「自伝及び中米内戦体験記」8月15日
1)「内戦の後遺症」
「日本はエルサルバドルより怖かった」
内戦のエルサルバドルは、常識的に言って、平和日本より怖いはずだった。しかし、私は松戸に居を定めて日本の生活が始まった頃、日本が怖くて仕方なかった。エルサルバドルの家と比べて、日本の家は開放的で無防備だから。
エルサルバドル人と結婚する前、私は30年以上日本で生きていて、感じたことのない恐怖を私はこの無防備な日本家屋で感じていた。帰国したばかりの私には日本の家はほとんど、家としての条件を満たしていなかった。「家というもの」はエルサルバドルでは「城砦」だった。
日本家屋は、垣根も塀も低いし中がのぞけるから、誰でも何時でも侵入可能だと感じた。全く家が防備としての用をなさない。塀というものが外敵から身を守るための城壁であるということが常識の国から、塀は境界線を表すための印であり、時には趣味や美意識の対象でしかないという、外敵の存在など念頭にない国に私が来たのだということを、私はにわかには納得ができなかった。
エルサルバドルでは庭が家の内部にあって、家の高さがそのまま塀となって、通りから内部が見えないようになっている。通りに面した塀がないことはないが、それは、まず人の高さの倍は有って、容易に中を覗けない。その塀にぎざぎざのガラスが上向けにはめ込んであって、泥棒が塀に手をかけて飛び上がったりして侵入することを防いでいる。
あれに相当する塀が日本にあるとしたら、拘置所の塀である。つまり家の中は外界から完全に遮断されているのだ。それでも私が住んでいたエルサルバドルの家は空き巣に入られた。
松戸の家に引っ越して、初めてあの破れ垣根を見たとき、私は家主に交渉して、危険だからもっと垣根を高くして欲しいと言ったものだ。あの垣根を見たときは、ほとんど恐怖で青くなった。まるで、撃ち合いの巷に裸で寝るようなものだと、私は日本の家屋を見て感じたのであった。
私は全く大げさに言っているのではない。日本が、ふすまや障子で隣と隔てて、それでプライバシーが守られているつもりになっている国だということを、全く感覚としても思い出せなかった。
だから、あの破れ垣根が直せないと、家主から胡散臭そうに言われたとき、これからどうやって身を守ろうと、本気になって思った。通りから覗こうと思えば丸見えのところに、カーテンだけのスクリーンドアがある平屋の家なんか、人の住む「家」としての用を成さない。
怖くて怖くてたまらず、私は昼でも雨戸を閉め、家の奥の部屋の隅にジット声を潜めてうずくまっていたのである。
「覗かれる危険」というのは、痴漢や異常者を想起するかもしれないが、私はそういう感覚で「覗かれる」と思ったのではない。「覗く」のは命を奪う「敵」であり、暗殺者だった。
戦国時代はともかく、現代の日本の家は「外敵」の存在など眼中になく建てられている。住んで楽しみ、通りから覗いても楽しみ、時には「外部の目」を完全に意識して、花だらけにして得意になっている、そんな家の庭もある。こんな「平和」な国がこの地上に存在するなんて、考えられない、まったく!
日本人は、特に精神異常でもなければ、覗こうと思えば覗ける家だからと言ってわざわざ覗いたりしないのだ。
子供は開放的な日本の家が珍しくて、「丸いパテイオだあ。面白い。」とスペイン語でいいながら、一人で家の周りをぐるぐる回って、花も緑もある楽しい庭を飛び回っていた。パテイオとはスペイン系の家屋の内部に有る回廊のある庭のことだが、エルサルバドルの家の形では、家の周りをぐるぐる回ることなんかできないようになっている。
その家は半年くらい誰も住んでいなかったということだったから、庭は手入れがしていなくて、秋なのに黄色のタンポポが一面に咲き乱れていた。娘はそれを凄く喜んで、庭に洗濯物を干すときに、私がタンポポを踏んだといっては泣くのである。エルサルバドルで、私たちは親子で花を楽しんだなどということがない。タンポポも一面に咲いていれば見事である。一面に咲いている黄色の花を、子供はまるで金色の世界にきたように、喜んだのだ。
しかし私はその頃、庭に洗濯物を速く干したら、すぐに家に飛び込んで、ぶるぶる震えていたのだ。タンポポ鑑賞どころではなかった。子どもは「変化」を楽しんでいる。子どもがこんなに楽しめるということは「平和」の条件かも知れない、と思っていたけれど。
10月から11月にかけて、もっと怖いことがあった。早朝、銃声の音を聞いてスワッ撃ち合いだ!と思って目を醒まし身構えた。寝室は通りに面した窓際で、薄っぺらいベニアの雨戸があるだけだ。そんなもの撃ち合いが始まったら簡単に弾を通して、家の中で身を伏せていても流れ弾にあたって殺されてしまう。
驚いた私はエノクを起こして二人で這って娘の寝ている部屋まで行き、娘を起こして、奥の安全地帯をさがした。通りから一番奥の、4畳半の部屋。暗いから物置代わりにしていた。その部屋に息を潜めて親子3人はうずくまった。
そしてふと思ったのである。
「え?!ここは日本だった。あの音はなんだったのだろう。」
それは学校の運動会の開催を告げる空砲の音だった。
家は便利なところに有って、歩いて5分以内のところに、商店街、病院、郵便局、警察、市役所、幼稚園が数軒、小学校が二つ、中学校が1つ、あった。私は買い物のため商店街に行くのに、なれたスタイル、つまり、ズボンにシャツにスニーカーに、いざという時に備えて両手を開けておくためリュックを背負っていた。そう、「いざという時」は何時でもどこにであるはずだった。
あるとき、後ろから「奥さん!」と声をかけられた。私はまだ松戸に来て間もないから、誰にも知られていないはずだった。私はその声に警戒し、タッタッタッと数歩駆けて前進してから、ぱっと後ろを振り返って身構えたのである。
それを見た相手の驚き方といったらなかった。多分私は敵に対して身構える戦闘員のような形相をしていただろう。一事が万事、そんな状態で、私は暫く、日本の中で、内戦を生き続けていた。
2)「エノクの感動」
何が人の感動を呼び起こすかという問題は一定ではない。各個人の経てきた人生やら、文化やら、常識やらが働いて、人は感動するものらしい。
社宅に引っ越してから、私は家族でよく、探検をかねて散歩をした。常磐線の私達の降車駅である駅の北口に、梅雨の頃ちょっとした「観光地」になる、「あじさい寺」と別名のつく本土寺がある。庭が奇麗だという評判なのだけれど、現在はその「奇麗な庭」を見るには拝観料を取るので、散歩がてらに見るということができなくなった。
私達はまだその庭が拝観料をとってまで見せるほど「奇麗」ではなくて、人の心のほうが「奇麗」だったころ、足を伸ばして境内を散歩した。
その境内の中の野菜売り場で、私達は思わぬものを見つけ、喜んだ。「ウイスキル」だった。それは日本では「はやと瓜」と呼ばれている、薄緑、またはクリーム色の蔓になる実で、中米では塩茹でにしたり、スープの具にしたりする。中米の食事の素材があまり手に入らなかったので、秋も随分深まるまで売っているその「はやと瓜」を求めに、私達はよく本土寺の境内に足を運んだ。
境内のそこここには、粗末な屋根のついた無人の野菜売り場があって、農作物が無造作に置いてあり、お金を入れるための缶からがふたもなく置いてあった。その中には主に100円とか50円などの硬貨が入っていて、そこには見張っているらしい人物が誰もいなかった。
大して気にもとめないでいつも素通りしていたのだが、あるときエノクが立ち止まって、缶の中を覗き込んだ。
コインを見て、エノクはちょっと驚いたように、「これは、なんだ?」と言う。
「ああ、ここにおいてある野菜を、欲しい人がもって行くとき、その缶にお金入れて買っていくんですよ。」と私は言ったのだが、その簡単な説明を聞いて、彼は目を見開いて改めてその小さな店のたたずまいを見た。
店というより、小さな机と、その上を覆う小さな屋根がついているだけの、スペースだ。田舎によくある、自分のうちの畑で取れた野菜を売るための無人野菜売り場だ。
「ほお!ここの人たちは、人の正直さを信じているんだ!すごいなあ!!」
そう言って彼はかなり大げさに感動し、改めて、誰も手を付けないらしい缶の中を覗いた。コインが入っている。
「誰も取らないのかア!?」と彼はいった。
「誰もいないのに、一日中、ここにコインが入った缶が置いてあるのかあ?それで誰も盗らないのかア?」
「impossible! impossible!」 何度も何度も彼はいい、何度も何度も缶の中を覗いた。
「そういえば、変かも。。。」私はエノクの言葉に、改めて逃れてきた国のことを思い、彼の感動の意味を察した。
「こう言う店は積極的に協力して、つぶれないようにしなければいけないなあ。」と、彼はいった。「この手の店を存続させるか否かは信用された我々の責任でもあるよ。」彼はそのなんでもない無人のスタンドの写真を撮った。
缶の中の「手を付けていない」コインまで、彼は写真に収めたいようだったが、カメラの性能が悪くてできなかった。
そこまで来ると、「へーー」と、今度は私が驚いて彼を見た。「このスタンドを見て、そんな深いこと考えちゃうのか!」
このスタンドが彼の関心を呼び、彼の中の正義感や社会に対する感覚を呼び覚ましたのが見て取れるような反応だった。
「我々の責任ねえ」と私は言った。なるほど、言われてみれば、ふたもない缶の中にお金をいれて、野菜をもらっていくという「約束」は、地域の住民全員のお互いの信用なしには成立しない「制度」ではある。
私達が今、後にしてきたエルサルバドルは、昼日中、日光を当てるために家の外側に置いた鉢植えの植物だって、一瞬の隙もない合間に盗まれてしまう世界だった。私たちが引っ越した5番目の家はエルサルバドルとしては珍しく、中庭以外に玄関の外側にも小さな庭が有って、土いじりが楽しめたから、私はそこを「ロビンソン園」と称して、色々な植物を植えては楽しんでいた。
しかし、私が生長を観察しようと楽しみにしていたマラニョンや、アボカドは、種から芽がでて10センチも伸びると、誰かが抜いて持っていってしまった。貧富の差が激しいあの国では、無人の野菜売り場の「信頼」を無言の約束とした「制度」が成立しないだろうことは理解できることである。
彼が感動していった言葉、「この制度を存続させるかさせないかは信用を受けた我々の責任」だという言葉は、「なあなあ文化」の日本人がわざわざ考えることではないと思うが、言われてみればそのとおりである。
田舎の小さな共同体の内部の全くの無言の約束で、「あなたを信じていますよ」という意味の、ふたのないコイン入れ。その中にコインが朝から夜まで手付かずに入っているということ、しかも言われるまで、そんなことに気がつかないほどその事実があたりまえだということ、それはそうではなかった内戦の祖国からきた人間にしては、やはり大きな感動だったのだ。
3)「文字が見えなくなった」
外界を恐れて雨戸を閉じて家の中にうずくまっていた頃、文字が全く見えなくなってしまった。8年ぶりに新聞を取ってみたが、紙面はすっかり灰色で文字が見えない。私の視力は子供のときからよかった。眼鏡をかけたことがない。目だけは頭よりよかった。エルサルバドルにいたときも、ずっと本を読んでいた。問題を感じたことがなかった。それがエルサルバドルから帰って日本でやっと落ち着いて生活を始めたとき、急に新聞の文字が1文字も見えず紙面が灰色になってしまった。
外に出て交通標識を見た。これも1色しか見えない。看板の広告の一番大きな文字も見えない。それが看板で、そこに文字が書かれている筈だという事がわかっている。そこに物があるということしかわからない。そのくせ人などの映像ははっきり見えるのだ。視力そのものの問題ではなくて、「文字」を識別する能力がなくなっているらしい。こんなことってあるのだろうか。怖かった。それで、通りにでても、他の物は見えるのに、文字が見えない怖さに、コンクリート塀や電信柱に手をついて歩いた。
(注:文字が「読めない」のであって「見えない」わけではない。文字とそうでないものを識別できる。)
あるときそうやって壁伝いに歩いていたら、足に突然の激痛を感じて、倒れた。それから何とか起き上がって、家までの20メートルくらいの距離を私は家々の壁を伝いながら、這うようにして家に帰り転がり込んだ。それから数日間、私は家の中でも足の痛みで歩けなかったので、寝たままゴロゴロ転がりながら移動した。
隣接したお隣だって、まだ知り合いにもなっていない。引越しのとき、義理の姉から日本の常識を聞いて、引越しの挨拶はしたのだが、その後の人間関係ができていなかった。あんな拘置所みたいな家に住んでいたエルサルバドルでは、近所の人間関係が成立するのに時間がかからなかったのに、開放的に見える日本の隣近所の人間関係は、なかなか成立しなかった。119番で救急車を呼ぶ知恵もなく、私はごろごろと転がって家の中で移動した。
実は日本に帰ってから、他にも体に異常があったことがある。
村瀬先生の家にいたとき、下腹になんだかピンポンだまのような大きさのしこりがあるのに気がついた。産婦人科の問題かなと思って、産婦人科に行ったら、「子宮筋腫だからすぐに手術しなければいけない」といわれて、兄夫婦に子どもを預けて緊急入院した。
しかしそれはまるで、「想像妊娠」の如く、病院にはいって精密検査を受けると、異常が見当たらなかった。「異常がない」と医者からいわれると、そのピンポン球も消えていった。
今回足に激痛を感じたときも、近くの病院になんとか家々の塀を伝い歩いて行ってみた。しかし骨にもどこにも異常は全く見つからなかった。文字が見えないという問題も、目に異常は見つからなかった。
これらの異常は明らかに、産婦人科や整形外科や眼科の問題ではなくて、多分内戦の国から脱出劇を演じていた間の人間関係の緊張が関係していることは想像ができた。しかし結果がすべて、異常なしということを知ると、別の意味で苦労していたエノクの目には、まるで私が仮病を使って彼の気を引いているかのように見えたらしい。
アメリカの姉のところに一時避難していた間の人間関係の緊張も、マイアミの難民部落での感動も、日本に行ったエノクの留守中私が帰国費用を作るために起こした行動も、ロスの空港での出来事も、エノクは見ていなかった。私が2,3のところで、言葉に障害を起こしていた事実も、家族の誰も知らなかった。
そういうときにまさに駄目押しするかのように、私には困難な問題が降りかかってきた。
4)「人は例外なく煩悩を生きる」
村瀬先生は、私が帰国し、癌で入院中の彼を見舞ったとき、私は感無量で、何も言葉が出なかった。
そのとき彼は、私に何も言わせず、「よかったね、帰国してくれて有難う。待っていたよ。」といった。決してハンサムとは言いがたい面相なのだけれど、美しい笑顔でうれしそうに私を迎えてくれた。
「帰国してくれてありがとう!」ってなんだ?生まれてこの方聴いたこともない言葉だった。
自分の実家の家族が、私たちの日本帰還のために先生が尽力してくださっていることに心動かされて、エノクの就職活動を始めたことを、その時私は知らなかった。エルサルバドルに送られてきた不愉快な5通の手紙と国際電話によって、自分の家族が全員立ち上がって自分を拒絶していると思っていた。其時に聞いた「帰国してくれてありがとう」という言葉は、私には普通の言葉ではなかった。
私の心は孤独感に打ちひしがれており、反対する親戚を相手に、矢面に立って家族は守るのは自分しかないと考えていた。私の心はほとんど、戦闘体制だった。
そういう時に、先生が一人私達一家を助けてくださったということにひたすらに感動を覚えていた。感動は「言葉」の表現を遮断していたほどに。
「待っていた。」という言葉が、家族から阻害された孤独の魂にとって、なにを意味するかを、説明しようと思っても説明し尽くせるものではない。私はロスから日本に来る飛行機の中で、自分がオーストラリアでなくて問題の多い日本にいかなければならないことの、「人生上の意味」を、苦しい胸のうちでなんとか捻出して、自分を納得させていた。
まるで、自分を八つ裂きにしようと待ち構えている「鬼」と和解することを神様から命じられたかのように、私はあの時、震える心で自分のこれからの運命を覚悟していた。村瀬先生から送られた家族3人分の帰国費用だって、返すつもりで物を売りさばき、1576ドルを作ってきた。
日本に、自分を「待っている」人がいる、などということを想像だにしなかった。ましてや自分の帰還に「有難う」という言葉がありうるということなど、夢としても成立しなかった。
入院中でなかったら、私は彼の胸に飛び込んで号泣したことだろう。私の心は、その時それほど昂揚していた。私はエルサルバドルで人間関係にも実家の家族とのわだかまりにも苦労した。国境を越えて逃避行をし、人間関係に苦労した。一人で夫の留守を守って苦労した。
帰国費用と、当座の生活費を捻出するために、絵を描いたり、趣味で買ったインテリアや自分の着物等を売ったときの私に、何も感情がなかったわけではない。人との別れに何も感情がなかったわけではない。心に悲哀を抱えながらの逃避行だった。祖国を後にしたエノクの心情はいかばかりであったろうと夫を気遣い、何もいわなかった。自分の夫でさえ知ることも尋ねることもなかった全ての苦労から来る心の疲労が、この先生に、わずかな言葉を投げかけられて一気に癒される思いだった。
但し、先生がこのように「常識の範囲で」やさしかったのはこの手術入院の間だけだった。
夫が就職し、松戸の社宅に私達が居を移してから、村瀬先生は退院した。退院後の経過も順調で、先生が私達に会いたくて待っているという知らせを受けて、ある日私たちは先生の家に伺った。
家に着いたら、先生が出てきた。「小躍り」という喜びをあらわす表現があるけれど、先生は、その「表現」としての「小躍り」を実際に行動に移しながら私たちを迎えた。
「うれしいな、うれしいな」と叫びながら、文字通りぴょンぴょん飛び跳ねてでてきて、私たちの手を取り肩を抱き、踊り狂っているのだ。当時70代で癌の術後間もない体である。その行動は、「いつものこと」ではあったけれど確かに常軌を逸していた。
かつて私が知っていた、体格のいい直立不動の大学教授からは、想像不可能な姿だった。元はといったら爵位を持った華族でお殿様である。皇族方の扶育官で彼らを育てた方である。生まれも育ちも雲の上だと、立ち居振舞いも人間離れしているらしい。
とにかく先生は難民救出作戦に大成功を収めて、得意で得意で仕方ないのであった。喜びで顔をほころばせて、豪快に、「ぎゃははぎゃはは」と笑う。かと思うと突然、食事中に賛美歌を歌いだす。それが気の毒なほど音痴なので、まじめで礼儀正しいご家族達がみんなうつむいて終わるのを待っている始末である。
私達は二人で、如何しようかみたいな顔で、お互いの顔を盗み見しあい、ニヤニヤしている以外に仕様がなかった。
帰り道、私はエノクから、村瀬先生の話を聞いた。先生の歓待振りがなんだか可笑しくて仕方なかったので、8月からずっとあんなだったの?と聞いてみた。
エノクによると、先生の信仰の表現が手放しで開放的で、電車の中でも大声で祈ったり、聖書の話をしたりするので閉口したそうだ。エノクは日本語がわからなかったので、通訳は先生のお嬢様がしてくださったということだったから、そのお嬢様が傍にいる間はよかったが、その通訳がいないときは、エノクが日本語がわからないことなんか頓着なしに大声で話すので、全く閉口したらしい。
最終的にエノクを今の会社に就職するのに尽力してくださったのは、元東大学長だった茅誠司先生である。村瀬先生は茅先生の奥様と幼馴染で、個人的に親交があった。茅先生もクリスチャンで、当時「小さな親切運動」という運動をしておられたので有名である。
それで、村瀬先生は、茅先生が親切運動の提唱者だから、困っている人には親切をしなければいけないはずなので、就職活動を断れないはずだという理由で、強引にエノクの就職の話を持ち込んだ。そんなわけでエノクの就職は茅先生に押し付けたと得意そうに電車の中で大声で話したそうだ。
8月にエノクが日本に到着してから、国民健康保険に加入させるために、先生はエノクをご自分の保護家族として登録したとのことだった。国保の制度をよく知らない私は、この話しには当惑してしまった。
私は「家族」という言葉に弱い。誰かの保護家族になるということに「重圧」を感じる。本物の家族を本気で信じたことがない人間の猜疑心で、「他人のエノクが誰かの保護家族になろうはずがない」と思う。でも先生はこともなく、そのありえない話を実現してしまった。
それらを全て、神様の名において、先生はなさったのだとか言う、どのように反応してよいかわからないような話ばかりだった。だからエノクはかなり村瀬先生の人間性に感動している。一定の宗教に帰依することのなかったエノクが、村瀬先生のお宅では先生といっしょに祈ったという。彼、私といっしょに祈ったことなんかない。「へえ」としか言い様がなかった。
私はエルサルバドルで一生懸命自分の持ち物を売って作った3人分の旅費も、これは身元引受人を引き受けたものの義務だとか言って、受け取っては下さらなかった。
村瀬先生は常識人ではない。常識人ではないから強引に私たちを助けることができた。彼の心は崇高で、多分神様に最も近いところにいただろう。私の人選は間違ってはいなかった。私は感慨深く帰りの電車の中でそう思った。
6)「目黒の秋刀魚」
あれからほぼ1年くらい経ったろうか。子供は何とか近くの幼稚園に入れ、友達もできて初めての夏休みに入った。
そのころ私は半年以上も続く咳の発作で、体力消耗し、頭痛を併発して苦しんでいた。病院で精密検査をしても、医者を代えても、どんな薬を飲んでも、咳が治らず、理由も発見できなかった。気管支にも肺にも異常がなく、薬の副作用で、激しい頭痛に悩み、ほとんど布団の中に伸びていた。私にはその理由に心当たりがあった。子供のときから神経が異常に弱い。精神生活に異常事態が発生して、神経を使いすぎた結果、必ず体のほうに異常をきたす、あのいつもの病気だと、私はほとんど確信していた。
エノクは出張中で、咳の発作と頭痛による吐き気で苦しむ私は、夏休みに入った子供の世話ができず困り果てた。何よりも夫の留守中、家にいるのはまずいという状況があった。
こう言うとき、誰が助けてくれるだろう、と私は寝ながら考えた。そうだ!と思い当たる人がいた。あの人なら必ず助けてくれる。18のとき出会い、私の人生の要所要所に現れて、必要な助言をしてくれた人。自分がもう必要ないと見たら、その結果を確かめずにそっと消えていった人物、小森先生。高校教諭だったころの教諭仲間。人生の先輩。ある人生の一時期、彼女は私と同じような体験をした。それがきっかけで、私が当時勤めていた高校の教諭として引っ張り込んだ。
あの人なら、余計なことを聞かずに助けを求めたら助けてくれる。余計なことを聞かず、1を聞いて、12を理解する人だ。思ったらすぐに実行に移そう…
「小森先生、お願いだ。助けてください。」
私は挨拶も前置きもなく、咳の発作に苦しみながら、あえぎあえぎ電話をかけた。
「咳と頭痛で動けない。エノクは出張中で、子供の世話ができない。理由が複雑だから親戚に頼れないのです。」
「ああ、どうぞ!」小森先生は何も聞かず、来いと言ってくれた。そうだ。この人はなにも聞かないのだ。人間の苦しみというものを知っている。苦しい結果を見れば原因を聞かなくても助けてくれる。彼女はいつもそうだった。
次の日、私は子供を連れ、身の回りの必要なものだけナップサックに入れて、彼女のうちに転がり込んだ。文字通り、玄関に入ってすぐ、私は彼女が用意した布団の上にへたりこんだ。「お願いします。子供を。まだ日本語が完全じゃありません。わからないとき、スペイン語で話してやってください。」
彼女はスペイン系の修道会にかかわったことがあるから、片言ながらスペイン語を解した。エノクが日本留学時代、あの高校にアルバイトに来たときに、始めエノクと接触したのは、彼女だった。
「もう、お医者様のお薬をお飲みになってはいけません。私が煎じた、漢方になさいませ。」
彼女が自分の生きている波乱の人生の内容から見ても、状況から見ても、こう言う言葉遣いはアンバランスなのだけれど、一生涯、育った環境から身につけた美しい言葉遣いを彼女は崩さなかった。私は素直に彼女の言葉を聞き、彼女の差し出す煎じ薬を飲んで寝た。安堵したのか、体の力が抜けて、咳をする元気もなく眠り込んだ。
彼女の住むマンションは中央線高尾に有った。最上階の12階というところだったから、窓の外は、まるで山の上から眺める町のようだった。かつて、私は自分のクラスの生徒を集めて、この同じ部屋で会合を開いた。下界の景色を見ていると、いろいろの思い出が交錯する。壁にもたれて、私は彼女の顔を見ないでぼんやりと言った。
「実は、お殿様は私を目黒の秋刀魚だと思っているらしい…。」
暫くたってから彼女は言った。
「はあぁ、判りました。そりゃあ、お殿様としては目黒の秋刀魚がおいしいと思うでしょう。ご城内では決して味わえない珍しい秋刀魚ですからねぇ。」
にこにこしていたが、それ以上何も聞こうとしなかった。
私は彼女の煎じ薬によって息を吹き返した。咳が止まり、頭痛が引いていった。何よりも彼女は私の苦境を全て理解し、面倒な説教をせず、余計なことを勘ぐらず、ひと月の間、娘の世話を引き受けてくれた、そのことに対する安堵感が私の神経の硬直を癒したのだ。
7)目黒の秋刀魚の苦渋の決意
小森先生に助けられて、娘の夏休みが終わるころ、家に戻った私は一つの決断を心に持っていた。私はなんとしても解決しなければならない問題を抱えていた。私は村瀬先生の娘婿ぶんさんに電話をかけ、単刀直入に問題を話し、協力を求めた。
「私はこのことを言えば、村瀬先生を愛するすべてのご家族と、私たちが、村瀬先生の努力で内戦の国から救出されたことを知っているすべての人々に憎まれることを知っていますが、放置すれば、反って忘恩になりますから申し上げます。」と、私はぶんさんに言った。
それによって全てが急展開し、2つの家庭は交流を絶った。しかし先生のご家族は崇高だった。奥様から「あなたの正直さと誠意に感謝する。」という手紙を受け取り、以後は盆暮れの常識的な物品のやり取りだけが交流の手段として残った。数年後お嬢様が急死され、その数年後、先生はご自宅の火災によって亡くなった。
村瀬先生は崇高な人間だった。先生はその信仰において純粋で、神の前で幼児のように純真だった。先生が私たちを助けることを決意したとき、先生はそのことを神の意志と感じられた。先生は神の使徒として私たちに救いの手を差し伸べた。先生がエノクの就職活動のために動員した人々は、学界の大物達であり、情報社会の大物であり、外務省、法務省、宮内庁の大物達であった。
先生は途中の経過で思うような結果が得られなかったとき、「内戦のために迫害を受けている一人の学者を救えないのは日本の恥だ」と、報道機関を通じて全国向けに訴えた。そして、そのために「力ある人間は手を貸すのは、力ある人間の義務であり、神様の意思である」と全くキリスト教に理解のない人々を相手に訴えた。先生は相手がキリスト教徒であろうとなかろうと、神様の名によって、全国に訴えた。その行為は全く損得のないすさまじく純粋な行為だった。
先生の純粋さと正直さは幼児のそれであったから、幼児のような恋をした。たとえそれが当然のことながら世間的に「許されない恋」であろうとも、私が先生に感謝し、尊敬し、心の中に大切な思い出として面影を抱いていることは今もあの時も変わりない。