「自伝及び中米内戦体験記」11月3日
「登山電車」8月3日
マチュピチュ登山は、登山電車から始まった。例のごとく、朝、バスがホテルを回ってかき集めたメンバーが、一つのグループにまとめられ、ひとりのガイドがそのグループを迎える。電車の座席までが、同じグループのメンバーでまとめてとってある。
ふむふむ、今回はこの人たちと一緒にマチュピチュを登るのか・・・辺りを見回して、顔を確認する。まだガイドは乗っていない。
楽しい登山電車だった。天井も特殊硝子でできているから、天井からも景色が仰げる。横の窓からは渓谷、天井の窓からは聳え立つ山々。座席には案外広いテーブルが着いていて、書き物もできるし、4人分の食事の広さも十分である。贅沢な電車だな、と私は思った。
動いている車内から、外の景色を写真を撮るというのは、私ぐらいの技術ではなかなか出来ない。それをどうしても撮りたくて、天井の窓から見える景色をなんとか撮ってみた。
天井の窓からも山が見える。
横の窓からも山、山、山
私が着ているのがアルパカのセーター。
車内で出た食事も、案外おいしかった。珍しいからかもしれない。ただ、全部、先に計画した旅行社に支払済みで、自分では何もする必要もないし、同時に選ぶ権利もない。おいしくなかったら悲劇だ。何しろ2週間このツアーに身を任せるのだから。
ついた駅は、それと見て直ぐにわかる観光客でごった返していた。私たちのガイドは、まだ来ていない。駅の周りは民芸品屋だらけ。ちょっと覗いてみたい、と思った。でも自由が利かない。修学旅行の生徒よろしく、おとなしくガイドの到着を待つ。
グループの名簿を持った係りが、あっちにも、こっちにも、うろうろして、まだ出合わないメンバーの名前を大声で呼んでいる。なかなか私たちの名前が呼ばれない。トイレに行ったり、荷物の整理をしたりしながら、大和民族の民族性として、時間にいらいらしながらひたすら待った。
やっとガイドがやってきた。青シャツに、ジーンズ。運動帽。これも、いい感じのガイドだ。よかった。名簿を見ながらグループを集める。「私の名前はアルマンドです。これから、このグループをアルマンドのグループと呼びます。グループはたくさんあるので、このペルーの旗を持って歩くから、私を見失わないよう、ついてきてください。途中飲み水が必要なので、持って居ない人は、今案内するから、買って置いてください。」と、彼が言う。
何しろ、ガラパゴスと同じく、マチュピチュ公園にも、入場後はトイレもないし、飲み水もない、店も何もないし、休憩所もゴミ箱もないそうだ。世界遺産て、みんなトイレがないのかな・・・
中南米は飲み水は買うところだ、それは、もう、エルサルバドルに暮らしてよく知っている。だから、ガラパゴス以来1週間も旅をしていて、移動の場所で、いつも飲み水を買い込んでいた。ぬかりない。
(私がこれを記録している現在、日本でも水は買うようになった。家の池の金魚もメダカも死んだ、水たまりの水を飲んだ烏骨鶏も死んだ、あの福島の事故以来。)
彼に伴われて、軒並み民芸品屋だらけのなかをどんどん歩く。必要なら水はここで買いなさいと、言われて、見たら、それは薬局だった。水って、薬局で売るものか・・・。と、感心する。薬局に例のコカ茶も並んでいる。おもしろいから、もっと見たかったけれど、後から時間あるからと、せかされて、水だけ大切に抱えて、ガイドに従った。
バスは山の中をひたすら走る。だんだんと、テレビや雑誌に出てくる、マチュピチュらしい景色が近づいてくる。あきらかに人手の加わった岩肌の見える山がそびえ、バスはもうもうと埃を上げて走る。目を凝らし外の景色に釘付けになる。どこの山にも段々畑。雄大だ。すごい。つまらない感想しか出ないほど、目に飛び込んでくる景色に言葉を失っている。
とうとう、マチュピチュ世界公園の入り口に到着した。下車。私はキトーの民芸品屋で買ったステッキを持ってきた。ステッキは買ってから一部壊れたので、クスコで強力接着剤と房のついた手編みの面白い紐を買って継ぎ目に巻きつけ、なんかおしゃれな杖になっている。壊れて修繕した時点で、この杖は世界に一本しかない私の杖になった。それが得意だった。
登山の前に、一行に対して、広場で入山の心得と、簡単な歴史の説明があった。本当に大勢の登山客だ。世界各国から来たのだろう。
ガイドを見失わないように、別のグループの間を縫って、入り組んだ、歩幅の広い石段を登り始める。雑誌などで紹介されている、巨大な石の壁、隙間なく組んだ、その石組みを、感心しながら眺める。息をつき、杖に頼り、身につけた衣類をどんどん脱いでいく。ここはクスコより標高1400m低いそうだ。
景観を眺めていると、置いていかれそうだが、私は60過ぎの老人なんだ。かつて登山が趣味だったとはいえ、自分のペースで歩けないのは、案外つらい。時々立ち止まって、今登ってきた景色を眺める。目に入るもの、すべて珍しいのだけれど、感嘆の声さえ、やすやすと出ない。
それにしても今度のガイドは無口だな、と思った。何も説明しないのだ。ずんずん背中を見せて登っていく。
しかし、しばらくすると、そうではないことがわかった。彼は邪魔の入らない、説明にいい場所を探していたのだ。ほかの観光客の邪魔にならないところで、と、断りながら、彼は景色の説明を始めた。
階段の石組み、建物の壁の石組みの技術についての説明だった。
自慢の杖を持っています。
誰かが、「インディオを見てもひ弱で小さいのに、どうやって、こんな大きな石をこんな山まで運んだのか」と、ペルー人の誇りを刺激するような質問をした。確かに、今の山岳民族を見てみると、このような壮大な文化を築くことが出来た民族には見えない。
観光客は「今」しか見ない。インカ帝国を築いた人々が、スペインに征服されて、知識階級、文化を支えた階級の人々が、すべて殺されたことを、考えないで、「今」を見る。その「今」の人々は、外国の旅行者に民芸品を売りつけ、ちょっと撮影したくらいで手を出してお金をねだる、無学文盲の「文化とは無縁の」人々だ。
ガイドはおもむろに、資料を出した。大男と小男の写真だった。それは同じペルーの原住民の写真で、その二人の背丈の違いが栄養によることだと、ガイドは説明していた。ペルー人はもともと、健康で背丈も高く体も大きかったのだと、そうでないと、こんなに歩幅の広い階段は意味のないことだったと、彼は説明をした。
一行のスペイン人たちは、アホみたいな質問ばかりする。今の原住民を見ると、こんな文化の担い手には見えないのに・・・という類の質問だ。じゃあ、この文明、誰が作ったというのだ?文明人のスペイン人が作ったのなら、わざわざ壊さないだろ?
それを聞く私は、かえって傷ついた彼らの民族としての情熱を尊重する気になった。それで、アルマンドにそっと聞いてみた。
「民族の心をつなぐものは、言語だと思うが、民族の言語は、もう回復できないのか?」
彼は勢い込んで言った。「今は民族の言語を回復しつつある。学校でもそれを教えるプロジェクトを持っている。」
私は少し、安心した。彼の説明を聞きながら、私はほとんど、侵略者の側にいるような自分に、罪悪感を感じていたのだ。
誰かが質問した。「こんな石をどこから運んだのだ?」アルマンドは言う。「石は山にあったのだ。石は別にいつも平地にあるわけではない。奴隷制度もない。この段々畑を作った石組みも、彼らは身近にある石を利用して作ったのだ。彼らの体格は子孫の我々より立派だった。出土した骨からもわかるように、食糧事情も、豊かだった。何よりも彼らは薬草の知識に精通していた。」
確かに、グアテマラのティカルにしても、メキシコのティオテイワカンにしても、中南米のピラミッドの階段はものすごく歩幅が広くて、登ると股が裂けそうだったのを思い出した。
欧米の研究者の主張によると、このものすごいアンデスの山々を舞台に展開した文明は、9代皇帝、パチャクティとその2代3代の子孫が、作り上げたものだそうだ。全国をつなぐインカ道と、山の頂上まで続く段々畑と、各所に置いた食物貯蔵庫によって、インカに富をもたらして、帝国を繁栄させたのだという。
しかしどうも私には、あの壮大な山を支配した石組みの建築を見て、「正統な歴史学者」が言うように、14,5世紀の頃から「突如として」3代の皇帝によって、作られた文明とは思えない。大方、欧米の白人たちは、自分たちの文明よりも優れた文明が、ギリシャローマの文明より前に存在したとは考えたくないのではないかと疑っている。
どんな文明だって、基礎も何もなく、神話だけが存在して、「突如」として出てくるという説は不自然だ。だからといって私には、何の学問的根拠もあるわけではない。中南米の歴史に関しては無知である。しかし、数世紀の間に何度も起きた地震災害にも耐えうるほどの石組みの建築技術を持ち、天文学と医学に優れ、灌漑用の水路を築き、アンデスの山々に縦横に道を通した技術が、どうして何の基礎もなく前触れもなく、「未開の」人種によって「突如として」出来上がるのだ?
ガイドの説明によると、インカがスペインに征服される前、賢明なインカ皇帝の政策によって、人々は平等に富の分配に預かっていた。各所に設けられた食物の貯蔵庫によって、餓える者もなく、さらに、古代の骨の研究によれば、発達に必要な、食料が十分摂取されていたという。作物も、この段々畑の下から上まで、温度差を利用した作物が植えられ、それが年中取れた。それを流通させたものは、例のインカ道であり、「スペイン人がそのすべてを破壊した。」
ガイドは、スペイン人に追われたインカ人が、最後に土器をすべて破壊して去ったので、その破壊された土器の山が灌漑用の水路をふさぎ、段々畑も廃れたという。
「文字」を持たず、「武器」を持たず、「キリスト教の教会」を持たないこと、それが「未開」だというなら、多分彼らは「未開」なのだろう。
ガイドについて歩いていったら、別のグループのガイドが立って説明しているところに来た。其処を横切ろうとしたときに、そっちのグループのガイドが話している言葉が耳に入った。「この石組みはインカの人が作ったものです。後ろにあるのは見なくてもいいです。こんなもの、後からスペイン人が造ったもので、地震のたびに壊れています。」
その顔を、私は思わず一瞥した。文明を破壊され、言語を奪われたインカ人の、誇りと屈辱感と、そして征服者の文化に対する複雑な思いが、その一言の中に感じられた。私の心がかすかに一瞬うずくのを感じた。
「下山」
水汲み場、陵墓、太陽の神殿など、宗教施設と一体の、太陽観測、天体観測の施設、灌漑と段々畑、堅固な石組みの建物を、色々と実体験をしながら見て回り、私たちは下山を開始した。主人がもう少し長く居残って、集団だと、時間をかけてみていられないところを見ようといったけれど、私には体力に自信がなかったのと、もう3時を回ろうとしているのに、昼食する場所もなかったので、みんなと一緒に降りることになった。
帰りのバスで、妙な子どもにあった。それ自体が特別な衣装のようにも見える、ひどく派手な真っ赤なたすきを着けた少年が、バスに乗り込んできた。その少年は、途中からバスを降りて消えたので、大方運転手の好意で、何処か家の近くでおろしたのだろうと思っていた。
ところが、その少年は、バスが山道を降りて、10分くらい経ったところの曲がり角で、大声で何事かを呼ばわりながら、バスに向けて手を振った。それから再び、その少年は消え、又10分ぐらい走った曲がり角で、彼は大声を出して、バスに向かって手を振るのだ。
少年は、バスより早く走って山を降りているのだ。インカ時代の伝達手段であるチャスキと呼ばれる飛脚はリレー方式でクスコからエクアドルまで標高6000mに及ぶ山岳地帯を7日間で走り抜けたといわれる。多分この少年は、山岳民族の俊足の能力を生かして、バスより速く山を駆け下りて、観光客に見てもらおうとしているのだ。
こりゃ、後でお金を取るんだな、と私は思った。その予測どおり、彼はバスがかなり下まで走った最後の地点に待っていて、意味のわからない大声で呼ばわり、バスに乗り込んできて、観光客の間を縫ってやってきて、手を出し、お金をせびった。それが彼の仕事らしい。頼んだ覚えもないのだが、観光客はしぶしぶとコインを少年の手に握らせた。
昼食のレストランは、我々が泊まるホテルだった。くたびれて、お腹がすいて、猛烈に食べた。
次の日は、自由行動で、歩いていける博物館か、バスでいける温泉施設か、または駅前にびっしり並んでいる民芸品屋を見て回るか、または、自腹を切って、もう一度、今日行ったマチュピチュまで行くか、色々の選択肢が用意されていた。
とにかく寝よう。炎天下の登山とかなり意味ある見学に、参ってしまった私たちは、ヒト寝入りしてから明日の行動は決めることにした。