Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」8月9日

 

「メキシコへ」1984

 

エノクは擬似平和を生きていた私たち親子を残して、国外の仕事探しに飛び回っていたが、 国外の知り合いは、すべて、自分も国外に渡ったばかりで他人の世話どころではなく、とうとう、仕事を二の次にして、難民申請を受け付ける国々の出先機関に打診を始めた。

 

自国のエルサルバドルは、その出先機関さえなく、一番近いところが、メキシコだった。メキシコにはオーストラリアとカナダが難民受け入れ窓口を設けていた。彼は、とにかくメドがたつまではと、単身メキシコに渡り、私はエルサルバドルに残って、連絡を待つということになった。

 

4月になってメキシコのオーストラリア大使館と接触していたエノクから子供もつれてメキシコに来るようとの指示が出た。

 

そこで私は、家族3人の身の回りのものを旅行カバンに詰め込み、卒業証書、結婚証明その他の二人の身分を証明する全ての書類を持って、1984年4月、娘を連れてメキシコに向けて機上の人となった。いよいよ大詰めを迎えたな、と私は心で思った。

 

メキシコには仕事はないらしい。これから、私も一緒にオーストラリア大使館とカナダ大使館に行って、面接する。この2つの国が、難民の受け入れのための申請を受け付けている。出先の機関はメキシコにしかない。それで難民としてどちらかの国に渡ろうと思って、ここにエノクは来たんだ。先にきたエノクがある感触をつかんで、面通しのために家族を呼んだ。

 

エノクは言う。二人とも英語が通じるし、ひとまず難民として行ってから仕事を見つければいい。0から始めることになるが、二人ともある程度の学歴があるから、そう悲惨にはならないだろう。

 

彼はいつも楽天的なのだ。そうか、と私は思った。ふと、マイアミの難民部落で、元女医だったエルサルバドル人の女性が、掃除婦をやっていたな、と思った。私は彼の楽天的な言葉にいつも救われていたけれど、自分は決して楽天的にはなれなかった。

 

でも、まあ、いい。そう決意したんなら、0から出発なんて私の人生では何度もやっていることだ。今までだって0どころかマイナスからの出発を乗り切ってきたんだ。二人の立場が同じのほうが、一方が他方に寄りかかったりするよりはいいだろう。スペイン語圏でも日本語圏でもなく、二人にとって、未知の世界のほうが、気楽かもしれない。私はそう納得し、ほのかに希望をもった。スペイン語圏にいるより英語圏のほうが自分の資格も生きるかもしれないと、思ったから。

 

メキシコには主人の友人がいて、待っていてくれるのだが、始めに目的の手続きを済ませるため、メキシコシテイ‐の目抜き通りにあるホテルに、ある期間滞在する。

 

メキシコの空港は、物凄く雑然としていて、整然としたアメリカの空港に慣れた私は少なからず戸惑った。人がひしめき合っていて、誰が乗客で、誰が役人かわからない。みんな服装も目つきも態度もゴロツキみたいで、誰も制服族らしくない。少なくとも一般人と区別できるような姿をしていてほしいもんだ。

 

その中で、何とか入管の荷物チェックが始まる。スペイン語だから判ることはわかるのだが、役人の態度がエルサルバドルのおんぼろバスを運転している、あらっぽい運転手みたいな人相でなんか不調法だ。

 

農作物があるかと聞くから、途中娘が食べ残したオレンジが1個あるといって見せたら、「これは持ち込み禁止だ。」といって、あきれたことに私の目の前で、その役人が食べてしまった。

 

なんだよ、自分がほしいから、もったいぶって「農作物」などという言葉を使ったんだ。腹がへっているなら、「農作物あるか?」などと聞かないで、「腹がへった、なんか食い物ないか?」と聞け。3歳の娘が食べ残したオレンジをむしゃむしゃ食べている浅ましい役人の顔を見て思った。

 

エルサルバドルのコーヒーを持っていたら、これはメキシコの産物だから輸出入禁止だとか言って取り上げる。「何も輸出入したんじゃなくて、世話になる人のお土産に持ってきたんだ。ほら、ここにちゃんとエルサルバドル製って書いてあるじゃないか」といって、ラベルを見せて、エルサルバドルのものだということを証明したら、「なんだ、セニョーラ、スペイン語うまいね」とか言ってニヤニヤして返してくれた。本当はぶんどる気だったんだ。

 

大方金持ちの日本人観光客だと思ったのだろう。いい加減なやつである。滞在日数を聞くから主人が言った通り、2週間といったのだけれど、これが後でとんでもないことになるのだ。

 

「オーストラリア大使館にて」

 

何とかうまく行きそうだよ、と、出迎えたエノクがニコニコしながら言った。「え?オーストラリアにいけるの?」その一瞬、私の夢が子供っぽく膨らんだ。あのコアラの国。カンガルーの国。エアーズロックの国。アボリジニの国。人口密度1%の国。昔教えた生徒がオーストラリア育ちで、さんざん熱っぽくオーストラリアのすばらしさを語ってくれた。まるで観光旅行に行くみたいに、そのときの私は、胸ときめかしたのだった。 

 

その日、私たちはものめずらしそうに、町を歩き、店を覗いたり、建物を眺めたりした。目的が一段落したら、観光もしよう、とエノクが言い、ひさしぶりに親子3人、「楽しむためだけ」の行動をした。そこは内戦の巷ではなくて、平和で不思議な「アステカ」の地だった。

 

ラテンアメリカの研究書によると、「アステカ」の地は、古代「アストラン」という国から船に乗って辿り着いた民族が、故郷の町を真似て作った水上都市国家が栄えた国、スペインによって征服されるまでは金銀財宝を豊かに産する王国だった。

 

スペイン人が征服する前に存在した「アステカ」帝国は、プラトンの記述にある「アトランテイス」の後裔が海に沈んだ故郷をまねて作ったのではないかという、とっても浪漫的な「疑い」もあって、プラトンの「アトランティス」を絶対に信じている私は、胸ときめかして観光ができることを喜んだ。その歴史が観光資源となっているらしいことは、町のそこここの建物や装飾やイルミネーションから窺えた。

 

何か落ち着いて、これからの新しい1歩を踏み出すのだという気持ちがあったけれど、思い出深いラテンアメリカを、もうすぐ去るのだなという感慨もあった。それほど私は、すでにオーストラリアで再出発という路線を頭の中に描いていたのだ。

 

次の日、3人でオーストラリア大使館に行った。事務所には体の大きな女性の係官が待っていた。

 

お役人として働く白人の女性は、アメリカでもどこでもなんだか女性を放棄しているみたいに、物腰ががさつで、言葉遣いが事務的で、てきぱきしていて、すべての感情を放棄していて、こわばっていて融通が効きそうもない面持ちをしている。

 

しかし、彼女はもうエノクとは顔なじみだったらしく、親しそうに軽く挨拶をして、3人並んで椅子に座った。もう、話が付いているのかな、と私は内心楽な気分になった。

 

係官は私が持参した書類に目を通す。英語ができるかとか、英語で仕事ができるかとか、簡単な質問を私に向けてするので、卒業証書などの書類も見せて、長いことスペイン語だったから今すぐという自信はないけれど、行けば何とかなるだろうと、応える。係官はふん、ふんと頷きながら、割と親切にかなり肯定的な態度で、書類に何かを書いていた。

 

で、彼女は最後にふと気がついたように、私にパスポートの提示を求めた。私は長年つかってくたびれた日本のパスポートを見せた。

 

と、その時である。今まで好意的に話を聞き、頷いていた係官の顔が一変した。何か、不都合があったのかな、と私は身を乗り出して、自分のパスポートを覗き込んだ。彼女は私のパスポートを放り出すようによこして、言った。

 

あなたは日本人ではないか!」叫ぶように彼女は言った。「はい、そうですが…」と私は怖れて彼女の顔を見た。怖れるほど彼女の顔が厳しくなったのである。

 

子供のときからの癖で、他人のふいの厳しさに接すると身がちぢみ、自分はしかられているのだという思いが体を駆け巡る。私は彼女の次の言葉を待った。

 

あなたはあの経済大国の日本の国籍を持っている。

 

それからエノクに向かっていった。

 

日本国籍をもった妻がいて、何故あなたは日本を頼らない!?日本を頼らずになぜ私たちを頼るのか。日本が世界の難民に対して取っている閉鎖的な政策を知っているのか?世界中の難民に対して門戸を閉ざしている、あの経済大国の日本人を、何故私たちが助けなければいけないのだ!?」

 

彼女は、これだけのことを顔をこわばらせて噛み付くように一気に言った。顔面、憤懣やるかたない思いがみなぎっている。その表情の、余りに急激な変化を見て、私はほとんど恐怖を覚えた。人間て、かくも突然、豹変するものなのか・・・

 

私はほとんど8年の歳月を日本国外で過ごし、内戦の巷で、日本の事情を知らなかった。世界が今、元はといえばアメリカとソ連が引き起こして生じた難民の受け入れに協力し合っているときに、一人日本だけが、難民の受け入れを渋り、一国平和主義をとり、流れ着くボートピープルといわれる難民達を玄関先で締め出しているということを。私はこのオーストラリア人の係官が憤懣やるかたないという表情で語る故国日本の、かくも悪しき評判を、呆然として聞いていた。

 

私は助け舟を求めようと思って、隣のエノクを見たが、彼も予期せぬ展開に度を失って、沈黙していた。

 

仕方なく私は、エルサルバドルにいたときに、主人の願いを聞いて日本領事館に主人のビザの発行を打診に行ったいきさつを話さざるをえなかった。あの時領事は言ったのである。

 

「日本国は日本人男性の外国人妻に対してはまったく問題なくビザを出すが、日本人女性の外国人の夫に対しては、たとえ日本人妻が億万長者で、しかも仕事を日本に持っていたとしても、外国人の夫に、日本が求める特別な技術でもない限り、就業ビザを発行するということはない。申請しても無駄だし、お役に立てない。

 

残念だが日本は男性優位国で、信用ある日本人男性が持つ外国人妻は、日本人男性の信用において問題ないと考え、ビザを出すことをいとわない。しかし日本女性の持つ外国人夫は治安上問題があると考えるのだ。だから日本はあえて、問題があると考えられる外国人男性に対して、ビザを発給することはない。」

 

私はここまではっきりした言葉をエノクには伝えていなかった。かつて私がアメリカの姉のうちに滞在していたときに、アメリカで仕事を探したいから斡旋してほしいというエノクの言葉を伝えた時、姉の口から「我々はラテンアメリカ人を信用していない」といわれて感じた屈辱を、私は公の機関である日本国領事の口から明確な言葉で言われたのだ。私はエノクを傷つけたくなかったから、自分の胸のうちのこの事実はしまいこんでおいた。

 

領事は礼儀正しい紳士で、決してそれらのことを、私を見下げていったわけではなかった。彼は親切そうな穏やかな表情で気の毒そうに、そしてかなりきっぱりと動かすことのできない厳然とした事実として、そういったのである。

 

この「礼儀正しい紳士」が「親切そうな穏やかな表情で気の毒そうに、そしてかなりきっぱりと動かすことのできない厳然とした事実としてそういった」ことの物凄さが判りますか?みなさん。

 

やくざがやくざの口調と態度で、おめーを消してやる、と言ったほうが、まだ救いがありますよ。わかりますか?この意味。

 

それはまさに「最終的な決定」で、いかなる人間も動かすことのできない真理だったと考えてもいい事実だ。法律にも国際問題にも疎い、ただの無力な庶民である私に、この言葉を覆すことなどどうやってできただろう。

 

私は、何とかこの係官に事情をわかってもらおうと、この説明を必死でしたのである。私は自分の人生で繰り返してきた、問題を抱えて切羽詰った最後のとき、いかにも何の裏もない、駆け引きも何もない、正直 一徹で訴える自分の態度が、相手の心を揺さぶることを知っていた。そして其の時も信じて、嘘偽りのないところを言ったのだ。

 

ところで、私のこの懇願とも言うべき態度でした説明が、意外にも彼女を怒らせた。今度は彼女はまさに逆上して、机をぶったったいて吼えたのだ。

 

それが日本の国家の自国民に対する態度なのか!?国外の内乱で死ぬかもしれない状況にある自国民の家族さえも受け入れないのが日本なのか?我々が遠くオーストラリアから、まったく関係のない親族でも肉親でもない人々の窮状を救おうと、海を越えてメキシコまで来ているというのに!

 

彼女の剣幕に私はもうそのときは冷静な判断力を失っていた。私は彼女のこの逆上が、世界の難民を受け入れるために出先機関まで設けて仕事をしている彼女の国際人としての正義感にあることも、私の側の日本国民としての誇りもなく、自国の政府の冷淡さ、理不尽さを訴えている態度に頭に来ていることも、理解できなかった。

 

私はただ、自分の英語力の不足で自分の訴えが理解されないのだ、ここを乗り切らなければ、オーストラリアにいけないんだ、と思って、必死に別の表現で同じことを並べた。

 

彼女は言った。「よし、わかった。日本政府がそういう態度なら、今すぐ日本大使館にいって、日本政府があなた方を受け入れないということの事実と理由書を大使のサイン入りで持ってきたら、考え直そう。」

 

私はこの言葉に飛びついた。この言葉が両国の政府の面子をかけた問題になることなんか知らないで、私はまったく馬鹿みたいに、日本大使館で大使のサイン入りの証明をもらったら、オーストラリアにいけるんだという一縷の望みを持って、本気になって日本大使館に行ったのである。

 

あのエルサルバドルにいた日本の領事が、「日本国は何が起きようと絶対にあなたのご主人にビザを出さない」といったんだ。あんなにきっぱり言ったんだ。出さないということは個人の事情がどうあろうと覆すことができない国家の方針として決まっていることなんだ。と私は信じていたのである。

 

日本大使館の反応」

 

オーストラリア大使館と同じ通りにある日本大使館に、私は何も深いことを考えずに、のこのこと出かけて行った。

 

私はオーストラリアの新天地に行きたくて仕様がなかった。どんなに苦労しようとも、オーストラリアなら、私の家族のしがらみからも、エノクが初めから抱えていた問題 からも、解放され、3人で再出発ができる。さまざまの苦悩を抱えた私にとって、それはまさに、地獄からの救いだった。

 

どうしてもオーストラリアに行きたい。コアラを野生で見たい。人生もっと楽しみたい。難民で良いから0からの再出発をしたい。あのマイアミの難民部落で、みんなが苦労を共にしながら助け合って生きている姿を想像し、あれが私たちの理想の生活だと思った。

 

応対した日本人の職員に、私はオーストラリア大使館の係官から言われたとおりのことを粉飾なしに伝えた。そのためには日本大使館から、かくかくしかじかの法的な理由によって、エルサルバドル人の私の夫にビザが出せないという証明を発行して欲しいと。私はエルサルバドルの日本の領事が私に言ったことも伝えて、そして、我々はオーストラリアに移民としていきたいのであって、目的は日本ではないのだから、誤解のなきようと、くれぐれも頼んだ。なんとしてでも日本でなく、オーストラリアに行きたいという私の気持ちを、力説した。

 

私は日本人が怖かった。私は自分の家族が怖かった。日本になんか帰ったら、低開発国の外国人に冷たい日本の同胞から、そして実家の家族からどんなめに会うだろうと、私は自分が作った大切な家族のために恐れたのである。

 

オーストラリアなら0からの出発だ。しかし日本なら、精神的にマイナスからの出発なんだ。マイナス1やマイナス2じゃない、それは地獄の深奥からの出発なんだ。

 

ところが、Yというその日本大使館の職員は、私の真剣な話を聞いて笑い飛ばして いった。

 

「そんな法律が有るわけないでしょ。いくらなんでも。日本の威信にかけてだって、そんな書類をオーストラリア大使館に出せるわけないじゃないですか。政府には政府の面子があるのですよ。」

 

「はて、日本の威信てなんだろう?」と私は思った。「面子」という言葉は姉がさかんに守ろうとうとしていた大事なものらしいから、知らない言葉ではなかった。しかし私はかつて、日本の国家の威信とか、日本の国家の立場とか、国際社会の中の日本がどういう位置にあり、どういう位置を守らなければいけないとか、一切考えたことがなかった。 

 

私はただ一生懸命に家族単位の個人的立場を生きていただけだった。その個人的立場に対して、日本国政府などというとんでもなく大きな組織が、一度ビザを発行しないといったら、もう、はいそうですか、で終るはずの問題だった。私はエルサルバドルの日本領事が言ったことを信じる以外になかった。日本の代表である領事が出せないといったビザを別のところで出せるとは思わなかった。

 

私は私の真剣な言葉を笑い飛ばされて、いささかむっとし、

 

エルサルバドルの日本領事は法律に基づいてそういったのではないのですか?」と聞いた。

 

「私たちはあの国の政情不安定のために、命の危険にさらされているのです。日本が主人にビザを出さないとあれば、他に出してくれるところに頼む以外に仕方ないじゃありませんか。それをオーストラリアが、条件付で出してくれるといっているんです。その条件が日本からビザを出せないという法的な事実とその理由書をもらってくることなんです。紙1枚で私たちは命が助かるのです。だからお願いに来たんです。」

 

Y氏は言った。「とにかく、そんなこと先に決めないで、まず日本国のビザを申請してください。出すか出さないかはそれからですよ。」

 

私はこの言葉にほとんど絶望した。命が助かるかどうかというときに、あの日本のお役所仕事的悠長さでことを運ばれたら、助かる命も助からない。おぼれるものを見て、小田原評定をはじめるみたいなものだ。すぐ目の前に光明が見えてきたと思っていたときに、我々は又暗礁に乗り上げるのか、と思った。それで私はいつものように、後先考えないで、この自分の考えをいった。

 

「私達はお役所仕事を待っていられないのです。時間がないのです。一枚の紙で私たちは救われるのです。」

 

Y氏は1枚の紙を私に押し付けた。「これに記入して、申請してください。とにかく申請してくれさえすれば、私の責任において、できるだけ早く結果を出しますから。」

 

そうか。もういくら言ってもだめなのか。観念して私はしぶしぶとその紙を見た。そしてそこに、「身元引受人」を記入する欄があるのを見て、再び私は心が揺らいだ。

 

「私には日本にもう、身元引受人なんていないのです。これを記入しなければならないなら、もうアウトです。」

 

Y氏は言う。「いくらなんだって、一人くらい知合いなり親戚なりがいるでしょう。」

 

「いえ、いないのです。身元引受人なんて責任ある仕事で、どんな結果であっても引き受けなければならないとわかっているものを、気安くお願いできる方なんてもう、日本に残っておりません。」

 

ここで身元引受人がいるなどといったら、オーストラリアに行くためのわずかな可能性も失ってしまう、と私は思った。実際に私には人の名前が浮かばず、親戚が名まえだけでもかしてくれるだろうとはまったく思っていなかった。私はここで、いい加減なことを決定したら、後に響くからと思って、エノクに言った。

 

「一寸大事な問題だからホテルにいったん戻って、対策を考えましょう。」

 

ホテルに帰る道々、私は考えていた。そして後ろを歩いていたエノクに、考えを聞いたのだ。

 

「あなたはもし日本に何か可能性があるとしたら、日本でも行く気があるのですか?私の家族はあなたを助けませんよ。それはもう明確な事実です。私の家族を頼れば、嫌な思いをするのが関の山ですよ。一般の日本人は、白人には弱いけれど、低開発国の外国人を排斥しますよ。オーストラリアの係官がいったように、日本は難民には冷たいですよ。私がオーストラリアに望みをかけているのは、自分自身が日本人でも帰りたい国ではないからですよ。」

 

じっと考えていた彼は其のとき応えた。

 

「もし日本にでも1%でも可能性があるのなら、それにかけてみよう。」

 

そうか、1%の可能性にも賭ける気があるのか。

 

私はその1%の可能性を可能にするかもしれない一人の人物を思い浮かべていた。「身元引受人」を引き受けてくれるかもしれない一人の人物だった。