Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「友達のこと」1

「友達のこと」1

子供のときから体が弱かった。やたらに動けなくなって1週間ほど寝たり、
突然ざわーーっとしたら体中蕁麻疹で、そのたび学校休んだ。しばらく
学校を休んで出ていくと、もう学校の様子が変わっていた。同級生の表
情まで変わって見えた。だからなかなか友達もできなかった。

あれやこれやでその学校おん出されて土地の公立中学生になったとき、
環境の変化でおかしくなったのか、頭痛が激しく反吐を催し、やっぱり
長いこと学校を休んだ。学校に出ていくと、担任の先生が「三好(旧姓
)い、頭大丈夫か?」と皆の前で聞いた。頭痛で休んでいることを知ら
せてあったから。

同級生は「頭大丈夫」の意味を完全に取り違えて、「あいつ先生からま
で頭大丈夫か?って聞かれる奴だ」と、大騒ぎされて私は頭変な奴とい
う認識が定着して行った。別に訂正もしなかった。しかしそのせいかど
うか知らないけれど、やっぱり、中学でも友達ができにくかった。

鼻血が1週間続いて出血多量で動けなくなって、とうとう輸血をした。
そのせいか、鼻血がいつの間にかでなくなった。学校も休まなくなっ
た。あの輸血にどんな意味があったのか知らないけれど、輸血の血液型
が違ったからか、体質が変わったらしい。鼻血も蕁麻疹もなくなった。
ひょっとすると、性格も変わったのかもしれない。

で、そのころからなんだかすごく勉強家になった。年中図書室にこもっ
て勉強に励んだ。放課後仲間と勉強したり、教員室に行って、先生捕ま
えてやたらに質問した。今みたいに塾などなかった時代だったから、学
校の先生フル活用した。

入りたいと思っていた高校は英語がすごく進んだ私立校で、私は
中学でも得意科目は英語だったので、その高校が使っている英語の教
科書を取り寄せて勉強した。なんだかすごい教科書で、中学で使ってい
る文部省の教科書の数倍もレベルが上だった。

結果、今なら名門校と言われるような高等学校にはいっちまった。でも
その高校は幼稚園から続いた一貫校だったから、一緒に入った編入生し
か友達になれなかった。

ある時、学校の定期検診で、肺に影があるということで、1年間体育を
休むことになった。2年になったときに、一緒に定期健診で休学したとい
う上級生が入ってきて、なんだかその人とすごく気があって仲よくなっ
た。心の友じゃなくて肺の友だった。彼女は私の影響でカトリック信者
となったたった一人の友である。私が代母を務め、イグナチオ教会で受
洗した。代母というのはカトリック独特の習慣だから、部外者には意味
が分からないと思うけれど、説明割愛。

彼女との仲は高校を出て別々の大学に行ってからも続いた。お互い家を
訪問しあい、日記帳まで交換した。彼女の言に従うと、彼女は私を「尊
敬」してしまったそうだ。それまで私は他人から、「尊敬」など受けた
ことがない。何しろ「頭が大丈夫か?」なんて先生に言われる人間だっ
たから。

私がのちに人生紆余曲折を経て、スペイン旅行に突っ走ったときも、
彼女は彼女の別のルートで別の突っ走った人生を送っていた。お互いに
別々の国外から1年連絡しあってスペインで会おうということになった。
私の帰国前、彼女と一緒にスペイン旅行をするはずだった。私は準備し
て、彼女の到着を待っていた。だが、彼女は一人で突っ走りすぎてその
計画を果たせなかった。私は宿舎で彼女の訃報を知ったのである。

あの時私は、人前もわきまえず、ゴーゴーと泣いた。人生で初めてでき
た心を許しあえる友達だった。宿舎中に、私の鳴き声はワオンワオンゴ
ーゴーと響いた。私はたぶん生まれて初めて、正直に赤裸々に自分の心
を人前にさらけ出した。

でも周りにいたのは、喜怒哀楽を極端に抑え込む日本人ではなくて、ス
ペイン人だった。2,3日泣き止まない私を抱きしめてくれたり、花を持
ってきてくれたり、夜でもそばにいてくれたり、悲しい時は気が済むま
で泣けと言ってくれた。気が済むまで泣いたことなど、それまで生まれ
て一度もなかった。

帰国後私は彼女のご両親に会いにいった。お二人とも手が付けられない
ほど、ないていた。仏教徒だったはずのお二人は、亡くなったお嬢さん
のために、受洗したそうで、仏壇も位牌もなかった。

肩身をくださるということで、私は彼女が持っていたクマのぬいぐるみ
を頂いた。そのぬいぐるみを抱えて、私は修道院に入った。

これらの出来事は、私の中でつながっているのだけど、読む人が当惑す
るのはわかっている。説明したって当惑するだろう。常識じゃないから
ね。

常識ってなんだか知らないけれど、生まれた時から今日まで、私はたぶ
ん常識の世界を生きてこなかった。