Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」10月11日

「人生のどんでんがえし」(1)

 

エノクは娘の出産と大学編入を見届けて、その年の11月末、日本に帰ってきた。心を砕き、出来る力を結集して、溺愛してきた一人娘の道が開けるように、奔走してきた彼に、私は心から労をねぎらった。彼は生まれた孫を抱き、親戚に紹介し、子供を育てるための補助として、女中を雇い、娘の大学の入学まで面倒を見てきて、ひとまず安堵して、穏やかな顔で帰ってきた。

 

帰国して直ぐに、彼は退職した会社からの呼びかけで、臨時の仕事のために、新潟に出かけていった。その背中を見送って、何時までも苦労が絶えないなあ、と私は合掌したくなるような思いだった。

 

二人で歩んだこの人生、エノクはいつも誠意を持ってあくまでも正直に生きてきた。どんな苦しい問題にも、心を砕き、人を愛し、私みたいなへんてこな人間を自認している者にとって、もったいないような人だ思っていた。

 

出逢いの時、私はやっぱり苦しんでいた。学校の教師だったが、友人の家に泊まりこんで肝臓を壊すほどに、酒を浴びていた。心が荒れきった35歳だった。

 

あの外国の青年は、そういうもっとも最低だった時代の私に「そのままで良い」といってくれた、最初で最後の男だった。その言葉は無責任に誰でも言えるその場限りの「とおり一般の」言葉でなく、いつも一番みっともないときにやってきて、私を支えてくれた。

 

常識の欠落を恐れる私に、常識なんて、自分を中心に、たかが半径200メートル以内の決まりごとだ、そんなもの、相対的なものだ、気にしなくて良い、と言ってくれた。その言葉に感動して、私は全てを捨てて付いていった。

 

人生の要所要所で、彼は私を導いた。「あなたは私の預言者みたいだ」、と私は危機状況の中で発せられた彼の言葉を賛嘆して言ったものだ。私は、そのとき、エノクを心からほとんど信仰に近い感情で崇めていた。彼は私の預言者で、私の指標だった。

 

定年になった。これから二人だけの人生が始まる。国外にいくことが多かったために、ほとんど一緒にいられなかったこの18年、私は二人で仲良く平和な老後を送ることを夢見てきた。

 

落ち着いた私は再び、あの火炎地獄の絵に戻っていった。絵はかなりはじめの様相と変わって、抽象性がなくなり、現実味を帯びていた。だからその絵は、描く私の脳裏の中で、始まったばかりの中東の戦火と重なった。

 

アメリカが始めた中東の戦争は、出口の見えない戦争になり始めているらしかった。私は一人だったが、ネットの中の平和論争に疲れ果てて、自分の投稿をやめたものの、いつも、動向は気にしていた。無力の私にも、役に立てることがあればやりたかったから。

 

ここ数年、身の回りにいろいろな事が起きた。それも自分が原因の出来事でもなく、自分が何か解決方法が見つけられるような出来事でもなく、なるようになるまで放置しておかなければ解決できない代物ばかりだった。しかたがない。娘のことでも世界のことでも出来る行動だけをしようと、私は考えた。娘のことが一段落した時、ある意味、諦念ではあるが、落ち着いたのだ。

 

そうした中、ネットの中の平和行進の呼びかけをみて、参加してみる気になった。それは以前に参加したような宗教者の集いではなさそうだった。12月のはじめだった。実はあの、火炎地獄の絵を引きずっていきたかったのだが、100号だったから、一人では無理だった。こういう行動は、他人を引きずりこむべきではないと思っていた私は、仲間に声をかけるということはしなかった。

 

私は自分の思想行動に他人を引き釣り込むのが嫌いなのだ。それは相手が公権力で、個人の力から考えれば、勝つ見込みがないほどに圧倒的に強い相手だから、仲間を誘えば、道連れにしかねないからだった。「つかまるのも、死ぬのも一人で良い。・・・」私はいつもそう思っていた。個人の無力は知っている。でもなぜか、生きるも死ぬも、一人で責任を取りたかった。

 

内戦関係の絵で、一人で持ち歩けるような比較的小さな、30号の絵を持っていた。「命の歌」と名づけた絵だった。

 

私が内戦のエルサルバドルにいた頃、バスの中に乗り込んできた半裸の少年が、大きな声で歌を歌いだした。見ると、彼は両腕ともなかった。たぶん爆撃で吹っ飛ばされたのだろう。首から肩に、袋をかけ、その袋には「Dios se lo pague(ディオス セ ロ パゲ)」と書いてあった。物乞いに物をあげると、必ず返ってくる言葉だった。

 

「ありがとう」と言う意味にとってもいい言葉なのだが、本来の意味は、「神があなたに報いますように」と言う意味だった。あなたのご親切に私は報いる力がありません、どうか神様があなたに報いてくださいますように、と言う祈りの文句だった。

 

彼はバスに乗り、歌を歌って、稼いでいた。戦乱で傷つき、食べる手立てのない少年の、必死の「命の歌」だった。その歌を聴いて、人が袋に、いくばくかのコインを入れた。「Dios se lo pague」と少年は言った。

 

日本に帰ってからも、私はあの子の声が耳の奥に残っていた。あの子も、エノクが愛した祖国の「同胞」なんだ。あの時バスに彼は一緒に乗っていなかったが、乗っていたらエノクは、必ず助けの手を伸ばしたであろう。そういう思いを込めて私は傷ついた子供の絵を描いた。エルサルバドルとその民衆への思いは、私の預言者として、私を導いてきた、敬愛するエノクへの思いと重なっていたのだ。

 

その絵をじっと見つめていたら、なんだか使えそうだと考えた。そうだ。平和運動に、こいつを持っていってやろう。私はそのとき、そう思った。

 

12月6日、代々木公園から出発した平和行進は、人があまり集まらず、かなり小規模の行進で、しかも既に暗くなっていた。絵なんか誰も見る人はいなかった。それは悲しい貧弱な行進だった。あまり貧弱だったから、師走の風が余計身にしみて、体がぶるぶると震えた。身が凍りぞくぞくとし始めたので、最後まで行進するのに耐えられず、私は途中で人並みにまぎれて列からはなれた。私はその夜、手ひどく風邪を引いて、高熱を発した。

 

頼みのエノクは新潟にいっていてまだ帰らない。誰もいない12月はとりわけ寒かった。私には、その頃既にパソコンを開くことが唯一の楽しみになっていた。特に、孫が生まれてからは、娘のその後の生活が知りたかった。メールを見る限り、娘も孫も元気らしかった。マルタからも、「心配するな」と言うメールが来て、あの民族の心の優しさに、私はいつも心が温まるのを感じ、感謝していた。

 

熱が出て苦しいある朝、食べなければ治らないと思ったから、なんとか起きて冷蔵庫にあるものを温めて朝食をし、既に習慣になっているメールチェックをしようと、パソコンを開いた。

 

私は其処に、ある人物からの英語のメールを見つけた。それは孫の父親からのものだった。彼は、娘の妊娠のほんの初期の頃、まだ私たちが、ことの顛末を知らなかったとき、娘と結婚したいといって、私たちとメールの交換したことがあった。その後事実を知ってからは、私は彼のアドレスを削除してあったのだが、受信拒否と言う措置の仕方を私は知らなかったのだ。

 

それはあまりにも、衝撃的なメールだった。ここに載せるのは抜粋であり、いくらなんでも聞くに堪えない言葉は削除したものだが、たとえ読者が英語を知らず、この文を理解しなければ、続くエッセイの意味が不明になることになっても、数年たった今でさえ、私はこれをなまなましく和訳する勇気がない。メールはこう切り出して、こう終わっていた。

 

「I felt compelled to write you after your daughter told me the shocking news; I know I have my faults and I know I caused her anguish but I could never use people like your husband has done.

 

When your daughter told me she met her sister in El Salvador I didn't know what to think. And when she told me her father confessed to living multiple lives I was astonished. The fact that he was already legally married to his first wife when he met and married you is outrageous; furthermore, for him to make his first wife pregnant with a child two years after he married you. What scandelous! Your daughter's sister is two years older than her, that means he had been having sex with two women at the same time, disgusting!

 

Your marriage is not valid, it's not a real marriage because your husband was already married; He is still married to his first wife to this day, they never got a divorce. She said his first wife and daughters love him and see him as the father of their house. Your husband told them he worked in Japan and visited them on birthdays and some holidays.

 

He criticized me for not having good christian values while he has lived the shameful and wicked life of a bigamy practicing charlotan. He should be in jail for marrying more than one woman at a time.

 

If you can forgive him for having you live a lie for almost 25 years, then surely you can forgive me for disrupting your daughter's life for one year.」

 

既に風邪で熱を出していた私の体は、衝撃のために崩れた。凍りついた指で、私はかろうじてキーを打った。メールの内容を信じるには、あまりに唐突で、理解の範囲を超えていた。

 

少なくとも、当事者たちに真偽を確認するのが先決だろうと、私の理性は私の指に指令を出した。娘とエノクにこの男性のメールを手をつけずに転送し、誠意ある返事が来るまで判断を保留にすると書き送った。

 

涙も出ず怒りも起きなかった。衝撃が感情を凍結していた。私はそのままいかなる思考も放棄して天井を見つめて伸びていた。クリスマスが過ぎ、大晦日が過ぎ、2004年の正月を骸骨のようになって迎えた。

 

「続家族離散」(2)

枇杷の葉っぱの効用」

 

私は咳で苦しんだ。昼も夜も咳のために激しい頭痛に襲われた。身をよじり、前に倒れ、頭を抱えて咳をした。ありあわせの置き薬も尽きた。民家の塀を伝ってほとんど這うようにしていった町の開業医の薬も、まったく効をなさなかった。

 

苦しいな、と思った。ああ、お前はまた苦しんでいるな、と私は自分にささやいた。

 

また・・・。そうなのだ。かつて、こういう状況になったことがあるのだ。

 

私たち一家を内戦の巷から助け出してくれた恩師がいた。彼は親族でもない私たちの身元引受人となり、自分の家を提供し、新聞社、外務省などで活躍中の教え子たちの協力を得、国立大学の学長だったさる名士の協力まで取り付けて、エノクの仕事を斡旋してくれた。恩師は奥様も、お嬢様夫婦も巻き込んで、家族ぐるみで私たちを助けた。エノクは仕事を得、そして我々は松戸の社宅に引っ越した。

 

あのとき。エルサルバドルから助けを求めたとき、実の家族がいっせいに帰国を反対する中で、彼ひとりが助けてくれた。感動のあまり私は彼を崇め慕った。子供のときに父を失った私は、彼を父のごとく慕った。そのことが引き金となって、彼の心に魔が差した。彼は何度も何度もエノクのいない時を見計らって私に会いに来た。あらぬことを要求し、電話は5分おきになり続けた。

 

30を過ぎて、家族に受け容れられない結婚をして内戦の国に8年いた。その間、家族とは自分の側の一方的な通信だけで、一切の返事が来なかった。自分に咎があろうと、それは悲しかった。8年目に、のっぴきならぬ事情で、日本に帰らざるを得なくなったとき、まったく家族を頼る気もなく、まして相談したわけでもないのに、音信不通の家族が一斉に立ち上がって帰国を反対した。「日本にお前のいる場所はない。」と叫んで。

 

いくら、頼りにしていなかったとはいえ、悲しかった。打ちひしがれていた私をそのとき助けてくれたたった一人の人物を、私が慕ったのは、自分にとっては自然のことだった。そのときの自分の心に何があったか、理由はどうとでもつけられる。私は彼がうちに来るのを始め拒絶しなかった。

 

あるとき4歳の娘が私にまとわり付くのを嫌って、恩師は、娘に、「外にいって遊んでおいで」といった。娘は、なぜ自分が追い出されるんだろう、と言う顔で私を見た。意味を察した私は「この子を遠ざけないでください。この子は私の良心です。」といって、娘を抱き寄せ、離さなかった。

 

拒絶しても拒絶しても、恩師はなおもやってきた。私は戸を閉ざし、雨戸まで閉め、戸を開けることを拒んだ。彼は家の周り中を、ところかまわずたたいて回り、私を呼んだ。この状況を、あの家族が知ったら、彼らはどんなに傷つき、私をなじり恨み憎むことだろう。そう思ったから、私は戸を開けることを拒んだ。

 

「自分の心に正直であれ」、と私の心を見透かすように恩師は言った。意味を察した私は、「正直とは諸悪の根源です」と答えた。

 

こんなはずではなかった。私はこの恩人を、自分の心がどうあろうと、滅びに導くわけには行かなかった。愛する祖国を捨ててまで家族を守ろうとしたエノクを裏切るわけに行かなかった。

 

何度も何度も手紙を書いた。執拗な要求に対して恩師をいさめる手紙だった。はがきを書いた、奥様の目に触れて欲しかった。気付いて欲しかった。しかし、奥様は、彼に対して絶大な敬意を払っていて、ご主人の名宛の手紙など、読まなかった。彼の心に訴えた。彼はクリスチャンだったから、クリスチャンの心に訴えた。しかし人間の情念の前にその言葉は通じなかった。彼は「私たちは罪びとです、だからこの罪を十字架の基にもっていって、救っていただくのです。」と言った。

 

私はカトリック育ちで、こういう表現を知らなかった。その言葉は、まるで「罪は百も承知だけど、なにをしてもイエス様がどうせ赦してくれることになっているから大丈夫・・・」といっているように聞こえた。それは自分の行為を正当化するための、「狡猾な解釈」に聞こえた。こういう信仰が相手だと手がつけられなかった。

 

彼の心に悪魔がささやいた。「あなたさえ言わなければ、誰も知らないから大丈夫だ」と彼は私を安心させようと思ってか、言い続けた。それは意味不明の「イエス様の十字架」よりも具体的で、明快に彼の本心がわかるように聞こえた。

 

「誰も知らないから・・・」そのとおりだった。だから、「大丈夫」ではない状態にするには、何をすべきか考えた。彼自身が、そのヒントをくれたのだ。知らないのが原因なら、それを他人に知らしめればいい。

 

私はこの事実をエノクに話し、助けを求めた。しかしエノクは恩師に対してあまりにも大きな恩義を感じて「自分には何もできない」と言って、動かなかった。

 

私は考えに考えて、修羅場を覚悟して、決断した。エノクが駄目なら、恩師の家族に直接全てを話してしまおう。

 

「私だって、人間なんです。女なんです。女だから女として扱われたら、女として答えてしまう さが があるのです。助けてください。」

 

師の家族は、立派な人たちだった。ことの深刻さを理解し、奥様自身が「あなたの誠意を理解した。」と言ってきてくれたのである。誠意? 誠意ってなんだろう・・・。自分の苦し紛れの行為を「誠意」と呼んでくださるほどに、彼の家族は崇高だった。それ以来、私は彼の背中に合掌する思いで恩ある家族と縁を断った。

 

あの時、軽い風邪から始まった咳の発作に、2年間苦しんだ。激しい咳の発作と高熱で寝こんでしまった。その苦しみの意味を怪しんだエノクは私を病院にも連れて行かず、食事も水もくれないで、子供を連れて、二人で外に食べに行った。自分の心に確かにやましいものを感じていた私は、エノクのこの仕打ちを恨めしく思いながら何もいえなかった。這って水を飲みにいき、這って寝床にもぐりこんだ。

 

生き物として、もう限界だった。子供の夏休みが来て、明らかに普通ではない私から、子供は離れなかった。エノクは長期間出張に出た。もう、駄目だ、子供の世話も出来ない。助けてくれ、と昔の友人に電話した。

 

それは「非常識」を真摯に生きていた、かつての教師仲間、小森先生だった。助けてくれる人はこの人しかいない、と私はそのとき、彼女を思い出した。彼女は、一言も理由を聞かず、子供ごと私を引き取ってくれた。「何が理由であれ、とにかく伸びているんだ、伸びているのが、助ける理由だ」、彼女は もそりと つぶやいて、看病してくれた。

 

漢方に知識のある女性だった。「子供は引き受けた、あなたはこれを飲んで寝ていなさい」、と言って、漢方の薬を飲ませてくれた。私は彼女の言葉に安堵し、2年ぶりに深い眠りについた。

 

私はそのことを思い出した。今も体が同じ情況を呈している。咳と頭痛はまるで、私の苦しみの方向を転換し、病気に神経を向けさせるように導いているかのようだった。

 

漢方だ、漢方だ。しかし昔助けてくれた友人は既に故人となって、頼るものがいなかった。かつて自分を救った漢方の知識を私は持っていなかった。しかし、頭はがんがん痛み、これ以上咳に耐えられなかった。仰向けになっても、腹ばいになっても、丸くなっても、立ち上がっても、咳の発作はやまなかった。

 

漢方、漢方と唱えているうちに、ふと思い出した。自宅の庭の裏に、枇杷が一本生えていた。アア、枇杷があったな、枇杷は万病に効く薬だった、うろ覚えの知識を確認するため、私はよろよろとPCを開けて確認した。

 

枇杷の葉っぱをたくさんとって、それを煎じて飲んだ。葉っぱを湯船に浮かべて、紅茶みたいな色の湯に浸かった。次の朝、目が覚めて私は一晩一度も咳をしないでぐっすり眠れたことに気が付いた。たった一度のせんじ薬と枇杷湯の効用は、まさに奇跡に近かった。

 

「続家族離散」(3)

 

「人生のどんでんがえし」(2)

 

PCのなかに、たくさんの情報が押し寄せていた。そこで私は娘と夫の返事を読んで、愕然とした。二人はそろって、あのメールをよこした孫の父親を非難していた。枇杷湯で回復した私の理性が、これは本末転倒じゃないか、とつぶやいた。

 

相手が誰だって不当な責任転嫁は赦されるべきではない。孫の父親は、どんなに悪意があったとしても、私にさえも公開されていない「情報」そのものを、まったく知らなかったのだ。知れば相手だって、自分が起こした人生の不条理のさなかにいる状態だ。それなりの反応をするのは当然だろう。

 

知って反応をしたことの罪より、知らせたことの責任を問うべきだ。それを知らせたのは、誰だ。それを知らせた理由はなんなのだ。その情報源は、そもそもどこなのだ。二人はまったくそのことにふれていなかったのが、忌々しかった。

 

しかし送られてきた「情報」の半分は似非情報であることを、私は完全に知っていた。重婚ではありえない。

 

私たちは、こそこそ日本で結婚したのでなく、エルサルバドルの国内法で、正式に結婚したのだ。両国の役所から、多くの面倒な書類を取り寄せ、弁護士介在の元で結婚したのだ。婚姻届は受理され、その場で、夫のIDカードと私のパスポートに結婚の事実が記入された。内戦の中のIDカードに虚偽の記載があったら、命にかかわる大事である。結果、私はエルサルバドル内務省から長期滞在の権利も受けたのだ。書類上、重婚のはずがないのだ。

 

さらに、日本に来てからは、エノクの日本国籍取得のために、日本国が要求する膨大な書類を取り寄せて、翻訳したのは私自身だった。その書類たるや、戸籍制度のない国の、帰化を申請したエノクにかかわる家族全員の個人個人の歴史と身分を証明する全ての書類だった。

 

夫の両親と5人の兄弟全員の出生証明から、一族の中の死者の死亡証明から、学歴職歴現在の職種に至るまで、家族が転々とした居住地の村々の村役場からいちいち書類を取り寄せて、全ての書類に、それぞれの役場の長の署名とエルサルバドル国(義兄の一人がスペインに帰化しているので、スペインも巻き添えにして)の国務省国務大臣の署名とをそろえて日本に送ってもらい、それを全て私が翻訳したのだった。それらの書類の山を要求したのは、日本国の法務省だった。

 

書類を整え、翻訳作業を完成するまでに実に2年のときを要した。その作業の内容は、ほとんどエルサルバドルの植民地時代からの侵略と蹂躙の歴史そのものであり、エノクの一家の苦難の歴史でもあった。何しろ役場の書類に書いてあるのは、目を覆うような個人情報だった。

 

両親ともに庶出子であり、人種は被征服者である土着民と征服者である白人との混血(破廉恥極まりないこの人種差別!が正式の役場の文書に記入されている)で、受けた教育は小学校低学年程度(アベセダリオ:つまりやっと読み書きができると言う意味)とまり。

 

職歴は、賃金労働者から始まって、路上で屋台の食堂を開いたり、テイラーの技術を身につけて、紳士服の縫製の仕事に就き、最後は大使館に勤めてマイアミにいた、年金はその最後の大使館づとめから支給されている、なんていうことが、こまごまと書かれているのだ。

 

あの「歴史」を整理しているうちに、私はほとんど厳粛な気持ちで、威儀をただし正座してことにあたらねばならないような気持ちになった。こんなむちゃくちゃなことを記録する役場の書類ってあるのかと、時には義憤を感じて涙を流し、時にはそうやって、どん底のなかから、5人の息子全員に高等教育を授けた両親の苦労に対して頭を下げ、翻訳を完成したときには、彼らの「無教養」の歴史にほとんど驚嘆を覚えた。

 

余談だが、その「無教養」の小学校を卒業もしていない両親は、2人の息子を失い、残った5人の息子のうち、一人を医者にし、もう一人を大学教授にし、もう二人を銀行員にし、もう一人を小学校の教師にし、孫まで、医者になったから、周りの人からは、凄い一家だと尊敬を受けている。「もと無学の労働者」だった義父は読書家で、90を過ぎた当時でも、新聞を2誌とって、毎日国際情勢の分析をしていることを私はしっている。

 

二つの国の、特に日本みたいに外国人の受け入れに煩い国が相手国の国家をかけての「正式な書類」に重婚などと言う不備があったら、国籍なんか取れるわけがない。あの膨大な種類の山の中に、夫の重婚の事実はどこにも記載されていなかった。実際にそういう事務に手を染めた人でなければ、あるいは誤った情報に簡単に惑わされたかもしれない。しかし、あの事務をこなしたのは、私自身だった。

 

おまけに、かのメールには、重婚ゆえに、子供達の誕生日の折には、父親として会いに行ったと書いてあったが、それもありえない。彼は日本の企業に勤めて、数年間は国内出張を重ね、国籍取得後はJICAの仕事に参入するために、世界の低開発国の開発事業に従事したが、JICAのパスポートは公用パスポートで、公用で派遣された国以外の地域に、勝手に出て行かれない。私は時々、彼の事務上の手続きを代行したから、パスポートに記録されている出入国の記録を知っていたのだ。鳥や魚じゃあるまいし、記録を残さずに太平洋を挟んだ国境を越えることなど出来やしない。

 

情報の半分がでたらめであると知っていた私が憤懣やるかたない思いを感じたのは、その情報の出所を想像できたからだった。そして、その情報を入れた側の言葉のみを信じて、まったく私に問い合わせもせず、こともあろうに、今自分がその元から逃げてきたばかりの男に知らせた娘の奇態な行動と、ただでさえ人生の危機に苦しんでいる娘に、自分の過去の失態の当事者を会わせるような行動に出たエノクの無神経さに対する憤りだった。

 

二人ともおかしい。あの国に行ったとたんに、何で二人はこれほど無神経になってしまうのだ。

 

そういう情報を発信するのは何時もいつも他人の幸福の前に立ちはだかって自分の幸福さえつかむことが出来なかったあの女性に違いない。そのことを、彼女のために人生を狂わせられ振り回されていたエノクは十分承知しているはずだった。

 

私は、娘が性に興味を持ち始めた小学生の頃、結婚前の父親に子供があるという事実をいつか他人の口から知って、動揺することを案じた。そのため、彼女には母の違う一人の姉がいることは教えてあった。私としては思春期を前にした娘の動揺をおもんぱかって事前に娘の心を守ったつもりでいたのだ。

 

まさか、結婚後も、同じ人物と関係が続いて、子供が増えていた等と言うことは、夫の言動を見聞きし、信じ込んでいた私には想像の範囲外だった。私が、自分と同じ人間に過ぎない一人の人物を、必要以上に信用したことは、私の勝手であって、その点はエノクに咎はないだろう。信用したのはこちらの都合で、エノクはただの人間だったのだから。

 

しかし、そういう問題のある家族を、夫自身が私に内緒で、娘が自分が生んだ子供を養子に出すか出さないか等という危機的状況で苦しんでいるときに、一体どういうつもりで、会わせたのだ。内緒といったって、そういう種類の「内緒」が、たった3人しかいない家族の一人が知って、どうして守られると考えたのだ。

 

おろかな!と、私は舌打ちした。しかも、そういう家族内のもっとも繊細さを必要とする情報を、娘の人生を狂わせた男からもたらされた私の衝撃を、エノクも娘も理解できないらしい。愛し尊敬していた家族のたった二人のメンバーから欺かれたことからくる悲しさにも、癒すこの出来ない傷の深さにも、まったく想像が及ばないらしい。

 

新潟の出張先と、エルサルバドルから、言い訳がましい言葉の羅列をメールで送ってきた、二人のそのふがいなさを見た私は、なおのこと傷ついた。

 

「ただ口火を切った孫の父親の悪口を並べれば、私が安心すると思っているのか?そういう責任転嫁を、この私が見抜けないと考えたのか?」

 

悪いのは彼じゃない。いくら娘を苦しめた男が憎くても、どう見ても、この場合、悪いのは彼じゃない。言葉遣いから見ても、彼が私を侮辱し、動揺をさせようとしている意図はわかっている。だからといって、あのメールの内容に関して、責任は彼にあるのではない。公平性から考えるなら、私は彼の弁護を引き受けてもいい。成長の暁、いつか孫が求めるかもしれない、この父親の名誉を、回復しておいてやるのもやぶさかではない。とまで私は考えた。それほど私は二人のふがいなさに対して怒りを覚えたのだ。

 

男が送ってきた情報の一部が、たとえ、真実だとしても、あれほど苦楽をともにしてきたエノクに、私がその真実に向き合うことができない人間と判断されたことが、私は情けなかった。自分にだって人に言えない狂った人生があった。そのことを自分が一番よく知っている。だからなおさら、あらゆることに気を配って、娘の成長を見守ってきたのだ。その私が、成長したその娘からまで、父親と一緒になって「ごまかし続けることが思いやりだ」などと言う、私の精神を愚弄するような似非哲学であしらわれたことが悲しかった。

 

私の人生、苦悩を向き合うことの連続だったのだ。だいたい誰の人生だって、与えられた苦悩と向き合わない人生なんてあるものか。知らないことが幸福だ、などと言う哲学は、はじめから持っていないのだ。このばかやろう。30年近く一緒に生きて、私の精神をまったく理解できないのか。

 

絶望とはあえて言わない。立ち直ることが効かぬ出来事など、人一人の人生には起こりえない。人間の存在の第一原因たる存在に、拠り頼む限り、人はドロの中からでも道を見出す存在なのだ。

 

ただただ深く傷ついた。ただただ深く悲しんだ。ただただ深く情けなかった。私は生々しく動物的人間的生き物だったから。

 

それから私は2度3度、書かれている言葉の分析をしてみた。ただ、二人は泡を食っている、ただごまかそうとしている。ごまかすと言うことは真実が其処にあるからだ。それなのに、なんとかして私を騙して自分が付けた火をもみ消そうとしている。消して消せる火ならば、どうして今頃燃え上がるのだ。

 

遣り合っていても埒が明かない。泥仕合をしたくない。そう感じた。全ての話が明確にならなければ、心の整理さえ出来ない。話を明確にするために第三者を入れよう。私の理性は私にそうささやいた。

 

「続家族離散」(4)

「人生のどんでんがえし」(3)

 

私はマルタにメールを書いた。あの聡明な苦労人は他人の個人的な問題に口を挟まない女性だと言うことを知っていた。しかし彼女は誠実な答えを求めたら、それに応じる人間でもあった。

 

私は彼女の長男が、私との結婚前に夫と女性の間に出来た女の子と学校が同級で、付き合いがあることを知っていた。おたおたしている人間を相手にしてもしようがない。彼女の理性と客観性に頼ろう。そう、私は思ったのだ。

 

「マルタよ。私は以下のようなメールを読んだ。かなり当惑している。あなたは例の女性を知っているから、教えて欲しい。

 

私の夫が結婚前に認知した子供の母親の主張と、真実に関して、あなたの知っている事実と事実でないと断定できることを、知らせて欲しい。

 

今回のことが思いかけない露見らしくて、当事者自身が動揺しているので、感情が邪魔して正確な判断が出来ない。

 

私は何かを決定するために資料を要求しているのでなく、正常な関係を取り戻すためには真実を知る必要があると考えるからだ。

 

ただし、私も人間なので、かえって動揺するから、あなた自身の『感想』はあえて要らない。」

 

孫の父親にもメールを返した。

 

「もしそういう情報をあなたが受けて問題を感じたとしても、その問題は私の問題ではなく、きわめて純粋に夫の問題である。

 

もしその問題を追及したいなら、夫に直接メールしてほしい。25年であろうと100年であろうと、知らされなかった私にまったくの咎がなく、責任も義務もさらさらない。

 

まして、あなたから非難や侮辱を受ける理由は、私にはない。」

 

それから私はPC操作の研究をして、彼のアドレスに受信拒否の処置をした。彼にも彼の考えがあろう。しかし私は今、彼のためによい結果を期待するような、どんなやり取りも出来ない。攻撃をしあうようなやり取りをしていたって、精神が腐る以外の結果は得られない、自分にも自分の精神を保護する権利があると判断したからだった。

 

マルタから、返事が来た。

 

「息子が例の女性の長女と同級生だという関係で、計らずも、付き合いがあるが、彼女は一生涯、別にあなたが問題にしていることでなくても、うそばかりついている女性なので、何が本当で何がうそなのか、実を言うと、他人には判断できない。

 

おまけに彼女は、私とあなたが親交があるということを見越して私に近づいて、わざとありもしないことをあなたの耳に入れて揺さぶろうという意図も見えるので、真偽のほどがわからなくて、何を聞いても自分は今まで黙っていた。

 

今回は、聞かれたから答えるが、事実として知っているのは、以下のことだ。

 

1)彼女がずっとあなたのご主人を自分の夫として世間に発表していること。名前もそのように名乗っていること。しかしあなたと結婚してからは、ご主人と彼女が一緒にいるのは、私は見たことがない。ご主人が大学に勤めていた頃、子供をつれて大学に来て、公に暴れていたので、大学関係者は皆彼女の問題を知っている。

 

2)3人の子供にもご主人の姓を登録していること。ただし、あなたが、あの困難だった内戦の時代、不法滞在でなく、エルサルバドル人との婚姻によって8年間も内務省からの滞在許可を得てエルサルバドルにいたことを知っている多くの人は、彼女があなたのご主人と婚姻関係にあることを信じないが、自分の子供にはそれを信じさせている。

 

ただし彼女はいつも「結婚した」とは言わないで、「離婚したことがない」という言葉で、重婚をほのめかしている。ただし重婚が事実なら、闘争的なエルサルバドルの女性としては法律に訴え、裁判を起こすのが常識だが、彼女はそういう行動に出たことはまったく一度もない。

 

3)あなたも知っている上の子は高校を出てから一人離れてアメリカで暮らしているが、下の二人は成人しても母親といつも一緒で、少なくとも一番下の子は彼女の傍らにいつもいる男と顔が似ている。

 

4)彼女は誰とも結婚したことがない。しかしその男とも結婚したと言っていたことがある。

 

5)ご主人はどういうわけか、彼女のうそを放置し、3人の子供に自分をパパと呼ばせている。

 

6)長女に対するご主人の特別扱いから見ても、ご主人が長女以外は認知したとは思えないが、あなたのお嬢さんに次女を姉として紹介したのなら、ご主人がその子も自分の子だと思っている、または反論できない状況で生まれた子供と考えられても仕方ない。

 

7)お嬢さんに関しては、自分はこう思う。女性と言うものは、男性に対して、いつも心が一定というわけではない。別れたからといって、一度子供を宿したことがある相手なら、ふと思い出して、心を開いたり、また閉じたり、動揺があるのは当然なのだ。

 

今回のような問題は、彼女にとっても負担なのに、母親を傷つけたくないから、母親にかかわる人には誰にもいえなかった。しかし誰かにいわざるをえないほど、動揺したとしても、それは当然のことだろう。

 

若くて未熟な彼女としては、誰にも秘密がもれない唯一の相手として、エルサルバドルにもいない、日本にもいない、両親の関係者ではない、自分だけの知り合いとして彼を選んだのだろう。」

 

彼女は私の要請どおり、わずかに娘を弁護する言葉を書いてきただけで、夫に関する自分の意見は書かなかった。

 

ただ内戦時代に暗殺されたご主人が、マルタとの間に4人もいる子供を捨てて、他の女に走っていたという事を亡くなってから聞かされて苦しんだ経験から、女性の立場の悲しさを語ってきた。

 

「一人の女性に誠意をつくす男と言うものはいない。倫理は女性だけに要求されて、女性がどんなに男性を信じ、愛し、誠意を尽くそうと、男性はいつも自由だ。マヌエルも私と4人の子供を捨てて他の女性に走った。私がそのことを知ったのは、夫の葬儀の席だった。自分はあの体験から、再婚を考えず、自由に生きる道を選んだ」と。