Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」10月28日

30年前の約束遂行

「ガラパゴス紀行」序

「案外笑える旧約聖書的表現」

 

極めて旧約聖書的な言い方をすれば、私が仏教とキリスト教の合意点によって7の70倍の無明を悟った2006年12月、

 

「ヤーヴェは虎女(瑠璃子です)に再び、3ヶ月の仕事を命じた。ヤーヴェはとある高校の女性教師に子供を授けられ、その出産休暇を補う教員として、耀子の心に語りかけ、再び耀子に虎女を思い出さしめた。」

 

現代日本語で言うと、「以前にヴェネズエラ訪問基金を捻出した学校を紹介してくれたと同じ友人からの推薦で、再び九段にある、ある高校の産休補助教員として、3学期だけという約束で採用された、」という意味である。^^

 

こうやって主語と目的語を逆にしてみると、聖書の表現て、案外「普通のこと」を仰々しく記録し、それを翻訳した国でさらにものすごく仰々しく書き直しているらしいね。

 

とにかく、2007年1月から3月まで、私は再び、教壇に立った。今回は国語でなくて、英語だった。英語の教員免許も持っているけれど、それまで英語で正規に教壇に立ったのは4か月しかない。あとは幼稚園で英語を教えたり、自宅で20数年間英語塾を開いたけどね。今回、英語の教員免許が役に立ったのは、ほとんど奇跡に近かった。

 

そして私は再び33万ほどの臨時収入を得た。

 

しかし、私の体力は、若い力に満ちた高校生相手にかなり苦戦を強いられ、激しい腰痛のために3月末、倒れた。バランス感覚が極めて衰え、文字通り何度も何度も転倒し、医者通いを余儀なくされた。骨粗鬆症の診断を受け、私はそれからしばらく、杖に頼って腰を曲げて歩いた。骨粗鬆症ってなんだか知らないけれど、ジジババになると骨がボロボロになる病らしい。レントゲンで見たけれど、背中の骨がきちんとボロボロになっていた。

 

3ヶ月の仕事が終わったら個展を開こうと計画していたが、家から離れて立ちんぼの個展会場では体力が続かないと判断し、私は初めての試みで、自宅で1ヶ月間の個展を開いた。友人を迎えるのも杖を突き、よたよたとして暮らした。

 

でも私が住んでいるところは、極めて田園風景の濃い田舎で、個展開催期間の1月の間に来てくれたのは1日平均1人だった。

 

しかし、思わぬ収穫があった。ネット内の友人が数人、私の自宅個展を見に来てくれたことである。かの真宗男も、もう一人、これは宗教関連ではなく、趣味のペットの鶏を通じて出あった「鶏男」と私が命名した人物もきてくれた。この「鶏男」は住んでいる地域が交流可能な、ほどよい距離だったので、鶏を通じて、その後かなりの親交を深めた。 

             

そしてヤーヴェは再び、虎女の心に語りかけた。「お前が7の70倍の思いを持って受け入れた、お前の最大の羽なし天使に、お前の気持ちを行動で示せ。33万の臨時収入の意味を考えよ。」

 

骨粗鬆症でぼろぼろの腰を抱えた虎女は、「ハイ」といってから考えた。はて、どういう行動で表現すればいいのだろう。 

           

2006年の1月、エノクと娘が私の「大司教暗殺」をエルサルバドルに持って行った。しかし私は気になっていた。私が始め寄贈先と考えていたロメロ暗殺現場の癌病院に、寄贈する約束を果たしていなかった。その約束は果たさなければならぬ。そう思って、私はあれから別の絵を描いた。

 

「大司教暗殺」は暗殺の瞬間大司教が手に持っていたカリスから、白いホスティアが飛び出している。キリストの体の象徴として「ご聖体」と呼ばれるものだ。 

 

「一粒の麦」と題した今回の絵は、キリストの「血」の象徴としてぶどう酒を描こう。「大司教暗殺」と対の絵にするつもりだった。それはすでに出来上がって、「一粒の麦の」という題で千葉県展に入選していた。今回の自宅個展も、自宅の祭壇中央に、その絵を飾り、いつでも向こうに運んでいいように考えていた。私はそれを純粋に、癌病院に寄贈するために描いたのだ。

 

ただし絵画関係の日本人で「一粒の麦」の意味を理解した人は一人もいない。何が入選を決定させたのか?不可思議なことである。

 

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夏休みに、あっちに行ってみるか・・・軽い気持ちでそう思った。「一粒の麦の」をどうしても届けたかった。じゃあ、太平洋を渡るか・・・。軽くそんなことを考えた。

                     

 ところでヤーヴェは虎女の心に囁いた。「30年前の約束が、まだ実行されていないぞ!」

 

はて、30年前の約束とは?

 

「約束のガラパゴスにまだ行ってなかった!」

 

そうか!とにわかに虎女は合点した。「ガラパゴスだ!ガラパゴスだ!」

 

虎女は突然メールを書いた。「おーい、兄弟!30年前の約束だ。私をガラパゴスに連れて行け!」ヤーヴェは海の向こうの羽なし天使に囁いた。「虎女をガラパゴスに連れて行け!」

 

羽なし天使は返事をよこした。ものすごく喜んでいた。かくして彼はエルサルバドルの旅行社でガラパゴスツアーの計画を立て始めた。

 

冗談抜きで、解説:私がエノクと結婚の約束を交わした時、指輪も儀式も披露宴もいらないから、その代り新婚旅行としてガラパゴスに連れていくこと、を条件にしたのだった。それが内戦のどさくさで果たされていなかった。ということを思い出したのです。

 

「準備:3人合作の箱」

 

そうと決まったら、ガラパゴス行きの準備を始めなければならない。どうしても寄贈の「一粒の麦の」を持っていくために、旅行社に問い合わせたところ、絵をそのまま持っていくにはどうしてもサイズオーバーだった。それで私は、利用する飛行機が許可するぎりぎりのサイズの箱を作りたいと思い、「趣味で」自宅の改造までしているらしい鶏男に、手伝ってくれないかと相談した。絵を解体して、巻いて持っていこうと考え、そのケースをあつらえようと思ったのだ。彼は面白がって引き受けてくれ、1週間で、できてきたものは、持ち運びに研究が必要な、荒削りの木肌の露出した箱だった。

 

それが届いたときに、う~~ん、これは貴婦人で名高い虎女の荷物としてはまずいかなと思った。で、たまたまやってきた、この家のリフォームをやってくれた男にその箱を見せたら、周りに布を貼り付ければ、補強にもなるし、見栄えもいいというので、彼に手伝ってもらって、作り上げた。運ぶのに便利なように、キャスターもつけ、背負うためのベルトも用意した。実に3人の合作である。

 

こういう風に改良したよと、言って、ネットに出てきた鶏男に写真を見せたら、ひぇーーーーっと叫んで、たまげていた。なにしろ似ても似つかない優雅な箱に変身させたのだから。

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で、50号を巻いて、この箱に入れたら、まだ入る余裕があったので、娘にほしい油絵をもって行ってもいいが、どれがいいかと聞いたら、あの、よくばりめ、 30号を 2点持ってきてくれと言ってきた。今回自宅個展に出したばかりの、中米の鳥を描いた絵である。それも巻いてみたら、油絵そのものは入るけれど、木枠が少し入らなかった。仕方ない、もう一つ荷を作り、中身の怪しげな不定形な荷物を2点、飛行機に持ち込むことになった。

 

空港で疑われるだろうなあ。変なものを持ち込む場合、アメリカ経由だと、チェックがうるさくて、また空港の中を荷物を担いで、脱兎のごとく走らなければならない。それを心配して、旅行社にねじこみ、ぎりぎりになってキャンセル待ちのアエロメヒコと捕まえて、メキシコ経由で行くことになった。

 

あれやこれやと重労働をしたので、おかげで、旅行前に、腰痛を起こしてしまったが、本当にガラパゴス旅行が実現すると思えば、なんだかとても「神秘」であった。本当に私は「あちらの世界」と異常交流しているらしい。

 

「メヒコ経由」

 

さて、長年懸案のガラパゴス観光を実現するため、私はエノクのいるエルサルバドルに向けて、平成19年7月18日に日本をたち、同じ日18日の同じ時間にメヒコについた。エルサルバドルに乗り継ぎの中継地にいく前、何とかいう空港に給油のために着いたら、飛行機から下ろされてシステム故障とかで、3時間も遅れた。でも誰も騒がない。日本とメヒコはそこが違う。 (あ、そうだ。メヒコってメキシコのことです。)

 

日本を出る時から、心配していた荷物チェックなど、何もしなかった。内容も確認せず、さっさと通過。わざわざサイズに合わせて箱を作り、絵を巻いて持ってきたが、あんなに気を遣わなくても良かったのかもしれない。メヒコで一晩とまる。シャトルバスが連れて行ってくれる。それも、はじめに脅かされたにしては、泥棒や引ったくりや詐欺の心配もなく、ホテルに着いたら、ただただ寝た。

 

実は、ホテルの食事が高かったからで、外に食事に出るのも面倒で、もうすぐ、家族のいるところに行くんだ、1、2食抜かしてもいいわ、と思い、時差の疲れを休めようと9時間ねむってしまったのだ。大きなベッドで、大の字になって寝た。飛行機の中で猿みたいな姿勢で縮こまっていた後だから、のびのび出来ただけ、気持ちが良かった。朝、シャトルバスが運んでくれたので、早めにホテルを出て滞りなく空港に着き、3時間後に出るサンサルバドル行きの飛行機の搭乗をぼんやり待っていた。

 

ところが案内されたサラ(待合室…かな?)と全く番号の違うサラが搭乗待合室だということを搭乗時間の直前に気が付いた。これも、やっぱりラテンアメリカ式のいい加減さだ。ぎゃっと叫んで脱兎のごとく駆け出した。間に合った。腰痛があったはずだけど、ギャッと叫ぶと本気で腰のほうがたまげて治るらしい。

 

2時間ぐらい乗って、サンサルバドルの空港に無事着いた。やっと面倒な妙な形の荷を目的地まで持ってこれたのだ。ベルトコンベヤから引き取って荷物を出口まで運ぼうと思ってワゴンを探したら、この国は荷を運ぶワゴン使用量が2ドルもする。空港のこの荷運びワゴンが有料の国って初めてだ。2ドル取られるならお断りと、手持ちの折りたたみ式台車を出して、結びつけ、二つの荷を運んだ。

 

エノクと娘の友人と姪が待っていた。姪が運転する車で、見慣れた道をただ走る。家族が住んでいるのは、一月まえほどに引っ越した家だ。それはもともとエノクが両親のため買った家だった。その後彼が日本にいる間母も死に、97歳の父親が、一人暮らしが出来ないので、他人に貸していたのを、今回アパートに住んでいたエノクと娘の家族と一緒に住むことになって、戻ったのだ。

 

孫が私を待っていてくれた。スカイプつかったネット社会のおかげで、孫は私を知っている。プレゼントまで用意していた。かわいい。今回はうるさく言っておいたおかげで、夕食にありつけた。覚えていなかったけれど、私が、ソパデモンドンゴを所望したのだそうだ。いつものとおり、何でもかでも一皿に盛り付けて間に合わせる見かけの汚いエルサルバドル料理。まあ、目を瞑って、食べた。まずいとはいわない。でも、もう少し盛り付けを考えてくれたら、もっとおいしいのになあ、といまさらながら日本人の食生活に対する感性を思う。て、余計な話でした。 

 

メキシコで時差の調節をしたおかげで、次の日から、さっそく、仕事にかかった。ロメロ大司教暗殺現場のがん病院に寄贈する絵を組み立てたり、娘のために持ってきた2枚の30号の絵を組みたてたのだ。ガラパゴスに出かける前、数日、間があるので退屈だろうと思ったが、絵の組み立てにかなりの時を要し、退屈することはなかった。娘の友人が手伝ってくれ、絵は3枚とも、しっかりと組み立てることが出来た。

 

それから持ち込んだ絵の具で修復するべきところは修復して、寄贈先との間を取り持ってくれた、エノクの友人、ペドロ夫人のルピータに知らせ、21日土曜日、彼女の車でロメロ暗殺現場のがん病院まで行った。院長のシスターはいなかったが、若いシスターが引き受けてくれ、無事、絵を収めてきた。これで私が描いた大司教関連の2点の50号の絵が、ロメロ大司教のゆかりのあるエルサルバドルの二つの施設に飾られることになった。

 

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