Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」10月18日

 エルサルバドルへ

 

「ロメロ大司教25回忌」

1)「カラカス~パナマ経由~エルサルバドルへ」

 

3月24日

 

私はメリダのマドレと別れて、カラカスに戻った。戻ったといっても、行きは通過しただけだったから、カラカスの市内など何も知らない。今回は1泊するので、行きに出迎えてくれた二人の男のうち、小柄の男が出迎えてくれる手はずになっていた。

 

悪いけれど名前も顔も記憶していない。どうせ、東洋人は少ないから、あちらのほうで覚えていて見つけてくれるだろう、そう思って飛行機から荷物が降ろされてくるのを待った。私は迎えてくれる彼らのことを、たいした思いで待っていたわけでもなかったのだ。

 

そのマドレの手配した男も、マドレの腹心なのだろう。私と別れるとき、マドレは何か出国にお金が必要になるといけないからといって、ヴェネズエラの通貨の束をくれた。ボリベルは価値がひくいから、たいした金額でなくても「札束」になる。必要なだけ使ったら、後はその男に渡してくれればいいとのことだった。外国人がドルを見せると、でたらめなレートで要求されるから、ドルは持っていることを覚られるなよ、それを避けるための現地通貨なんだからと何から何まで、細かい気遣いを受け、それを私は日本の常識では考えられないほど遠慮もなく、あ、ありがとうと言って「普通の顔」して受け取った。

 

小柄な男は出迎えていた。おまけに荷物受取所と出迎え客のロビーを仕切る窓の向うから、彼はこちらに向かって、ものすごく親しげに手を振ったようだった。顔を覚えていなかった私は、自分を目指して彼が手を振っているとは気づかず、応えなかったが、荷を引きずって外に出たら、彼が飛んできたので、それとわかった。文字通りふっとんで来たのである。

 

「なんだかマドレのシンパはみんな無邪気でマドレの知り合いとなると大喜びで、手伝ってくれるみたいだなあ」と彼の表情を見て思った。しかもその喜び方が尋常ではない。うれしくてうれしくて、もう、自分を使ってくれてうれしくて仕様がない顔なのだ。

 

雲助で有名なタクシーの群れから、無難なタクシーを捜すのを小柄な男に任せて、彼の後をついていった。偶然あたったタクシーの運転手は、驚いたことに金髪の美女である。(少なくとも後姿は)。日本の自宅にいたときから、ヴェネズエラは雲助タクシーで有名だと聞かされていた。だから、金髪の美女がいきなりタクシーの運転席に現れることなんか期待していなかった。

 

で、雲助を恐れていた私は物凄く安心して、マドレのシンパと一緒に乗ったのだが、この女性運転手、物凄くおしゃべりだ。道中ずっとしゃべりまくっていて、面白かった。

 

どこでも始めて見る外の景色は珍しい。メリダに行く飛行機の中から下を見たときに、オレンジ色の同じ家が山の中に散在するのを見たけれど、カラカスの町に近づくと、その街は一つの丘の裾野から頂上まで、びっしり隙間もないほど、同じ色の家が、建て込んでいる。

 

地震国から来た私は、自然災害が起きたら危険だなあと思って、飽きることなく眺めていたら、どうも美人の運転手が誤解したらしい。

 

「せめてあの家を山の色と同じ緑にすれば、こんなに汚く見えないのに…。このセニョーラ、あまり町が汚いので、びっくりしているよ」と、マドレのシンパに話している。

 

(貧しくて汚い家々は山の色と同じにしちゃえば、目立たない、という発想はかなりすごいね^^。ついでに穴居生活に戻せば目立たないよ。)

 

私がスペイン語知らないと思って、この金髪美人、いろんなこといっちゃいそうだから、私は会話に飛び込んだ。

 

「いやいや、汚いからあきれているんじゃなくて、私は地震を心配しているのよ。こんなに斜面にびっしり家が建てられていたら、地震のとき、惨劇になると思いますよ。」

 

それで、暫く災害の話になり、「ついこの間、カラカスに降った豪雨の為に、低いところの家は洪水の被害を受けた。山の上は助かったけれど、地震だったら、この町は全滅だ。」などといっている。そういえば、日本を出る直前、ヴェネズエラが大洪水だという話を聞いたっけ。

 

「それにしても…」と私は又余計なことをいい始めた。

 

「ヴェネズエラの石油産出量は世界第2だと聞いていたので、町はもっと豊かに整備されていると思っていました。これ見て一寸ショックですよ。私は他のラテンアメリカを知っているけれど、まったく地下資源なんか何もない他の国と同じじゃないですか。石油の収入は一体どこに消えるのでしょうね。」

 

ヴェネズエラに付いてすぐに直行したマドレの「家」は山の中だった。彼女がもう亡くなったイエズス会の神父さんと一緒に切り開いて作ったあの広大な施設の芸術的な香りを見てきた私は、ごみごみした首都カラカスの家々の貧しそうなたたずまいを見てかなりショックだったのだ。

 

「石油は軍隊が飲んでいるよ」とマドレのシンパが無造作に言った。

 

ラテンアメリカならどこでも見られる路上に建った市場の喧騒を眺めながら、虐げられた、それでも生命力にみちた浅黒い同じ顔色の人々、同じ南国の果物、そしてその中に必ずそびえているケンタッキーフライドチキンやマクドナルドのレストランとコカコーラの広告の意味するものを考えながら、マドレのシンパのその言葉を深くかみ締めた。

 

案内されたところは、多分「独身寮」のようなところだった。一寸冷え冷えとした「誰も手入れをしていない」建物で、ここはどういう場所だろう?と私は考えた。マドレから何も説明を受けていなかった。

 

「責任者」も「世話係」の存在もなさそうな、わけあって共生している若者の家と言う感じの雑然とした家。むきだしの荒い壁、荒い天井、歩くと金属製の音がする鋼鉄製の階段。

 

一見ヨーロッパ人と見られるお嬢さんが出てきて挨拶した。とても気立てのよさそうなお嬢さん。「ここに訪れる人はみんな友達!」みたいなことを言う。孫みたいな年齢だなあと思いながら、ポケットから誰でもいいからお近づきの印にと思って持ってきた、小さな日本人形のついたキーホルダーを出して上げたら、喜んでいた。ドイツから来たボランテイアだそうだ。何をするためのボランテイアだかわからない。

 

案内された部屋は、そういう若者が出入りする「寝るためだけの」部屋だと見えて、小さなベッドはほんのすこし前誰かが寝た後のように見える。そうか、ここは若者達の下宿宿か…。私のために一人誰かがベッドを譲ってくれたんだな。私はなんだか昔の学生時代の遠い暮らしの記憶が甦ったような気がした。

 

この歳になって、こう言うところに身を置くのは一寸意外だったけれど、まあいい。ただで一晩留めてもらえるんだ。雲助に身包みはがされることを思えば、ここは極楽。そう思って、疲れていたのですぐにそのベッドに身を横たえた。

 

暫くたって、目がさめたので、こうしてもいられないと思って、起きた。まだ夕食していない。どうすれば夕食にありつけるのかわからない。食事なんか1度や 2度抜かしたってかまわないけれど、水ぐらい欲しい。電気を消されてしまったので、真っ暗の中を、手探りでさっき上ってきた階段を見つけた。

 

屋根に、明り取りなのか、立て付けが悪い為にできた隙間なのか、空が見えるところがあって、わずかにほの白くあたりの様子がうかがえる。手すりにしがみついて降りてみたら、人の気配がするので、覗いてみた。

 

若者がどうも料理をしているらしい。台所だと気がついた。

 

「こんばんは。なにしているの?」「夕食作っている。」「おや、いつもあなたが作るの?」「いや、まわしもちだよ。今日は僕があたったんだ。」「何ができるの?」「ステーキ。ステーキ食べるでしょ?」と私に聴く。「もちろん」、と私は言いながら、時計を見たら、もう十時近かった。こんな時間に夕食食べたことない。胃があぶないなと考えて、のどが渇いたので、何か飲み物がないかと聴いた。

 

そこに別のもっと若いのがでてきた。15、6歳かな。かわいい顔をしている。「あなたは学生なの?」と聴いたら、「うん、高校生だよ」、と親しげな表情で応える。何かとても感じのいい子だ。何かあげるものなかったかなと思って、この家の共同生活者の人数を聞いてみたら、4人だという。

 

確か娘にと思って買ってきた日本画がついたファイルホルダーが4枚あった。それを引っ張り出して、みんなに上げた。

 

若者が作った夕食を囲むころ、初め出迎えてくれたマドレのシンパが帰ってきた。若者が一生懸命私のために作ってくれたらしい、食事だった。

 

おいしいよ、といってあげた。味はともかくとして、良い雰囲気の中で食事ができた。そういう食事が最高なんだ。この4人の若者とドイツ人のボランテイアの女の子で、ささやかに共同生活をしているらしい。何か好ましい若者達だった。

 

ここの家はアパートなのかと聞いたら、Fe y Alegria の施設だという。みんなかつてヴェネズエラ全地域に散らばるFe y Alegriaの学校で学んだのだそうだ。都会に出て仕事をしたり、上級の学校に入ったりするため、親元はなれて、ここの施設にいるのだそうだ。家賃は徴収されず、その代わり完全な自活を共同でやっている。交替で、さっきの可愛い高校生も料理をするのだという。なかなか素敵なコミュニティーだ。

 

2)「カラカスからパナマへ」

 

次の日はかなり朝が早いので、人任せでタクシーを呼ぶすべも知らない私は一寸困っていた。ところが、あのマドレのシンパが全て任せてくれというので、自分では何もできないのだから、任せようと考えて、いつものように、時間を気にしいしい寝た。朝は5時半には出発しなければならない。「ラテンアメリカ的」時間の観念が心配されたけれど、お国柄やいろいろな事情を知らないで、自分で朝5時半にタクシーを勝手に呼ぶのは禁物と自分に言い聞かせた。

 

5時に目がさめて、用意して下に降りていったら、あのマドレのシンパがすでに起きて待っていた。そのことにびっくりしてしまい、大げさに驚いた。何故驚いているのかは、やっぱり失礼だから説明しなかった。

 

でもラテンアメリカ人らしく、のんきな顔してタクシーを呼ぶでもなく、テレビ見ながら悠々としている。

 

自分でも日本的時間の観念にうんざりするのだけれど、私は又いらいらし始め、おずおずと聞いた。「タクシーは大丈夫かしら…」「うん。まっていりゃ良いだけさ」「そか」でもやっぱり内心いらいらしていた。

 

5時35分、呼び鈴がなった。再び驚いてしまったことに、タクシーのほうから現れたのだった。ラテンアメリカで、時刻前に物事が成立するなんて、奇蹟に近い。

 

「おや、早いな。何時呼んだの?」と聴いたら、「夕べのうちに予約して置いた」という。ラテンアメリカでは考えられなかった若者のこの誠実な態度に、実のことを言うと頭が混乱するほど唖然とした。私はあくまでも常識的「ラテンアメリカ人」しか期待していなかったのだ。

 

彼、すごく熱心に私の世話をしたがっている。彼はマドレの依頼をうけて、マドレの知り合いを世話するのが、とても「光栄」なことだといって、一生懸命世話をしてくれている。

 

「光栄なのか・・・」そういう言葉をあまり聞いたことがなかったので、二度三度、つぶやいて、吟味した。

 

朝早いからどこも閉まっている。ごみごみしているだけで活気のない町の様子はただ哀しい。素通りするだけの町にせよ、同じラテンアメリカの似たような状況のもとにある、貧しさの極限のような町並みを見て、気持ちが沈んだ。ここもやっぱり、そうなのか・・・。

 

そうこうしているうちに、飛行場についた。マドレのシンパは、荷物を運ぼうとする私をさえぎって荷物を持たせない。この前と違って、飛行場はがらんとしていて、数人しか旅行者がいない。時間は十分あるなと思って、ゆっくり書類を出そうとしたら、マドレのシンパはその書類も受け取って、自分で係員に何か尋ねて手続きをしようとしている。書類に何か記入するときになって、私が記入しようとしたら、それもペンを私からもぎ取って、記入し始めた。その姿が何故かうれしそうである。

 

出国手続きはお金は不要だった。荷物も重量制限にひっかからず、全てがスムーズに行った。良かった、全てこれで、準備OK。私が彼にお礼を言おうとしたら、彼は私が何か言いかけようとするのを、再びさえぎっていった。

 

「ありがとう。あなたのお手伝いに自分が選ばれてうれしかった。本当にお手伝いさせてくれて有難う。」私の目を見て、感謝で一杯の感動の色を浮かべて、その心の真実がまるで、鼓動のように波打っているかのように、トクントクンと私の胸に伝わってきた。

 

なんという言葉なのだ。これは「挨拶」なんかではない。心の真実を言葉で表したということが、伝わってくる。私はかつて、人が他人を世話して、世話を受けたほうからでなく、世話したほうから、こんなに心のこもった言葉をかけられたことがない。

 

「あなたのお手伝いに、自分が選ばれてうれしかった・・・」

「お手伝いさせてくれてありがとう。」

 

じゃあ、お手伝いしてもらった私は何を言えばいいのか・・・。挨拶なんかいいたくない。

 

「Hermano(私の兄弟)、gracias(ありがとう。)あなたに出会えてうれしかった。」

 

私は再び、1-1=∞の数式を思い浮かべた。

 

この人もマドレの子供だな、と私は思った。こんな善意、こんな無垢の魂、こんな純粋な目を持って、生きていることに感謝し、生かされていることに感謝しているのは、マドレの子供しかいないはずだ。私は納得して「私の兄弟」をじっと見、しっかり握手をし、そして別れた。

 

私はその朝、ヴェネズエラを後にし、パナマに向けて旅立った。

 

 

3)「パナマ空港での出来事」

 

万感の思いを持って、私は機上の人となった。

 

2005年はロメロ大司教暗殺から25周年にあたる。私は彼の25周年式典に参加したかったが、私の記憶では23日が暗殺の日で、もう、過ぎてしまった。しかしヴェネズエラの神父さんの説だと、25日が命日だということだったのと、メリダにいたときに、マルタに連絡を取ったら、主要な式典は4月2日だと連絡をしてきたので、今年の命日が聖週間にあたっているからかなとたいして深く考えていなかった。

 

パナマ行きの飛行機は定刻にカラカスを発ち、機内食も意外とおいしく、幸先いいかな?と思いながら、滞りなくパナマについた。

 

しかし一人旅で、パナマは始めてである。飛行機の中で友人を作れない環境になった現代の旅では、隣の人と話もできず、乗り継ぎがすこし不安だった。降りたところまでは良いけれど、パナマの空港の内部の接続がわからず、それから2時間後にでるエルサルバドル行きの搭乗口を探して、あせった所為か迷ってしまった。階段の脇にあった方向指示の読み方を間違えたのである。

 

私は階段を下りた。そこは入国管理局だった。他にも続々人が着て、私は入管の表示を見ておかしいなと思ったくせに、列に並んでしまった。矢印の表示を見間違ったということに気がつかなかった私は、とりあえずここを通過してから乗り継ぎの飛行機の搭乗口に行くのかと勘違いしたのである。

 

自分の番になって私はエルサルバドルに乗り継ぎをしたいが、搭乗口はここを通過すれば良いのかと、係官に尋ねたが、女性の係官は私が示す搭乗券を見ようともせず、すぐに入国申請をして5ドルを払えという。妙だなと思った。それで、私は今からすぐにエルサルバドルに行くのだといって説明をし、搭乗券をもう一度見せたが、どういうわけか、それを見ようともしない。ただひたすら入国申請をして5ドル払えの繰り返しである。

 

私は相手の対応に面食らった。自分の思い込みと違うからといって、相手がこう頑固に同じことを繰り返すのは意味があるのかと迷った。どういう規則があるのかもわからなかった。私がどんなに説明してもその女性は耳を傾けない。飛行機の乗り継ぎの為に料金が必要なわけがないし、パナマに入国するわけではない。

 

しかし、もともと自信のない人間で、こう命令口調で係官に言われてしまうと、従わざるを得ないという方向に、気持ちが向いていった。係官は頑なに私の説明も質問も聞こうとせず、あそこから用紙をもらって来いと命令するのみである。私はその女性の係官の指す方向に行って、そこにいた男に説明をした。

 

その男は、私の言うとおり、やはり支払わなくて良いはずだという。私が戻って、女性の係官に説明をすると、彼女は再び命令口調で、すぐにその用紙に記入して、5ドルを払えという。私はパニックになった。もう、どうしてよいかわからない。言葉がわからないのではなくて、その係官が頑ななな態度に立ち往生したのだ。

 

早くそこを逃れたかったから、私は用紙にパスポートの番号やその他の個人情報を記入し、5ドルを払って、エルサルバドル行きの搭乗口を探したが、その女性係官に聞いても教えてくれない。業を煮やし、人が並んでいるほかの係官のところに割り込んで、事情を話したら、まったくすんなりと場所の間違いを教えてくれたのだ。

 

しかしその先が問題だった。たとえその女性の係官の間違いであろうとも、1度払った5ドルは返せないという。私は5ドルとはいえ、その話を聞いていきなり逆上した。私の間違いでもなく、そちら側の間違いを自分が知っているくせに、何故お金を返さないのか。私は怒って係官に食って掛かった。

 

係官は払ったお前が悪いのだという。払う必要がないと思えば、主張すればいいのに、それをせずに払ったからには納得したのはお前なのだと。頭に来た私は叫んだ。いくら私が主張しても、あの女は払え払えと命令し続けるばかりで、私は飛行機の搭乗に間に合わないから払ったに過ぎないじゃないか。自分の間違いを、事情を良く知らない外国人の乗客のせいにするなと、私は怒鳴りつけ、本当に遅れたら大変だから、まっしぐらに階段を上って、搭乗口を探し始めた。

 

ところが途中の通路で、逆上のあまり、私は突然胃痙攣を起こした。5ドルぐらいのことで、こんなの相手にしていられないと思って、私は教えられた搭乗口まで胃痙攣を抱えて走ったのだ。あの階段を降りさえしなければ、私は直ぐその場所にこれたはずだということに気がつくほど、そこは簡単に見つかった。

 

しかも腹を立てて時間がたったと思っていたが、私の気にしていた乗り継ぎの時間にはまだ1時間ほどある。しかしさっき興奮して起こした胃痙攣は、時を追ってますます激しくなり、私はくの字に体を折って歩いた。経験上、このまま飛行機に乗って、気圧の変化の中に身を置くと、本当に病気になることを知っている。

 

どこかに薬局がないだろうか。日本の飛行場はまるでそれ自体が小さな街みたいに、何でもあるから、人の集まる国際空港だから、薬局くらいはあるだろうと思った。

 

しかし、うろうろしながら人に尋ねても、辿り着いた搭乗口にいたパナマ航空の乗員に尋ねてみても、飛行場にそういうものはないという。仕方がなかった、恥も外聞もなく、誰か胃痛の薬を持っていないかとそこいらにいる人に尋ねた。

 

様子を見ていた一人の男性が、携帯をかけはじめた。携帯の相手に大至急胃痛の薬を買って来いと頼んでいる。ああ、ありがたい人がいる…。私は胃痛の苦しさに何も言わなかったけれど、この人物の行動に気付いた。急に気持ちが緩んで、涙がにじんだ。

 

この人の行動が自分の胃痙攣を治すかもしれない。自分の神経がこう言うことに反応しやすいのも知っている。腹を立て、胃痙攣を起こし、人の優しさに触れ、苦痛が和らぐ…。自分の人生の縮図みたいなことが一瞬の間に起きる。私はそういう神経を抱えていた。

 

そうこうするうちに、別の男性が、乗員に事態を話してくれ、何とかすべきだといっている。彼等が動き出した。奥さん、胃痙攣を起こしたのか、ここに薬局はないけれど、飛行場の医務室があるから連れて行ってあげよう。そういって、彼は車椅子を持ち出し、痛みに苦しんで体を前のめりに曲げている私を乗せて、エレベーターで再び先ほどの入国管理局の階に降り、隣にある医務室まで運んでくれた。そこが入国管理局の隣だとわかった途端に、私の胃は益々きりきりと痛み出した。

 

私は自分の子供のときからの神経の具合を知っている。この胃痙攣が極度の緊張からきたのは明白だった。食中毒や他のビールス関連の病ではない。誤診されては困るから、事情を全部説明した。これは神経の緊張で、私はさっき、入管で、係官とこう言う事情で喧嘩した。そのために神経が緊張して胃痙攣を起こしているので、他の病気ではない。

 

自分の腹立ちを話してしまわないと、この緊張が治らないことも知っているから、全てを話した。それで、医者は納得し、薬をくれた。適切な薬をくれたのだろう。私の胃は次第に緊張をほぐしていった。その行程が良くわかるほど、胃はだんだんに薬を受け付け、緩やかに緊張をほぐしていった。

 

エルサルバドル行きの飛行機が出発するころ、私の胃痛は治っていた。しかし私は別の緊張を抱えていた。これから行くエルサルバドルは、ヴェネズエラ旅行みたいにうまく行くようなところではない。優しいとわかっている人に会うわけじゃない。それどころか家族との新たな緊張が待っている。そのことを思い、私は覚悟ができていたが、それでもやっぱり不安だった。

 

不安というのは、深層心理では「期待」の裏なのかも知れない。ふ~~。自戒とでもいえそうな吐息をついた。期待が裏切られることを予測するから「不安」になる。期待をしなければ済むかもしれないことだけど、それほど私は人生を達観していなかった。

 

4)「エルサルバドル到着」

「孫の洗礼」

 

少なくとも、孫だけが、これから会う家族の中で、文句なくおだやかに私を受け入れ、会える人間かもしれない。すがりつくように、機内で私はそう考えた。

 

そういえば、孫に会うのは今回で2回目なのだ。前年の3月、やっぱり聖週間の頃、私はエルサルバドルに来たのだった。さまざまな問題を乗り越えて、孫が生まれてから、私は変則的な家庭に生まれた孫が、どのような人生をたどるだろうかと考えて、不憫だった。

 

日本人として戸籍を作ったとき、「長男」と記されず「男」と記すことによって、庶出であることを明記した日本の冷たい現実が、孫の人生のすべてを物語っているような気がした。私はあの戸籍の記載を見て、孫は日本で暮らすより、エルサルバドルで暮らすほうが、「身の安全」であると思った。

 

私は孫に洗礼を授けてやりたかった。名前がモーゼなのだ。エルサルバドルで育つのだ。どんな社会にだって「風」は吹く。せっかく生まれた孫を社会の風から少しでも守ってやりたかった。せめて・・・という気持ちがあった。せめて、洗礼を授けて、教会法による正規の戸籍を与えてやりたい、その思いで、私は孫の洗礼にこだわった。

 

前年の3月始め、私は複雑な思いを抱えてエルサルバドルに行った。娘は生まれた赤ん坊と、高齢の祖父、つまりエノクの父親と、面倒見てくれることになった女中のマリと小さなアパートに4人で住んでいた。

 

孫の洗礼を思いついたのは、生まれてまもなく日エ両国の出生届けを見てからだったが、娘は心に余裕もなく、何の用意もしていなかった。

 

私は孫に、お宮参り用の着物を買って持っていった。正式の洗礼服は純白だということを知っていたが、日本では、もうそういうことにこだわらなくなっていたので、私はお宮参りの衣裳をわざわざ選んだのだ。

 

復活祭前だったので、洗礼をやってくれる教会がなくて、私は昔の友人、マルタに頼んで、事情を汲んで私的にでも洗礼を授けてくれる神父さんをさがした。

 

私の感覚では洗礼など、赤ん坊なんかいつでも授けるのが本当じゃないかと考えていたが、エルサルバドルでは、受洗者が多くて赤ん坊は集団で洗礼を授けるためにか、決められた日でないとやってくれない。特に復活祭を前にして、四旬節のため、あちこちで断わられた。

 

私は仕事があったからその年の復活祭までいられなかった。やっと引き受けてくれたところは、都心からものすごくはなれた山の中の教会だった。赤ん坊はまだ4ヶ月で、世話が大変なのに、都心でさえ不便なあの国で、水やミルクや、オムツを抱えて、山の中までいって赤ん坊に洗礼授けるために、夫の親戚縁者と赤ん坊の代父母を引き連れて、10数人の一行が、たった2台の車に相乗りして行くのだから、まあ、洗礼に意味を感じない人から見たら、酔狂だろうな、と自嘲したものだ。

 

汗とほこりにまみれて山の中の教会に到着し、洗礼を授ける段になって、田舎者の神父さんが洗礼服の色にこだわり始めた。洗礼は白でなければ意味がないというのだ。うそつけ!洗礼は洗礼に意味があるのであって、服の色なんか意味がない。乞食だって洗礼は望めば受けられるのだ。と、心で思っていたときに、白が好きな神父は赤ん坊の着物を脱がせて、白いからといって下着だけにしてしまい、下着で洗礼を受けたのである。

 

いろんなことがあった。何とか洗礼が終わり、又私たちは埃をもうもうとさせながら、今度は代父母の母である、マルタの家でピニャタをやり、なんとか、赤ん坊をエルサルバドルの教会の仲間入りをさせたのだった。

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それやこれやを考えながら、憂鬱な気分も同時に抱えて飛行機は否が応でもエルサルバドルに私を連れて行った。

 

 5)「エルサルバドル到着」2

 

3月24日

 

今のエルサルバドルの空港は日本の間組が作った。建造物は良くできているけれど、仕事しているのはみなエルサルバドル人だ。のんべんだらりとやっているのは微笑ましいといえば微笑ましい。もうここまで着たら、ラテン気質に任せるしかない。こちらものんびり、でーーーーっと、列に並んで待っているだけ。

 

この空港でも昔はいろいろなことがあった。見送ったり見送られたりの別れの数々があった。エノクが職探しに無給休暇をとって日本に行くため不安を抱えて見送った後、私は手持ちのものを売って旅費を作りながら食いつないだ。病気の娘の治療費を出せなくて、無料の施療院に世話になった。空き巣に入られた後、留守番に雇った女中と、彼女をお姉さんのように慕っていた4歳の娘の別れがあり、とうとう最後の別れの日がやってきて、この空港に見送りにきたのはエノクの両親と、娘の代父母だった。10年後、私は病身の姑を見舞いがてら、娘を連れてここにきた。帰るときにまた会おうと姑に言ったら、悲しげに笑って抱擁をし、そして、それが姑との最後の抱擁となった。去年、ここで、孫と初対面をした。この空港は、多くの物語の舞台となり、このときも私の心は複雑だった。

 

入管を済ませて、外に出たら、エノクが待っていた。少し太ったな。でも爺さんになったな。手入れしていない白髪混じりの頭髪を見て、そう思った。

 

娘も来ていた。子供を抱いていた。感情があまり湧かないまま、孫を見た。この国の子どもとたいして変わらないような風貌だなと思った。目立つ顔でないだけ、安心した。成長はしているようだな。私に怯えた表情で、娘にしがみついていた。おびえているのはこちらだった。

 

エノクの姪の運転する小さな車で、黙ってサンサルバドルの町に向かった。外の景色を見ると、随分様変わりしている。去年は外の景色を見る心のゆとりはなかった。改めて眺めると、とても清潔で奇麗だ。とても清潔で綺麗だということは、この国の現状を知っている私には「奇異」だった。

 

豊かになったのかな・・・とも思った。沿道の景色を見てそんな感想を持った。ここを通るとき、いつも飛び出してきたにわか物売りの子供たちとか、バナナやスイカを高々と持ち上げて買ってもらおうと呼び声を上げる農夫とか、そういう慣れた景色はもう見えない。

 

豊かになったのか放逐されたのか、ここを通る車は「国際人」ばかりだから、政府は見栄も張るだろう。ふと、悲しい予感が頭を去来する。何しろあれほどの貧困階級がこの数年の間に突然豊かになるはずがないからね。一体どこに放り込まれたのやら。殺されちまったんじゃあるまいな。ここに来るとそういう状況が平気で頭を去来する。

 

自分が今年ここに来る理由ってなんだったろう。旅行はマドレに会うという事を念頭において始めたのだ。その旅行は心に大きな収穫を得て終わった。1-1=∞の再確認の旅行だった。いつまでも何時までも、マドレに再会した感動の余韻が残っている。それをそのままにしておきたい思いもあった。

 

帰る間際、何か自分にできることないかなあとつぶやいたら、マドレは、日本に行ったら、自分がやってきたこの運動のことを出来るだけ多くの人に知らせてほしい、もしそれですこしでも援助してもらえるなら助かるという話だった。そのことを何とかしてみると約束したが、具体的に何をすれば良いかは見当がつかなかった。

 

私はぼんやり、これから過ごすエルサルバドルの10日間を有意義に過ごすことを考えていた。ロメロ大司教の25周年の行事が、まだ終わってないように。

 

心に抵抗を感じながら、今回はこの国に来たんだから、何か収穫がほしかった。その「収穫」が自分で自分を救うためのポーズだとしても。私はまだ「期待」を完全には放棄していなかった。

 

私には一つ、確実にこの国に来て人を喜ばせられる材料を持ってきていた。娘の孫の面倒を見てくれているマリという女中さんの為、震災でなくした彼女の息子の肖像画を描いてきた。マリが亡くなった息子を偲んでか、娘の子供を非常に大事にしてくれていることを知っていた。娘は時々、自分の子供が母親を間違えて、マリにばかり懐くのを不安がるほどだった。

 

そういう事情を知らされて、何かマリを慰める方法がないかなと思った。もっと前に計画していたのだけれど、いろいろな障害が重なって果たせなかった。今回はちょうど復活祭の季節に来たので、マリの息子を絵の中で復活させて、喜ばせてあげたい、そんな思いだった。

 

もう亡くなった子供だし、実際を見たわけでもない。しかも娘が計画を知って送ってきた写真はあまりよく撮れていなかった。だから絵はあまり成功とはいえないできばえだったが、とにかく額に入れてもって来た。これでもマリは喜んでくれるだろう。この国の上層階級の女中に対する扱いを知っている私は、心からの感謝とねぎらいを、自分ができることで、しかも相手の負担にならない方法で表したかった。

 

スーツケースの中にはもう一つ、小さな額縁を持ってきていた。あの二科展初入選の絵、「大司教暗殺」をキャビネ大にとった写真である。この写真を彼の亡くなった聖堂に寄贈したいと思った。もし許されるなら、ほんとうは実物を寄贈したかったから、郵送費のことなど相談しようと思っていた。多分、聖堂の管理者は喜んでくれるだろう。

 

実は、スーツケースには娘に頼まれた本や衣類、孫へのプレゼントなど、隙間なく詰まっていた。それも、頼まれたものとはいえ、家族を「喜ばせられる」物かもしれない。でも、私の家族は、私の気遣いを全て「あたりまえ」と感じているようで、クリスマスのプレゼントも、お誕生日のプレゼントも、いくら贈っても受け取ったという返事さえよこさなかった。

 

自分の行為を「喜んでいる」とは到底思えない、むなしい気持ちをいつも味わっていた。なぜなら、彼らがそういう「挨拶」は誰にもしないことに決めている人たちなのではなくて、エノクは自分自身の実家の「家族」には、かなり濃密な行動をしていたということを知ってしまったから。

 

娘の通う大学の近くにあるという理由で、最近引っ越したばかりのアパートに着いた。去年孫の洗礼に立ち会うために来たときに住んでいた所は、こじんまりとして、案外清潔なアパートだったが、今度のは広さがあるとはいえ、大学に近いと言うだけで、なんだか貧相な家だった。ペンキの塗り方も雑で、家の大きさの割りにパティオが小さい。どこも薄暗く、物が雑然と放置されていて、初めからなんだか気分が悪かった。

 

しかも、私が喜ばせたいと思っていた、たった一人の人物であるマリがいないのだ。そうだった。エルサルバドルは聖週間の休暇で、復活祭にならないと人間が動かない。休暇は誰にとっても休暇で、町は静まり返っている。カトリックの国だ。教会暦を守っている。

 

娘はその家に父親とおじいさんと息子とマリの4人と共同生活している。入るとすぐ駐車場として作られた10畳ほどのスペースが在って、その奥にリビングとダイニング、リビングの奥にはおじいさんの部屋、ダイニングの隣には暗い小さい台所があって、その裏に女中部屋がある。2階の階段を上るとシャワールーム、それをはさんで、3つの部屋がある。

 

その一つを娘と父親が書斎に使い、もう二つをベッドルームにしている。ベッド一つ一つに蚊帳がかかっている。私がこの国に住んでいたころ蚊帳など見た事がなかったけれど、今はどこでもベッドの上に蚊帳を吊っているらしい。内戦が終わると、蚊が増えるのかな。妙なことを考えた。

 

娘は自分のほうのベッドルームにもう1つベッドを入れ、私と一緒に寝るのだという。どうするかとエノクが聞くから、自分は旅で疲れているから、少なくとも今日は一人で寝かせて欲しいといって、一人部屋のほうを選んだ。一人なら自分が整理整頓すればいい、だけど娘と子供が寝る部屋で、乱雑さにいらいらしながら寝るのがいやだった。それで、夫が娘の部屋で、子供と3人で寝ることになった。

 

着いた日は聖木曜だった。ちょうどマリが休暇を取ったばかりらしくて、夕食を用意していってくれたそうだ。でも、それ以外、なにも買い置きがなかったから、飲み物は水だけだし、野菜も果物らしいものも何もない。まるで独身の男所帯だ。私が来るとわかっていて、何故何も食料を買っておかないのだ、といったら、二人とも始めて気がついたみたいにぼおっとして私を見て佇んでいる。

 

待たれていなかった。それがはっきりわかる二人の態度だった。

 

聖週間の休暇なのだ、うっかりすると休暇が終わるまで、何も食べられない。マドレが何から何まで、私を迎えるために用意しておいてくれたことを思い、情けなかった。しかしそのとき、ふと気がついて、子供の食べ物は買ってあるのかと聴いたら、それもないらしい。

 

これは人を迎える以前の問題で、生活そのものが出来ていないんだ。私は憮然としてマリの用意してくれたという鶏のスープを食べた。