Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」11月2日

「リマに飛ぶ」

 

私が住んでいた中米はどの国も小さいので隣国が近い。飛行機でも長くて2時間以内だ。ところが、南米はそれぞれの国が大きいので、エクアドルとペルーが隣国でも、飛行時間が長く、ついたのは夜だった。エクアドルはエルサルバドルと同様、ドルを導入した国だったが、ペルーはドルの国ではない。空港で、現地通貨を買わなければならない。

 

荷物を引き取って、ソル(インカは太陽信仰の国だ、多分ソルと言うのはスペイン語の太陽のことだろう、と、勝手に考えた。)という通貨を買い、外に出た。

 

リマで待っていたのは、小柄な日本人そっくりな男で、エジソンと名乗る。日系かなと思ったけれど、インカ帝国の末裔だった。で、そのインカ帝国の末裔が案内してきたホテルは、我々のレベルでは超一流のホテルだった。その名はSonesta Posada del INCA。一組の夫婦の2泊の宿泊に、なにもこんなにでかくなくてもいい。

 

それはともかく、私みたいな一般の日本人旅行者にとって、暖かい風呂があることは、何によりも勝る。まともなベッドと風呂があれば、テレビも冷蔵庫も要らない。私はまともなベッドと風呂があるホテルを「超一流」と呼ぶ。畳3畳ほどのダブルベッドなんかなくてもいい。

 

案内されたそのホテルの部屋はつながったでかい二つの部屋があり、それぞれの部屋に一人でも大の字になって有り余るでかいダブルベッドに、でかい冷蔵庫とでかいテレビが付いていた。天の川の星が全部付いた超一流だ。でも超一流ってのは不要なものが多いね。

 

こんな旅行が出来るんだから、我々も世界の水準からすれば下層階級ではないことは確かだが、私は倹約の精神から、そう思った。二人分のベッドに、風呂があれば、幸福の条件は尽きるという精神の私には、そのホテルはちょっとばかばかしい贅沢さだった。

 

その夜は、着いたばかりの「外国」で、外食も面倒だと思い、ホテルで食事をした。サービスで、ピスコサワーという、ペルーの酒がでる。焼酎のような味で、卵の白身を攪拌したものが乗っているそうで、だから上が白い。胃袋の調子は問題にせず、珍しいものは何でも試す。

 

31日朝。ホテルには朝食がついている。バイキング形式だったからいろいろとがつがつ食べた。バイキング形式だと、どこの国でも、いい気になって品も教養も忘れてがつがつ食べる。しかもバイキングほどうまいものはないのだ。胃袋の容量も忘れて、色々食べる。

 

その日の観光は、まだリマ市内。女性のガイドがやってきた。見ると、これも日本人そっくり。ガイドだから服装も、世界共通でお堅い。アメリカはガイドつきで観光をしたことがないから、ガイドがどんな格好をしているか知らないけれど、顔が日本人的で、堅い服装をしていたら、日本の銀行員みたいな気がしてくる。のっぺりした顔を見ていたら、うっかり日本語が出そうだ。しかし、失礼だし、危ないから日系かどうかも聞かなかった。

 

同じ車で観光するものは、ブラジル人の一家だった。子供が二人、だからスペイン語が出来ないという理由で、ガイドは気遣って、ものすごくゆっくり単語を一つ一つ区切って話をする。ブラジルはポルトガル語だから、スペイン語でもゆっくり話せば、分かるらしい。

 

リマ観光は、古代の遺物や博物館の見学から始まった。あまり、近代の建物の話はしない。すべてインカ色である。のっぺり顔のガイドは誇らしげにインカの人々の残した遺跡の説明をしながら、「太陽の神殿」と呼ばれる廃墟や、広大な神殿跡、「Templo Sagrado de Pachacamac 」のピラミッドを登っていく。それは唯、土色の廃墟だったが、発掘によって、階段や神殿跡が見られた。

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その説明に、ガイドの女性はかなりの誇りをにじませていたので、「あなたもインカの末裔か」、と聞いてみたら、嬉しそうに、「そうだ」、と答える。しかしその後、「残念ながら、混血してしまって、純粋ではないけれど」、と付け加えた。何か、聞いているこちらの心も悲鳴を上げる。

 

おそるおそる宗教は、どうかと聞いてみた。彼女はやっぱり複雑な表情で答える。「残念ながらカトリックだけど、心はインカだ」、と、「残念ながら」をつけ加えるのを忘れなかった。

 

そうだろうなあ、カトリックであることは、「ならざるを得ない選択」でなったんだろうなあ」、私は少し歴史書を読んでいたので、6万の兵を抱えるインカ帝国がフランシスコ ピサロという悪魔のごとき軍人率いる600のスペイン軍に滅ぼされた歴史を知っている。そしてピサロの狡猾振りも、残虐性も、知っている。

 

実にその知識は中学生の頃に得た知識だ。

 

私は小学校をスペイン系のミッションスクールで過ごした関係で、スペインに興味を持ちながら、いい感情を持っていなかった。出会った人がスペイン国家の代表ではないとしても、スペイン人の冷酷さ、無理解、狭量を、ミッションに使命を持つシスターからいやというほど知っていたのだ。だから、そのスペインミッションの小学校を追い出された後、反発の精神から、公立の中学時代、南米を攻略したスペインの侵略の歴史などを読んだのだった。

 

同時に、長じて出会った別のスペイン人マドレから、その正反対の「天使の心」も知っていたのだが、それがあまりに極端なだけに、スペイン人によって最も深く傷ついたペルーの今にも響いている非情な過去を語ることも語られることも恐ろしかった。自分の心がひりひりと傷ついてしまうのだ。

 

それは、私が、幸か不幸か、カトリックの家族に生まれ、その宗教を深く研究し、自らの意思を持って、帰依し続けているからに他ならない。自分自身がスペインの歴史に責任がないとはいえ、カトリックの教会を盾に、インカを滅ぼしたピサロは、自分に無関係とは思えなかった。

 

歴史と現実を語るとき、いちいち「残念ながら」と付け加える、このすでに恐怖の歴史から数世代を経た若いガイドの心に、決して消えない傷を残して、スペイン軍人は、征服の象徴として、カトリックをインカの人々に押し付けた。しかし、そののっぺり先生のガイドによって、主に、古代の遺跡と博物館を見学して私がほのかに感じた過去のスペインの恐怖の布教の爪あとは、そんな生易しいものではなかった。

 

その日は、資金が尽きたエノクが、ガイドにチップを上げるお金もなく、銀行に飛び込んでガイドをまいてしまうほどあわただしく一行と別れた。この数日間のエクアドル観光で、銀行どころか、トイレもないガラパゴス観光の入り口で、すごく高い入場券にお金を使い、キトーでも意外な寒さに冬物を買い込んだり、ナップサックを買ったりした結果、私の手持ちの現金も尽きていた。

 

何しろ、南米(私が今回旅行した、ペルー・エクアドルに限定しても)では頼みのVisaカードが通用するところがないのである。大きなレストランでも、外国人しか来ない、立派な、いかにも儲けていそうな民芸品売り場でも、カードは一切通じない。カードで支払い可能か、と聞いたら、カードって何だと、聞き返される始末だった。 

 

「黄金とキリスト」または「殺戮と教会」

 

8月1日。やってきたガイドは男性で、ちょっと狡猾そうな、小男だった。やはり、日本人そっくり。彼が案内したのは、前日古代を受け持った女性ガイドの遣り残した、市内だった。

 

しかしその「市内観光」の意味は、キトーの気のいい爺さんの案内した内容とは、趣をことにしていた。彼が案内したのは、インカ滅亡の歴史と深い関係を持つ金銀尽くめの巨大な聖堂群と、滅んだ民族のすべてを語る、博物館だった。

 

リマの市内観光は、カテドラルから始まった。どうしても、カテドラルに連れて行く気だ。私は観念してついていった。別に深い意味から嫌ったわけではないのだけど、せっかく南米に来て、ヨーロッパの文化のコピーを見せられたって面白くないと、私は、ここでも思っただけ。

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数年前グアテマラを歩いたときに、村々の小さな教会を見たことがある。その時は、自分はカトリック信者として、「教会」は観光するものではないと考え、中で祈っている信者の邪魔になることを恐れて、観光を拒絶して、外で待っていた。それは、自分の心の信仰から来る、教会に対するある敬意であって、教会に対する拒絶ではなかった。中米の教会はみんな小さく、外見はみすぼらしく、わざわざ「観光」として見なければならないものではなかった。

 

しかし、リマのカテドラルは、ある意味、「観光価値」に満ちていた。それは人を驚嘆させ、圧倒するような壮大さを誇って聳え立ち、内部は、アリババの巣窟もかくやと思われるほどの、目も眩むような宝物が満ちあふれていた。つまり、インカ帝国から奪った分捕り品の山なのだ。

 

スペインの直接息のかかった教会は、その中心が、「聖母マリア」であって、キリストではない。そうじゃないといくら本人たちが言っても、そう「見える」から仕方ない。子どもの頃から通っていた教会は、ドイツ系修道会の教会で、質実剛健の気風が漂っていたから、マリアさまが中心の教会と言うイメージを、自分の教会に対して持っていなかった。

 

ところが24歳のとき、スペイン旅行をして、スペインの八百万のマリア様に仰天した。これ、一体カトリック?!とその時初めて、「宗教改革の背景」らしきものに接して、考えさせられた記憶がある。日本のカトリック教会で育った私は、かつて聖母信仰など持ったことがなかったのだ。

 

リマのカテドラルの「聖母マリア」も、インカ帝国の分捕り品の金銀財宝が、隙間なくちりばめられた美々しい衣装の中にうずもれ、教会の中心の祭壇の上遥かかなたに照明を当てられ光っていた。

 

金銀財宝とキリストは、本来まったく無関係だ。無関係と言うより、価値観としては対極をなすものだ。しかし、この教会は、天井も、壁も、聖像群も、祭壇も、金銀財宝に埋まっていた。こんなところで、そもそも、祈れるのかいな?

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変な気分になった私は、十字架が何処かにないかな、と、まるで助けを求めるように探した。キリストの教会に十字架がなくて、女神のようなきらびやかなマリア像がご本尊よろしく天に近いところに配置されている教会に、違和感を感じたのだ。違和感と言うより、ほとんど吐き気だった。

 

辺りを見回したら、横の壁際に、キリスト像があった。しかしそのキリスト像は、天井近くに鎮座まします、大げさな衣装のマリア様と対照的に、それはそれはグロテスクだった。体は血みどろで、打ち身きり傷、皮膚は破れ、顔は哀れに、ゆがんだ苦痛の表情で、異常に写実的な、おぞましい姿で、しかもそれが黄金の十字架に引っかかっていた。ちょっと写真にも撮れない。

 

紀元1世紀のローマの、奴隷に対する最も屈辱的な刑罰の刑具、あの十字架が、黄金でできているとはね。これ冗談?

 

そのグロテスクな写実性と裏腹に、キリストの頭に押しかぶせられた茨の冠も黄金で作られ、鞭打たれた血みどろの体に巻きつけた腰巻も金でできていた。しかもその腰巻は、ぎらぎらとまばゆく磨き上げられ、このアンバランスな空間で、ひときわ異常に光りを放っていた。

 

「よくもこういう聖書解釈ができたもんだな・・・」あっけにとられて私は考えた。「天国に宝をつめ」と聖書の何処かに書いてある。でも、「世界の果てまで攻めていって、非白人民族を虐殺して獲た分捕り品の金銀財宝を、教会をおったてて、その中に詰め込め」とは書いていない。そういう解釈は、するほうの品性に問題があるのであって、キリストのほうに問題があるのではない。

 

「黄金」とは一体、この、貧者にとっての救いの神の子なるキリストの表現として、一体何を意味するのだ。「金とキリスト」、この矛盾した二つの価値観の合体にむかむかしてきた私は、思わず血みどろで金無垢のキリスト像から目をそむけた。

 

カテドラルの内部は広くて、主祭壇以外に、脇に、たくさん祭壇があり、その祭壇の主神と言うべきものは、これでもか、これでもかとスペインの宮廷衣装みたいなものを着せられたマリア像が掲げられ、脇のほうに、しぼんだ、醜いキリストが十字架に引っかかっている。しかも、どのマリアもどのキリストも金ずくめなのだ。

 

最後の駄目押しは、カテドラルの後部に収まっていた、かの有名な悪党、ピサロの墳墓だった。

 

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へえ、なぜこの男の墳墓がカテドラルにあるのだ!?主人も私も、その墳墓にかなりショックを受けて、ガイドの男に聞いた。「なぜ、ここに、この男の墳墓があるのだ?!あなた方は被征服者として、この征服者をどのように思っているのだ!」

 

「我々は、ピサロにいい感情を持っていないよ。」と彼は静かに言った。「だけど、ピサロがリマを創立し、このカテドラルも、彼の総力を結集して建てた世界に誇るべき建造物だというのも事実なのだ。」

 

「創立したって、創立する前は、インカの都だったんだろ」と私は食い下がった。「インカを滅ぼしたピサロが教会にまるで功労者みたいに祭られていることを、何も感じないのか?」

 

「そりゃそうだ」、と彼はいい、「スペインは、ピサロが滅ぼしたインカの神殿の廃墟の上に、彼らの教会を建てたのだ。他民族の宗教の殿堂の上に教会を立てることが、制圧者の意思表示だったんだ。こうやって現代のリマはできた。世界に発言のできる近代国家の基礎は彼が築いた。」

 

世界各国から来る観光客によって収入を得ているこの国の国際的な「建前」を、国家に選ばれたガイドとして彼は淡々と説明した。

 

しかし、彼はうっすらと笑みを浮かべて、一言いうのを忘れなかった。「ここには、彼の頭はないよ。勢力争いの結果、破れて頭を切り落とされた。その頭はどこにあるのかわからない。」

 

「そうか・・・。しかし」と私は切り出した。

 

「キリストの時代に愛の教えであったはずの,教団が、殺戮者ピサロを聖人のごとくカテドラルに埋葬するのは、どう思う?」彼はいった。「このカテドラルは、彼が建てたのだ。自分が建てた建物に、埋葬されるのは、矛盾ないだろ?」

 

矛盾はないかもしれない。その「建物」が「教会」でなく、彼の「宮殿」なら。しかし、教会と言うものが、片方で、「愛」をとく宗教の象徴として存在するなら、殺戮者をここに埋葬するのは、ヒットラーを教会に埋葬するのと同じだな。と、私は考えた。罪びとは救いの対照であるという宗教の本来の考えなら、誰を葬ったっていい。人間の「罪」は我々が決めることじゃない。

 

私の頭は完全に混乱していた。もう一度、私はピサロの教会を眺めた。なるほど、この金銀ずくめは、ピサロと言う男の「価値観」そのものだな。インカの王をだまして、命と引き換えに金銀財宝をすべて出させ、その上で王を幽閉して殺した。

 

その制圧はすべて金銀財宝が目的であった男の、「教会の支配」と言う言葉の解釈は、「富の支配」だったのだ。その心のおそましさ!「天国に宝をつめ」と言うキリストの言葉は、「宝を持つ民族を皆殺しにして、盗んだ宝で教会を飾れ」と言う解釈しかできなかった。

 

「自ら神になった男」の宗教観が、この教会には現れていた。かれにとって、異教徒を制圧し「征服」することが「キリストの勝利」であり、キリストやマリアの影に隠れて「金の子牛」を崇めることが、「世にこの教えを広めよ」と言うアグレッシブな男の解釈した宗教の徒としての使命の成就だったのだ。

 

だとしたら、これは、本来のキリストと関係ないな、と私は思った。あの女性のガイドが、「残念ならがカトリックだ。」といった言葉の深い意味を、私は考えた。ここのカトリックなら、私も「残念だけど、お断りだ。」それは、あまりにも、自分が知っているキリストの教えとかけ離れた教会の姿だったから。

 

私は考え込みながら、広場を歩き、ふと思い出して、日本の大使公邸は何処か?と聞いた。あの事件、センデロルミノッソの占拠によって、フジモリ大統領が、テロを撲滅した舞台だ。あそこだと、ガイドはニヤニヤしながら、再び、言った。「フジモリは色々問題があったが、テロを撲滅したという功績の結果、リマはこうして平穏に歩けるようになったのだ。」

 

そういう彼の口調には、ピサロはリマを建設した功労者だというその言葉と同様、必ずしも、そうしたフジモリのやり方に納得していない雰囲気があった。日本大使公邸は平穏で、外から眺めて、別になんの目新しいことはなかった。ここでやっぱり多くの若者が虐殺された。

 

平和とか、信仰とか、正義とか、それらの大義名分は、いつでも虐殺の道具となりうる。

 

説明だけは観光客相手に「そつのない」言葉を繰り返す、ガイドの表情に、いつもシニカルな影を見て取った私は、彼の心の奥を推し量って黙った。

 

私はその日、リマ市内の土産物屋に入って、冬物を買った。セーターが欲しかった。朝夕が寒く、これから行くクスコはかなり冷えるという情報を得て、危ないぞと私は思った。私は、防寒にはサマーセーターしか持っていなかった。荷を軽くして、必要なものは現地調達しようと思ったからだった。

 

リャマを編みこんだアルパカのセーターと、面白い形の帽子があった。日本で、身に付けられるかどうかわからない。でも、私は民芸品屋を覗くことで、教会見学ですっかり沈み込んでしまった気分を直した。

 

明日はいよいよ、クスコに行く。クスコは、標高3400メートルと言うところにある街なので、寒さと、高山病に備えなければならない。

 

「クスコ市内観光」1

 

リマから飛行機で、雪をかぶった連山の景色を眺めながら、マチュピチュへの中継点、クスコについた。クスコは寒かった。気温0度。迎えのバスが何組かの旅行客を乗せて、それぞれのホテルにばら撒いていく。

 

インターネットとは凄いもんだと、この旅行の間中、考えた。一人一人の旅行客が、旅行社が作った計画書、ヴァウチャーというものを持たされ、計画書どおりに動くたび、その地点で同じ物を持った別のガイドが現れて、名前を呼び、リストに載った人物をかき集めて、計画書どおりに案内する。計画書はエルサルバドルの旅行社が作り、ガラパゴスでもキトーでもリマでもクスコでもガイドが現れて、ホテルに案内し、明日は何時にホテルのロビーで待っていろなどと言う。

 

飛行機の券もバスの切符も、すべて電子書類が用意されていて、迷うことも、間違えることもない。インターネットって、便利だけど、なんだか、こう、ネットにお膳立てされたとおり動くというのは、ロボットを連想して、つまらなくもある。若かったら遁走を企てるのだけど、爺婆としては、従う以外にない。

 

ホテルについて直ぐ、私は主人と一緒に、町に出て、冬物のズボンを買った。ほとんどがたがた震えていたのだ。短期間の間に、夏から冬に移動するのに、体がついていかない。足がぶるぶる震え、歩いても長続きせず、わずかな距離をぜえぜえしながら歩いた。で、ふと気がついた。あ、そうだ、ここは海抜3400メートルの高地だった。

 

そのために、ホテルではコカのお茶を用意して、ほとんど強制的にコカの茶を飲ませる。葉っぱを噛むといいそうだ。血圧の調整剤だそうだ。それを飲まなかったことに気がついて、ホテルに帰って、入り口の休憩所に用意してあったお茶を飲んだ。それがどういう効果があるのか、別に自分では感じない。でも土地の人が、太古の昔から、これを齧って生きてきた、そのことには意味があるはずだ。

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午後、女性のガイドがやってきて、市内観光が始まった。市内観光は、どうせ、教会めぐりだ。教会とは、もともと西洋のものにしては、それほどこの南米の地では、その土地と切り離せないほど重要な存在なのだ。教会を離れて、インカの遺跡を見学すると、なんとなくやるせなくもあるが、なんとなくほっとする。

 

「教会」の意味が本来の意味でなくて、「過去の悪事」の実証検分だということは、すでに理解しているとはいえ、気が重かったから。

 

教会の入り口には、観光客目当ての物売りが群がり、派手なインディオの衣装をつけたばあさんが営業スマイルを作って寄って来る。きれいだなあ、珍しいなあ、と、うっかり写真を撮ったりすると、お金をせびられる。しかしとにかく、そうやってお金を稼ごうとしているのだから、目立つためにか、それはそれは、ものすごく派手な衣装で、群がってくる。仕方ない、いやでも目に付くから、写真を撮る。

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そういう群集の間を縫って、案内された教会は、リマで見たのもと変わらない、金銀ずくめのグロテスクな殿堂だった。いや、いや、それは私の感想。本場の西洋にだって、これほど贅を尽くした建築は、ないだろう。私は墨絵の国から来たから、どうも、この仰山な桃太郎の戦利品みたいな「芸術」が理解できないだけだ。

 

この女性ガイドも、案外シニカルだ。この建造物によって、彼らは稼いで生きているわけだが、この建造物が立った歴史に関して、彼らが何を感じているかは、その言葉の端端からにおってくる。

 

「スペインがインカを制圧し、彼らはインカの偶像を壊したが、その代わりに与えたものは、やはり偶像であった」、といいながら彼女の指差す方向に、例の豪華絢爛の衣装にうずもれたマリア像が据えてあった。教会の塔の最も高い部分に、そのマリア像は、光っていた。

 

「インカの民衆は、なぜ、これほど簡単に、異国の宗教と彼らの先祖伝来の宗教とを入れ替えることができたか?」と彼女は言う。「それはインカの人々が礼拝していた偶像より、もっと美しい装飾が施され、金銀宝石が王だけの物でなく、民衆の見える形で与えられたからだ。偶像であることに代わりがないから、受け入れることができた。」

 

笑いたくなるけれど、うなずける説明だ。完全に彼女は正しい。このマリア像から、私だって、まったく、いかなる精神性も感じられない。それは、「富」と「権力」を象徴する偶像そのものだ。それ以外の何物でもない。馬小屋に生まれ、社会に受け入れられない民衆に、限りない慈悲の眼を注いで、硬直した既成の宗教の戒律に、敢然と戦って、十字架上に息絶えた、神の子の言葉を具現するものは何もない。

 

彼女は、教会の、「記念碑などはなにもないある空間」を指差した。「ここは、洗礼を拒んだ多くのインカ人が、処刑された場所です。」そして、彼女は、さりげなく通り過ぎ、それについてはそれ以上、なにもいわなかった。

 

何もいわないから、心に残る、たった一言、ものすごい言葉を発するからその思いは強烈に心に焼きつく。

 

さらに彼女は、我々を伴って、一つの絵の前に停まった。「最後の晩餐」の絵のようである。

 

「この絵をご覧ください。隅っこに描かれている銀貨の袋を持った男は、フランシスコ・ピサロにそっくりです。これを描いたのはインカの画家です。」

 

わずかに、観光客の一行はどよめいた。教会は、この「ピサロに似せたユダのいる最後の晩餐」を、祭壇の脇に飾っている。そして、そのピサロもまた、別の教会に葬られている。ちょっとその事実は面白いかもしれない。

 

私は20世紀最後のローマ教皇が、この地を訪れ、考えたことをふと想像した。彼もまた、この教会を複雑な思いで眺めたのだろう。彼は多分、私と同様、この教会には愛の象徴でなく、富と権力の象徴であることを見破っただろう。

 

そう感じたから、この地で、過去のスペイン人が、カトリック教会の名において、原住民を虐殺し、その血の上に、この教会を立てた事実を、20世紀末のカトリック教会の最高責任者として、重い口を切る決意をしたのだ。

 

過去の教皇が誰もやらなかったことを、彼はあえて全世界に向けて発した。それが過去、世界各地の植民地争奪戦の中で、教会が担ったぬぐいようもない、罪障にたいする責任を明確にし、謝罪することだった。

 

あの教皇は、「普通の心」を持っていたのだ。普通の感受性を持ち、痛みを感じ、責任を感じたのだろう。

 

私が隣を歩く、エノクにそのことを言ったら、彼は「ふん!」といって、吐き出すように言った。

 

「謝るべきはローマ教皇じゃない。一体いつスペインの国王や植民地争奪戦に参加した、ヨーロッパの権力者が、謝ったことがあるか。日本が世界大戦でやったことを中国を始めアメリカ議会までが謝罪要求をしているが、異国に軍隊を送り、侵略し、民衆を殺しているのは、一体どの国のどんな宗教なんだ。それはどの時代も軍隊を持った国家であって、宗教ではない。大義名分の為に宗教は利用される存在だというだけだ。ローマ教皇が謝れば、本来責任のある彼らの格好の言い逃れの機会を与えるだけじゃないか。」

 

主人はまったく宗教を持たない。日本にいたとき、よく鈴木大拙の仏教書の、和英対訳を読んでいた。それだけが彼と宗教との接点だ。彼は決してカトリックを擁護したのではない。ローマ教皇の行動に、まったくの興味を持たなかった。それどころか、教皇が「謝罪」することがが正しい行為ではないことを指摘しているのだ。侵略したのは西欧諸国の国家権力を持った「軍隊」であって、どんな旗印を上げようと、それは特定の宗教闘争ではなかった。

 

世界は日本の戦争責任を謝れと言うが、日本の神道の神主に謝れとはいわない。日本が国家神道を作り、これを侵略の道具として、国家単位で、アジア各地に神社を建てたにもかかわらず。それなのになぜ、スペイン国家の責任は誰も追及せず、ローマのカトリックの総本山を批判し、しかもその責任者まで、その気になるのか。

 

彼はそのことに、注目したのだ。

 

私は黙った。黙ってホテルに戻ったら、私は神経の疲労を感じた。そして、私は、黙って涙を流した。東洋の果ての、戦争にも、世界の歴史にも、何の責任もない、一被布教者に過ぎない私に、涙を流す理由などなかった。

 

しかし私は苦しかった。何の記念碑も文字も墓標もない、ある教会の一角をさして、ガイドが言った言葉に、私は心底悲しんだ。「ここが、洗礼を受けることを拒んだインカの人々の処刑された場所です。」

 

キリストよ、あなたはここで虐殺されたインカの人々の救いのために、この世に送られたのではなかったか!?

 

なんて言ってみたって、始まらない。

 

「クスコ市内からインカの聖地観光」

 

8月1日と2日

 

次の日は、どんなガイドが来るかな。何か気が沈むキトー、リマ観光以来、かなりうんざりしながら、私はコカの葉を齧って、ホテルのロビーでガイドを待った。

 

コカの葉はたいしておいしいものではない。コカは「麻薬の一種」と言う先入観がある。しかし、特に興奮もしないし、常習になるような味でもない。海抜3400mの高地に生きるには、欠かせないものだという説明があって、ホテルでも必ず旅行者に無料で提供している。それを信用しているだけの話しだ。

 

その日来たのは、運動帽をかぶった、背の高い男性だった。その表情を見て、お?と思った。何か懐かしい種類の人物だなと、私はそのガイドの態度から感じた。ただのガイドではないぞ。この人は何か、営業目的から離れた職種の人間だ。ガイドが専門じゃないだろう。気さくだけど知的水準が高そうだ。屈折した感情抜きに、ものが言えそうな男に見えた。

 

今日は、インカの聖地の谷に行くそうだ。El Valle Sagrado de los Incasという。まあ、インカの伝統をついで、高地に生きている人々の村里、と言う感じだけれど、多分、それを政府レベルで援助しているのだろう。寄せ集めの旅行者を乗せて、バスが動き出した。ガイドが立って、どういうところに行くかの説明を始めるまえに、コカの葉の説明を始めた。 

 

「クスコは海抜3400mの高地である。高地に住むには平地に住むのと違うのが当然で、それにはそれなりの知恵がある。ここを数歩歩けばお分かりのように、慣れていないと、気分が悪くなったり、呼吸がつらくなったりする。空気が希薄なのだ。この高地に生き抜くために、古来のインカ人の知恵として、コカの葉が常用されてきた。

 

この事情を無視し、平地に住んでコカの葉の意味を知らないアメリカ、その他の国々が、麻薬扱いし、さもペルーは麻薬の生産国であるかのように喧伝するため、ペルーは迷惑をこうむっている。これは決して断じて、麻薬ではない。コカには、体の必要な、すべてのビタミンが含まれている。人が生きるに必要なビタミンだ。人を滅ぼすための毒ではない。」

 

彼はコカに含まれる栄養素のすべてを、いちいち説明した。その説明のしかたから、夫が、何か「同業者」のにおいを感じたのか、そばによってって、名刺をくれといった。夫の勘通り、彼は大学の教授だった。

 

彼の説明は、今までのガイドのそれと違って、学問的で説得力があった。まさにこれは「講座」であって、「観光ガイドの説明」ではないな。外国からやってきた観光客に、何とかペルーの現状を理解してもらおう、インカの人々の古来から培ってきた知恵を知ってもらおう、歴史も実情も知らない異国の介入がいかに理不尽なものかを知らせよう、という心が如実に感じられる説明だった。

 

そうか。ペルーは大学教授を動員してまで、世界に対して、あるメッセージを送ろうとしているのだな。これはまさに「国家事業」だ。その、運動帽の男の「講義」にかなり感動しながら、私は時々外に目をやって、岩山の多い景色を楽しんだ。

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(写真は説明に立つ学者ガイド)

 

次に、彼はバスの中の人々に向かい、この中にスペイン人はいますか?とたずねた。あまり唐突なので、思わず彼の顔を見た。乗客の3分の1くらいが手を上げたのを見たガイドは、がっくりとした表情で、「ああ、それなら、これからの私の説明は、あなた方に失礼に聞こえるかも知れないわ!」といって頭を抱えたのだ。

 

スペイン人は、かなりの高齢者が多かった。おおかたは隠居生活で、最後の旅行を楽しんでいそうな人々だった。つまりそれは、アメリカ大陸にスペインが君臨した時代を、誇りに思っているスペイン人かもしれなかったのだ。しかし老人たちは、あわてて口々に言った。

 

「お気遣いなく。私たちは歴史を知っているから。何を聞いても、驚きませんよ!」

 

ペルーは苦しんでいるなあ、と、私は思った。かつて、自分たちの国を徹底的に蹂躙された歴史がある。その蹂躙した相手と混血し、蹂躙した相手の文化を学び、蹂躙した相手の言語を話し、しかもなお、父祖の文化に誇りを持ち、全世界の旅行者に門戸を開いて、我々の国を見てください、我々はこんなにすばらしい文化を築いたインカの人々の子孫なのですよ、と、観光業を通して、彼らはそう叫んでいる。

 

その日案内されたところは、アルパカやリャマの小さな牧場、その毛をつむいで機を織り、その製品の靴だとかバッグだとか、衣類を製造し、販売している村と、実際に伝統的な生き方をしているインカの子孫たちの住む村の見学だった。

 

途中雄大なパノラマを見渡せるところで、バスを降りた。インディオの家族らしいのが、伝統的な姿をして、物を売っている。地べたにござを敷いた上にお決まりの民芸品が並んでいる。

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ところで、観光客を乗せたバスが止まると、売り子が高々と品物を掲げて殺到してくる。しかし品物を見ると、ずいぶん中南米の売り子も様変わりしたもんだ、と感じた。なにしろ、民芸品や、毛織物の売り声に混じって、「メモリ1ギガだよ~~。15ドル15ドル、安いよ~~。」なんていうのがどこに行ってもでてくるのだ。

 

中南米では、あのての売り子は、ろくすっぽ学校も出ていない、多くは文字もかけない人々だ。だから、ハイテクの先端を行く機械を使いこなせる階級とは思えない。それが観光客を捕まえて売っているのが、「メモリ」だの「USB」なのだ。へえ~~。

 

そしてその国、ペルーは国を挙げて、滅ぼされたインカの名誉回復の為に、ガイドに大学の先生まで動員して、ことさらインカ時代のすばらしい技術や進んだ文化を強調しているのだ。インディオの女性が昔ながらの民族衣装に、何かフライパンのような形の鮮やかな色の帽子をかぶって、お金をせびりながら観光客についてまわる。

 

その売り子に混じって、「メモリ」を売り歩く売り子が居る。その先端の技術と、西欧の侵略以前からの伝統の衣装を来た女性たちが混在する、なんとも不均衡な光景だった。

 

リャマをつれたそういうインディオの家族を写真に収めた。其処は一時停車だけで、パノラマを見せてくれただけだった。バスは直ぐに出発して、インディオの村に私たちを連れて行った。 

 

リャマがたくさん居る。観光客になれている。リャマはらくだと同種だそうだけれど、らくだよりかわいい。餌用に葉っぱや藁が置いてあって、手ずからやると食べる。目が優しくて平和な顔をしている。私は動物が好きなので、一人で相手していたら、いつの間にか、みんなとはぐれた。

 

みんな、動物より、民芸品が好きだから、買い物に行っているのだろう。私はリャマとしばらく遊び、機織をしているおばさんの写真を撮ったり、古典的な紡績工場などを見学した。

 

次の朝、同じガイドがやってきた。私たちは、ヴァウチャーを読み間違えて、その日も、同じ宿に泊まるのだと思っていたが、バスに乗ってから主人が間違いに気がついた。今日の行程が終わったら、そのまま、次の行程に移るために、どうせ2日後には戻ってくるとしても、ホテルはチェックアウトしなければならないということがわかったのだ。

 

私たちの間違いに気がついたガイドは、「こりゃ、だめだ。ホテルに帰ってチェックアウトして、とにかく1晩分の用意だけして戻ってきてください。今晩は別のホテルに泊まります。後の荷物はホテルに預けて、ここに待っているから」といって、連絡用に、自分の携帯番号を渡してくれたので、私たちはあわててタクシーを捕まえて引き返した。

 

あたふたとホテルに引き返した私たちは大急ぎで荷物をまとめ、登山に不要なものはすべてホテルに預けて、チェックアウトし、携帯で連絡を取って、今バスのいる場所を確認し、再びタクシーで駆けつけた。朝、せっかくバスの一番前に取った席はなくなっていて、私たちはバスの一番後部座席に詰め込まれた。隣になんと、昨日であったエルサルバドル人の家族がいた。クスコに来てから、時々、一緒のグループになるのだ。

 

待たせた乗客にぺこぺこ謝りながら、それでも20分の遅れで、バスは出発した。

 

その日私たちが案内されたのは、ある教会とインカ時代の建物が、共存する建物だった。教会のほうは、このガイドはあまり熱心に説明しない。私も、もううんざりしているので、教会の中は適当に通り過ぎた。ガイドは、次に、インカ時代の石組みのある建物に連れて行った。

 

豪華絢爛たる教会から出ると、その石組みは、なんともみすぼらしい。しかしそれは、歴史的に重要な建物だった。どこにでも書いてあるインカ滅亡の歴史だから、別に取り立てて言うこともないのだけれど、そここそ、インカ最後の皇帝アタワルパが捕らえられ、部屋いっぱいの黄金と、部屋いっぱいの銀とを引き換えにピサロに命乞いをした部屋だった。

 

その二つの部屋を埋めた稀代の芸術の作品だった金銀は、何の評価もなく、すべて延べ棒にされてスペイン本国に送られ、一人の教養も文化もないスペイン男の強欲を満たしたあと、アタワルパは殺された。その部屋だった。

 

アタワルパの死と、インカの金銀の国外持ち出しによって、インカの文明は「文明」として扱われることなく、過酷な植民地時代を経て、彼らは歴史の闇に葬られた。

 

「レストランと面白い宿」

 

昼食に寄ったレストランはなかなか趣のあるレストランだった。パティオ(回廊の中庭)にいろいろな花の鉢が飾ってある。趣味がいい。中は暗いが、古いつくりの落ち着いた雰囲気だ。奥に我々の席が用意してあった。

 

食事はバイキング方式で、あらゆるものがある。古今東西の山海の珍味。中南米料理を始め、イタリア料理もあれば、中華もあれば、和食、握り鮨まである。たこといかだけだったけれど、ともかくそれは、日本の握りずしだ。だんなが懐かしがるから、よそってあげたんだけど、二人とも、出遅れて、座るところがなくて、ばらばらになった。

 

だから、見知らぬ人と、どうしても話をせざるを得なくなり、もそもそと話して見た。

 

目の前に座った家族が例のエルサルバドル人の家族で、なんか、どんな話題で話をしても面白くない人だった。ラテンアメリカ人としてはかなり珍しく、常識一点張りで、どんな話題にも、ただあいずちしかうたない。こういう人って、話の接ぎ穂がないから、神経がくたびれる。

 

私が、出された「ピスコサワー」(ペルーの地酒)を飲んでいたら、そのご主人が、自分はアルコールが呑めないからと言って、家族3人分のグラスを、どうぞどうぞと言って、みんな私のところに寄せた。これ、冗談か・・・?

 

旅行中の昼食で、いくら飲めたからって、見知らぬ女性に4人分の酒をどっと前に並べて飲ませようと思う態度が無神経すぎる。それだけでうんざりした。それを断ったら、もう先の話題が出なくなり、黙り込んだ。

 

先入観でモノをいうわけではないけれど、(やっぱり言うけれど)飲めない人の話しは、とかく常識とどうでもいいことで固められていて面白みがない。何を言ってもふん、とか、そう、とか言うだけだ。自分の話題が何もない。他人の話の内容に対して鈍感だし、思想に広がりも奥行きもない。その典型が、このエルサルバドルの男だった。

 

午後は、別のもっと山中の崖を住処とするひなびた村を訪れた。面白いから、少しでも停まろうとすると、時間だ時間だと、せかされる。その教授ガイドは、インカの人々にとっては「普通の」生活に過ぎないところを、あまり旅行者に珍しがられたくないと見える。とうとう、集合場所に下りていって、其処で待つことに決め込んだらしい。

 

その夜はクスコまで戻らないで、別の宿に停まった。なんとなく、教授ガイドとの別れが寂しい。

 

そこも、やっぱりインカの里で、宿の入り口も中も、民族衣装のおばさんがござを敷いて、物を売っていた。 Sonesta Posada del INCA Yucayと言う名の宿。この宿でも、到着したと同時に、コカの葉茶がふるまわれる。部屋の鍵は、カードじゃなくて古い頑丈な「錠前」だ。部屋の電気は、今充電中だから、まだつかないよ、と言う断り書きを聞いて、おやおや、と思った。

 

あてがわれた部屋は、面白かった。暗い。しかし趣がある。洗面所も、みたことがないつくりなので、主人が面白がって写真を撮った。

 

パティオを散歩し、反対側の栞戸みたいな戸をあけると、目の前に壮大な山の景色が見えた。おおーー!!山々は少し雪をかぶっていた。感動して、景色に見とれ、しばらくしてから宿の中にある売店や、パティオに座っているインディオおばさんの民芸品を眺めた。

 

おばさんのかぶっている帽子が面白かった。「この帽子は売ってないの?」と聞いたら、売ってないという。ちょっと被らせて、といって被ってみた。

 

売店にはいいものがたくさんあった。陶器が面白い。これ、ぐい飲みにいいなあ、いくらだろう・・・とつぶやいたら、店の子が、「セットで25ドルです」と日本語で答えた。驚いて眺める。「妹が日本に留学しています」と、彼女はニコニコと日本語でいい、親しげに、品物を色々勧めてきた。

 

しかし、明日はいよいよマチュピチュ登山だ。荷を軽くしなければ、ばてる。そう思って、買い物はしなかった。