Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」10月9日

 

 「国宝級のばあさん」

 

行きに泊まったパナハッチェルのホテルには、戻ることを見越して、余計な荷物は預けてあった。方向音痴の私はまったくこのホテルが同じだという記憶がない。ぼおっとしていたけど、預けた荷物を見て、その荷物から関連していろいろなことを思い出し、やっと納得した。これは私が老人になったからではなくて、子供のときから方向感覚がおかしいのである。

 

そのホテルは石造りの門のアーチにも、壁にも蔓状のオレンジの花が巻き付いて咲き乱れている。あの花はなんていうのかと聞いたら、「コジャール デ レイナ」、つまり「女王の首飾り」という名だそうだ。それを教えてくれたロランドに、ははは、じゃ、あれは私のネックレスだ、といったら、以後彼は私のことを “陛下”と呼ぶようになった。エルサルバドルにいたときからきれいだと思っていた、懐かしい花だ。あれを今度、絵に描こうと思って写真に収めた。

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女王の首飾り

 

夕方また買い物に出た。歯がだいぶなくなった白髪のおばあさんが、一つの店を番していた。すばらしい布地をおいてあるのを見つけて、入ってみた。店の名前はカタリナというので、そのおばあさんはカタリナというのだと思い、後で名前が違うことがわかっても、もうカタリナしか思い出せない。

 

この地方の衣装は、男女ともにまるで刺繍のような織り方をした衣装を着けている。模様は鳥や魚が多い。この地方はひとつの大きなアテイトラン湖という湖を取り囲んでいて、自然の動植物に恵まれている。それらが男女とも身につける衣装の中に織り込まれているのだ。男物のズボンのすそ模様にも、見事な花鳥風月が織り込まれていて、それはそれは神秘的なズボンである。ほしかった。どこかの市場で違う地方のものを買ったが、ここの織物は尋常ではない。

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これは買ってから自分用に仕立て直したもの。もともとは男子のズボン。

 

しかも、このカタリナばあさんの作ったものはほかの店で見られないほど精巧である。値段を聞いたら1200ドルだといわれて腰を抜かした。いくらなんでも高すぎる。今そんなお金持っていないといったら、メールアドレス教えるから、ネットで販売可能だよという。100歳は勇に越しているインデイオの婆さんである。この人がメールなんかできるのかいな。後で、或る家を覗いたら、石器時代に毛が生えたような石臼のあるそばで、パソコンやっていた小父さんを見て、やっぱり、あのカタリナばあさんはメールができるんだと、思い出して納得した。

 

そこの店で、2枚ばかり手ごろな値段のものを買って出た。ズボンは買わなかった。1200ドルの花鳥風月がちりばめてあるズボンなんて、はくことも売ることもできない。すごい高級なものを見たというだけであきらめよう。

 

そう思って歩いていたら、Aさんと、タコスを一緒に食べたNさんに会った。Nさんはやっぱり花鳥風月のズボンを探していた。何度かグアテマラには来たことがあって、それを目指してきたんだという。カタリナばあさんの店より前に入った店に、1000ケッツアル(グアテマラのお金の単位:1万7千円ぐらい)で売っていたのを思い出して、案内した。Nさんはそれがすっかり気に入って、値段の交渉に出た。800ケッツアルまで下げて交渉成立し、それを持って歩いて帰ろうとしたら、一人のおばあさんが追いかけてきた。

 

そのズボンは自分が5ヶ月もかけて織ったのだ、1000なら売るけど、800じゃ売れない、お金は返すからズボンは返してくれとせがんでくる。自分はあなたから買ったんじゃない、店の主人から買ったんだし、交渉は成立したんだから、今からそんな話に応じられない。そう私が通訳したら、おばあさんはほとんど泣きながら追いかけてきた。Aさんがこういうのは言葉がわからない振りしていればいいんだという。Nさんは足が悪いから早く歩けない。それを引っ張るようにして、ホテルまで逃げ込んだ。おばあさんはホテルの入り口に立って、大声で、叫んでいる。

 

後味が悪かったけど、芸術的なズボンだから、きっと作者は売るのが惜しかったのだろう。一度交渉が成立して買ったものなので、もっとお金がほしいと後から別の人に言われてもいちいち付き合っていられない。作者にとって売るのが惜しいほどのズボンだとわかったら、買ったものは案外うれしい。Nさんは喜んでいた。

 

Aさんに、後でカタリナばあさんのことを言った。彼女はカタリナばあさんを知っていて、なんだか悔しそうに変なことをいう。「あのばあさんのことは誰にも紹介するつもりはなかった、自分にとっては取っておきの人物だから、彼女の芸術は自分だけで鑑賞しようと思っていた。もう見つけてしまうなんて、目がいいな。」などという。「すごく値が高かったよ」といったら、「あのばあさんは国宝級のばあさんだから、彼女のものはそれだけの価値がある、値下げなんかしないだろう、売れなくたって、かまわないと思っている誇り高い人だ」ということだった。ほとんど失明していて、それでも織り続けているそうだ。そうか、この国にはそれだけ誇りを持っているばあさんがまだいるのか。すこしうれしかった。

 

彼女の作品は、少し安いのを2枚買って持っていた。そうか、あのばあさん、国宝級か。100を越してもパソコン扱えるだけあるな。スペイン語も、文字もこの国の先住民の平均の年齢からして、できるはずがないのにこなしている。すごい人の作品を買ったんだ。そのことがなんだか愉快だった。 

 

「山の中の温泉」

 

ホテルの私たちの部屋は、パテオ(中庭)に面していて、そのパテオに無花果の木があった。見たら熟している実がいくつかある。ツアーで旅をしていると、みんなとつき合わされて何も自分の好きなものが食べられないので、果物に飢えていた。私は誰もいないのを確かめて、それを3つばかりとった。私はイブ(旧約聖書の創世記にある楽園の禁断の木の実を食べた人祖)の子孫だから、きちんとイブの性格を受け継いでいる。私が先に一つ食べておいて、Aさんが来たら、ほら、ひとつ盗んでおいてあげたよ、といって、初めてそこで二人で食べたように見せかけた。

 

無花果は採りたてがうまいことを、私は自分の生家の庭にあった無花果と、後で大きくなってから店で買った無花果の味の違いで知っていた。それで、次の朝になったらもう一つ二つが食べごろになるだろうことも見定めておいた。Aさんも無花果が好きだ。明日食べごろだからまた採ろうね、とかいってどれがよさそうかを教えておいた。イブも共犯者をちゃんと用意しておいたのだから、子孫として、私も同じことをやったまでである。

 

次の朝、私はうっかり記録するの忘れて、場所の名前を忘れてしまったけれど、山の中の温泉に行く。この日のために、Aさんはメールで水着を忘れるなと念を押していた。私はもう10年ぐらい使っていない水着を持っていった。

 

私はもともと水泳ができない。教師時代に生徒の水泳の監視員をやらされたとき、いくら何でもと思って、後輩の若い先生からはじめて水泳を習ったが、バタ足で息継ぎなしに20メートルぐらい進むことができるようになっただけである。その後娘には水泳を習わせたいと思って、プールにつれていったから、付き合いでやってみたが、この年で息継ぎなしでバタ足で20メートル進むということがなんだかものすごいことらしく、じろじろ珍しそうな視線にあって恥ずかしくなって遠のいているうち、以後、水着を使うチャンスがなかった。

 

私は朝二人でとった無花果と、ここにくる途中の市場で見つけたグラナデイージャと、縞縞の水着を持って温泉旅行に出た。Aさんは自分でみんなに水着を忘れないようにと念を押しておきながら自分が忘れて、市場で適当な短パンを買って何とかしのごうというつもりらしい。素っ裸では入れてくれないから、何でも着ていればいいのだろう。

 

異国の温泉なんて行ったことないからどういうものかわからないけど、仲間のみんなはものすごいことを想像している。芋洗いで、どろどろの水で、しかも混浴で…。それもそのはず、前の日に見学した洗濯場というところが、温泉なのに魚がうようよ泳いでいて、そばで半裸のおばさんが洗濯をしていて、石鹸の水やアオミドロやらが混在する中に、子供が泳いでいたりしたのだ。みんなあれと同じところかと思って、はじめから敬遠して、水着さえ持っていかなかった。

 

しかしその日の旅ははじめからあたりはどこを見ても景勝地で、バスの外の景色も楽しめた。途中からは靄が立ち込め、硫黄の匂い、懐かしい温泉の匂いがしてくる。靄の中の景色は絶景である。

 

そそり立つ岩屋の中にその温泉はあった。天の岩戸の中みたいである。着替えが面倒だからはじめから水着を着込んできたので、すぐにその岩戸温泉の中に入る。総勢12人の中で、入ったのは4人だけだった。魚もアオミドロも石鹸水もなくて、水は澄んでいて天下の絶景を見ながらの温泉は気持ちがよかった。水着を着ているのだから、混浴は気にならないし、中で隣の人とまたおしゃべりしたりするのも楽しい。子供が泳いでいる。ちょっと魚が泳いでいるところで一緒にお風呂なんて言うことを想像して楽しみにしていたけれど、泳いでいるのは子供だけだった。

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グアテマラを旅行はじめてから、シャワーはあったけれど、一度も湯船につかったことがなかったので、風呂好きの大和民族としては、この上ない極楽気分だった。

 

「サンテイアーゴ アテイトラン」 1

 

サンテイアーゴ アテイトランという村は、パナハッチェルの向こう岸にある村である。頭に真っ赤な長いテープのような紐をぐるぐると巻いて、一番最後に美しい刺繍の模様が出てくるような、一見帽子のような珍しい特徴のある髪飾りをつけている。この地方の民族衣装を特に私は好んでいて、よく絵の題材にしている。この記録の中の写真集にも2,3載せたが、昔はおばあさんも子供も日常的にこのような頭をしていた。

 

ウイピルは案外質素で襟の回りにだけアテイトラン湖を表したというワインレッドの飾りがあって、白いウイピルはワインレッドの格子縞であまり装飾がない。コルテと呼ばれる巻きスカートは紺とかグレーとかで頭髪の飾り以外は押さえた柄だから、上品である。しかしあの頭髪の飾りをつけた群集を見ると、その赤の色に圧倒される。私はその民族衣装の群れに会いたくてかなり楽しみにしていた。

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其村まで、ほかに交通機関がないので、船で渡る。私はこの村に新婚旅行以来来ていない。26年ぶりでうれしくて胸はときめく。波は穏やかで、景色がよくて、心から旅を楽しめた。火山の中の湖だから、湖の一部にも温泉になっているところがある。Aさんが飛び込もうといってみんなを誘ったが、手を上げた人はいなかった。私も湖なら泳げないから怖かったから、手を上げなかった。救命胴着があるよといわれたが、やっぱりそんなものつけてまで泳ぐというのも気が引けた。グアテマラの国旗のデザインにもなっている山々を背景に岸辺では女性たちが洗濯をしている。私はこの国を昔旅したとき、この洗濯風景を、桃太郎のおばあさんの洗濯機と呼んでいた。のどかである。

 

2時間ぐらいの遊覧で湖畔の宿についた。其村に似つかわしくない、特別豪勢なホテルが、一軒だけあって、なぜこの村に、この一軒だけがホテル業を営んでいられるのだろうと、解説しているAさんも不思議な面持ちだった。ホテルの持ち主は外国人である。大方金持ちの白人が、余生を送るためにこの村の土地を大地主から買ったのだろう、怪しい気持ちで、そのホテルに入る。何しろこの構図はこの国の問題の大元だからすぐに察しがつく。この国のホテルには宿泊客も含めて外国人しかいない。60%の人口を占める先住民は、生まれてから死ぬまで、人生を楽しむ権利は持っていない。

 

懐かしい植物があった。エルサルバドルグアテマラより南だし、低地だから、南国の植物が多いが、グアテマラは標高富士山級の高地に都市があるから、植物が違う。エルサルバドルでは見たこともないびわなどが市場で売られていたので驚いた。しかし高地でもこの村は火山地帯で温泉にも恵まれているせいか暖かいのだ。ホテルの庭に、バナナがなっていた。

 

ここなら私が探していたもうひとつの果物、マラニョンが見つかるかなあ、と思ったが、これは旅の最後まで見つけられなかった。マラニョンは、カシューナッツと呼ばれるナッツの花柄(かへい)である。写真集にも絵を載せておいたが、オレンジ色のピーマンのような形の先にたった一つナッツがなる。そのピーマンのような形のところが、花柄の変形したもので、渋いような、甘いような、いがらっぽいような(いがらっぽいという言葉通じるだろうか。のどを刺激するような奇妙な感じである)独特の味をしている。

 

私がこの植物にこだわるのは、昔エルサルバドルでこの植物を見たとき、一本の木に春夏秋冬が全部一遍に見られて、感動した覚えがあったからだ。東に新芽、南に花、西に実がなり、北に紅葉が眺められる一本の木。南国の象徴だった。日本に帰ってきて何度かこの枝を絵に描いて、「春秋一枝」となずけて売ったら、描いても描いても全部売れた。だから、もう一度あれの生きた姿を見てみたいと思ったのだ。しかし、この植物だけは見られなかったので、後でロランドに聞いたら、太平洋岸でないと見られないよといっていた。

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ホテルの部屋割りをまた決めて、私はまたAさんと今度は背高さんも一緒で3人部屋になった。その3つのベッドがものすごく差がある。頭上に岩みたいな出っ張りがある、ものすごく大きなベッドと後の二つは普通より小さいベッドである。3匹の熊のベッドみたいだ。大きい方は私の背丈ではよじ登らなければならない。背高さんは背が高いから、ふさわしいと思ったら、どうせ起きるとき頭の上にせせり出た、あの岩に頭をぶつけるからいやだというし、Aさんは落ちるからいやだといって、それで、私がそのものすごいベッドに寝ることになった。私が立つと肩までの高さである。掛け声をかけてよじ登る。案外スリルがあるベッドだ。でも、ベッドなんかで毎晩スリルを味わうのって、なんかおかしい。

 

次の日は二手に分かれることになった。山の上に遺跡があって、まだ知られていない場所だから、ちょっと探せば、いろいろ石器などを採取できるかもしれないという。健脚な人はそちらに登ればいいし、歴史に興味ない人は村にいろいろ見学するところがあるから村を歩き回るという。Aさんはこの村の人々ととりわけ深く付き合っているらしい。私は考古学が好きだから山にしたいという気もあったけれど、内戦の中で、いろいろ問題のあった村だから、Aさんにくっついていく方が自分の今回の旅の目的にかなっているだろうと思って、村のほうを歩くことに決めた。

 

話は前後するが、前の日の夕方、Aさんの案内でほんの少し村を歩いた。私が期待していた真っ赤な巻きテープの髪飾りはまったく一人も見かけなかった。あの赤い髪飾りのない村は寂れていて、なんだか取り付く島もない感じがした。

 

Aさんはある小さな家を探してもぐりこんだ。その小さな雨漏りしそうなぼろ屋には、一人の年老いた女性がいた。愛子さんの顔を見た途端に、老女は飛んできて 「アーイ、イハ ミア」といって抱擁をした。友達をつれてきたと聞いて、椅子をすすめ、大げさな身振りで、しかも泣きそうな顔をして、Aさんは私の長女なんだ、といった。とても大切な人のことを、スペイン語圏の人はこう表現する。

 

それ以来の知己らしい。外国人と結婚していたドローレスという娘が、内戦の嵐の中で、夫が投獄され、危ういところで一命を取り留め、国外に追放になった。その後彼女は夫を追って、身重の体で難民になり、アメリカに渡ってから苦労したという話を手短に話してくれた。 

 

彼女はアメリカにいた間、一度も民族衣装を脱がなかった、先住民としての誇りをもっていきぬいたのだそうだ。ジーンズとテイーシャツの国アメリカで、あの赤い髪飾りをつけて歩くということがどういうことかを考えた。それほどにこの民族衣装が持つ意味は深くて複雑なものなのだ。世はグローバライゼイションがすすみ、地球はすべて英語文化の中に飲み込まれようとしているとき、自分が自分であることを、誰の支配も受けない民族であることを、かくも強烈に表現しなければならないということに、滅び行く民族の悲しさを、ここでもまた見なければならなかった。

 

そのドローレスは、アメリカ人の夫と離婚して、成人した二人の息子をアメリカにおいて、今は故郷の村に帰ってきているが、そこで再婚して男の子が一人いるという。帰国してからはその子が障害となって、アメリカのヴィザがおりないから、大きい息子たちとは生き別れだそうだ。

 

私はアメリカという国のやり方をよく知っている。昔エルサルバドルにいた時、夫を殺害されたエルサルバドル人の友達が、アメリカに渡ろうとしたとき、4人の子供のうちの、赤ん坊の娘にだけヴィザを下ろさなかった。それは本当は母親を入れないためである。

 

ドローレスは、一度難民となって国外に出て、艱難辛苦の末故郷に戻り、英語とスペイン語と彼らの故郷の部族の言葉であるツトウヒル語の3カ国語をこなす結果となったため、識字率の低い故郷に住めば、誰からも浮いた知識階級のようになり、一人離れた存在になって、彼女の生活はやっぱり平和ではないらしい。

 

ドローレスが来たら連絡するようにいってほしいと、Aさんは彼女を長女だといって再会を喜んでいた老女に話し、その日はそれで別れた。

 

それからAさんはこの村のキリスト教伝来以前からの神様であるマシモンと言う名の神様の鎮座する場所につれていった。

 

マシモンというのはとうもろこしの神様だそうだ。とうもろこしはこの民族の主食で、トルテイージャ(タコスの原料と同じだが、グアテマラのものはタコスより皮が厚く、エルサルバドルのものはもっと分厚く作る)という丸い焼きパンはとうもろこしが原料である。で、そのマシモンはこの部族にかなり熱烈に愛されている神様で、その人気はどうもキリストをしのぐらしい。殿堂とは名ばかりの普通のうちで、庭にビニールのひらひらした飾り―この国の神様のまたは怪しげな宗教の関係あるところには必ず見られる―日本で言えば神道の幣(ぬさ)に相当するものがちょうどクリスマスの天井飾りみたいに張り巡らされている。薄暗い中にその神様はいて、回りを4,5人の普通の男が守っている。あまり神官らしくない。

 

マシモンは、とうもろこしの芯でできたパイプをくわえ、帽子をかぶった木彫りの人形で、たくさんの民族衣装を持っていて、いつも着替えをするのもこの神官の役割だそうだ。いつもこの神官4,5人に守られているが、場所は毎年移動する。妙なことにそこにはキリスト教の聖人たちの像も並んでいて、キリストの等身大の像も、十字架からおろされた姿で横たわっている。カトリック教会はこのマシモンだけは教会に入れてくれないのでマシモン教のほうが、キリストごとこちらの殿堂に持ってきて、いっしょに拝んでいるらしい。わけのわからない宗教だ。

 

昔私がスペイン旅行をして、心からその大げさな行列に驚いた聖週間(キリストが逮捕されて拷問を受けて処刑され、その後3日目に復活するまでの一週間)の行列の風習を、スペイン人はここにも持ち込んだらしいが、その行列はグアテマラ流儀に変化していて、キリストの像の後ろにこのマシモン神も紛れ込んでいるらしい。

 

Aさんの説明によると、このマシモン神の紛れ込み方がまた意味深く、必ずキリストの等身大の像の後ろにいて、ちょろちょろキリストの後ろから顔を出しながら、「おいらが主役だよ、ヒヒヒ」みたいに見え隠れして、行列が終わると飛ぶように姿を消して、いつもと違う御座所に逃げ込むのだそうだ。滑稽な説明の仕方をするから滑稽なのだけれど、やっぱりエルサルバドルにきたはじめのころ感じたように、グアテマラにおいてもカトリックはおどろおどろしい宗教のように変形させられているようだ。

 

数日前に見た教会も、なんだかジャガーにのっとられていたみたいだし、聖週間の行列に別の神様が紛れ込むというのもすごいことだ。スペインのカトリックは八百万(やおよろず)のマリア様がいて、ここグアテマラカトリックは八百万の聖人を抱えているが、それらは元グアテマラの先住民の神様がスペイン風に改名して教会に入っているらしい。たとえば、ここの地名、サンテイアーゴ アテイトランのサンテイアーゴは、ヤコブ、つまりキリストの弟子と伝えられる聖人の名前だが、これはその地方の守り神になっているし、アテイトラン湖の守り神の名前はマリアである。

 

次の朝、ホテルにドローレスがやってきた。小さな子供を一人連れている。デイエゴという名だ。デイエゴはサンテイアーゴのことだから、この地方の男は誰に名前を聞いても全部デイエゴだ。Aさんは喜んで、彼女に村の案内を頼んだ。まあ、彼女としては重複しても、内戦の生き証人を案内役に頼むほうが、面白いことが聞けると思ったのだろう。

 

ホテルから数百メートル離れたところに記念碑があるというので、まずそこに歩いていくことになった。Aさんという人はふらふらと歩くうち、気が変わってひょいと行く先を変更したりする人なので、何の記念碑に案内されるやらわからなかった。この日も歩いていたら、あ、そうだ、とか言ってある家にもぐりこんだ。ここのうちには機織の名人がいるんだそうだ。Buenos diasといって入っていったら、ここでもAさんはとてもうれしそうに歓迎を受けて、さて、機織の見学しようという。簡単な機織の道具で、若い女も男も機を織っている。

 

はじめのころ織物の実習をしたときの道具よりもう少し進化している。でも道具の進化というものはあまり技術と関係ない。私は昔持っていた足ミシンを人に上げて、主人がプレゼントとして買ってくれたコンピューターのミシンを持っているが使いこなせなくて、ほとんど裁縫を止めてしまった。むしろ母が昭和4年満州で買った、シンガーミシンの先祖みたいな手ミシンのほうが、使いやすい。とか何とか考えながら、私はその家の農場にあったバナナの枝の写真をとった。

 

それからまた、のろのろと歩いていくうち、Aさんは少し開けたところに歩を止めてみんなに言った。「ここが、この村の受難のきっかけとなった、虐殺の記念碑です。」話がすごく唐突なのである。はじめから何の記念碑に案内するとは言わなかった。そこに13の十字架と、碑文を書いた記念碑と、大統領のサイン入りのもうひとつの碑文があった。

 

それは1990年12月のことだった。この村をゲリラの支配から守るという名目で駐留していた軍隊は、村人に対して略奪、暴力、強姦などのあらゆる残虐行為を繰り返していた。彼らは山で仕事をする村人が、少しでも仕事の関係で規定の時間より長くいたり、弁当のトルテイージャを規定以上の枚数持っていたりすると、ゲリラを助けるという言いがかりをつけて拷問その他の残虐行為をやりたいほうだいやったのだ。そのことを憂慮し、何とか改善をしたいと思って、駐屯している軍隊に抗議をしようと考えて、早朝教会の鐘を合図に、集まった。

 

教会前の広場に1万人、村外れの駐屯地前には3,4千人の人々が、村の長老たちの呼びかけで集まった。白旗を掲げ、市民の先頭に立った市長が、軍隊に向かってブエノス デイアス セニョーレス,と呼びかけた時、銃弾が雨あられと降り、23人が負傷し、子供を含めた13人が死亡した。その死亡は、不思議なことに長老のみた夢と合致していたので、彼らはひるまず抗議を続け、ついに一ヶ月後、軍隊は撤退を余儀なくされた。

 

(一部;MANN,MESSE’93冬号、「マヤ――生き延びる末裔たち」取材:小林愛子、文:寺川潔、写真:デニス パット グレイ、より引用)

 

此村が唯一13人の犠牲の上に立って、村人が団結して軍隊を追い出すことに成功した村であり、大統領から今後一切軍隊を派遣しないという約束を文書で持って勝ち取った村だそうだ。その記念碑は13人の犠牲者が倒れた場所に一つ一つ立てられ、大統領のサイン入の文書が記念碑に刻まれている。

 

しかしこの村人にとっては誇りあるはずの記念碑の十字架を見ると、一部自然とは思われない破壊の後があり、ささげられた花も横に捨ててあって、灰のようなものがそここに見られたことから、私はこの闘争はまだ過去のものとはなっていないことを感じた。写真を撮っていたら、ドローレスは、危険だからやめるように、Aさんにそっと注意をして、すぐにその地を離れることとなった。ただし、写真は私は撮った後だったし、その写真はアメリカで現像して今ここに持っている。

 

それから私たちはドローレスの案内である教会を訪れた。この教会の鐘を合図に村人が集まったために悲劇が起きたという教会である。そこには一人のカナダ人の司祭が葬られている。村人の味方となって軍の標的にされ暗殺されたカトリックの司祭である。

 

この時代のラテンアメリカカトリック教会の司祭たちの働きを語るには、ラテンアメリカの貧しい農民たちのために立ち上がったカトリック司祭たちの提唱する「開放の神学」について述べなければならないけれど、これについてはまた別の章を設けて詳しく取り扱いたいので、ここでは多くのカトリック司祭が、貧民を助けたかどで投獄され殺されていったという歴史があったことだけ述べておこう。

 

同時にこのこととは直接関係ないがアメリカの言語学者であるノーム チョムスキーの講演集「ノーム チョムスキー」(鶴見俊輔監修)にも、アメリカがこの時代標的にしたのは、これらの「開放の神学」を掲げるカトリック教会であったこと、その熱心な提唱者であったエルサルバドル大司教を暗殺し、6人のイエズス会師を殺して、この「解放の神学」を粉砕することにアメリカは成功をしたことがかかれているので紹介しておこう。

 

グアテマラを旅行してカトリック教会を外観から見る限り、この宗教はなんともおどろおどろしい宗教に見えるが、私が知る限り当時のカトリック司祭たちは、純粋に信仰の徒であって、キリストの精神を生きていた。あれほど身をとして貧しい人々の心を支え、貧しい人々の側に立って勇気をもって権力に立ち向かった人々を、私はほかのどんな国においても見ることはなかった。私はおどろおどろしい外観を持ったカトリック教会には辟易しているけれど、あの時代を生きて、信仰に生きた勇気ある彼らと同じ空気を吸っていたことを心から誇りに思っている。

 

その晩、Aさんはドローレスをホテルの夕食に招いた。その後、内戦時代に取材したヴィデオをみなでいっしょに見ましょうということになった。個人的に質問しても差し支えないだろうかと聞いたら、快く承諾してくれた。私にはまだ、なぜこの村の先住民が軍隊の標的になり、なぜ難民になり、なぜ民族衣装を脱ぎ捨てなければならなかったのか、彼女の口から解説なしでききたかった。それで私は夕食の席をわざわざドローレスの隣に陣取った。 

 

ところが彼女は夕食に、2度目の若いご主人も連れてきたので、内戦で難民になった頃は初めのご主人の後を追ったはずだと思って、聞きにくいなあと思った。しかし後で気がついたが、彼女の夫はスペイン語も文字も知らなかった。

 

8歳という年齢より幼く見える息子は、ホテルに備えられている本にすごく興味を持っていて、棚に置いてある本を片端からとってきてページをめくっていた。どうも文字が読めるらしい。この家族の環境が3人ばらばらなのに私は興味を持った。3カ国語を解する難民体験を持つ40代の母親と、部族の言葉しかできない20代の父親と、学校教育を受けているらしい8歳の息子。

 

それはまさにこの国の先住民の歴史を語る生きた歴史の教科書そのものだ。何も質問しなくたって、考えを深めれば、それだけでいろいろなことがわかる。彼女の元夫はアメリカ国籍を持ったカナダインデイアンだということだし、成人した二人の息子とは生き別れで、会いに行くこともかなわないということなのだ。

 

でもせっかく隣に席を取ったからちょっと近づきになろうと思った。それで私は、こういう場合、一番いいと思われる話題を提供した。

 

「自分の夫はエルサルバドル人で、1984年に難民になって、家族3人で日本に流れついた。今は日本国籍を取って日本で暮らしている。」

 

案の定、彼女は話題に乗ってきた。そしてよどみなく自分の波乱万丈の生涯を話し始めた。

 

夫はマヤの文化に魅かれてこの村に居着いて、祈祷医となった。現代語に治せばカウンセラーだそうだ。ツトゥヒル語を解し、薬草の知識を持ち、霊媒師として神に祈ることができる。そうやって村人の心に入っていって、村人とともに集会などを設けていたため、支配者階級の知らない言語を操る夫は人々を先導して反乱を起こす企みをしていると疑われたため、軍の標的になったという。

 

はじめの犠牲者が、どういう状況で犠牲者になったのかを聞いてみたが、彼女は答えられなかった。軍隊は何でも言いがかりをつけてはやってきて、そこにいたものを引っ張っていき、生きたまま焼き殺したり、拷問で瀕死のものを山に放置してそれをおとりに、やってきた家族や村のものを無差別に殺すという暴挙に出た、というはなしばかりで、どうして軍が村人を標的にしたかの真相はとうとう聞けなかった。何でもいいから先住民は殺すという理由しかなかったからだろう。そのことを先住民自身に聞いても、理由などあろうはずもない。

 

両親を軍隊に殺され、弟は餓死し、農場で働いていた兄は農薬中毒で死んだりした挙句、自分も危険を脱して、メキシコに逃れ、そこで国連の先住民の権利回復運動に参加して、ついにはノーベル平和賞を獲得した、リゴベルタ メンチュウの存在は、ただひたすらに受身だった先住民にとって、大きな励みであったことは、想像がつくことだ。

 

先に引用した文はこう締めくくっている。

 

アメリカ大陸の国々が、コロンブス500年祭に浮かれた1992年。大陸全土で抵抗の500年を生き延びてきた先住民たちが、ニカラグアマナグアで一堂に会した。」「虐殺、占領が始まって500年。土地が奪われ、資源が不条理、かつ無残にはぎとられ、労働が搾取され始めて500年。大陸の不毛の地に追いやられて、生死の境をさまようこと500年。」慟哭ともいえる宣言文が続く。だが、その同じ宣言文の中で彼らは、誇りに満ちてこうも言い放っていた。「500年の後、われわれはここにいる!」

 

ドローレスの物語を聞いて、ヴィデオを見た後、朝のうちに頼んでおいたこの村のあの赤い髪飾りを、つけて見せてくれることになった。はじめ、テープの先端を長い髪に巻き込んで、それから頭の周りをぐるぐる巻いて、懐かしい見事な紛れもないツトウヒル族の女性になった。ああ、これだこれだと思って、私は写真に撮った。これをつけていることが危険ではなくなったら、また元通りつけるようになるよ、と彼女は慰めるようにいった。しかし彼女はその髪飾りを、請われるままに背高さんに売ってしまった。

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「サンテイアーゴ アテイトラン」2

 

あまりたくさんいろいろな話を聞き、いろいろは人物にあったから、話の正確な日付は記憶していないが、Aさんは背高さんと私だけ誘って、これまた極め付きの変な場所につれていった。

 

マヤ教+カトリックの混合教の霊媒師(これ、神父さんじゃないっすよ)みたいなのがこの村に住んでいて、その男は、夢を見て先行きを判断したりする男だそうだ。彼女がくることも知らせていないが、きっともう知っていて迎えにくるだろうとかいっていた。きらきらした星がついているみたいな目をしていて、マヤの怪しげな洞窟を守っているとか。

 

ところでその男は、Aさんが言った通り我々が到着したとたんにどこからともなくのこのこ歩いてきて、路上で挨拶を交わしたが、外見に本当に特徴のある男だった。背が低く、民族衣装を着けて、にいこにいこしながら妖気を発散させている。手を祈るように前に組んで、Aさんを見上げていかにも親密な雰囲気を持って話をする。もう1000年も前からAさんが来ることを知っていたみたいなことを言っている。目がきらきら潤んでいる。なんだかぞくっとするような雰囲気をかもし出していた。私も紹介されて握手したが、背丈に似合わず大きな手は分厚くて暖かかった。その温みは私には気味悪かった。

 

しかし私はその怪しげな洞窟を見たかった。Aさんによると、その洞窟は山の上にあって、風が中に吹き込むのでなくて、風が中から吹いてくるのだそうだ。ただちょっと心配だったのは、この手の神懸った人物が不思議な洞窟などといってなんか神様の降りてくる場所と考えている所は、ウランのような危険な鉱物があって、発する怪しい光を神様や悪魔の技みたいに考えているかもしれないことだ。その男の風体も、目の光も、どうも私には或る受け入れがたい雰囲気を持っていたが、私にはその正体はわからなかった。あるいは私のほうにこの手の人間の危険性を感じ取る感性があるのかもしれない。

 

でも私は彼にある種の不思議な能力があることを別に疑いはしなかった。自然と一体となっていつも自然と対話して生きている民族には、時として現代人には失せてしまった能力が残っているものだ。先に紹介したサンテイアーゴ アテイトランの犠牲者の中に13歳のへロニモという少年がいたが、彼の母親は息子の死をあらかじめ夢で見ていた。彼が殺されたのは、その夢を見てから10日後だったそうだ。ドローレスにも夢判断をする能力があるという。 

 

エノクの父は自分の居場所を教えてもいないのにいつも知っていて、今日は息子が帰るといっては、車の運転ができる、わけのわからない面持ちをしている別の息子に運転させて、空港にエノクを迎え出ていたりする。私は内戦の時代、地方に出張したエノクの帰宅が遅いと、どこかで殺されているのではないかと考えて、ものすごく気をもんでいたが、問い合わせて父が安定しているのを感じると、ああ、まだエノクは元気でいるのだなと思って安心したものだ。

 

疑い深い読者が何を思っているかわかるが、各家庭に電話があるのが当たり前の世界ではなかったし、私たちは両親とは別の街に住んでいて、エノクの出張は、国境近くのゲリラの出没する山に近い発電所だった。そこから首都にあった自宅までは、車で4時間かかり、その間に電話(携帯なんかとんでもない時代です)はまったくないばかりでなく、ほかに連絡の手段があるわけではなかった。

 

ハイウェイを装甲車が前触れもなく横切ることが普通の時代だったから、特にゲリラの出没する地域に出張に行っているエノクが、どこかで死んでいても不思議はなかったし、それを家族に知らせるような組織ではなかったから、でかけるときはいつも、どちらもある覚悟をしていたのだ。(エノクが教授をしていた国立大学は、そのころすでに、軍隊に占拠されて、職を失った彼は電電公社に勤め、国境近くの発電所によく出張していたのである。)その時代に父は、息子の安否を知る能力があったのは、私が彼の平和な顔から感じたという証言以外にないが、決してこれは普通のことや偶然のことではない。あの内戦はハイテク兵器で原始宗教の民族を根絶やしにする戦争だったといってもいい。

 

で、そのデイエゴという神懸りおじさんの洞窟に案内してもらおうと思っていたら、なんだかAさんは複雑な面持ちで、「う~~~~ん、彼とあまり付き合うとこちらが妙な方向に引きずり込まれちゃいそうで、ちょっと避けているんだ…」みたいなことを言い出した。でも、いちおうデイエゴに案内を頼んだら、どっこい彼は別のところに案内したいという。

 

あの山は険しくて遠いから時間がないんだとかいって、逃げている。なんとなく、私をそこに案内したくないようにも思える。そしてその別の場所とかに気合を入れていて、目玉をきらきらさせながら、Aさんに説明している。私はその様子を見ていて、マヤの洞窟じゃないのなら私は降りようと思った。なんだか知らないけど、マリア様が現れたとかいう場所に案内するといい始めたのだ。私はこの手のものが苦手である。

 

マリア様という人は世界中に出現する癖があって、日本の岩手県のどこかの修道院にも涙や血を流す聖母像があるとかで騒いでいた神父さんを知っているが、実はその神父さんを個人的にあまりよく知っているので、気持ち悪いのだ。うそとか本当とかの判断は差し控えるが、とにかく苦手な話である。

 

しかし二人は面白がっていて、行くつもりで、次の朝の案内を、デイエゴは約束して宿に帰った。

 

デイエゴという人は、マヤの宗教の霊媒師も兼ねているから癒しのマッサージとか言うものをやるらしい。夢に現(うつつ)にその夜、私はAさんの話を聞いていた。

 

何でも、ある知り合いの日本人女性が、彼に案内されて歩いているうちに、恋愛状態に陥ってしまって、(この状態に催眠をかけたのも、デイエゴだとAさんは言うが)、その人はデイエゴにくっついて回った挙句、デイエゴのマッサージを受けることになったそうな。それで、彼女も同席してもいいかといったら、いいというので、同席しているうちに自分は催眠術にあったように眠ってしまった。ふとおきたら、ものすごい光景を見た、と彼女は言っている。

 

私は何が起きたか、およその見当はついたが、Aさんは決定的なことは避けているのか、知らないのか、とにかく、話を濁して、彼とあまり同席すると、自分に妙なのが向いてきそうで、怖いといっている。自然宗教の中の癒しの方法には、性的なものがつき物だから、おおかた、神の霊がデイエゴに降りてきて、神がその女性と交わったことにでもなっているのだろう。Divine matrimonyというやつだ。私は日本中を震撼とさせたオウムの麻原教団を思い浮かべながら、教祖を取り巻く女性たちの手記などを思い起こしていた。

 

二人はすごく朗らかに、あまり何も考えずに、この神懸りおじさんと、マリア様の現れたとかいう場所にいこうといっている。Aさんはともかくとして、もう一人は若いし、背丈がデイエゴの1,5倍はあるけど、でもまずいぞ、と私は思った。いったい何処に行こうというのだ。私は先住民の側に立って、共産主義者のレッテルを貼られて殺害された、カナダ人の神父さんの遺体の収められている教会の階段の下で、背高さんを相手に、マリア様出現の話をしながら、恍惚としていたデイエゴをほうっておいて、教会の中に入ってしまったから、話の内容は最後まで聞いていなかった。

 

次の朝私はあまり気分がよくなかったが、彼女たちと行動を共にすることにした。どうせ他にすることもなかったし、気がかりだったから。

 

この国の庶民の間にごく当たり前の交通手段であるピックアップトラックが、山で働く人を乗せて、その目的地のほうまで行くというので、われわれはそのトラックに便乗した。荷台に幌の枠組みだけみたいのがあって、それにつかまって人は立って乗る。もろに風を受けて寒い。座りたければ、隅の方に蹲っていてもいいのだが、たくさん乗るためには立っている方がいい。風にあおられてつかまっているのもかなり大変だ。

 

 

でも、こういう体験はほかのどこの国でもできないし、案外面白いとも言える。あたりは険しい山の中で、ほとんど人がとおらない。たまに薪を運ぶ人に会う。朝薪を山で切ってきて、町で売るのかもしれない。薪の束は人間より大きい。原住民の仕事といえば、こういう重労働しかない。風に抗して立っているので、少し疲れてしゃがんでみたが、今度は車のゆれで、酔って気持ちが悪くなった。

 

ふらふらしていると、車はでこぼこの山道をさらに登って、もう、まったく人っ子一人いない、切り開かれてもいなさそうなところに来て止まった。車酔いも手伝って、いよいよ気味が悪い。私はデイエゴを信じていない。おいおい、いったい何する気だよ、みたいな顔をして、デイエゴの後を背の高い葦みたいに茂った草の間を縫うように、手で押し分け押し分け奥へ奥へと登っていく。

 

するとそこに、見覚えのある、ビニールのひらひらが張り巡らされた場所に出てきた。このビニールのひらひら(多分、ビニールができる前は紙か布でできた神様の拠りしろだったのだろう)ほど、情けなく怪しいものはない。この美しい自然に恵まれた大地で、自分たちの先祖伝来の神々をまつることが許されない彼らの、もともとの宗教を捨てさせられた結果、かくも醜いものを彼らのよりどころにしているのは悲しい。正月の注連飾りがビニールで作られたら、きっとこんな気持ちにさせられるだろう。

 

それに、このビニールが、マリア様の出現とどういう関係があるのかと考えたら、怪しくて気分悪くて、我慢できない。しばらくして急な勾配を上ったら、山の上にコンクリートの社が立っていて、上る階段があった。ビニールがなおのこと激しくびらびらとそこいら一体を泳いでいる。社の中に、なんだか見覚えのある姿をした粗末なマリア像が立っている。白くて空色の帯をしたやつ。足元に蛇がいるあのありふれたマリア像。

 

イザヤだったかなんだったか忘れたが、とにかく預言書に、悪魔が化けた蛇がアダムとイブを誘惑して、創造主にそむかせたという記述があって、その蛇の頭を踏みつけて原罪に打ち勝つ女性が現れるだろう、みたいなことがかかれているらしい。

(こういうのは、あまり興味ないから、まだ、本気になってそれを確かめたことはないのであしからず。)

 

そしてそれがキリストの母マリアだという解釈になっていて、そのために、ある西洋の画家が、その表現としてマリア様が蛇を踏んづけている絵を描いた。女が蛇を踏んズけるって、そのまま実体として絵にしちまうなんて、ま、詩篇の内容の深さから考えると、お粗末な解釈だけど。

 

原罪に打ち勝つということを、画家がそのように表現したに過ぎないのだが、案外カトリックの信者たちには好まれていて、それを像に彫って、複製したものが、カトリックの教会関係の店に出回っている。昔子供のとき、うちの祭壇にもあったから覚えている像だ。山の上の社に収まっていたのはその像の一つであった。多分石膏か何かで、作った代物だろう。なんだよ、これ、と思うほど、それは粗末なものだった。名画もオカルトグッズになったら、美しくも何ともない。デイエゴはものすごく熱心にそのマリアの説明をはじめた。

 

多分内戦の中で拷問にあって苦しんでいた男がこの山に捨てられたかなんかで、山の中で夢に蛇を踏んだマリア様を、見たのか、現(うつつ)でマリア様に会ったのか忘れたが、とにかく、なんかマリア様のお告げを聞いた。(いいかげんに聞いているから内容はよく覚えていない。)

 

しかもマリア様はその男にブーゲンビリアの花を渡して、これを煎じて飲むがいい、といって消えた。気がついてみると男は、この山の中にはどこにも見られないブーゲンビリアの花を手に握っていた。うちに帰ってそれを煎じて飲むと治ったので、同じように苦しむ人に教えて飲ませたら、みんな治った。それから長く続いた内戦が終わって、平和が訪れた。

 

蛇の頭を踏んでいたマリア様はインデイオの敵の頭をくじいてくれたのだということになって、それでその人はカトリックに改宗したとかしなかったとか言う話。それで、蛇を踏んだマリア像がなぜここに立てられたかのつじつまは合った。

 

もしこの手の話が本当で(別に本当だっていいのだ。苦しむ人間にはこの手の幻覚を見ることはあり得る事を私は知っている。)、それで、その男の怪我が治り、内戦が終わったのが関連付けられるとしても、ここに中世の西洋の画家が描いたマリア像を立てるのはナンセンスだなと思いながら、このオカルトっぽい雰囲気の中で私は次第に気分が悪くなってきた。

 

特に、最後にカトリックに改宗したという落ちを聞いて、カトリックがひどくお粗末な宗教みたいに受け取られているのを苦々しく感じて気分を悪くした私は、車の酔いと今朝からの悪寒がどっと襲ってきて、おなかも痛くなり、トイレを探し出した。

 

このままあの道のりをピックアップトラックに乗ったら、戻る途中、とんでもないことになるぞ。私はデイエゴの神聖な話をさえぎって、トイレトイレと騒ぎだした。しかし、こんなジャガーでも出そうな山の中に人間用にトイレがあるわけない。ビニールのびらびらは、いやっというほどあったが、マリア様を拝みにくる人も想定しなかったのか、そういう気の利いた設備は作らなかったらしい。デイエゴは、話の腰をあまりにも神聖さとはかけ離れた生理的なことで折られて、かなり人間的な苦笑いをした。それで私は社の裏の山を下ったところで、吐き気と腹痛の治療をしたが、ブーゲンビリアを煎じて飲んだのではない。ま、ああいうところは東西南北全部天然トイレです。

 

Aさんもやっぱり彼の話に辟易していた。こういうオカルト趣味はないんだといいながら、途中でもう、そっぽを向いてデイエゴの話を聞かなかったから、私の腰の折方を歓迎してくれた。かくして、デイエゴの妖気は、その日は完全に封じられた。案外、マリア様は私のほうを手伝ってくれていたのかもしれない。しかし、背高さんの方はすごく朗らかに楽しんでいたので、残念そうだった。

 

要は、彼らは現代的な教育から除外された、まだ精霊信仰に生きている民族で、そこにスペインが入ってきてカトリックが押し付けたから、彼らのカトリックの捕らえ方も、多分に精霊信仰的な捕らえ方から抜けられないのだろう。それをわれわれが批判したって仕方のないことなのだ。占領したスペイン人の布教の仕方に問題があったので、1民族から宗教を根こそぎにするということは本来できないことなのだ。アメリカに負けた大和民族も、宗教を剥奪されたが、靖国は健在ですものね。

 

まったく理不尽な拷問などの中で苦しんでいる人々は、信仰があれば見たいものが見えるということを私は知っているから、あえて、彼らの体験を疑ったり、非難したりしないが、むしろ彼らの神々の名前を、イエスやマリアや、ペトロやヨハネの仮面をかぶせることを止めて、先祖伝来の神々の名前に戻してほしいものだ、と私は思っている。