「自伝及び中米内戦体験記」8月1日

 

 「姉を頼れ」とエノクが言う。

 

あの夜、ゲリラの攻勢があってから、エノクの多くの友人が、近隣の諸国に親戚縁者を頼って、密かに国を脱出し始めた。エノクの親友のフランシスコはアメリカに、物理学部長のノラスコはメキシコに、友人の中で一番物凄く礼儀正しいエノクの忠実な友ベルトランはブラジルに、マルタの家族もメキシコに逃れていった。

 

エノクも密かに国外脱出を検討していたが、近隣諸国に親戚がいなかったのと、家族を養うに足る仕事を見つけなければならなかったのとで、難航していた。

 

そんなあるとき彼は困った顔で帰ってきて、自分は学会で3ヶ月ばかりイタリアにいかなければならない、その間家族を内戦の国に残しておくことはあまりに危険で、心配だから、アメリカの私の実姉のところに一時身を寄せていてくれないか、と言い出した。

 

結婚してから何度かエノクの学会にくっついてアメリカに行ったことはある。便利さにおいて、また人間の住む空間の広さにおいて、それから能力があれば生きていける社会の仕組みにおいて、善意の人々の助け合いの精神において、アメリカはそれなりの良さを持っていることを知っている。私はアメリカに行くたび、便利なキッチン用具などを買ってきて、喜んでエルサルバドルの自宅で「便利な」アメリカ文明を楽しんではいた。

 

でも私はかつて、アメリカを憧れの目で持って眺めたことが一度もない。黒い髪を金髪にしたり、名前をアメリカ風に変えたり、アメリカの国旗をデザインしたシャツなどを着て歩くほど、私はあの国に同化したいと思っていないし、ハンバーグやホットドッグを常食とし、肥満を嘆きながら、もともと健康な和食を軽蔑し、その代わりにビタミン剤やサプリなどに頼り、日本人であることを疎ましく思うほど、生活形態や強さや能力や表面的な容姿に魅力を感じていない。

 

今となっては、単純な趣味の問題なんだろうけれど、日米大戦中の防空壕世代にとって、若者のアメリカ化現象はコンプレックスの対象として理解はできても、単純な憧れの的としては理解できなかった。

 

私の青春時代は今は無力になった社民党の前身、社会党が元気だった。学生運動安保闘争から始まって、ベトナム反戦運動に終わり、若いエネルギーは反米一色に傾いていた。原爆による敗戦の自信喪失から、一気に元気を取り戻し、アメリカに対する鬱屈した魂のはけ口を闘争の中に求めていた時代である。

 

それに続く世代は、連合赤軍浅間山荘事件を境に学校社会の365日無休管理の体制の中で萎縮し、もっぱら校内暴力などの内向的な事件を起こす閉塞感の漂う社会の中に、若いエネルギーは埋没していった。

 

日本に独自の文明がなきがごとく、アメリカにあこがれる若者の姿を、かつて反米闘争に身を焦がしていた世代は、かなり軽蔑の思いでしか見ることができない。

 

私は自分のスタンスをどこに置くかと問われれば、社会主義でも共産主義でもなく、キリスト教徒、カトリック信者である。しかし、私の思想は「キリスト教陣営」などには属していない。仮にアメリカ、ヨーロッパが「キリスト教陣営」であるとして、そういうものは私の心に持つ宗教となんら関わりがない。宗教とは本来「政治的陣営」の外にあるのだ。

 

キリスト自身は、茶パツにもケンタッキーフライドチキンにも、マクドナルドハンバーグにも、ビルゲイツの世界戦略にも、自国の言葉より流暢に英語を話す民族滅亡論者にも、アメリカのアラブいじめにも、石油争奪の世界戦略にも、イスラエルパレスチナ抹殺運動にも、まったくかかわりないのだ。

 

アメリカに滞在した事があるから知っている。

 

アメリカの文明は「進んでいる」。

 

労力を惜しんで生えている手足は何も使わず、皿洗い機で皿を洗い、洗濯物は手も触れずに洗濯機に任せて、生ごみは、「分別する、包む、通りに持っていって、清掃業者に任せる」というほどの日本的「労力」も惜しんで、流しの粉砕機で粉砕して河川に流してしまうアメリカの「文明」は確かに「進んで」いる。

 

「進んだ文明」は便利だから、脳みそが退化して手足を使うことがなくても、一人の人間でバスの座席を3席分占領しないと座れないほど肥満していても、生きていける。

 

「先進国」とはそういうものだ。

 

アメリカにはものすごい肥満が多い。小錦さんなんか、関取だから大きいのかと思っていたが、彼のサイズが標準サイズと思ってもいい。近くで見たら、全体が視界に入らないほどの恐ろしいデブをあの「文明社会」は産出する。

 

私はいくら「デブ」という言葉が差別用語だといわれても、決して彼らに同情をしない。バングラデシュには「デブ」がいない。エチオピアには「デブ」がいない。アメリカの「デブ」は世界の半分の国々を餓死させることによって「デブ」になる。その上に又お金をかけて「ダイエット」したりして、そのために副作用で死んでも、そんな矛盾に同情する感性は私にはない。

 

文明の発展とともに、かなりの国民が苦労して料理をしたり、皿を洗ったり、歩いてものを探したり、工夫して物を作ったり、種を蒔いて作物を取ったり、そういう二足歩行の竪穴住居の動物の基本を忘れてしまったことが肥満人間を生むまず第1の原因だ。

 

それからもっぱらジャンクフードを食べながら、テレビを見て世界をすべて知った気になってアメリカが世界の中心だと思っている、そういう精神状態も起因している。車がないと移動できないと思っているから足はまったく退化して、巨漢を支えられない。だからもっと車に頼り、運動不足で体は永遠に膨張しつづける。

 

環境問題がいくら喧伝されても、彼ら自身生きていることが汚染源になっているから、京都議定書なんか無視せざるをえない。

 

世界のすべてがそうならば、まあいいだろう。しかし、世界には一国単位、いや、一大陸単位で飢餓に苦しむ人々がいる一方で、お金をかけて食べ過ぎた分の脂肪や贅肉を取ったり、ダイエットをして有り余る食べ物におびえている肥満大国の文明人どもがいる国、そういう国に、好意を持ったり、憧れたりすることができるのか?

 

アフリカの餓死する民衆を尻目に、白人の農場主が文明国の肥満人間の飼い犬の餌用に、農場の牛肉の缶詰を作って輸出するということを、犬飼道子の本で知って以来、私は文明国で飼われているドッグフードで肥満した犬を見ると、蹴っとばしてやりたくなったものだ。アフリカの農場の牛で肥満した文明国の文明犬を殺してその肉をアフリカに逆輸出して、人間さまの飢餓を救えばいい。

 

で、そのアメリカに姉が住んで久しい。精神科医で学者でもある姉の夫がその昔東大紛争を逃れて、アメリカに移住して以来、4人の子供のうちの下の二人はアメリカ国籍で、終の棲家もアメリカに買ったから、彼らはすでにアメリカの日系人である。(この記録を記述している2020年は全家族すでにアメリカ国籍を得ていると風の便りで聞いたけど)

 

さあ、どうしよう、と私は思った。姉の所には主人と結婚するために日本から途中下車して一月ばかり住んだことがある。私の精神が不安定だったことから、あの家族は4歳の子供にいたるまで、私を医学的治療の必要な精神病者だと信じている。キチガイキチガイと名前代わりに呼ばれたんだ。

 

今は私も2歳の子供を持ち、あのときの状態と同じではないが、彼女は事あるごとに私が精神病であることを医学的事実として実家の家族に報告していたから、めんどうだから、久しく音信を絶っていた。

 

しかも私は戦乱の中をそれなりに一生懸命生きてきて、心構えが戦時下の状態になっている。アメリカは距離は近いが心理的に遠く、かなり複雑な思いを持っている。

 

現実にエルサルバドルがこんな状態なのは、アメリカがエルサルバドルの軍事政権の後ろ盾になって武器弾薬の援助をして、大量虐殺の教唆をしているからだということは、かの暗殺されたロメロ大司教の毎週の説教から知っている。

 

彼は時のカーター大統領に、「軍事援助をしないでください、アメリカの援助によってエルサルバドルの農民が毎日殺されています」という書簡を送った後で、暗殺されたのだ。その国に私が子供を連れて避難しようというのは疑問だった。

 

私の子供は正真正銘のエルサルバドル人だ。エルサルバドル人としての誇りを持って育てようと、スペイン版の図録を拒絶して自分で動植物図鑑をこしらえてまで、娘に郷土愛を持たせようと苦労している。その郷土は大国の内政干渉で、同国人が毎日ごろごろ死んでいる。それが怖いからって、アメリカなんかに避難できるかい。

 

しかも他にも問題があった。中米人には中米人の心情がある。彼らが困ったときに、お互いに家族でも友人でも助け合うことは、習慣とか人情とか義務とか、そういうものを通り越して国民性なのだ。私はこの国民性を美しいと思うけれど、自分自身は共有できているわけではない。姉も姉の家族も私自身もこういう家族愛を持っていない。この国民的な家族愛をエノクが姉の一家に期待しているのを私は感じて、戸惑った。

 

新聞で読んだことがある。ある男が政府に追われる身となった。容疑の内容は知らない。警察と軍隊に追われたその男を、何とか助けようと思った家族は、一族全員で協力し合って、その男を国境から外に逃そうとした。リレーでその男を国境に運んでいたとき、彼らは家族眷属すべてまとめて国境付近で撃ち殺されたのだ。皆殺しである。一人や二人じゃない。彼を逃がそうとした一族のメンバーは10人以上だ。それがみんな彼一人のために殺された。

 

一族全員が協力一致して一人の若者を助けようとして皆殺しにあったというこのニュースを読んだとき、私は心にかなりの衝撃を感じた。実は感動したのだ。

 

家族とはこんなにも一人の親族を愛することができるものなんだ。10人以上の人間が自分たちの身の危険を覚悟で銃弾の前に身をさらして一人の若者を助けようとする。もし日本なら、親は残りの家族を守るため、犯罪者となった息子をお上に差し出すだろう。それはもう、身内を殺しながら政権を築いてきた徳川以前、戦国鎌倉平安朝以前から、有史以来日本の歴史に記録されている。日本の国土にこんな家族愛はただの一度もなかった。

 

こんな愛をエノクは私の実家の家族に期待している。キロアが私たちをかくまったときも、エノクがマルタの一家を自分の家にかくまったときも、彼は自分の家族はおろか、友人の家族でさえも危険にさらすことを考えていなかった。

 

私が一人暗い心の深みで、自分の家族を危険にさらすことを恐れて彼らを裏切ったことを、彼らは誰も知らない。誰も私を疑ってない。

 

さて困った。エノクが3ヶ月も留守にするなら、確かにここにいるのは危険である。別にエノクがいたって危険だけれど、二人いれば、どちらかが死んでも娘を守る人間が一人残る。私は車の運転もできなければ、いざというとき頼るべき何もない。頼める友人はみな国外に出てしまった。日本大使館は閉鎖されている。ふん!たとえ開いていたって、頼りにならない第一人者はこの日本大使館だ。

 

考えた。自分の思想や自分の家族観などにかまっていられない。一人の娘、この命のために清水の舞台から飛び降りなければならないか。私はそう考えた。そう考えなければいられないほど、頼ろうとする相手は曲者だったのだ。

 

アメリカへ」

 

しかたがない。考えに考え抜いて、観念した。姉に連絡を取って、許可を求めた。

 

承諾の返事を見て、とりあえず荷物をまとめ、2歳の娘を連れてカンザスの空港に立ったとき、迎えに来たのは義兄だった。姉がもう一月も前にたおれてから病に臥して寝ていること、意識が朦朧としていることを義兄に聞かされた。

 

私は元気な姉しか想像できなかった。彼女は「病的」ではあったかもしれないが、本格的な「病気」だったことはなかった。私の知っている彼女は元気というよりはむしろ「強暴」に近かった。その姉が朦朧としているとはいったい何があったのだろう。

 

彼女の広大な領地に入って、玄関に足を入れたとき、私は心の中でぎゃっというほど衝撃を受けた。

 

私が知っている彼女は埃ひとつぶにも気を遣うほどの潔癖症で、自分のものを右に1ミリ動かしたとかいうことで、昔私に襲い掛かってきた人間だった。彼女は常に1ミリとか1円とか1滴とか言う単位のことで逆上する人間だった。25歳で彼女が結婚するまで、私は彼女の潔癖症のために神経病にかかっていた。それが、どうしたと言うことだろう。

 

玄関をあけたとたんに床一面がごみでうずまっている。いや、ごみではないのかもしれない。衣類も食品も、本も家具もまったく足の踏み場もないほど乱雑に床の上に「おいて」あったのだ。

 

彼女の長女も長男も、もうそのときすでに高校生で、別に姉が教育していなかったわけではなくて、問題なく育っていたことを私は以前に確認している。しかも学年をどんどん飛び級するような、ものすごく優秀な子供たちだった。次女も小学生で、なんだかいろいろ賞を獲得するような、彼らの自慢の娘であった。次男がまだ3歳で、ちょうど私の娘と遊び相手になれそうな年齢だった。

 

しかし、姉のことをよく知っていたはずの私は、視界に広がる有様を見て戸惑った。あの神経過敏な彼女が子供たちをまったく片付けのできない人間に育てるはずがないと思ったから。1月前に彼女が倒れて以来、誰も掃除も片付けもしなかったのか?

 

そこで私は一瞬のうちにある判断をした。「もしかしたら、子供たちは1ミリ物を動かしたら、逆上して怒ったあの姉の性格を怖れているのかもしれない。」何年かぶりにやってきて、しかも居候する身で、うっかりこの状態を変えたら、とんでもないことになるぞ、と思った。私の神経は、この一瞬で身動きができないような指令を、脳から受けてしまったのである。「片付けるな!手をつけるな!とにかく現状を変えるな!」

 

姉はベッドに寝ていた。もともとは色白でもなかった姉が真っ白な顔をして、しかも真っ白になったざんばら髪を見たら、到底2歳違いの姉とは思えなかった。そのとき私は41、姉は43歳だったのだ。

 

「今日は。お世話になります。ご病気だとは知りませんでした。」と私は小声で言った。姉は弱ってはいるけれど、なにか内部の病気を振り払うような強そうな表情に戻って、「いったい、中米はどうなっているの?」と私に聞いた。「内戦で人々が毎日殺されていて、生きるのがかなり難しい状態になっています。」と答えた。

 

ところが、ただの挨拶として姉の病気の見舞いを言うと、ひどく機嫌が悪くなって、「私はメニエルじゃない」と絶叫するようにいった。え?

 

私はその「メニエル」という代物がなんだかまったく聴き覚えのないものだった。それが奇病の名なのか、または、ビタミン剤の名前なのかということすら、まるで知識がなかったし、姉の病名を尋ねもしなかったのに、彼女はまるで私が姉の病を「メヌエル」だと決定したかのように言った。あまりその態度が激しいので、きっと、それなら姉はその「メニエル」なんだろう、と私は思ってしまった。

 

「はあ」と私は曖昧な声を出した。そうしたら姉はいきなり、「メニエル」とは何物かという説明をはじめた。何でも三半規管の故障でめまいを起こし、不治の病で精神異常の一歩手前みたいな症状を持っていて、しかも遺伝的な要因があるところの、どうしようもない病気という風に彼女は理解していた。

 

ところで、三半規管の故障が遺伝なら、確かにその「メヌエル」の可能性あるよ。血のつながった妹の私の三半規管は生まれつき故障しているのだし・・・とは言わなかった。

 

実は私は、歩いていて、前後左右の判断ができないのです。歩きながら地図を書き、目印を書き、それで何とか方向音痴をしのいで生活しているのです。直線だって迷子になるんですから。私のほうこそ、メヌエルかも、なんて思っちゃった。

 

で、彼女に言わせると、その病はもうとんでもない病気で、自分みたいな高尚な人間がかかるはずがないし、それを受け入れたら最後生きていけない。今までの自分の人生がみな無駄になる。だから自分みたいに正常で、あらゆる劣性遺伝から免れていると信じて疑わない姉としては「メニエル」を受け入れることはできない相談だったらしい。じゃあ、それでいいじゃないの。お姉さんはメヌエルじゃない。それで決まり。

 

そういって私が軽く受け流そうとすると、彼女はしつこく「メヌエル」の講義を続けてくる。なんだか私が、姉が「メヌエル」ではないという主張を書いた念書にサインでもしなければならないみたいである。「こりゃ、すごくメヌエルだわい、」と私は思った。

 

で、私たちの居候生活は姉の「メヌエル」じゃない病気の症状に耐えることから始まった。