Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

いろいろな宗教について(2)

3)「神の母聖マリア」

 宗教についていろいろ考えていた時、(此れを書いた年の)年の)元旦がたまたま日曜だったから教会に行ってきた。別にいつもの習慣だから、どうって言うことないけれど、元旦のミサについている表題が気になった。元旦のミサは、「神の母聖マリアの祝日」だそうだ。ついでに世界平和も祈るのだと言う。 「ついで」が世界平和だって。ちょっとおかしい。私の中では逆だけどな。

 

 カトリックの「神」と呼ばれるものは、天地万物の創造主のはずである。人間は被造物と言うことになっている。これでいくと、聖母マリアは聖母と呼ばれようと、ただの母であろうと、人間だから「被造物」のはずである。「神の母」と言うなら創造主の母が被造物だということになる。いくら奇跡をかき集めたって、この表現は非論理的である。

 

 あまりにおかしいと思ったから、松戸教会の神父さんとっ捕まえて、聞いてみた。「神父さん、ありゃおかしいですよ。創造主にお母さんがいるんですか?創造主の母が被造物でいいんですか?」

 

 神父さん、おったまげて、すごくあわてて「おかしくないんだ、おかしくないんだ」と叫んでいた。パニクッているらしい。面倒だから、笑いながら取り合わずに帰ってきた。

 

今頃あの神父さん、悩んでいるだろう。

 

 信仰箇条を理論で言える範囲でいえば、創造主は被造物なる女性マリアを通して、創造主の分身としてのイエスを送ってきた。その意味でイエスは「神の独り子」と言われる。一般にはわけのわからない言葉で言えば、「受肉」と言う言葉になる。仏教用語で言えば、真理から来たもの「如来」というらしい。(これはネットの中での論争相手のある浄土真宗の男性の意見)

 

 カトリックはイエスの母マリアを、異常に特別視している。イエスが受肉した神の子だから、母マリアは、「神の母」と呼べるらしい。でもね、そういう人間の親子関係の表現を使うと、もっと面白いことになるよ。

 

 「イエス様は神様の子で、やっぱり神様と呼ばれ、しかもイエス様の父は神様で、マリア様の相手は父なる神様だから、イエス様から見るとマリア様は神様のおばあさんです。」

 

 で、1960年代に召集されたバチカン公会議で、実際にこのような発言をしたスペイン人の司教がいたらしい。その表現のあまりのおかしさに、おったまげたスペイン司教団は、スペイン司教団の名誉にかけて、次の日、その発言を訂正したそうだ。実際に会議に出席した人物から聞いた実話。^^。こっそり考えると、この発言いいね。

 

 これは、知り合いの、親しくしていた本物のカトリックの神父さんから聞いた小話。

 

 イエス様が「罪の女」と呼ばれる女性が、ユダヤ教の律法で合法的に石殺しにあっていたとき、逃げてきた女性をかばっていった。「お前たちのうちに罪がないものだけが、この女に石を投げよ。」

 

 そうしたら、石が一個ぽーーんと飛んできた。見るとそれを投げたのは、母親のマリアだった。

 

イエス様は母に言った。「なんだよ、かあちゃん、俺の仕事の邪魔するなよ。」

 

そうしたら、マリアは言ったそうだ。「だって、あたし、無原罪だもん。」

 

 つまりね、よく考える人間は、たとえ信仰箇条を信者に叩き込むのが商売の神父さんだって、カトリックの言葉の矛盾には気がついているのさ。

 

 アダムとイブの物語に、単純化された「原罪」の意味を、考えれば考えるほど、「無原罪」などと言うことはありえない。

 

 アダムとイブは「この木の実を食べると、智慧がつくぞ、神様と同じになれるぞ」といわれて智慧の木の実を食べたと言うことになっている。食べたら、自分の「裸」に気が付いた。そして、恥を感じて、身を覆うものを探して、身につけ、木の陰に隠れた。

 

 神は罰として、男は家族を養うために汗を流し、労働をし、苦しまねばならぬ、女は子を生み育て、苦しまねばならぬ、といったと言うことになっている。

 

「その心」は、

 アダムとイブは欲望に負けたのだ。自分が超えられぬものを超える欲望に負け、自分の裸の状態を恥と思い、裸の真実を隠して自分を自分でないもののように見せる我欲を追求した。我欲を追及した先には、追い求めても追い求めても満たされない精神の枯渇が待っている。満たそうと思って富を追求し、権力を追及し、それでも満たされない状態、それはとりもなおさず、不完全なものが完全を追求する状態だ。生まれて死ぬ命である限り、人間は誰でも「不完全」、仏教用語で言えば、「無明」だろう。

 

 生まれて死んだ有限の存在であるマリアさまが、原罪、つまり、この不完全状態を持っていないなら、彼女は「完全で、真理そのもの」か?

 

 私は、厳しい中でも最高に厳しいカトリックの家庭に生まれた。子供の頃、家庭にあった読み物は、聖人伝と聖書だった。一般の物語は、すべて、友人から借りて読んだ。「禁書」と呼ばれる物に手を触れることはなかった。朝夕の祈りを家庭祭壇の前で、家族8人がそろって唱えた。文語体の祈りとラテン語の祈りだった。それはまるで、修道院の勤行のようであった。それだけ純粋に、私はカトリック信者として、培養された。

 

 純粋に育ったから、純粋でない大人たちの本心がよく見えた。その本心を赦せなかった。私はどこの組織でも追放された。純粋に育ったから、「信じなければいけない」と、個人の思考も赦さずに、信仰を強制されるとき、その意味を考えざるを得なかった。

 

 幼児の頃の純粋さから、独立のための成長期、私はやはり、本を読んでいた。疑惑をチェックし、「禁書」と呼ばれる本も読み漁った。カトリックから離脱したルターにも接近した。聖書の記述そのものも疑った。怪しい記述の意味も考えた。

 

 多くの出来事に出会い、その時その時考えた。強制された「信仰箇条」でなく、自分の心に湧いてくる純粋な受け皿で、私はえりすぐったものを核として、信念を形成した。

 

 だから私はもう、自分を規制する組織の強制を恐れなくなった。私は今、カトリックなのか、どうなのか、わからない。

 

私は、この記述を、カトリック信者と自称する人々が、気に入らないのを知っている。私もカトリック信者である。自分の方からは、カトリックを離れる意思はない。離れて物を言っても、それはかつてルターが始めたように、分裂をもたらすだけだから、私は中に残るなら、中で物をいい続ける。離れるのなら、決してモノをいわない。

 

 私は、カトリックはもうすでに消滅する運命にあると、公言する神父の存在も知っている(今は故人)。消滅するのは消滅する理由があるのだ。イエスの言葉は究極の真理、究極の救いを、後の人々に残している、心に響く言葉なのだ。彼の言葉は永遠に人を救うと私は信じる。しかし、カトリック教会が「信仰箇条」として、信じることを強制している物事の内容に、まったくどう考えても、不条理な言葉が、その意味も検討されないで、実態として捉えられ、ただ信じることをを強制されている状況がある。特に言語の検討もなく、日本語に訳された言葉は、あまりにも異常なのだ。 

 

 あの異常さを払拭しない限り、カトリック教会は滅ぶだろうと私は心から憂れえている。