Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月25日

 癌の宣告

「それから母は・・・」

 

病院に担ぎ込まれた母は、意識はしっかりしていた。しかし、倒れたときに何が起きたかということを、母は一言もを言わなかった。財産をめぐって、母はいつも饒舌だったが、あるとき突然沈黙し、そして、それから何も言わなくなった。

 

私はじっと母を見つめた。母はじっと私を見つめた。何かすべてを飲み込んだような、深い、意味ある、底知れない人生の重みが、その視線の中に沈んでいた。

 

心配された心臓に何の問題もなく、数日で母は退院した。私も誰も、母に何がおきたか知らなかった。母はあまりに強かった。いつもと変わらない生活に戻り、母はまた一人で暮らし始めた。次郎兄さんも、五郎兄さんも近くに住んでいて、いざというときは彼らが何とかしてくれると、誰でも思っていた。

 

あるとき母は、脚立を使って電灯の笠を直していた。それで転倒し、骨折した。自分で救急車を呼び、数日のうちに戻って、母は自分でリハビリをして歩き始めた。人に頼ると寝たきりになると、彼女は言って、人の助けを拒絶した。ベッドの脇にあったくずかごを、彼女はわざわざ部屋の隅に持っていって、くずかごまでの距離を自分で歩く練習をした。

 

母は回復し、かかりつけの医者も驚愕したという。そして私が其れらのことを知ったのは、一月もたって、元気でまったく怪我をしたことの陰さえ見えない気丈な母の口からだった。気丈な母しかみていなかった私は、「ははは、やっぱりね」と笑って、驚いたという医者の態度を面白がっていた。

 

「母を見舞った友人達」

 

クリスマス近く、私はやっと暇を見て、娘を連れて母を訪ねた。母は元気だった。ただ、母のベッドの傍らに、私が以前に母にプレゼントした簡易トイレが置いてあった。プレゼントした当初は、母はこんなもの要らない、邪魔だといって、包みも解かないで、押入れにしまいこんでいた。あ、あのトイレだ、と私は単純に自分のプレゼントが使われているのを喜び、たいして気にも留めなかった。

 

その日、母は、自分の友達が二人来て、クリスマスを祝ってくれるといっていた。そんな親しい友達がいたのかと、私はいぶかしんだ。しかしよく聞いてみると、その「友達」とは、姉の中高時代の同級生だった。昔教会でであったことがある、私にとっても知り合いだった。

 

母の話によると、彼女たち二人は、姉も私も国外に去ってから、誕生日や祝日など、事あるごとに訪ねてきて、手作りの料理でもてなしてくれたということだった。姉が去って20年、私が去って8年、彼女たちはまるで自分の親戚を訪れるようにように、欠かさず母を世話しに来てくれたといっていた。

 

そんなことがあったのか。実の家族からさえ敬遠されて誰も一緒に住みたがる息子がいないという母の性格を知っている私は、其れは「すごいことだ」と思った。感動が心をみなぎり、名前を言われても明確に思い出せない二人の顔を、一生懸命記憶の中から探り出した。

 

実は私はエルサルバドルに行く前、数人の友人に母のことを頼んでおいたが、母に一度あった私の友人達は一度で懲りて、それ以上母を訪ねてはくれなかった。

 

私は事前に何も知らず、偶然行き合わせたのだったが、その日母は、「今年だけは私にご馳走させてください」と言って、彼女たちを招いたのだそうだ。ところが、もう約束の昼近いというのに、テーブルには何も用意されていなかった。

 

聞いてみると母はただお寿司をとって一緒に食べるという計画をしているだけだった。おすし以外の何も、お茶でさえも用意していなかった。母はお寿司が好きだったから、こういう場合はいつも自分で作っていたはずなのに、すし屋に頼んだというのも、少し腑に落ちなかった。

 

わざわざ招くには、どうも、クリスマスらしくないな、と私は思った。なにかしようか。

 

それで娘を連れて、駅前のイトーヨーカ堂に行ってみた。華やかなチョコレートを一籠、鳥のから揚げなどのお惣菜、それからワインが必要だな、いや、シャンパンにしよう。ケーキも必要だ。なんかプレゼントも必要じゃないかな・・・

 

こういう場合、本当はエルサルバドルの珍しいものでもあればよかったが、気が付くのが遅すぎた。何かプレゼントとしてふさわしいものをと、見知らぬイトーヨーカ堂の中を歩き回って、探した。私はもう、日本の常識を持っていなかった。仕方がない、店員に任せて、それらしき物を見繕って、包んでもらった。

 

大荷物をもって母の家に帰ったら、母は一言言った。「そう、戻ってきたの。逃げたかと思った。」二人の友人が母の一人暮らしを支えてくれていたと聞いたときの私の無言の感動を、母は気づいてはいなかった。はて、こういう場合は「逃げる」ことが常識の家族しかいなかったのか・・・。

 

私は黙って、小さなパーテイーの用意をし始めた。

 

母が大事にしまってあった、昔私がお土産に持ってきたスペイン製のテーブルクロスを引っ張り出し、花を飾り、チョコレートとケーキを真ん中において、長いこと使わなかったらしいシャンパンのグラスを洗った。

 

「ああ」と母は其れを見て声を発した。「誰かがこの二人にお礼を言ってくれないかと思っていたけれど、誰もしてくれなかった。こんなことしてくれる子は誰もいなかった。」

 

「誰も何も知らないんでしょう。知らせないから。私だって偶然知ったんですよ。今日はたまたま来合わせて、何もなかったから、花が必要だなと思って買っているうちに、なんか格好が付いてきましたね。」と私は言った。

 

ところが母は食い下がるように続けた。

 

明美は自分の友達に私がお世話になっているのに、お礼も言ってくれない。日本にこの前来た時も、あの二人が手作りのお料理を広げてくれたら、何もいわないで自分だけ、がつがつ食べた。はじめから言ってあったのに、自分は何も手伝わないで、二人が出すお料理をどんどん食べた。それだけじゃなくて、あの子は一人で暮らしている私の家に来たら、何の躊躇もなく冷蔵庫を空にして、自分で買い物もしない。」

 

感じなかったわけではないけれど、ものが言えなかった。あまり不可思議な!と思った。「普通なら」なんて批判したり、考えてもすむ感覚ではなかった。母が付き合うのに面倒な人間であることは、50年近く付き合っていれば、わかることだった。その母を、義理もなければ、義務もないのに、会いに来てくれる人がいる。其れはほとんどありえないことではないのか?

 

こういうのも一種の感動かもしれない。反感動かな・・・。ともかく自分が感じることが他人も感じることとは限らないのだ。そう思って沈黙する以外になかった。

 

この場に居合わせたら、誰でも、これくらいはするはずだと考えたことを、私はとりあえずやっただけだった。こういうことをはじめから知っていたら、私はエルサルバドルの料理でも用意しただろう。私は母の性格を知っていたから、母を残してエルサルバドルに行っていた間ずっと心配していた。彼女を面倒見てくれる人がいないだろうと思っていた。そうしたら、姉の友人が二人、実の娘がいなくなったあとの10年間、毎回クリスマスの祝いに来てくれ、誕生日のお祝いをしてくれていた。

 

感動は、声にもならず、表現ができなかった。感謝には、時として、表現ができないことがある。あまりにも期待を超えた神々しい行為に対して。私は黙ってもそもそと、できることをした。母は私のそばをうろうろし、何もしなかった。飾り付けを見ては、「ああ、きれいだ、ああ、よかった、こんなこと誰かにしてほしかった、たった一度でいいから感謝の印を見せてほしかった、」と、くりかえしくりかえし母は言い続けた。

 

家族はそばにいるから、何も見えないのだ。日本にいる家族は、母のあの性格のものすごさに引いてしまって、きっと手が出せなかったのだ。

 

私はあの国にいた。あの国で内戦を体験した。命のはかなさをいやというほど目にし、どんな性格であろうとも、人の命が尊かった。人の存在に感謝を覚えた。はかなければはかないほど、悲しければ悲しいほど、人は皆、「小さき人」だった。それは「飢え、渇き、裸で、病気で、牢にいる、最も小さき人」である、イエス様だった。

 

12時を少し回って、二人が来た。そうだ。この方だった。もう年齢を重ねていたから、面影が薄れていたが、二人とも私は知っていた。学生時代、きれいだったな、この方。

 

シャンパンのコルクを飛ばし、乾杯をした。

 

その日、私は母を残し松戸の家に帰った。 

 

「88歳の誕生日」

 

年が明け、時がめぐり、2月になって、母は88歳になった。88歳かあ。と私は思った。なんだか感無量だった。

 

父がなくなって40年、母は日本の激動と自分の心の激動を乗り切った。88なら喜寿だなあ。赤いちゃんちゃんこの歳だ。想像して私はニヤニヤと笑った。母はあまり日本的習慣を好まなかったから、赤いちゃんちゃんこなんか持ってくるなと、あらかじめ、私たちに警告していた。あの母に、誰も赤いちゃんちゃんこなんかプレゼントするはずがないけれど、余興としては面白かった。

 

母は其の歳にして、ピンクのフリルの付いたブラウスなんかを着ていたし、昭和初年の、豊かだったころの写真には、帽子を斜めにかぶった女優みたいな姿の母が映っている。冗談に赤いちゃんちゃんこを着せてみたいようなきもするけれど、其れは想像だけにとどめておいた。

 

五郎兄さんは、よく自分で作ったおはぎを持っていった。

 

私には餃子に思い入れがあった。母の作る餃子は、満州仕込みの、一般ではどこにも売っていない味だった。中に入れる具も、皮の作り方も、一緒に作ったから覚えていた。

 

私はこの餃子を、エルサルバドルにいたときも、よく作った。本当は「すいとん」もあの時代の長年の生活に欠かせない代物だったけれど、さすが、すいとんを自分の一番懐かしい食べ物として、料理する兄弟はいなかった。

 

姉も料理がうまかった。誰からも習った覚えがないといっているが、たまさかのおいしい料理はいつも家族総出で作ったのだから、一人一人、何らかの家族の味を自分のものにしていた。だから集まると、昔の家族の味が勢ぞろいした。その料理にまつわる思いでも、一緒に味わうのは楽しかった。

 

でもその年はみんなで集まるということをしなかった。それぞれの都合があり、兄たちは、入れ替わり、立ち代り、母を訪ねた。私は娘を連れて、誕生日を外して母のところに行った。別に、ひねくれでそうやったのではなくて、一度にどっとみんなが行って、一度にどっと帰ってしまう母の寂しさを、私は思いやっていたのだ。

 

其のとき母はいつもおしゃれなのに、寝巻きみたいな姿をしていた。「武士の子」を誇りにしていた母は、誰が見ていなくても、いつも死ぬ用意をしていて、死んだ姿がみっともなくないようにと、身だしなみを忘れたことがなかった。其の母の、身だしなみがいいとは思えない姿に少し不審を感じたが、まあ、私だけだからと思って、捨て置いた。

 

母は其のとき、胃腸の具合がおかしいと訴えていた。でも、母はなんでも食べ、食欲不振にも思えなかった。「あの簡易トイレが役に立っている」と、母は言った。「そうか。使ってくれているのか。」私は、母がベッドの脇に置いたトイレを覗いた。きれいだった。どのように胃の具合が悪いのかわからなかった。「この人、死ぬまで、自分で何でもやるんだな」と私は思った。

 

「熱海にて」

 

私が難民となって、家族を連れて帰国して以来、母校のシスター廣戸が、私たちの家族が楽しく暮らせるように、影に日向にいろいろと世話をしてくださった。

 

母校には、難民支援センターがある。もともとが極めて国際的な学校だったから、国際的センスはどこの団体よりも抜群だろう。言葉だって、世界中の国の言葉を話せる人材に事欠かない。ベトナム難民、カンボジャ難民を支援し続けて、難民支援にも実績を上げている。

 

彼女は昔私が、修道会に在籍していたときに、赴任した高校の校長だった。保護者への対応をめぐって意見に食い違いがあって、大喧嘩をし、問題が泥沼化して、私がハンストまでやったため、長いこと関係を絶っていた。私は修道院でハンストをやった唯一の修道女として有名にもなり、煙たがられもしたが、修道院を出てから、私が思い直して謝罪に行き、それから仲直りした。

 

以後、私が結婚を決めて国外に去るまで、かなり親しくお付き合いしていた。彼女はあの将来的にめちゃくちゃに見えた私の結婚を祝福してくれた数少ない人物の一人だった。

 

帰国したとき、彼女はもう校長を辞めて、難民支援の先頭に立っていた。で、彼女は、難民用にストックしてあった家財道具の中から、当座必要と思われるものをトラックに積んで松戸の社宅まで持ってきてくれた。お嬢様学校として知られた私立名門校の校長だったときとは、うってかわって、彼女はトラックに積んで持ってきた荷物を、わっさわっさと家の中に担ぎ込み、校長なんかしているよりもよほど自然体に見えた。

 

見たことないけれど、バイクの免許を取って、高速道路を駆け巡っていたらしい。はじめからこういう態度だったら、私はあの時ハンストまでして、この人に抵抗なんかしなかっただろうに。で、彼女のおかげで、私はほとんど何も買わずに、日本の生活を始めることができた。

 

彼女が私たち一家にしてくれたことはそれだけではなかった。春に夏に、連休のときでも、彼女は子育ての真っ最中であった私たちが、休みを楽しめるように取り計らってくれた。あの学校の卒業生は、金持ちが多い。あちこちに別荘を持ちながら、国外で活躍をすることも多いため、持っている別荘を何年も放置しているというようなことがある。

 

彼女はそういう卒業生の一人に連絡を取って、難民になっちゃった卒業生がいるんだけれど、休みの数日間、別荘を貸してやってくれないかと頼んでくれたらしい。しかも彼女の頼み方は、留守の間布団を干したり、掃除をしたりするのにお金かけるなら、そういうことをやってもらえるよ、というようなもって行き方をしたのだ。どっちにも気を遣わせないように、こんなことができるなら、なぜあの時、校長なんかして、保護者と喧嘩なんかしていたんだろう。

 

別荘どころか、自分たちの稼ぎで子供に旅行などさせてやれるはずもなく、実家に行くのだって怪しい事情があった当時だったから、其れはとてもありがたかった。おかげで別荘なんかもてる身分でもないのに、私たちは、休みになると、野尻湖の別荘に出かけていき、布団を干し、掃除をし、食器を洗い、入ったときより出てくるときがきれいになっているようにことさら注意して、娘が小学生の間中、ほとんど無一文だったくせに、すごく楽しい豪勢な休日を送らせてもらったのだ。

 

彼女にはもうひとつ熱海にも、別荘を持った知り合いがいて、部屋から海が一望に見渡せる、素敵な別荘に、休暇をすごしに行くことができた。ただ、難点は熱海方面の高速道路はいつも混でいて、時には朝早く出て、昼食を車の中でして、10時間近くかけて到着というようなこともあった。うまくいけば高速に登ったり、降りて空いた道路を行ったり、工夫をしても、4,5時間はかかる。途中の景色は申し分なく、トイレの心配がなければ、どうということないのだが、ひどく疲れる旅でもあった。

 

平成2年の5月の連休、母がどう過ごすのか気になったので、私たちは母を熱海に誘った。野尻湖の別荘があいにくあいていなかったのだ。熱海と聞いて、海の好きな次郎兄さんが、車の運転して母を連れて行ってやるというので、我われは時間を節約するため現地集合ということにした。

 

次郎兄さんは道を見つけるのは天才である。一緒の旅は面白いのだが、酔払い運転を平気でするのに一度恐れをなしたエノクは、同じ車で行きたくなかったのも、現地集合を決めた理由のひとつだった。

 

連休の高速道路の混雑を嫌って、私たちは暗いうちから出発したので、何とか9時には目的地にたどり着いた。部屋を整えて、少しくつろいで待っていたら、兄も母をつれて昼前に到着した。ワゴン車で、母は横になってきたらしい。

 

部屋を見て、窓からの眺めを見て、ああ、いい眺め・・・と母は言い、サンルームのいすに深く腰掛けて、ただ静かに、遠くに目を浮かばせていた。帰国してから母の小さな旅に付き合ったことは何回かあったが、母はいつも、逃避行を経て体が弱っていた私より元気だった。

 

80を越して、兄たちの誘いに応じて登山に付き合い、がけの上から流れ落ちる滝を近くで見ようと、がけに登っていく母は、私より健脚だった。しかし、今回熱海の別荘に着いた母は、椅子に腰をおろしたまま、景色に見入って、動かず、誘っても浜辺を歩こうともしなかった。

 

子供を家の中に閉じ込めておくわけにもいかないので、私たちはそうした母を置いて、散歩に出、食事を買って戻った。母はやっぱり静かに窓の外の景色を見ていた。そして私たちを見て、「ありがとう・・・」といった。

 

なんだか海の景色を見入る母の目も、それから目をそらして、私たちを見るまなざしも、今生の見納めみたいな、深く永遠の世界に気持ちを向けているような感じがした。私はかつて母と旅をして、景色に打ち興じ、あそこにも行こう、こっちにも行こうと、ふにゃふにゃした私の前をずんずん歩く母を思い出し、動こうともしない母の深い視線の意味を量りかねていた。

 

其の変化にあるのっぴきならない意味を感じたのは、私の家族から疎外感を感じながら、いつも傍らにたって、それとなく私たち家族を見つめていた、夫エノクだった。

 

「癌の宣告」

 

「時々お母さんのところに行ってあげろよ」と、帰りの車の運転中、唐突にエノクが言った。前後に何もそんな話をしていなかった。娘が疲れて車の中で寝込んでしまい、静かに夜の高速道路を走っていて、沈黙が続いていた。

 

不意を付かれて何も答えない私に主人は重ねて言った。「もう、お母さんを一人で放置していい状態じゃない。何も言わないで、じっと一人暮らしを耐えているけれど、いくらなんでもかわいそうだよ。どんなことがあったとしてもお母さんはお母さんだ。」いつも物言わぬエノクが、私の兄弟たちを批判しているらしい空気が、かすかに感じられた。

 

彼は日本に来て以来、いつもいつも母から拒絶されていた。「あなたは関係のない人間です。」と、彼女は言うのが常だった。こういうことになると思って、私はあらかじめ、母の難しさを彼に伝えていたのだが、彼は自分の国で、人間関係をうまくやってこられた自信から、「だいじょうぶだよ」と簡単に構えていた。

 

しかし、母はエノクが握手しようとして手を出しても、其の手を振り払い、つと後ろを向いてしまったのだ。そういう時、彼は、ちょっとしかたなさそうに、笑って、私にウインクしてみせ、それでも決して母と交流することをあきらめなかった男なのだ。

 

エノクは母にどんなに拒絶されても、まったく腹を立てなかった。

 

私は人間関係がうまくできないと、思い悩んで神経が傷つき、耐えられなくなって相手と交際を絶ってしまうというような状態になるのが、いつものことだった。人間関係に関しては私の心には余裕がなかった。

 

しかし、侵略者と被侵略者の子孫である、世界中の民族の血を引くこの男は、人間関係というものを、気が遠くなるほど気長に持っていく術を心得ていた。「あなたは関係ない人間です」という母の言葉に傷つく私に、「関係がなければ、あんなことわざわざ言わないよ」と、彼はかえって私を慰めるように言った。

 

彼の老人を見る目は、優しかった。仕方ないから、儀礼的な付き合いをするというのではなくて、相手が何を期待し、何を求めているのかを考えて、自分の行動を決めているようだった。そうならざるを得なかった人間の人生を、彼は丸ごと受け入れているかのような、深い目をして老人を見ていた。

 

母は家中に、旅行先で集めた民芸品を飾っていた。エノクはそれとなく其れを見て、母が何が好きなのかを理解したのか、出張先から土鈴や、民芸品をお土産だといって買ってきた。介護用品なども必要なものに気が付いて、私に買うように促した。

 

そうやって彼は「のどかに」母を思いやっていた。

 

今回の熱海旅行だって、計画したエノクには、母は何も口を聞かなかった。相変わらずだなと思っていた私は何も特別なものを感じなかった。ところが、其の母の、物言わぬ視線に、何かを感じたらしいエノクは、帰りの道を運転しながらずっとひとつのことを考えていたらしい。

 

「お母さんは、もう僕を受け入れている・・・」と、彼は言った。

 

私はこの男と出会ってから、何度かある重要な決定の瞬間に、不思議に重みのある口調で語る、預言者の言葉のような言葉を聴いてきた。私は人間関係の荒っぽい家庭に育ったから、自分はすぐに傷つくくせに、人を思いやるということが足りなかった。彼は一番重要なときに、必ず、ある独特な表現で私に其れを気づかせた。

 

あれから、私は週末を利用して、よく母のところに行った。子育てや英語教室を理由に、動こうとしない私を、エノクが、静かな、しかし、決してたじろがない強い目をして、多くを語らず動かし続けた結果だった。

 

週末なら、「自分が子供を見るから、いってらっしゃい。お母さんにはもう、時間がないよ・・・。」

 

「もう時間がない・・・」と、エノクの感性が捕らえた其の母は、いつも淡々と私を迎え、あまり体調の変化も訴えなかった。胃腸の調子が変だとは言っていたが、誰にもいわなくていい、大げさに騒ぐなと、いつも付け加えた。

 

大げさに騒がなかった。そしてあるとき、大騒ぎになった。一族中にあわただしい電話が駆け巡った。たまたま庭の手入れを手伝いに行った五郎兄さん夫婦が、母の異変を見つけた。

 

「おなかが異常に膨れ上がっている。目に見えてわかるほど、異状だった。」と、兄嫁が私に後になって言った。

 

武蔵野市の日赤に担ぎ込まれたことを知った私は、すべてを休んで駆けつけた。兄たちが興奮して怒っていた。救急車に同乗していた兄嫁が、ふと車の後ろを見たら、バイクに乗った次郎兄さんが、手に何かを持って追いかけて付いてきているのを見たのだ。病院の入り口で追いついた次郎兄さんが持っていたのは、書類と印鑑だった。書類の種類はよくわからない。念書か遺言書か、なんだか知らない。

 

とにかく、彼は言った。

 

「母様、死ぬ前にハンコを押してもらいたい。早くしないと死んでしまったらおしまいだ。」

 

其のことを知ってか知らぬか、母は運び込まれながら、入院している間は、次郎兄さんの面会は断ってほしいと、病院に頼んだ。四郎兄さんと五郎兄さんが、病院のほうに事情を説明し、了承を取り付けた。私は見たわけじゃないのに、書類持って追いかけてくる次郎兄さんの姿を、まるで見たように錯覚して、うっかりこうして書いている今も、断定的に書きそうになる。

 

思えば其の前の年、母が倒れたときも、次郎兄さんの影があった。当時は母は事情を何も言わなかったが、時々遠くを見てため息混じりにぽつぽつと語る言葉を総合してみると、たぶん、次郎兄さんは母に遺産の相続の確約を毎日毎日せまっていたのだ。

 

母が、いい反応をしなかったら、たぶん、暴力に及んだのだろう。去年入院のとき、あんなにおびえていたのは、母はずっとこういう状態にさらされていたんだ。

 

診断の結果が知らされた。母は末期がんに侵されていた。いままで母が医者にかかるとき、持病の心臓を心配していて、最後は心臓で死ぬつもりでいた。あまりに心臓心臓というから、誰も母の胃腸のほうを気にしなかった。だから、あんなに、胃腸の調子がおかしいと言っていたのに、誰も本気で、母の言葉に気を止める家族がいなかった。すぐに手術が決定した。