は楽しかったのである。
或るとき昼食時に外に出ないで論文を書き続けている私を、ふと通りがかったマドレ サン タルシシオが見つけて部屋に入ってきた。
「どうして食べに行かないか」と聞くから、「ちょっと買い物の計画があるんですよ」、と答えた。
「食べない計画って何なの?」としつこく聞く。
「別に、食べないのが目的じゃないすよ。町の花屋ですごく素敵な花を見つけてしまって、あれがほしくなったのです。1週間ぐらい昼食食べなきゃ買えますよ。とってもとってもきれいな菊の株なんです。それはそれは見事ですよ。この部屋殺風景だし、あの花があれば明るくなりますよ。」
彼女、私が何かすごい事をたくらんでいるように感じたらしい。修道院に戻っていって、冷蔵庫から食べ物を盗んできて私に食べろと言う。妙な特別扱いは迷惑だから、良いから良いからと言って逃げ出した。
しかしそれからと言うもの、彼女は誰にも許可を得ず修道院から食べ物以外の日用品まで持ち出してきては、私にくれるのには閉口した。仲間からも批判を受けているらしい。
修道院というところは、すべてが共有財産である。個人の持ち物なんかないから、当然、個人が勝手に物を持ち出すことなどできない。其のことを私は知っているから、菊の花を買うことをきっかけに、マドレに勝手なことをされたらいにくくなるから断っているのに、彼女は頑固に、いろいろなものを私のところに持ってくる。
しかも、彼女は私に変な事を言っていた。
「みんなが私に、清貧の誓願を守れというけれど、自分は清貧の請願は立てたけれど、けちの誓願は立てた覚えは無いと言って喧嘩になった」と。
修道女になるときに、純潔、清貧、従順という3つの誓願をたてる。純潔は神様に対する純潔であり、清貧は、いわば、「足るを知る」の精神に通じ、従順とは、修道院の上司に対する服従である。
私の菊の花をきっかけに、そんなことになっているのか、やめさせないととんでもないことになるぞと私は思った。私のためにこのマドレが修道院で変な立場になることを恐れた私は言った。
「やめてくださいよ、私は別に、日用品に不足しているわけではないのだから。花だって必要だと言うわけじゃないから、昼食を抜くなんていつもやっていることで大した事ではないからやったまでで、それが心配ならもう花なんか買わないで食事取るから、もうこれ以上何も持ってこないで下さいよ。」
そうしたら彼女はこういった。「花はいつかきっと私が買ってあげるから、体に悪いからご飯を抜いたりしないでね。」
「私有財産ないくせに、花を私に買うなんて言う事できるわけ無いじゃない...」と私は思った。
修道女の世界はすべて共有の共産主義社会である。(少なくとも1960年代までは)。共通の、意味も無い事に、お金を使えるわけは無いし、たかが一人の寮生の、私の気まぐれに付き合って、花なぞ買える訳は無い。
「またこの人私のために何か妙な事する気かな」と思ったけど、ちょっといたずらっけを起こした私は試してみたい気になった。
「ご飯食べますよ。じゃあ、花を待ってますからね。」
それから数日して彼女は長野県のある町の修道院に何かの用事で出張した。何日も帰ってこなかった。顔を見ないとさびしかった。もう私には彼女が居なくてはならない人になっていた。いつもいつも自分の様子を見に来る。足りないものが無いかと気を使ってくれる。そんな人間がこの世にいる事が不思議だった。人の愛情をこんなに直接的な形で受けると言う事がうそのようだった。
苦労した母の、時には理由の判明しない暴力にも、冷酷さにも、それだけの理由もあったのだろう。母はともかく、自分の楽しみだって求めたこともなく、父の死後、懸命に一家を立て直して鬼の心で生きてきた。いくらつらくても、そのことを理解していた私に、その母への後ろめたさが無いわけではなかったが、私はそのとき、愛に対する飢餓状態が限界に達していたのだ。
だからマドレのどうしようもなく、裏も余韻もない直接的な愛情表現によって、私の心は、まさに初恋の炎のように燃え上がった。彼女は私にとって、あの時彼女が私の耳元でささやいたように、真実、「母」になっていた。しかも、彼女はかつて私が妄想の中で創造したような、ありえないほどの優しい母そのものだった。
私は彼女をあこがれ慕った。私は23歳にして、彼女を母として新しく生まれたかのように思っていた。
長野に行ったまま、なかなか帰って来ない彼女を待って、待って、恋人を待つかのように輾転反側の思いだった。応接間の窓から、そっと外を覗いて、こないかなあ、こないかなあ、と思った。
彼女の影を振り払い振り払い、それでも論文を進めた。それまでの私の人間に対する思いは、死んだ家族への追慕の情であったり、たまたま出会って親切にされた人への追想であったり、実体の無い映像ばかりを追い求めていたから、自分を確実に受け入れてくれる、実在する人間を思うのは初めての事だった。
それだけに思いは切実で、異常で、それ以外の現実が見えなかった。
2週間たったある日、もう暗くなっていた。応接間の窓の外からなんだか音が聞こえた。
ほとほとと窓をたたく音だった。カーテンを開けて覗いたら、マドレがそこに立っていた。マドレは後ろを気にしている。
窓を開けろと手で合図する。私は窓を開けた。誰かに見られることを気にしているらしく、彼女は小声で言った。
「イヒタ、約束の花よ。」「これイエズス様にもらいました。あなたがお花ほしがっているから、これ下さいってイエズス様に頼んだの。イエズス様、あなたはたくさんお花持っていらっしゃるから、少しあなたに分けてくださいって、頼んだの。」
まるで、幼な子のように、「彼女のイエズス様」にそう頼んだのだった。彼女は、とにかくどんな方法でも、一生懸命私との約束を果たそうとしたのだった。
マドレは出張先の教会の祭壇に飾ってあった花を持ってきたのだ。祭壇とは、昔、女が触れられるところではなかった。私のうちにあった小さな家庭祭壇でさえ、母は子供に触らせなかった。私が野原でつんできた花を飾ったら汚いと言って飾らせてもくれなかった。祭壇はゆりだのバラだのレベルの高い花しか飾ってはいけない神聖な場所だった。
その祭壇の花を、彼女は取ってきたのだ。
「イエズス様、イヒタのためにこれを下さい」と言って。
彼女にとってイエズス様は、身近に実在するやさしいお父さんみたいな存在だったのだ。
その花は、もとは立派であったろう3本の大輪の菊の切花だった。すでに列車の中でしおれていて、おまけに花瓶につかっていた部分は腐りかかっていた。私はその花を受け取った。その花を心の中に受け取った。
私が買おうと思った店の花にはまったく似てはいなかった。明日には捨てられようとしていた花かもしれなかった。私はその花を受け取った。
心の中に受け取った。みすぼらしい花だった。
だけど私は、自分の今までのつらい人生がまるでこの花と出会うためにあったのではないかとさえ思った。あの人生が無かったら、私はこの花を捨てただろう。こんな花より高級なブランドものの花を選んだだろう。
私はマドレを軽蔑し、笑った事だろう。私が買いたかったのは、こんな汚い花ではありません、と言って、私は彼女に花をつき返しただろう。
しかし今、私はそのみすぼらしい菊の花を、私のそれまでの人生の中で一番大切な花だと言う事を理解した。その事を理解できる心は、その時までの私の23年の人生の体験で培ったものだった。
私の心の静謐で、マドレのくれたあの花は、ずっとずっと咲きつづけた。目をつぶり、静かに耳をすましていると、私の心の静謐に、確かに聞こえる声がした。あの花を私の心に咲かせてくれた、あのマドレを私の元に送ってくれた大いなる存在の深い深い声だった。
1965年10月31日制作