Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月24日

 

「特殊かもしれない家族の背景」

 

自分で暮らしている間は、ほとんど気がつかないのが、「自分のうちの特殊性」だが、多分我が一族の場合は、家族の歴史の背景になっている宗教事情を知らないと、意味が通じないこともありうるかと思い、軽く、記述することにする。

 

私の兄弟は五男、四女の総勢9人である。そのうち3人が死んで、母が生存中は、6人が生き残っていた。亡くなったメンバーのうち、私が会ったことがあるのは次女桜子で、私が生まれる前に早世した長兄、長姉は父の描いた絵と、写真だけで知っている。ただし3人とも、家族の会話の中には出てくるので、私の家が9人兄弟だという意識は常にあった。長姉は5歳で満州でなくなり、長兄は17歳で私の生まれる1週間前に死んでいる。

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私が生まれる前の兄弟全員。

 

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赤ん坊が私、抱いているのが櫻子

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戦後の苦難の時代。兄弟そろって映っている上の美しい庭は、全部畑になりました。

 

家族がカトリック信者であった為、みんな戸籍名の上に「霊名」と呼ばれる洗礼名を持っていて、幼少のころから家庭の中ではお互いに洗礼名またはその縮小形で呼び合っている家族だった。そのために、本来の戸籍名はお互いになじみが薄いのだ。

 

長女と三女は同じ名前を持っている。二人が同じ名前なのは、一家が満州にいたときに、多分父の失敗がからんでいるらしいが、長女を5歳で亡くしたため、東京に引き上げてから生まれた三女に同じ名前をつけて、長女の生まれ変わりと言う事にして父が可愛がったというといういきさつがある。

 

その姉は死んだにもかかわらず、何時もみんなの中には生きていて、カタリナ姉さんと呼ばれていた。霊名まで同じなのだけれど、そのため三女はカタリナとは呼ばれず、自分で自分のことを「明美ちゃん」の「ちゃん」だけ取って「チャン」といっていたので、皆が彼女を「チャン」と呼んだ。

 

それを隣家のエロ坊やが「チャンをやめてチンに変えよう」といいはじめ、いつのまにか彼女は自分でも「チン」と自称するようになった。この坊や、隣家の女の子に「チン」と命名するだけあって、長じて町中の女性の下着を物干し竿から盗むという趣味を持つにいたり、その他もろもろで警察などにもよく名を知られた有名人になった。

 

ところで「チン」は大きくなったら、隣家の坊やが命名し、自ら受け入れたその名を恥じた。だったら自分で再改名宣言をすればすむことなのに、彼女は「チン」の由来を勝手に作った。

 

彼女によると、三郎兄さんが、「お前は目が細くてシナ人に似ているからチンだチンだ」といってからかったのが始まりということになってしまった。ほとんど一緒に暮らしたこともないのに、自分の所為にされた三郎兄さんは、それを聞いてあきれていた。何しろ彼女の目は別に特に細くないし、国際色豊かな修道院育ちの三郎兄さんには人種差別の意識がない。

 

喧嘩はよくしたけれど、お互いに容貌のことでは優劣を論じあうことはなかったし、私は姉が「チン」になったいきさつをしっかり記憶していた。子供の頃はあまり気にかけなかったが、後に下着泥棒などで勇名をはせた隣家の坊やの意図も分かるようになったので、この説はかなりひどい言いがかりだという事も知っている。

 

父という人物は、カトリックに改宗してからは、母から色々うわさに聞くと、あきれ返るほどの「敬虔」ぶりで、戦前の厳しかったカトリックの教えを遵守し、家にありながら隠遁者のような生き方をしていたらしい。彼は極めてものすごく「聖人」だったから、お坊ちゃんで世間知らず故に家族を苦労させた父に対する批判などは、口が裂けてもいえなかった。

 

彼には故郷の四国松山に父祖の残した土地があったけれど、食うや食わずの6人の子供を残して死ぬときに、その土地を教会に寄付して行ったのだ。教会の方は少しあきれたのか、土地の代金らしきものを一家にくれたらしいけれど、一家を救うほどの金額ではなかった。「聖人」というものは飢え死にしそうな自分の子供より、教会を愛しちゃうのかね。

 

ま、それでも私達は、ああだ、こうだと言いながら、「聖人」のそういう行為にもかかわらず、餓え死にもせず、末っ子の私が80近くまで生き続けてきたのだから、あっちで、あの「聖人」は、祈っていてくれたのかも。

 

「敬虔な」という枕言葉が付くカトリック信者って、まあ、どのように説明したらいいか分からない。日本ではクリスチャン人口が少ない所為か、クリスチャンの前には必ずこの枕詞が付くけれど、世界の総人口からすると、クリスチャンと呼ばれる人々が、みんな「敬虔な」わけない。

 

内戦の国ラテンアメリカは、99%はクリスチャンだったけれど、虐殺する方もされる方も、ほとんどその「敬虔な」カトリック信者だった。「名ばかりの敬虔な」カトリックの中で、あのロメロ大司教の壮絶な生き方を見たから、カトリックってすごいと思うけれど、皆がそんなに「敬虔」のはずがない。一地域に100年に一人しか出ない、あのすさまじい生涯を生きたロメロ大司教は、カトリックでなくたって呆然とするほどすごい人物だった。

 

それはともかく、我が家も「敬虔な」カトリックだった。

 

「特殊かもしれない家族の背景」2

 

母は48歳のとき夫に先立たれて、88歳までの40年間、「聖人」だった亡き夫を敬愛し、追慕し、断固として操を立て続けた。

 

で、母の話による父は「敬虔」を地で行く人で、とにかく、「戒律」と呼ばれるものに忠実でありたいと思っていた人らしい。ただし、この「戒律」と呼ばれるものは、世界観の異なる人に取っては、多分「ばかばかしいこと」なのだと思う。「ばかばかしく」なくても、「科学的」ではないことは確かである。だいたい、こんなことを何の因果か語り続けている人間の「存在」とか「命」とか言うものは、それほどそんなに「科学的な」代物じゃない。

 

例えば、イスラム教徒は「豚肉を食べない」という戒律を遵守する。雑食類で、あまり神様に関して真剣にならない日本人には、その意味がわからないから「ばかばかしい」と思っているし、「科学的根拠」がないといって案外心の底で馬鹿にしている。でも、イスラム教徒が豚肉を食べない理由は、神様が定めた戒律だと信じられているという理由以外に、説明の仕様がないのである。

 

仏教にだって殺生をしないという戒律があるらしいけれど、仏教には戒律を授ける神様は信仰されていないからなのか、人格化できない形の生き物は、手足がないから生き物じゃないみたいに食べていて、手足がある猪は「山鯨」という名前に改名させてまで食べていた。

 

日本仏教徒に言わせれば、酒だって「般若湯」なんだし、日本人は融通の利く民族なので、飲酒喫煙をじゃんじゃんするけれど、チベットやタイあたりの本物の仏教徒は真面目に戒律を守っているのかもしれない。

 

でも、およそ宗教に関しては、イスラム教でもユダヤ教でも、キリスト教諸派でも、仏教でも、「科学的根拠」のないものを信じているのだと思っていたほうがいい。キリストが死んで3日目に復活したという信仰も非科学的というか、反科学的である。処女から生まれたなんていう信仰にいたっては言語道断である。パンがキリストの体に変化するなんていうのはもう、冗談じゃない。いや、常識人の目から見たら冗談かも。

 

私が体験し、信じてしまった「霊感」なるものも、「科学」に照らし合わせてみたら、「脳みその中の一人芝居」と言う事になる。しかし私はその「脳みその中の一人芝居」の体験のために、一生涯、「非科学的な宗教」に生きている。非科学の王者みたいなカトリックの信仰を媒体とする「在りて在る者」の存在に振り回されて生きている。

 

だいたい、私に言わせれば、人間が理解できる範囲しか相手にしない「科学」なるものの方が、卑小であって面白くない。宗教を持っているやからは時空を超えた存在を相手にしているのだから、科学なんかかなわないと思っていればいい。

 

なお、ここで私が記述する「キリスト教」にかかわる内容は、すべて父がカトリック信者として生きた大正時代から昭和20年代までのカトリック教会内での出来事で、現在のカトリックにも、また他のキリスト教各派に関しては当てはまらないことが多いだろう。

 

現在のカトリック教会は、昭和40年代後半に召集されたバチカン公会議以後続いているエキュメニカル運動によって、「目に見えるもの」はかなり変化している。

 

宗教は大体「目に見えないもの」が対象の世界だから、「目に見えるもの」なんかそのときそのときの歴史的事情によって変化する。で、変化するものは案外どうでもよいものなのだ。

 

父は肺結核を患っていた。その「肺結核」という代物は、現代の医学しか知らない若い読者のために説明しておくと、それは「伝染性の不治の病」だった。それは長いこと、日本の国民病であり、其の対策に、小学校では毎年、抗体を調べるツベルクリン注射をし、陰性だとBCGというものすごい痛い注射を打って、抗体を作るのが、年中行事だった。

 

私は一家に患者を抱えていたから、いつも「陽性」で、其の痛いBCGを逃れていたが、高校生のとき肺に影があると言う事が発見されて、体育は見学していたし、兄達うちの一人は本格的な患者になった。

 

しかし、一家にその病気の患者がいることは恥ずべきことで、外部に知られると娘の嫁入り先がないから、病名を隠しておかねばならないほど、恐れられ、忌み嫌われた病気で、現代の「エイズ」みたいな扱いだったのだ。(まあ、これを発表している現在なら定めし「コロナ」だろう)。

 

多分戦争直後スプトレプトマイシンとか、パスとか言う特効薬が現れ、父は買うお金がなくて服用しなかったが、服用した知り合いの女性が、その副作用のために脊髄を犯され、寝たきりになっていた、それほどこの病は長いこと医学をてこずらせた病だった

 

で、父はもう末期になって起き上がれなくなった頃、所属教会の神父さんが、家まで御聖体(キリストのご神体とされる種なしパン)を運んできた。信者は日曜日には何が起きてもミサに行かなければ罪みたいな意識を持っていたから、教会のミサにいけない重病の信者のために、ミサの最重要部分である聖体拝領だけさせてもらうために、神父さんに家まで来てもらうのである。

 

ところで、その御聖体を拝領するときの、当時の規則として、拝領する前日の夜中の12時以後は、食物も水も一切口に入れてはならないことになっていた。夜中の12時過ぎたら食べてはいけないと言う意味は、その尊い御聖体が、消化器官を通るからだろうね。我が家の場合、そんなことしなくても、胃の中はいつも空っぽだったと思うけれど。。。

 

で、その規則は病者に対しては、薬を飲む関係で、軽減されていたが、母によると父はその規則を厳守するために、「明日御聖体が来る」という日には、夜の12時からは唾も飲み込まないで、横にあったタンつぼに唾を吐いたと言う事だ。こりゃあ、肺結核じゃなくたって死ぬよ。

 

(肺結核は痰がつき物で、枕元にはタンつぼが置いてある。同じ病で死んだ正岡子規の句にも「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」という句があるくらいだ。痰と糸瓜の関係?ご自分で検索してください。)

 

当時の「御聖体」は、「祝別された」神父さん以外の信者は、手を触れてもいけない尊い代物で、ミサのとき信者は口をあけて神父さんからパンを舌の上に載せてもらったのだ。しかも粉が落ちるといけないから、信者の口に入れるときは、侍者と呼ばれる助手が、横合いから金の受け皿を信者の顎の下に差し出して、その粉は捨てないで、神父さんがヤッパリ「キリストの御血」となったところのぶどう酒に入れて飲む、というところまで、神聖視された代物だった。

 

昔はそのパンは、「キリストの体」になったのだから、歯で噛んでは申し訳ないという考えがあって、噛まずに飲み込まねばならなかった。噛んだらパンから血が出るなんていうぞぞっとする話も数限りなくある。

 

現在は部外者が見たらおったまげてしまうような、そう言う異常な神聖視から生まれた意味のない規則は一切なくなって、信者はパンを手に受け取って、むしゃむしゃと食べる。何しろ、イエス様はそう言う、人のためにならない戒律はやめましょうといっていた張本人ですからね。

 

私はそう言う価値観の元に育ったので、父はすごい信者だとと思っていた。(ま、別の意味で「すごい」けど・・・)

 

満州で暮らしていた時、父は美術の勉強を夢見て、フランスに留学しようとしていたため、フランス人の神父さんにフランス語を習っていた。通ううちに其のフランス語の神父さんの影響で、カトリックに改宗し、死者から甦ったという意味で、自分の霊名をラザロとした。兄達はイエス様の12使徒の名前をもらっているが、女の子は、そもそも「女性の聖人」が少ないので、あまり世間になじみが薄い名前をもらっている。

 

母は父と一緒に改宗し、多分東ローマ帝国の皇后の名だと思うが、テオドラと称した。父は死人のラザロで、母が選んだのは皇后だから、その性格の違いも一目瞭然としている。

 

ラザロはイエス様が愛した男だから、どうせ、当時の社会からは外れた人物だったんだろう。それに比較して、テオドラって言う皇后は身分もさることながら、かなり保守的な人物だったらしい。

 

で、テオドラと自ら称した母は、その性格が激しく、その生涯があまりに波乱に満ちていたので、密かに兄達が漢字変換して「手負い虎」と書いて遊んでいた。それを私がネットの中のペンネームにしたのだ。ちなみに私の霊名はマリア ルイジアナといい、漢字変換すると「類似穴」なんていう格好の悪い名前になるので、ずっと格好がいい「手負い虎」をペンネームにしている。

 

母テオドラは、およそ仏教が嫌う執着心、すべての情念、すべての恩讐、すべての喜怒哀楽を、その極限の形まで表現する人で、それに武士道やら信仰やらがおっかない「精神」や「戒律」とともに合わさって、まるで怪物みたいな人物だった。喜怒哀楽が交互に出てきて、一瞬一瞬いっている言葉はかたっぱしから矛盾していて、付き合うのに疲れる人だった。本人もずいぶん生きるのに疲れただろう。

 

しかし後述するけれど、彼女は自ら自分に課した人生の目標に、きちんと到達して死んでいった。彼女は自分を熟知していた。彼女はハードルを必要以上に高くはしなかった。最低限これだけは、と思うハードルを越えて、彼女は死んでいった。

 

「特殊かもしれない家族の背景」3

 

で、その聖人達の名前をもったこの家族はいたって仲が悪くて、それぞれが独立独歩で(つまり勝手に)歩いているという環境に私は育った。その中で四郎と五郎の二人の兄が、どういうわけか仲がよいらしかった。

 

四郎は、母の秘蔵っ子だった。母はこの兄だけ文句なく可愛がり、多分ただの一度も他の兄弟が受けたような折檻を母から受けていないだろう。そのためか、性格にゆがみがなく、誰にでも可愛がられ、国立大学を出て、大手の会社に勤めて管理職かなんかになったと聞いている。

 

五郎兄さんは読書家で文人肌だが、頭が良く回り、兄弟の様子を見てうまく立ち回る方法を覚え、色々な困難の中で自分だけ安全地帯にいるというコツを身につけた処世術のうまい男である。母にも他の兄達からも「ずるい男」として有名で、ずるく立ち回り、うまく無傷で育って、みずから一般常識を身につけることができた。これも国立大学を出て一流会社に勤め、定年後は登山をして余生を楽しんでいる、これも幸福な男である。

 

常識は人を幸福にするらしいが、「常識」というものはわざわざ書いて見せるほど面白いことではないので、この二人の人生は物語にならない。大方彼らが「常識人」でありえたのは、戦争のために彼ら二人が通っていたカトリック私立の小学校を退学して公立の小学校に転校せねばならず、当時のカトリックの、功罪の極端なマインドコントロールの影響を受ける度合いが最も少なくて済んだからだろう。(ただし、其のよしあしは言及しないことにする。)

 

(註1:御聖体(ホステイア):パンの中に宿るキリストの体:カトリック教会の「ご本尊」というべきもの。ミサ聖祭はパンを生贄としてのキリストの体に変化させるための儀式。

其の由来は、最後の晩餐のときにキリストが弟子達にパンを示して「これはあなた達に与えられる私の体である」また、ぶどう酒を示して「これはあなた達にために流される新しい契約の血である、これを私の記念として行いなさい」といったという故事から、ミサ聖祭の中で捧げられるパンが、実際にキリストの体に変化すると信じられている。そのパンを拝領することによって、信者はキリストと一致し、一緒に御聖体を拝領する教会の共同体がキリストにおいて一致すると考えられている。

註2:ラザロ:死んで墓に葬られてからイエス様が復活させたと言われる人物:ヨハネ11:5(彼がどういう意味で「聖人」かは私の知るところではない。でも墓の中から呼び出されて出てきたとなったら、ヤッパリ「聖人」にする以外に扱いようがないと思うけどね。)

註3:聖人:キリスト教徒として模範的な生き方をしたと認められる人物を、カトリックでは歴史的に其の人物の死後、会議を開いて検討して、諡号というか、称号というか、「聖人」という位を贈る。近いところで、マザーテレサエルサルバドルの殉教者、ロメロ大司教が其の対象となっている。

 

「実家の裁判事情」

 

大蔵さんという、父の友人がいた。彼は父の画家仲間だった。顔を記憶しているが、白髪の好々爺で、いつもニコニコしていて、子供の私には、悪い爺には見えなかった。

 

父は肺結核を患っていたため、兵役免除になり、昭和11年満州から引き上げて、建てたアトリエ付きの家で、画家として絵を描いていたが、都心に住まいがあった大蔵さんは、戦禍を恐れて逃げる場所を探していた。そこで郊外に大きなアトリエがある家を構えていた父の家がほしくてたまらなかったらしい。

 

母の残した記述によると、父は戦中戦後の混乱期、時代的に売れるわけない絵を描きながら、たくわえだけで乗り切っていた。しかしそれも尽きて困窮にあえいでいたとき、困窮を見かねた大蔵さんが、地獄に仏のごとく、友達だからといっては、ニコニコと気前よく、「どんどん」お金を貸してくれた。しかも返すのはいつでもいいからといって、まるで無条件に、つまり、何も借用書を交わしたりせずに、「どんどん」お金を貸してくれたそうだ。

 

ところであるとき、大蔵さんは自分が貸した金額の帳簿を見せて、ニコニコしながら「これで手を打とう」といったそうだ。このとき、父は何に手を打つのか分からなかったらしい。

 

そして、大蔵さんは父に言った。「これから戦争が激しくなって、家が消失したりするのが危ないから、家に保険をかけよう。保険にかけるためには家の権利書と捺印した委任状が必要だ」といったそうだ。まるで人を疑わず、今から考えるとアホみたいだった父は、何も疑問を持たずに「家の権利書と捺印した白紙委任状」を渡した。ところが、その書類をなかなか返さないので、とうとう父が「あれ、どうしたか?」と聞いたら、「ああ、登記しなおしたよ」とニコニコして応えたそうだ。

 

そうやって、家も土地も大蔵さんが、父に貸し続けた金額の総計で「手を打たれ」、つまり大蔵さんが父から買ったことになって、彼のものになった。それから彼は都心にあった自分の家からたくさんの蔵書や家財道具を抱えて引っ越してきて、父のアトリエを占領した。父には、「僕のアトリエは自由に使ってもいいよ」とニコニコしながら言ったそうだ。

 

そして戦況が激しくなると、今度は父に、「いいところを紹介してあげるから、一家で疎開しないか」と何度も父にニコニコと進言したという。またその手に乗ろうとする父に、母が言った。「ここをでたら、もう、二度と戻れなくなりますよ。ここにとどまっている間は、大蔵さんは私達を追い出そうとまではしないから、私は子供達とここにとどまります。」母はあのニコニコ顔を信じなかった。

 

父と違って、母はお嬢様育ちではなくて、8歳で実母と死別し、継母と実父との暴力に耐えて、16歳で上京し、艱難辛苦を経た後、父と出会って結婚したという経歴の人物である。お坊ちゃん育ちの父ができなかった、人間の裏を見ることができるほど、彼女は苦労していた。

 

この家盗り騒動は、私が生まれる昭和16年に起きたことらしいが、まさか私は0歳の頃の記憶があるとは言わない。しかし私は大蔵さんという人物を覚えている。彼は白髪で多分ハンサムだっただろう。いつもニコニコしていて、子供達には大判振る舞いをする。子供達一人一人にまだ幼女だった私にまで、ホラお小遣いだ、といって、あの時代、見たこともなかった100円札をばら撒いた。母はその裏を疑って、配られた紙幣をすべて子供達から回収し、返した。

 

父は家族への責任にかられて、死に物狂いで家財産を取り戻すために、敗戦で押し寄せてきた進駐軍肖像画を描いたり、描き溜めた絵を売ったりしながらお金を集めて「家を担保に借金したことになった金額」を作った。しかしその金額を見て、大蔵さんは、いった。「貸したときの金額と今とは、まったく金の価値が違うし事情も違うからね。」

 

「聖人の」父は戦わなかった。そして自分が友人と信じて借金を重ねた結果、家族をどん底に落としたのを知って心痛のあまり病に倒れた。母は父の反対を押し切って裁判を起こし、父が生きている間に財産を取り戻そうとしたが、父は力尽きた。昭和25年、ある朝、父は「臨終だ」「臨終だ」「一緒に祈りましょう」と叫んで、病床の枕元に子供達を集め、声を振りしぼって、ロザリオをつま繰りながら、祈った。其の夜、父が熱に浮かされて、母と次郎兄さんと裁判の行方をを気遣って言い続けたうわごとの記録を、介護していた母が書き残している。

 

父は自分が「臨終だ」と決めた日には死ななかったが、ある朝、母は子供達をたたき起こした。「皆おきなさい、もうお父様が亡くなるから。」皆飛び起きて父の床の周りに正座した。手が胸に組まれ、足は「く」の字に立っていた。その「く」の字がガクリと横に倒れたとき、父は息絶えた。昭和25年6月2日朝6時2分だった。

 

苦しんでなおかつ父が死に際に彼が母に言った言葉は、「大蔵さんを赦してやって暮れ」という言葉だった。信仰に生きたカトリック信者としての遺言だった。しかし母は現実を激しく生きた。父を尊敬し、心に父を抱きながら、母は彼女の現実を戦った。

 

父の死後、一家全員を原告として、母は新たに訴訟を起こした。さまざまな紛糾の末、彼女は示談に持ち込んで、18万円を支払うことで、折り合いをつけ、教会の友人から借金をして取り戻した。昭和20年代後半のことだった。そのときの借金を全額払いきったのは、10年後の私が大学生の頃だったろう。ちなみに、私の時代の大学出の初任給は1万円に満たなかった。その時代の18万円は、現代ではどの程度に値するか、計算したことはない。

 

「裁判の後遺症」

 

開戦、戦中、戦後の艱難辛苦の時代を乗り越えて、母は亡くなるまでの55年間、あの家を守った。子供達を育てるために守り抜いた。子供達が全部巣立ってからは文字通り、あの家は母が自由に木を植えたり草花を植えたり、野鳥と共存したりして、余生を楽しむ母の居城になっていた。あの地所はほとんど母と一体になっていた。

 

母にとって、其の家は亡き夫、我々の父の形見であり、さまざまな艱難辛苦を乗り越えて守り通してきた、愛する夫の魂が住み着いた土地だった。だから彼女は自分が死んだ後まで、未来永劫、その土地が守りぬかれることを望むほど、その土地に執着した。だから母は、自分の死後、最愛の夫である、我々の父の魂と自分の魂が宿ると信じたこの土地が、売却されたり、切り売りされたりすることを恐れた。

 

で、母は、すべての息子達の気持ちを性急に確認しようとして、その結果、本人にはまったくの法的根拠もなく、「売らないで維持するよ」と言葉の弾みで言ったに過ぎない相手に、確約が取れたと考えて、その息子に、財産のすべてを相続させるのだと言って、遺言を書き直すのだった。はじめはそれを、秘蔵っ子の四郎兄さんとし、四郎兄さんが「怪しい」と感じるや、それを三郎兄さんに書き換え、三郎兄さんが怪しいと感じるや、今度は「御しやすい」と考えた私にすがってきた。

 

その母の思いは私にはよく分かっていた。私だって、あの土地に愛着がないわけではなかった。しかし、母の思いを実現するためには、あの150坪を兄弟全部から買い取って、一人で維持しなければならなかった。私には、誰かと争ってまで一人であの財産を維持する能力がなかったし、母の死後まで、150坪を維持できると確約できる息子は一人もいなかった。新宿から25分足らずのところにある中央線沿線の150坪である。バブルのころの土地の値段を考えたら、兄弟中からそれを買い取るほどの資産を持っている兄弟はいなかった。

 

ひとつの考えに固執した母は、「法律遵守」という「常識」を言っているに過ぎない兄達の言葉を怪しんだ。誰かが自分を裏切るらしいと、母は疑心暗鬼の状態で、息子達の言動にいちいち揺れ動いたのだ。

 

母は次郎兄さんのことが心配だった。戦後の困難を、土地がすべてを救ったのだと信じていた母は、土地がなくなって一番不幸になるであろう次郎兄さんのことを思った。自分の死後、次郎兄さんがすべてを失い、弟妹達に見捨てられるのではないかと不安だったのだ。見捨てられる要素があまりにたくさんあったからだが、本当は、あのように動揺してあがきのた打ち回らなければ、その心配はなかったのだ。

 

後に五郎兄さんが自分の思いを語ったことがある。

 

「財産のことで決着がついたら、自分は『次郎兄さん資金』というものをストックしておこうと思っていた。次郎兄さんは常識で持って付き合うのは無理な男だし、どうせいつかすべてをなくして生きるすべを失うだろう。そのときに何とか彼を助けるための資金として、ストックしておこうと思っていた。母様が疑ってばかりいて、あんなに理不尽なことばかり言わなかったら、ことはもっと穏やかにすんだのだ。」

 

しかし財産の話になると、常識人の彼は、表向き、いつも『常識的』話を前面に押し出して、感情に走る二人の言葉を突っ放していたから、誰も彼のそういうやさしさを理解していなかった。

 

次郎兄さんのマンションは、滑り出しはよかった。しかし始めに我々が危惧したとおり、あのブテイックが経営崩壊の糸口になった。次郎兄さんにブテイック経営を勧めた女性は、例のごとく「200坪の土地」を所有する次郎兄さんの自慢話に吸い寄せられてきただけだった。

 

彼はこんどは多角経営が成功するはずだと威勢のいい話をし、彼女は自分が経営するブテイック本店の売れ残りの品をすべて持ち込んで次郎兄さんに買わせた。女性の衣類の流行とかすたりとかに縁のない次郎兄さんは、わけが分からずに、自分で選ぼうともせず、女性の言うがままにすべてを買い込んで店に並べた。彼は「ブランド物」だといって衣類を並べながら、女性が彼に言い聞かせた「ブテイック」のふれこみの言葉を、自慢そうに行きつけのすし屋とか一杯飲み屋で吹聴したが、それ以上の「宣伝」活動はしなかった。

 

当然のことながら、すし屋や一杯飲み屋の常連客は彼の「高級ブランド物」を買わなかった。

 

ブテイックの資金はもちろんその女性が出したのではなく、次郎兄さんの借金だった。次郎兄さんがいくら待っても誰も客が来ず、店番に駆り出した年老いた母や私のやり方がまずいのだといった。

 

そりゃ当然「まずかった」だろう。私も母も誰も来ない店に、ただいただけだったから。ブテイック経営が破綻し始めたことを知るや、次郎兄さんはその女性を責めないで、初めから200坪をつなげてマンションを作らせてくれなかったという理由で、弟妹を責めた。そしてヤッパリ例のごとく、母に弟妹名義の150 坪を自分の名義にしてくれと言い出した。

 

次郎兄さんは毎日毎日母にせっついて、新しいワンルームマンションが「軌道に乗ったから」残りの部分をくっつけて、かの「壮大な夢」を実現させてくれと母に迫った。

 

書類を持ち、印鑑を携え、彼は母に対して、毎日毎日泣いて見せたり脅して見せたりして母から離れなかった。

 

母の土地への思いが、次郎兄さんと同じではないことを次郎兄さんは気がつかなかった。土地の将来のことであのように動揺していたあの時、誰を特に愛したというのではなく、母が心に深く執着したのは、土地につながる、亡き夫の精神だったのだ。

 

あの裁判を闘ったとき、母は「大蔵さんを赦してやってくれ」といった父の精神を尊いと思った。「赦す」ということの意味を母はきっと一生懸命考えたのだろう。家は6人の遺児を養うためにどうしても取り戻さなければならなかった。しかし彼女は、少なくとも、家を取り戻せたら、父の精神を傷つけないように土地の利用を考えた。

 

母の死後読んだ当時の日記には、取り戻せた家をどのように父が喜ぶように利用しようかという思いが、縷々と描かれていた。

 

「この家を取り戻せたのは、私の力ではない。これは天国にいらしたお父様が守ってくださったのだ。これは教会の神父様が助けてくださったのだ。祈りに祈って私はあの絶対に不利な裁判に臨んだ。あの時、弁護士さんの話では私達の側にはまったく有利な条件がなかった。あの時、大蔵さんが文書偽造を認めたのは本当に奇跡だった。署名の文字は非常にお父様の筆跡に似ていたけれど、お父様は署名というものを大切にしていらした。署名と捺印がこんなに離れているのはおかしい。と確たる証拠があったわけでなく、私の勘だけで言った言葉に、大蔵さんはあっさり『ああ、それは僕が書いたんです。』と裁判官の前で認めたのだ。大蔵さん側の弁護士があきれた顔をしていた。

 

神様があの時大蔵さんの心に働いて、あのような言葉を吐かせてくださったのだ。やっと取り戻せたこの家を、自分達のためだけに使うまい。ここの家に教会の神父様に来てもらって、知り合いのグループを集めて聖書の話の集会所みたいなことをやろう。子供たちを育て終わったら、教会に寄付しよう。この地域の教会に立て直してもらっても良い。神様はこの家を子供たちを育てるために私に預けてくださったのだ。」

 

この記述を見て思い出した。母はその思い通り、ちょうど私が中学生から高校生にかけて、近所の知り合いを集めて聖書集会を開き、ずいぶん長いこと教会の神父さんに来てもらっていた。信者が何人かできたのも記憶している。あの自宅を開放して始めた聖書集会が、「本当ならば取り戻せなかったはずの家財産を神様のおかげで取り戻せた」と解釈した母の、父の精神を生かすための母の決意だったのだ。

 

おまけに母は大蔵さんを決して悪くは言わなかった。母が大蔵さんを悪く言わなかったから、子供だった私たちも、大蔵さんに関してはいつも敬語を使っていた。父のお人よしをいいことに、家財産を詐取した極悪人とは、誰も感じていなかった。「赤貧洗うが如しだった戦中戦後のあの時期、大蔵さんがあの土地を持っていてくれたから、今そっくり戻ったので、自分たちだけだったら、到底持ちこたえられず、切り売りして生活費に当てなければならなかっただろう」と、子供にとってはなんだかわけのわからないことを母は言っていた。

 

裁判を闘って家を取り戻しはしたけれど、「大蔵さんを赦してくれ」と言い残した父の遺言を、母は律儀に守ったのだ。まるであの土地は、母にとってイスラエルに『神が約束した土地』のように、神様が母に預けてくださった土地という、ほとんど宗教的な意味合いを持っていた。

 

そんな思いが母の心に去来していたことを、あのときは誰にも分からなかった。一番土地に執着していた次郎兄さんは、30年前の裁判の後遺症として、土地に執着していたのであり、他の兄達は、そんな財産に関するいざこざから早く開放されて、現在の自分の生活を無事に維持することに精一杯だった。

 

母の錯綜した心のゆれは、時には次郎兄さんに向けられ、死に物狂いで土地に執着する次郎兄さんに、自分の思いが伝わったかのように錯覚して、法律も何も無視して、全部次郎ちゃんに上げたいとまで、母は言うときがあった。そういうときに、財産の行方が自分に向けられかかっていると見た次郎兄さんは、これ以上母が動揺して、弟妹の誰かに「自分の土地」を「相続」されてはなるものかと、母が元気なうちに確約を取ろうとあせって、心は夜叉のようになっていた。

 

ある秋の夜。母が倒れたという知らせが五郎兄さんの兄嫁から、松戸の私の耳に入って来た。病院に担ぎ込まれた母は、恐怖におののいていた。其の恐怖の原因を母は其のとき誰にも何も言わなかった。母は長いこと心臓疾患を抱えていて、病院に担ぎ込んだ兄達も、病院側も、心臓疾患のことしか考えなかった。