「自伝及び中米内戦体験記」11月4日
旅も終盤
「駅周辺探訪」
夕方、私たちは、駅周辺の民芸品屋を歩いた。私は何度も言うけどかなりの方向音痴で、誰かと一緒に歩くと、頼ってしまって、余計音痴になる。何度来ても、同じところ歩いていることに気がつかないほど間抜けなのだ。特に民芸品街は迷路のように入り組んでいるばかりでなく、面白がってあちこち立ち止まるから、道なんか記憶しているわけがない。
リマでは、珍しい飾りのあるナイフを2本買った。その飾りが、ものすごく面白いので、また目がナイフに行く。山羊の角にコンドル、蛇、豹をあしらった鞘のある、凄いナイフを見つけた。欲しいなあといったら、エノクがもう2本もあるのに、といって邪魔して買わせてくれない。そうなると余計欲しい。しかし、その日はエノクが勧める、出っ歯の化け物がついた、もう少し安いのを買った。
蛇とコンドルとピューマが付いたナイフ↑
エノクの趣味↑
広場に出た。黄色の衣装を着けた銅像が立っている。どうも、インカの英雄らしい。英雄なら、9代の皇帝だろう。そう思って、一緒に写真を取った。
小さな博物館と、装身具の店を覗いて見た。急に、この旅行を始めた日、エルサルバドルの空港で、エノクが、私に装身具を買ってくれるといったのを思い出した。ここを立てば、もう、帰路は飛行機ばかりだ。機会がない。ここで買ってもらおうかな、と、こっそり考えた。
夕食を食べようと、エノクが言い出した。呼び込みをやっている女の子が気に入ったらしく、エノクは彼女について小さな店に入った。しかし、その店は、凄く雰囲気が悪かった。なんだか汚いし、注文したものを書きとめようともしない。他にお客もいないのに時間もずいぶん待たされる。逃げ出そうよ、と誘ったら、エノクも逃げ出そうと答えたので、立ち上がったところで引き止められた。
出された食事は、注文したものではなかった。仕方ない。半分食べて、支払いを済ませ、外に出た。暗くなっていた。ホテルまで、まっすぐの道を戻った。
明日どうするの?と聞いたら、博物館と植物園に行こうよ、とエノクは答えたので、明日の計画はきまった。
「博物館と植物園」
次の日、目的地まで歩いていけるというので、人に聞きながら、博物館と植物園に行った。それは昨日マチュピチュ登山でのったバスの通る山中の分かれ道にあった。聳え立つ山々を眺めながら、渓流にかけられたつり橋を渡り、やっと博物館の入り口を見つけた。
それは、なんだか、個人が趣味でやっているような、規模の小さい博物館で、私たちが行ったとき、係りの人が、今日の初めてのお客さんだといって、部屋の電灯をつけ始めた。トイレがあったけれど、トイレの水まで切られていて、要求して初めて、水が出た。
展示品は少なくて、わずかな土器と、数体のミイラと、古代の生活を再現した村の様子のミニアチュアがあり、その横の壁に展示品より多くの説明書きがあった。誰もいないので、床に座って眺めていたら、壁際にマチュピチュについて説明するビデオが上映され始めた。ビデオなんて、この電子通信時代、世界のどこにいても見ることができる。博物館なら、現物を展示しろよ。せっかくのインカの本場じゃないか。
矢印に従って、最後の順路に出ると、アンケートを書くノートがあって、めくってみると、日本人も来ていた形跡が残されていた。其処に私は日本語とスペイン語で、感想を書いた。
「ここまで足を運ぶ人は、インカについて、ある程度の知識があると思うから、読もうと思えばどこでも読める説明がきよりも、その説明を証明するもっと多くの古代の文物を置いて欲しいと思うが、どうだろう。署名」
それから私たちは、植物園と呼ばれるところに入った。それもまるで個人の庭のようだった。庭師らしい爺さんが、出てきて、煩そうな表情で黙って戸をあけた。
植物園は、来た道の渓流の傍らにあり、その爺さんの庭みたいで植えてあるものもすくなかった。世界から集めた珍しい植物があるわけでなく、みな土地の植物だ。私は日本から来た旅行者だから、その土地のものが「珍しいもの」なのだけど、それは、わざわざお金を払ってみるものと言うより、散歩していれば見られるものばかりなのだ。
博物館も植物園も、たいしたことはなかった。しかしそれはただの散歩として、楽しかった。山々をじっくり眺め、ウルバンバ川の水に触れ、道路を走る車が立てる埃を吸い、自分の足で散歩したのだ。電子チケットと電子計画書とまるで自動的に、どこにでも出てくるガイドと、超現代的な旅行を続けてきた私は、「迷う」と言う、旅につき物の「行程」を、始めてこの時味わった。見知らぬ人に道を聞くという、「一般人との接点」も、やっとここで味わった。それは懐かしい旅の味だったのに、なんだかそれが「新鮮」に感じた。
以下、名前を確認できなかった植物↓
「インカの三位一体」
午後、私たちは、夕べ下見した、駅の傍の民芸品屋街を歩いた。あと1日旅の行程は残っているが、自由に歩けるのはその日だけだった。民芸品は、見て歩いているだけで楽しい。しかしここには私の好みの、土器などの掘り出し物がなくて、専ら観光客相手の品物ばかり目だった。
私はアルマンドが、言語のことで今は、原住民の言葉を回復しつつあるといっていたのを思い出して、店の人を捕まえて、おはようとは、現地の言葉ではどういうの?とか、ありがとうは、どういうの?とか聞いてみた。彼女たちは、始め恥ずかしがって、言わなかったが、とうとう、一人が教えてくれた。次の店で習ったばかりの言葉を言ってみた。ところが通じなかった。今度は、ちょっと年の行っていそうなおばさんに聞いてみたら、彼女は目を輝かして教えてくれた。
子供の頃は、みんな現地の言葉を使っていた。でも学校ではスペイン語しか教えないので、結局若い人は、自分たちの先祖の言葉を使わなくなったよ。私は若い人に教えているんだ。忘れてしまったら、もったいないからね。
お!私は、その言葉がうれしかった。気骨があるおばさんだ。用もないのに、その店で話しこんだ。ガラパゴスの空港近くの土産物屋の娘が、私のスペイン語の質問に、英語で答えたのを聞いて、つむじまげて、買い物を断念したのを思い出した。私は大和の、言霊の国から来たんだ。誰が南蛮人の言葉なぞ使うものか。この気骨あるインカのおばさんと私は心で連帯した。
昨日目星をつけたナイフを探した。うねうねと迷路のように入り組んだ道を歩いているうちに、夫とはぐれ、偶然私はそれを見つけて買った。知らん顔して、私はそれを背負って歩いた。何しろこの旅で、この手のナイフはこれで5本も買い込んだのだ。
そのナイフは「インカの三位一体」とガイドのアルマンドが言っていた装飾がついている。
マチュピチュを案内したアルマンドが、キリスト教の掲げる信仰の中心である「父と子と聖霊の三位一体」と対比しながら、「インカの三位一体」の話しをしていた。それは「コンドルとピュ―マと蛇の三位一体」だそうだ。それはなんだか滑稽だったが、そう語る彼の表情に、スペインとスペインが掲げる宗教が、決して、彼らが言うほど唯一絶対の真理ではないという主張が、感じられた。
その3匹の動物が何を表すのか、私は知らない。しかし彼らにとって、スペイン人は黄金に目が眩んだ略奪集団であり、彼らが掲げる「父と子と聖霊の三位一体」なるものが、彼らが言う「愛や真理」と正反対な、暴力的な狂信者集団の幻想に映ったことは、当然のことだっただろう。何しろ、彼らは略奪した金銀財宝で、彼らの「父と子と聖霊の三位一体」の教会を作ったのだから。
私はその「インカの三位一体」のついたナイフを、そうとは知らずに、別の店でも購入していた。
途中数人の女の子の連れに出会った。明らかに不自然な金髪で、下着のようにしか見えないだらしない衣装に、中途半端なズボンをはいて、背中からでも見えるピアスを耳いっぱいにつけて、足には薄っぺらなサンダルを履いていた。どこかの国の、何処かの繁華街にいそうないでたちだ。ぎょ、こいつは、もしかして日本人?
その格好で、マチュピチュ登山をしてきたのかよ!私は同国人と疑われるのを恥じて、彼女たちを尻目に思わず逃げ出した。
さまよっているうちにエノクと出会い、ある店で私はインカ模様の赤いクッションカヴァーを見つけた。うちのソファーにいいな、自分の絵を飾ってある教室のソファーが古くて何も飾りがないのに気がついて、それも購入。
ぶらぶらエノクと歩くうち、インカの英雄の銅像のある広場に出たら、そうだそうだ、と、思い出した。あの装身具の店で、面白いネックレス、買ってもらおう。
なんだか、私はこだわっていた。エルサルバドルの空港で、ネックレスを見つけて、エノクが買ってあげようか、といっただけで凄くうれしかった。本当に買わせようなんて思っていなかった。31年前の約束のガラパゴスの旅を実現しただけで十分だった。でもやっぱり、何か記念が欲しかったのだ。どうせまた、いつ会えるかわからない別居生活に戻るのだ。
銀製品は、細工の面白さではなくて、重さで値段を決める。装身具屋のポーズかもしれない。でも、なんだか、そのことが、インカ帝国から騙し取った部屋いっぱいの金銀の芸術作品を、その作品価値に斟酌なく、全部延べ棒にしてしまったピサロの精神のような気がした。
私はインカ訪問の記念に、コンドルの形をしたペンダントを選んだ。三位一体ではなかったけれど^^。
今でも時々、これを身に着けると、なんだかうれしい。