Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月6日

「挫折への道標 1」

 

私は子供のときから行動する自分と、それを傍らで見つめる自分とを同時に抱えて暮らす習慣が在った。かつて、カラーマーゾフの兄弟を読んだ時に、次男のイワンの分裂状態をまるで自分の姿のように捉えて感動したものだ。

 

シスター佐富との異常な交流の中で、私にかつての自己観察力が戻ってきた。苦々しく、汚辱に満ちた自分の生活を見つめることをはじめたとたん、私はこの生活に終止符を打とうと思った。こんな汚辱に満ちた生活が、「召し出し」を受けて入ってきた「修道院」であってたまるものか、と思った。かつての批判精神が復活しつつあった。

 

或る時韓国から、一人のシスターが訪れた。目が灰色の、鋭い顔立ちの、その当時50は過ぎていたと思われる、小柄なシスターだった。

 

私達がホールで談笑していたとき、そのシスターも加わってきたが、初め英語だったので、彼女が日本語を解するとは知らなかった。ところが彼女は私達の会話に突然日本語で意見を言った。予期しないことだった。

 

「おや、日本語おできになるのですか!」と私が言うと、彼女は言った。

 

「私達の年齢では、皆日本語で教育を受けています」と言った。ああ、彼女は日本の侵略時代を生きた人間なのだと察した私は、うつむいて、ちょっと会釈し「それはどうも、失礼しました」と言った。

 

其のときシスター佐富が口を挟んだ。

 

「あら、何が失礼なの?日本語を話せるなんてすばらしいことじゃないの!韓国の方が日本語で会話がおできになるのよ。ここじゃ皆英語しか話さないけど、韓国人で日本語がお上手に話せるなんて国際人として立派だわ。」

 

まあ、それだけとればそうでしょう。。。 

 

しかし、彼女は若い韓国人の修練女が頑として日本語を学ぼうとしない歴史的理由を何も気にしなかっただけでなく、影でいつも仲間の韓国人を「臭い」だの「不美人」だのと言って嫌っていたのを私は知っていた。修道女としてどうのじゃなくて、臭い、とか不美人だとかですよ。

 

「そういう言い方は無神経じゃありませんか?私はこのお年の韓国人が、日本語を話せるようにになった歴史的事情に対して、気遣っただけですよ。」

 

と私は言った。それをきっかけにシスターと私は論争をおっぱじめた。私は国語を教えていた関係で、古事記の背景としての古代の日朝関係の歴史をかなり深く研究していた。其の読書の量は、古事記日本書紀そのもののみならず、日本の正史から、在野の研究者の歴史書、韓国の歴史家、北朝鮮の歴史家の書いた著作にいたるまで,読破していた。

 

そういう知識を背景に、私はその老修道女に、自国語を禁止されて学ばざるを得なかった日本語の能力に気遣って、「失礼しました」と言った経緯を説明したにもかかわらず、彼女は理由など全く聞きもしないで、自分より下等な韓国人を、何で公然と、みんなの前で、持ち上げて、上司の自分に恥をかかせるのかと言って、私の腕をつかみ自室に連れ込んで私をなじった。

 

それは、歴史的見解の相違などという問題ではなく、自分の所有物であった私が、自分より韓国人を選んだということに対しての怒りだった。

 

どんなに説明しても話がかみ合わないので、しがみつく彼女を振り切って、私は唯一の治外法権の場所である聖堂に逃げ込んだが、彼女はなおも食い下がって、聖堂の中まで追いかけてきて私に謝罪を強要した。異常な雰囲気は誰にでもわかった。私が歴史的見地からものを言っているとき,彼女は痴話げんかをやっていた。

 

ところで私達の会話を黙って聞いていたその老修道女は、今まで上司のシスターにべたべたしていると思って私を反吐が出るほど嫌って近づかなかった若い韓国人の修道女達に、この会話をすべてを通訳していたのである。

 

私に反感を持っていた例のフィリピン人も其れを聞いていた。4人はまさに呆然として私を見詰めていた。私が個室に戻ったとき彼女達はぞろぞろやってきた。彼女達は私の本棚に並んでいた自国の歴史家の本を見つけた。私は決してその内容を全面的に賛成していたわけではなかったが、彼女達は先ほどの議論を聞いていて、しかも日本に敵意を持つ自国の学者の本を並べている私に対しての今までの反感をひっこめた。

 

「あなたを誤解していた。」と彼女達は言い、老修道女は、「あなたのような方に韓国に来てほしい」と言った。

 

うれしかった。しかし其のとき私はすでに退会の決意を固めていた。私が退会しなければ、二人の人間が破滅すると、私は考えていた。彼女達の訪問に、少なくとも私はこのまったくはじめから友達になれなかった人達と和解してから出られるのだということにわずかな満足を覚えた。怪我の功名とはこのことだった。

 

「挫折への道標 2 」

 

私の神経は疲労していた。私の心にいつまでもくっついて離れない、修道会入会の動機となったあの「脳みその一人芝居」体験が私を苦しめた。友人の退会以来、心のバランスを崩してどうしても立ち直る機会が得られないまま、上司との奇妙な人間関係の虜となって、これ以上自分がここにいるのは二人のためによくないと考えて退会を決意しながら、ここを出る事は神様を裏切る事になりはしないかと言う恐れが私の心にのしかかっていた。

 

自分は其の「脳みその一人芝居」体験を生かすために、退会した後、この一年間教壇に立って国語を教えている高校にそのまま就職できないものかと校長に相談に行った。其のとき校長職にあった人物は、もともと大学時代から親しかったシスターだった。

 

高校で仕事が続けられるものなら、私は在野において、病的な人間関係に煩わされる事無く、もしかしたら自分の使命をまっとうできるかもしれないと思ったのだ。ところが校長は其のとき或る父兄との間ですったもんだを演じていた。

 

ある父兄が校長の言葉に抗議していた。そのとき、校長は、「自分の言葉は神の言葉です。それを批判するのは神様への批判です。」などという応戦の仕方をしていた。はたから見ていて、まずいぞ!と思った。

 

修道院の中にいたから、シスターのいう其の言葉の意味はよくわかった。それは、ただ、「自分の言動は、自分だけの意思ではなく、祈りによって得た回答を言葉にしているに過ぎない」という意味だったが、「自分の言葉は神の言葉である」とは、一般人の父兄にとって、なんとも受け入れられない言葉だと思った。修道女は自分を神だと思っている、そうとしか取れない言葉だったから。

 

その場に居合わせて明らかにおかしいと思った私は、父兄が去ってから自分の相談を差し置いて、意見を言ってしまった。

 

「シスター、おかしいですよ。そういう言葉を俗世の人が理解できるわけありません。それどころか、シスターのことを神がかりだと思われますよ!」

 

其の言葉に、彼女は完全に切れてしまい、烈火のごとく怒った彼女は、その場で私を解雇してしまった。

 

彼女と私は長い付き合いで、普段は仲がよかった。そのあまえから私は父兄に責められている彼女の其時の心理状態を考えず、正しいことを言うつもりで、傷つけてしまったのである。私は散々あほらしい人間関係の中でもてあそばれたばかりでなく、長年の友も失って、打開策を探しに自分を面白い人材として持ち上げてくれた管区長のところに行った。

 

ところがそこでも私は手ひどい目に会った。

 

「私が人間的愛情に飢え過ぎていて修道生活に向いていない」と言う意見が、なんとシスター佐富自身の口から先回りして伝えられていたのである。

 

一体愛情に飢えていたのはどっちだよ。

 

しかし、それが彼女が「上司として私を冷静に観察をした結果だ」と、管区長のほうに上申されていたのだ。私の動きに身の危険を察したのだろう、シスター佐富は菅区長の前で、修練女を指導する3人のメンバーとしての権威で持って、先回りして私の口を封じたのだった。その「権威」を彼女に与えたのは管区長その人だったから、私には勝ち目がなかった。

 

権威をもったやり手女の指導者で名高い老シスターの判断は、すでに決定的だった。私は言葉を失った。

 

もうおわりだ。と私は思い、仲間を集めて、退会する決意を報告した。そこにシスター佐富はいなかった。私を時々助けてくれたシスターオーストラリアと、裏のうちにお寿司をいっしょに作って持っていった日本人のシスターが、不審な顔つきで私に言った。

 

「出るべきなのはあなたのほうじゃないと思うけれど...」

 

一瞬私は二人の顔を見た。本当のことを知っていたのか、と私は思った。目を合わせずに私は言った。

 

「知っている。でも、私はまだ29歳だ。私のほうなら出てもいくらでも出直しが効く。彼女はもう45歳じゃ、出ても出直しが効かないでしょう。」

 

其れから私は自分の持ち物を整理した。其の姿を見て、シスターオーストラリアが後ろから言った。

 

「あなたは其れで良いの?間違っているのは、あなたのほうじゃないって、知っているんでしょ?いくらなんでも、おかしい。。。」

 

そりゃ、おかしいさ。頭完全にくるっているのはあっちのほうだということは、たぶん周知の事実だ。しかし彼女を指導者として任命したのは、管区長の権威だったから、あらがったって私に勝ち目はなかった。

 

しかし、それを知って心配してくれた彼女の思いがうれしかった。少なくとも、だれかがこの決定に疑問を感じている事、そしてことの真相を知って、ものごとを正確に把握している人がいることが慰めになった。

 

「ありがとう。ありがとう。」感動して私は礼を言った。

 

退会の日、5人のシスターが泣きながら私を家まで送ってくれた。かつてシスター小山が同じ釜の飯を食べた仲間たちに一言の挨拶も許されず、修道院を追われた日、私はその非情さに身も世も無く泣いたことを思い、自分のふがいなさを赦し、自分を愛してくれた友の心が有難かった。

 

さてこれからどうしよう。敗北感と心に強烈に残っている「果たされなかった使命感」を抱えて、私は一人で苦しんだ。母は私の帰還と同時に、アメリカに渡った姉一家のもとにいったから、私ははじめて文字通り一人になった。精神状態のみならず、物理的にもまったく孤独になったのは、これがはじめてであった。 

 

「私のイエス論からだした詭弁的結論」

 

(私の個人的イエス論:自分本位の聖書解釈である。過去自分がどう生きたかという物語なので、教会が認める解釈ではないし、学問的裏付けもない。)

 

修道院を出て、一人になったこのときほど、私は聖書を他人の解釈なしに読み、ナザレのイエスについて思考を深めたときは無いだろう。私は聖書を「聖典」としてではなく、文学作品として読んだ。国文を修めた私が、文学作品を自分の人生に照らしながら掘り下げて解釈してきたように。私はナザレのイエスの人物像を自分と同じレベルで考えた。

 

この考えはいかなる派のキリスト教徒からも異端とされる事だろうことぐらい知っている。発表する気もなかったから、それはかまわなかった。私は其のとき「自分の中の」ナザレのイエスを相手に、一人で酒を飲みながら考えた事が絶対だとは其のときも今も言うつもりは無い。

 

人間として生まれた大工の子イエスが、相手にしたのは其の生涯一貫してマイノリテイーだった。ユダヤの社会から人種差別を受けていたサマリア人にしても、現代日本の私にはぴんと来ないが、当時世間から忌み嫌われていたと言う「収税人」という職業につく人々も、彼が弟子として選んだ漁師たちも、彼に命を助けられて、生涯彼を慕ったマグダラのマリアも、多分現在キリスト教徒を自称する人達なら相手にしない人間のタイプだろう。

 

彼はつまり、人種差別から、性差別から、職業差別から、学歴差別から、人々を解放した人物といってもいい。

 

ところが、このイエスを神の子と信奉する「キリスト教徒」が主に相手にしているのは、人間イエスが激しく嫌った、「真面目で常識的で、社会の指導者となりうる宗教上の支配者であったファリサイ人風の意識」を持った人々だ。人間イエスが、その「真面目で常識的で社会の指導者となりうる宗教上の支配者」を「偽善者」と呼んで、時には激しく罵倒したということを、「キリスト教徒」はあまり考えない。

 

イスラエル人の宗教的指導者は、モーゼの十戒を基本として膨れ上がった律法を、神からいただいた人間の規範としていたのは、周知のことである。

 

しかし、イエスはその否定命令形で始まるモーゼの十戒を裏返し、「愛せよ」というたった一言の肯定命令文で持って、表現しなおした。神に従い、神に遣え、盗まず、姦淫せず、偽りを言わず、安息日には、身動きもせず、しっかり十戒を守っていたつもりの人々は、「十戒をすべて守って、なお、その上に、人を愛するか?」と問われて仰天した。

 

以下は私が赤ん坊のころから唱えていた、カトリック教会の祈祷書に記された「天主の十戒」(モーゼの十戒)である。

 

第1:我は汝の主なり、我の他いかなるものをも天主となすべからず。

第2;汝、天主の名をみだりに呼ぶなかれ。

第3:汝、安息日を聖とすべきことを記憶(おぼ)ゆべし。

第4:汝、父母を敬ふべし。

第5:汝、殺すなかれ。

第6:汝、姦淫するなかれ。

第7:汝、盗むなかれ。

第8:汝、偽証するなかれ。

第9:汝、人の配(つま)を恋ふるなかれ。

第10:汝、人の所有物をみだりに望むなかれ。(昭和14年発行の祈祷書より)

 

ところで、イエスの掟

愛せよ。のみ。

 

十戒のうちの第4を除いて、あとはすべて禁止項目である。イエスの掟「愛せよ」という肯定命令の一言は、禁止律法に慣れていた人々にとって、この一言は、あまりに重い「新しい律法」であった。

 

其の結果彼は、モーゼの律法を犯し、神を冒涜した社会の危険分子として捕らえられ、処刑された。

 

「宗教的解釈としての彼の死」は、愛を唯一の救いの指標と唱えた彼の苦難と死と復活を、まるでひとっとびに、「人類の罪の贖いのため」とされる。しかし、その解釈が、信仰と信仰体験を経ずに、一般人に受け入れられようはずがない。私だってなんだか意味が分からない。

 

私は修道院を出てしまった。野にあって、一般社会の中で、なおかつ信仰を生きるには、もっと一般の人々がわかるような理解ができないだろうかと考えていた。

 

私はつくづく考えた。

 

同じ律法の元に育ったイエスは、いったいどうしてそれほどマイノリテイーに目を向けていたのだろうか、ということを。救いのためにうまれた神の子だったから、と一速飛びにいかれると、私にだって、わからない。大体本人が自分は神の子だなんて言っていない。

 

私は、この疑問から推論を導いていった。

 

「其れは多分彼自身が現実世界でマイノリテイーだったからだろう。」

 

彼が、罪のために合法的に「石を投げられて殺されそうになって、イエスの元に助けを求めてきたあの女性を救ったときの言葉、

 

「汝らのうち、罪なきもの、まずこの女を打て」 と言うあの言葉の背景を考えた。

 

戒律の厳しい時代、女性を自分の所有物としか考えなかった男性でありながら、女性の立場をこれほど憐れみ、戒律にそむいてまで敢えて助けようとした彼の心の背景を。

 

彼が母マリアの夫、ヨゼフの子ではない事は、新約聖書にはっきり記されているから、そのことは同時代の人々の間では周知の事実だったのだろう。

 

ただし、いくら2000年前の人々の宗教的感性でも、同時代の人が彼を直ちに「処女から生まれた神の子」と信ずる事は不自然だ。自然と言う見地から考えれば、恐らく彼はマリアの不義の子と考えられていた可能性の方が遥かに高いだろう。と言うことは、マリアはヨゼフの思いやりによって支えられていたかも知れないが、世間からそのことによって差別や迫害を受けていたかもしれない。息子のイエスだって、そういう扱いを受けただろう。そして厳しい戒律の不条理をいやと言うほど身に感じて育っただろう。彼は苦しみ、戒律に生きる人々をみつめ、其の中で思想を養い、成長しただろう。

 

彼の実生活を見ずに、強制的にカトリックを国教と定められてい後の西欧諸国の画家たちが描くように、「豊かな家庭で神童または、お坊ちゃんとして生まれ育って、キラキラした服を着て育ったのなら」、宗教上の指導者を偽善者と呼んで罵倒したり、罪の女を哀れみ助ける心の素地は生まれまい。きんきら金の王冠をかぶった親子なら、泥沼であえぐ人間の心がわかるまい。

 

受肉」とは、其れがわかるための受肉であり、其れがわかるための怪しい生まれであり、其れがわかるための怪しい人生だったのではあるまいか。

 

人間は経験の無い事柄を理解しないし、洞察もしない。マイノリテイーの心情を理解できるのはマイノリテイーだけである。イエスがあくまでも人として其の時代に生まれた以上、環境から思想を培う人間として生きたはずだ。彼はあくまで人間として、其の時代の影響と限界の中で生きた。

 

「敵をも愛せ」といった其の彼は、人間的にかなり短気だった。神殿で商いをする商人を、鞭を遣ってまで追い出したあのやり方なら、「敵」はどんどんできただろう。

 

註1;マリアの夫:カトリックではイエスの養父またはマリアの淨配(つまり男女の関係を持たないで、ただ戸籍上夫としてマリアを保護していた男)とされていて、マリアの夫とは言わない。

 

註2;処女の意味:聖書の原語にはこの「処女」と日本語に訳されている言葉にはもうひとつの意味があって、其れは「神に愛されたもの」と言う意味だそうだ。つまり必ずしも男性を知らないものという意味でなくてもいいらしい。このことは、聖書学を研究して、聖書学の博士号をバチカンで与えられた実兄から直接聞いたものである。しかしイエスは伝統的に日本語の意味における処女から生まれたと信仰されている。

 

エスは常に孤独であって、彼自身教団や修道院を創立しなかったし、そう言う意味で、世間に言われているような「教祖様」ではなかった。それどころか既成の宗教集団に対して批判的だった。彼はがんじがらめの社会的規制に対して、どんな掟よりも「愛」が先行することを説いた。安息日には指一本動かしても行けないと言う常識を破って、敢えて安息日に人助けをした。

 

彼は庶民を愛した。世俗を愛した。権威と権威をかさに着る小市民を愛さなかった。彼は脱世間を標榜する修道者で無く、脱小市民を歌う精神の革命家だった。

 

今 日本のキリスト教精神を標榜する学校は例外無く、ナザレのイエス本人が相手にしなかった階級の子供のみを相手にしている。しかも其れを誇りにしている。社会の中の富裕層、支配階級の子弟、子女、知能の優れたエリート。彼らにだって、当然、「教育」を受ける権利はあろう。しかし、彼らにあのマイノリティーを愛した「キリストの精神」を理解し、うけいれられる素地がない。

 

エスは衣類に事欠く隣人に衣服を着せ、裸足の子供に靴を履かせ、のどの乾いた病人に水を飲ませる事が、イエスに服を着せ、靴を履かせ、水を飲ませる事だと言ったのではなかったか。

 

つまり、神を愛すると言うことは、お前の周りにいる人間を神だと思ってお前の隣で苦しむ人を愛せといったのでは無かったか。

 

修道院のような組織の中に入り、ほとんどそのことに或る優越感を持って、自分と同じ生き方をしないものをひそかにさげすみながら、ぬくぬくと老後の安定を得ることがイエスの精神を生かす道か。

 

多分に悔し紛れが手伝って、私は挫折して傷ついた自分を保護するために、こういう方法で、修道院脱会の心の傷を否定する作業をしつづけた。私は挫折してあの世界から出てきただけで、何も自ら道としての孤独を 「選んだ」 わけでは決して無かった。出てきた修道会が其れほど全面的に其の存在さえ否定できるような集団だと言うわけでもなかった。

 

しかし其のとき私は立ち直りを賭けて試行錯誤をしていたのである。私は孤独の思考を通して、祭壇上のイエスをぐいぐい自分の世界に引き寄せた。詭弁だろうが、こじ付けだろうが、とにかく前にすすまなければならなかった。

 

エスよ、降りて来い。イエスよ、一緒に飲もう、この酒を。