Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」11月5日

「最後の日にばてた」

 

帰路、例の豪華な列車に再び乗った。クスコのホテルに戻るのだ。クスコのホテルには、どうせ戻ってくるというので、登山に不要なものはみんな置いてきた。

 

乗り合わせた相手は、母親と、7歳くらいの少年だった。特に観察していたわけではないけれど、なんだか問題ありげな親子で、ほとんど誰とも口を利かなかった。スペイン語を話してもなんだか要領を得ない。外国人かなあと考えた。(ペルーにとっての外国人ね^^)

 

しかも母親の服装は、マチュピチュ観光みたいなこういう旅に似つかわしくない、ドレスに真珠のネックレスと言ういでたちだった。観光客ではないのだな。しかも、彼女はなんだかひどくストレスに満ちて、悲しそうだった。子どもを世話する表情も、物憂げで、ただ手が動いている。時々、誰かを探しているような表情で、外を見る。

 

子どものほうも、不機嫌で、他人を見るまなざしに不快感がちらつく。声をかけても、睨みつけるようにこちらを見るだけで、口を利かない。

 

どうも、凄い問題のある人と乗り合わせたな、私とエノクは顔を見合わせ、黙り込んだ。

 

そのうち食事が出た。サンドイッチのようだった。おいしそうだな、食べようと思ったその時に、前の少年がいきなり、テーブルの上にげろを吐いた。げろは4人分の食事の上にかかった。私たちの一角は誰も食事ができなくなった。

 

母親は呆然としていて、声も出さない。私たちが子どもの汚れた体を拭くようにタオルを出したが、母親は黙ってそれをとって、先に床を吹いて、捨てた。子どもの世話の手伝いをしようと申し出たが、母親は目つきと手つきでそれを制して、口を利かなかった。鉄道員がやってきて、清掃をする。母親は、代え着を出して子どもを、トイレに連れて行った。

 

なんだか旅の最後に興をそがれてしまった。でも、こういうことは、どうしようもないことだ。鉄道員が、コカコーラでも飲みますか?と聞きに来たので、それを頼んだ。食べられなくなったのに、別の食事はくれるとは言わなかった。きっと、ないんだろう。しかたない。

 

夕方になってしまったので、外の景色も見えなくなった。気まずくなって前の親子から目をそらしていたら、電車の中の余興なのか、突然、ピエロみたいな姿に扮した、男が躍り出てきた。面白い余興をやるんだな。

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白い仮面を頭からすっぽり被っている。強盗の目だし帽と言う感じ。目の部分を黒くあけて口はまっか。ああ、これはどうも、インカの山の精霊の姿らしい。電車がゆれて、よく写真が撮れなかったが、何とか、斜めに写真を撮った。山の精霊に扮したのは鉄道の職員だそうだ。しゃれている。

 

もう、夜も9時ごろ、目的の駅に着いた。一行は終点まで行かないで、手前の駅で降ろされ、一緒にバスでホテルまで運ばれるらしい。

 

私たちは、最後まで残されて、やっと登山前に荷物を預けたホテルに到着したときは、もう夕食の時間はとうに過ぎていた。昼も食べていないのに、食欲がなかった。レストランで、稗みたいな穀類のスープを頼み、それを飲んで明日の打ち合わせのガイドが来るまで、休んでいた。

 

しばらく経ったらそのガイドが来た。ちょっとめまいを感じ、あまり気乗りせずに聞き流し、そそくさとあてがわれた部屋に上った。風呂はお湯が出る。疲れを取ろうと、湯船に身を横たえた。

 

ところが、私はそれから一晩中、腹痛と下痢に苦しんだ。特別おかしなものを食べたわけじゃない。ずっと一緒のツアーで、みんな同じものを食べさせられたのだ。怪しいのは、途中で入ったレストランで、頼んだものでない妙な食べ物を食べさせられた、あれかも知られない。多分中南米特有の細菌が私の胃を攻撃し始めたのだ。体が弱り、抵抗力をなくしているから、細菌の活動に負けたらしい。

 

 

これは変だ。日本から用意してきた抗菌用の薬を飲み、多分、その所為で一時は眠り込んだが、腹痛で目を覚まし、ふらふらと立ち上がってはトイレに通った。朝までに胃腸の中に、もう、何も入っていないはずだった。それでも下痢は収まらなかった。

 

朝、目は覚ましたものの起きられなかった。意識朦朧として、腰が立たない。これじゃ、到底、今日の行程をこなすことはできない。そう感じたので、エノクに、自分はホテルで寝ているから、今日の観光は一人で行ってきて、といった。その日は、Parque Arqueologico de Sacsayhuamanと言う考古学博物館だ。自分の興味あるところだったから、行って来て写真でも撮って来て欲しかった。

 

「いや、ここにいて、介抱するよ」とエノクは言って、しばらくしたら、レストランのボーイを伴って、夕べ食べたスープと同じ物を持ってきた。「何も食べないで、薬だけ飲むのは、よくないから」といいながら。

 

食欲がない。梅干のおかゆが欲しかった。でも、どうしようもない。以前グアテマラ旅行した時、同行の日本人が梅干しばかり食べていたな、なんてことを思い出した。

 

「じゃあ、お昼は、ヨーグルトをかけたコーンフレークを頼んでおいて。後はただ寝ているだけだから、もったいないから観光はしてきてね」と、私はいったが、エノクが何を言ったのか覚えがない。なんとか食事をし、薬を飲んで又寝た。

 

しばらくしてうっすらと目が覚めたとき、エノクはいなかった。朝、やってきたガイドに事情を言ったら、「朝いけないなら、午後に別のグループと一緒にでも行けるから」といわれて、彼はそのつもりでいた。だから、観光に行っているのかな、と思った。

 

私は起き上がれなかった。腕に力が入らない。頭は首の上に座らない。昼食が、ベッドの足元の丸いテーブルの上においてあった。薄目を開けてそれを見た。

 

何が起きても起きなくても、明日はここを発たなければならない。又、リマを経て、エルサルバドルに戻る搭乗券を変えることが出来ないのだ。

 

私はもう一度眠り込んだ。少なくとも、歩けるようにならないと、困ったことになる。意思で持って、治ろう。私はそう決意した。

 

「エノクの観光」

 

暗くなる前に、エノクは戻ってきた。結局、今日の予定の観光は、午後になってもガイドは来なかったので、一人で散歩がてら歩いていたら、偶然クスコの町の祭りにでくわして、それを見ていたのだそうだ。祭りのときに饗される、あのクイの丸焼きも、たくさんあって、出し物も凄く面白かったと、言っていた。

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クイ(現地のスペイン人が「この国の人はネズミを食べる」と言っていた食べ物。

 

「行列があって、キリストみたいな、土地の神様みたいな、またはその合体みたいな神輿が町をうねっていたよ。」

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数年前、グアテマラを旅行したときも、そういうのがあったな。何がなんだかわけのわからない神様。何でもいいから人々はそれに向かって十字を切っていたっけ。微笑ともつかず、苦笑ともつかず、嘲笑ともつかず、失笑ともつかず、どんな表情で笑ったらいいのか、困ったっけ・・・

 

今なら、ひょっとすると、呵呵大笑。

 

夜中に私はある力を感じ、むっくりと起きた。少し、体に力が戻っていた。

 

もう下着がなかった。なんとしても洗っておかなければ、明日着るものがない。私はトイレに行くついでに夕べ確か入ったお風呂に水が残っているのを見て、その水で下着を洗った。お風呂のカーテンの棒に、洗濯物を干し、新しい湯を張って体を洗い、また寝た。

 

私はぐっすり眠ったらしい。朝、私は起き上がった。頭は少しゆらゆらしていたけれど、荷を造り、出発の用意をしなければならなかった。夕べ目くらめっぽうでやった洗濯物は乾いている。歩けるようだ。出発の準備ができた。

 

何かをお腹に入れなければならない。ふらふらと歩き、私は夫に伴われて、下のレストランに下りていった。ボーイがみんなで挨拶する。お加減はどうだ?元気になったか?歩けるか?

 

何とか持ち直したようです、と私はいい、ヨーグルトとコーンフレークの軽い食事を済ませた。

 

ガイドが迎えに来て、クスコの空港に私たちを案内し、リマに向けて飛び立った。足を運べるくらいには、体は何とか持ち直していた。

 

(ここにダビの撮影した写真)

 

「マチュピチュ雑感」

 

クスコ・マチュピチュ観光は、私にとって、意味深い観光だった。

 

現代世界の諸問題、歴史、宗教、それらすべてを包含して生きる、人間の生き方にわたる大問題を深く考えさせられた。それは苦渋に満ちた思いでもあったが、私はこの観光に参加しなければ、決して理解することも受け入れることもなかっただろう、ある事実を受け入れた。

 

自分をそれまで律してきた信仰を離れて、私は始めて、教会と言うものを外から眺め、大航海時代にキリスト教が果たした役割とその結果とを考えた。世界各地で起きている現代における戦争が、その昔の大航海時代から始まっていることを理解したのだ。彼らがキリストの名において、キリスト自身が夢想だにしなかったことを、世界中でやったのだ。

 

それは、異民族に対する破壊、殺戮、略奪、宗教裁判、力による支配。

 

信仰とか信念と言うものが、どんなに危険な一面を含んでいるか、人間と言うものが、どんな動物であるかを、私は、深く考えた。宗教は実に「アヘン」になりうる。自分の行動が、何を意味するかと言うことを考え、自省し、我欲の支配から離れない限り。

 

キリスト教では、それを原罪といい、仏教ではそれを無明と言うのだろう。

 

神という「絶対者」が、人間に命令を下す存在であると考え、自分に力がある、神が与えた使命がある、と信じているときに、それが我欲によるものであるとは、気がつかない。ピサロもヒットラーも気がつかなかった。天誅とか、天に代わりて敵を討つ、とか言う、勇ましい人間の、多分切羽詰った、ある意味では「正義感」による思いも、その我欲に他ならない。

 

フランシスコ ピサロの作品である、リマのカテドラルの中を見る限り、私はピサロがキリストを「理解」していたとは到底思えない。彼らは黄金に狂った人間集団であって、大義名分として「地の果てまで教えを伝えよ」と言うキリストの命令と称する言葉を利用したに過ぎない。彼は「金」はスペインとスペインを中心とした教会しか所有してはならないものと考えた。異教徒は金を持ってはならない。いや、異教徒は存在してはならない。

 

ピサロの求めた「金」とは、「アヘン」そのものだ。

 

クスコの町を歩きながら、私はあの情熱的な二人のガイドの言葉をかみ締めた。自分たちの祖先が、いかに高度な文明を築いた民族であったか、征服者が略奪していったものが、いかに貴重なものだったか、征服者が破壊し尽くしていったものがいかに人類にとっての損失だったか、それらを語るときの誇りと屈辱に満ちた彼らの表情を思い出していた。

 

23歳のとき私が出会い、私を救ったスペイン人のシスターがくれた「金」のメダルを私は大事にいつも首につけている。もちろん、そのメダルには聖母子像が刻まれている。これもスペインの「金」だった。自分の身近なところに、23歳の頃から43年間、肌身離さず身につけていたものが、どんな歴史を経て自分の胸に下がっているのか、考えたこともなかった。

 

今思えば、あれもインカの戦利品から作ったのかもしれない。あのマドレは私にとって、聖女のような人だった。今も現役で活躍しながら、彼女は人を助けている。彼女がくれた金のメダルが、どういう歴史を経て彼女の手に渡ったとしても、彼女自身は人殺しではない。それどころか世界を蹂躙した人々とは正反対の愛の使徒だ。

 

しかし、私は考え込んでしまう。私もやっぱりその「金」に喜んだのだ。その「金」を大事にし、人生の岐路において、いつも、その「金」をくれたあの人を思い出していたのだ。

 

金を使って、何を作ろうと、私にとってはどうでもいい。泥をこねて器を作るのと、どう違う?でもドロを求めて、人は大量虐殺はしない。

 

「金」とは恐ろしいものだ。金の為に一つの文明が滅亡する。金のために、巨大な大陸の巨大な帝国の巨大な民が殺戮され、略奪され、滅亡させられる。しかも、その大義名分は「キリストの愛の教会を広めるため。」

 

そのキリストと言う男は、富が身を滅ぼすことを、徹底して説いた男だった。すべてを捨てて十字架を背負って自分について来い、と彼は言い、金貨一枚も身に帯びることを赦さなかった。着る物食べるもののことを考えるな、それはすべて、「在りて在るもの」に任せよ、といった男だった。

 

着る物、食べるものを心配せず、すべてを神に任せよ、とは一体どういうことなのか。多分それは仏教で言う、「他力」なのだろう。自分の無力、自分の無明を悟り、我欲を捨て、あるがままに生きよ、そういうことなのだろう。

 

信仰とは、自分に或る力が与えられているということさえ放棄して、一切を「原存在」たる「在りて或る者」に任せることだ。「金」を求めて「金」を拝み、身に「金」を纏って、自らが神になり、自分に従わないものを火あぶりにすることではない。

 

そしてそれらのことを、スペインの征服者たちがカトリックの名において、15世紀以来やってきた。教会はその状況を放置し、むしろカトリック教会の名が世界に広がったことを喜んだ。

 

私の心は、たとえ歴史的に心理的に、責任を感じる立場にいなかろうとも、苦悩を感じる。