Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月19日

「婚約の一種」

 

そうこうするうちに、彼が国に帰る期日が迫ってきた。私は、Ponと小森先生の勧めを実行に移す気はなかったけど、8月20日に彼が故国に帰るといったとき、私はとうとう切り出した。

 

「ねえ。私もついていっていいの?」彼はじっと私の目を見ていた。しばらくしたら、彼が口を切った。「今すぐじゃなくて、少し待ってくれないか、子供の母親と問題を解決してから呼ぶから、それから結婚しよう。」

 

私は時期をはっきり言ってくれないと仕事があるから、困るといった。彼はしばらく考えていった。

 

「じゃあ、1年ならいいか。」

「あのね」と私は言った。「今は8月で、1年といえば学校が中途半端になるから、来年の3月に調度きりのいいところで学校を辞めたいのだけど。だから来年の3月に行っちゃだめ?」

 

私の頭の中には問題を抱えたグチを無事に卒業させたいという考えがあった。

 

「半年か。」と彼は指折り数えて考え深そうにいった。「半年じゃ、問題の解決ができない。」

 

「だって解決ってなにをするの?生まれた子供は一生涯親子の縁は切れないんだから、解決というのはその母親でしょ。もう、結婚できないって言い渡してあるんでしょ。」

 

「いってあるどころじゃない。この3年間言いつづけている。でも凶器振り回して暴れるからなあ。やくざが味方についているなんて言い始めるんだよ、彼女は。」

 

私は言った。「3年いいつづけてまだ暴れるのは、まだ望みがあると思うからでしょ。あなたが結婚してしまえばもうあきらめられるけど、していない間は望みを持ちつづけて、暴れるのよ。あなたの気持ちを引くためにわざわざだましてまで子供をもうけたんでしょ。子供までいて、同じ町に住んでいれば、彼女の方だってまだ結婚の可能性があると思うのが当たり前で、結婚する気ないなら、言葉だけじゃなくて、自分のほうで結婚してしまえば、それが解決になるでしょうに。」

 

できるなら日本にいる間に、役所の届を済ませてしまいたかった。そうすれば私のほうも気持ちが楽になるし、自分に合わない闘争なんかをしなくても好いようになる。と思った。

 

彼は望まないのに生まれた自分の子供に愛情を持っていた。彼が子供を語るときの目は優しくそして、悲しげだった。「子供にはどのように責任取るの?」と聞いたら、彼は、「自分の持つすべての財産をはたいて、子供名義で家を買ってあるんだ」といっていた。子供が18になったら子供のものになるように法的な手続きはすんでいるから、一応飢えないようにしてあるということだった。

 

そうか。そこまで責任取ってやってあるのか。

 

「で、私たちが一緒になったときはどうするの?」

「ゼロからの出発だけど、大学で教えているから、生活できるよ。」

 

ゼロからの出発なんて、私は慣れていた。私の親兄弟はゼロからの出発どころかマイナスの出発で生きてきたのだ。

 

ニコニコとして私は言った。よかった。「ゼロからのほうが、二人の出発らしくていい。」

 

とうとう3月にエルサルバドルで結婚するという約束を取り付けた。かくして、中米発男争奪戦の最前線で、「蛙の姿焼き」はピストルを制したかのように思った。

 

「家族が納得するわけがなかった」

 

伏兵 (1)

 

さて、と私は思った。次にするべきことは、自分の家族を納得させることかもしれないと思っていた。もうそのとき私は35歳にもなっていて、結婚に関して家族の許可を求めるよりも、報告すればいいと思ってはいたのだが、なるべくなら喧嘩別れのようなことをやりたくはなかったので、かの中米男に頼んだ。

 

「日本は何歳になっても、結婚しない娘を大人とは認めないお国柄だから、母に挨拶に行ってくれないか?」

 

「そうだ、そうだ」と、彼は簡単に請合い、帰国前の自分の時間を調整して、挨拶にいってくれることになった。彼は後で知ったことだけれど、家族にとても愛されている人間で、家族がこういうことで反対したり大騒ぎをしたりすると言う経験がなかったらしい。

 

彼は日本人ではなかったから、なおさらのこと、30を過ぎてこういう問題で家族の「許可」を受けるという感覚を持っていなかった。結果報告として自己紹介をするぐらいの気持ちでいたのである。多分、彼も私と同様「常識」を持っていなかった。

 

しかし私が母にそのことを告げると、母は私が予想していたとおりの反応をして、会うことを拒絶した。そうなることはわかっていた。だから無理強いをしなかった。私はこれまでのいきさつから、母を恐れていたし、ひと騒動起こさずにこの問題がとおるとは思っていなかった。

 

だからその代わり、私は彼の両親に連絡をとって、両親のほうから母に一言いってもらおうと考えた。両親のほうが親の立場で親の気持ちがわかるだろう。中米男は、すでに日本女性と婚約したという話を両親に連絡していた。彼の両親は、彼の例の問題に関して、心を痛めていたので、私は手放しで大歓迎されていたのである。

 

彼の帰国後、彼から詳しい話を聞いた両親は、快く挨拶の手紙を私の母当てに書いてくれた。

 

その自筆の手紙は心あふれたものだったけれど、それに輪をかけて、私は、粉飾だらけの日本語訳をつけ、母に渡した。母は少なくとも私の目の前では読まなかった。

 

「その人は私とは関係ありません」といって、背を向けていた。

 

私は母を納得させる方法を知らなかった。彼女は生き残った6人の子供のうち、結婚した4人の子供たちの恋愛にすべて介入して、叩き潰し、家柄と格式を重んじた見合い結婚を強要した人間であった。一人次郎兄さんが3回の恋愛を壊されて、自分で結婚相手を選んだ。

 

しかし、私が中米男と婚約をした当時、次郎兄さんの家庭は崩壊していて、二人は別居していた。あの時代に、私が自分の意思で、どんな相手を連れて来たって、社会的身分や学歴が母の考えと合わなかったら、母が納得するわけがないのである。

 

私が婚約した中米男は、世界のどこに位置しているかわからないような、当時日本では知られていない国の出身で、極めて難しい個人的な問題を抱え、母でなくても疑問を呈する要素に満ちている男だった。

 

私自身だって内心、かなりの不安を持っていたのだから、母を納得させる方法など見つけられなかった。

 

私が、彼についていこうと決めた最大の原因は、私が母の作った家庭において身につけ、苦しんだコンプレックスを、まさに逆転させて、価値を与えてくれたことだった。

 

私は母にどのように、言えば、母がこの結婚を納得するというのだ。

 

「母よ、あなたが35年間の長きに渡って植え付けてくれた、倫理観や美意識を、私を実に35年間苦しめたあの倫理観と美意識を、彼がすべて逆転させてくれたから、彼のところに参ります。」

 

正直さを貫くなら、こうとしか言いようのない理由によって、私は彼の後についていくのだから。

 

母は父を敬愛し、ほとんど神格化していた。しかし母は、父の遺影に正装をさせ、正装をしていない姿を、父の恥と考えていた。父は画家だったから、裸婦も画いたし、自画像も描いた。しかし母の考えによって、父の描いた裸婦はひとつ残らず処分され、くだけた服装をして、髪を乱した姿の自画像は、倉庫の奥ふかくに隠されて、母が死ぬまでその存在は明るみに出ることはなかった。

 

私はそのときも今も、尊敬する人は正装していなければいけないという美意識はもっていない。

 

私が父と映っている唯一の写真は、父が自ら自動シャッターで撮ったものだったが、くだけた服装をして私を抱いている写真だった。自分で撮った写真なのだから、それを恥と考えるのは父の考えでないことは確かだったが、母の意には添わなかった。

 

その写真は私の宝物だったが、母はそれを恥として、門外不出を言い渡した。

 

子供の宝物というものは大人の受けた教育や美意識とは関係がないものである。その宝物を学校に持っていったため、母は私を1時間に渡って棒で殴りつづけ、夜外に放置した。それが母にとっての倫理であり、私は母にとって不肖の子であった。私は反抗など考えたこともない若年10歳の、母を恐れる子供だった。自分が悪いのだと思わざるを得なかったが、どんなに努力しても母の意に添う人間になることができなかった。

 

私はまったく幼いころから常識人の目に見えないものが見える「目」を持っていた。だから常識人が喜ぶものをすぐには喜ばず、その奥にあるものを見て、それを口にした。 

 

そのためにいつも人は私のことを変人だといい、素直でないといい、母は罰を与え、小学校は私を退学処分にし、大学は停学処分にした。正直はいつも私を災いした。見えるものを見えるといい、見えないものを見えないといったため、私はいつも世のすねものといわれて暮らした。

 

私はそれが自分の欠点で、それが直らない限り、世は自分を受け入れないと考え、苦しんだ。35年間のコンプレックスだった。

 

その「目」を、彼が「才能」だといった。その「目」を彼は「価値」だといった。その「目」を彼が一番すきなんだといった。

 

私の中米男のあの一言は、だから私を深く捕らえ、私を感動させ、私の心を安定させた。子供のときから母とは徹底的に違う美意識は、伴侶を選ぶときも変わらなかった。母が嫌った私の本質の部分を彼が好み、母の嫌う私の美意識が彼の美意識と一致したのだ。そういう彼が、母が歓迎するような人間ではないことは私にはすでにわかりきっていた。

 

いくら私が非常識人でも、彼の抱えている問題が並大抵のものでなく、将来に影を残しつづけるかもしれないということが理解できないほど、目がくらんでいたわけではなかった。

 

すべてを計算に入れていたから、私は母に言うべき言葉がなかった。答えは出ていた。誰も納得させられなくても、私は賭けをしようと思ったのだ。すべての人にお先真っ暗に見える状況での賭けだから、賭けに敗れたときの責任は、すべて自分が負っていこう、と思いながら。

 

「阿修羅」

 

母は私の決定を覆そうと、この結婚に予測して、およそ常識人なら考えられそうなすべてのことを、私に言い聞かせた。

 

「そんなわからない国に行って、もしかしたらハレムの中の一人にされるのかもしれない。」(確かにそうかもしれなかった。)

 

彼に誠意があるのなら、結納金とまではいかなくても、旅費ぐらいは送ってくるのが本当だ。(確かにそうかもしれなかった。)

 

口約束はいつでも解消できるもので、そんなに結婚が確実なら、なぜ日本で結婚していかなかったかを考えたら、だまされている可能性の方が大きいと言うことがわからないのか。(確かにそうには違いなかった。)

 

そんなどこの馬の骨か分からない人間をどういう基準で信用に足ると思うのか、時間をおいて考えても遅くない。(少なくとも、骨は人類の骨だと思うけれど、確かに「素性の知れない」奴の骨だった。)

 

これらの母の言う言葉はすべて私にだって予測できたことだった。しかし最後に母が私に「もっと無難な人を探したらどうなの?」といったとき、私はたまりかねていった。

 

「私はかつて何回もお母様の引き合わせた人とお見合いをしたではありませんか。それなのに、少しでもお付き合いをしようと思って出かけると、お母様はいつもご自分の方から縁談をつぶしにかかったでしょう。

 

最後にお見合いをした人と会いに行こうとしたときなんとおっしゃいましたか? 

『ゴリラでも男ならかまわないのか』とおっしゃったでしょう。私はその人にまだどんな意味の感情も持っていなかったけれど、私が何も知らないうちに四郎兄さんと一緒になってあの話をつぶしたでしょう。私はどうすればその『無難な人』を見つけられたのですか。私はその時、その人に対して何の感情も特になかったから、縁談をつぶされても抗議をしなかったけれど、こういう状況を続けていたら、私はいつまでも独立できないじゃありませんか。今は決まった相手に対する情熱があるから、もう誰に何を言われても自分の思いを遂げようといっているんです。」

 

母はその時、突然ひざまずき、私の膝にすがっていった。

 

「寂しいのよう、行かないで頂戴。何でもあなたの言うとおりにするから、おいていかないで頂戴!」 

 

私はこの母の叫びに、はらわたかきむしられる思いだった。その悲しみの叫びを受け取った鼓膜はびりびりと震えた。しかし私はその時、残酷さと勇気と、自己の決定に対する確信を持って、すがりつく母を払いのけた。

 

「私はあなたを選ばない。すでに選んだ人がいる!」

 

母は絶叫した。「あああ、一番好きだった子から嫌われてしまった!」

 

ああ、母よ!何ということを言うのだ!何ということを言うのだ!

 

私の心はたじろいだ。「なんだと?一番好きだった子?」

 

私はこの声を聞き逃さなかった。この言葉は母がはじめて叫んだ真実の声かもしれなかった。ひざを突き、懇願し、必死の形相で母は私を拝んだ。私が生まれてこの方ただの一度も触れたことのない、母の弱さを垣間見た一瞬だった。

 

母は自分の心の絶望を、孤独な深淵を私に開示した。この母は、もしかしたら、私のうりふたつの分身であったのだ。孤独に耐え、弱さを見せず生きてきた。戦乱に堪え、戦後夫を失って6人の子を育てた。髪振り乱して鬼のように棍棒を振り回し、走りに走ってきた人生だった。5人の子供たちの独立を見送り、最後に残った私が独立しようとすると、死に物狂いでしがみつき執着した。私の独立をなんとしてでも阻止しつづけた。それは愛なんて言うものではなかった。自分の孤独を恐怖し、孤独の深淵から、なんとしてでも自分を保護しようとしていたのだ。

 

かつて私は、この恐怖の対象でしかなかった母が、私のようなただ母を恐れてびくびくして暮らした弱い子供に、ひざまずいて懇願するというような事態を想像したこともなかった。母は常に凛として、自らが言うように、武士の娘であった。むしろ武士の娘より前に、母は武士そのものであった。強かった。阿修羅のように恐ろしかった。

 

その阿修羅が、私の前で懇願した。阿修羅は自分を孤独にしないで暮れと訴えた。そしてそのとき、私が阿修羅になっていた。 

 

伏兵 2

 

母は最後の望みを抱いて、兄たちに訴えた。兄たちに私を説得してもらおうとしたのである。

四郎兄さんが電話をしてきた。この兄は母の偏愛を受けた唯一の人物だけれども、性格がよかったので、どんな社会でも愛され、あまり問題を起こさずに生きていた。きわめて聡明な嫁さんにも恵まれ、当時5人の子供の父親であった。死ぬまで母が最も信頼していた、ある意味では母の一人息子であった。

 

しかしこの時の四郎兄さんはまったく聡明ではなかった。開口一番彼は言った。 

「おまえは親を捨てるのか!」

 

私を除いた兄弟全員結婚しているくせに、なぜ私が結婚すると、親を捨てることになるのか、わけがわからない発言であった。

 

「海外旅行にだって、何回も出させてもらったくせに、この上何が不足なんだ!」と彼は電話の向こうで叫んでいた。

 

私はただの一度も母から「海外旅行に出させてもらった」ことはなかったし、「海外旅行に出させてもらった」としても、それだから結婚してはいけないという理屈がどこからわくのかわからなかった。

 

(今から思うと、彼は案外、私が海外旅行なんかして、独身貴族を楽しんでいるみたいだったのが、うらやましくて仕方なかったのかもしれない。)

 

私が母に、自分がお見合いさせてそれが発展しないうちにつぶしたとき、この兄がかかわっていたことを、口走ったものだから、「おまえは何でも人の所為にするけれど、誰かに結婚をつぶされたのではなくて、修道院に入るといって家を出たじゃないか」といってきた。

 

しかしその出来事は、修道院に入る前もまた出た後も、勤め先の人間関係で、私が苦しんでいたころも、ずっと続いていた状況だった。彼は自分にだけは責任がないことを強調したかったらしいが、彼が私のお見合いをつぶすことに協力したのは別の理由が彼の側にあった。私はそれを知っていたけれど、いまさら過去の話を蒸し返しても仕方ないから、それ以上、話を聞かなかった。

 

五郎兄さんが電話してきた。彼はいつも母との間に、ある距離を置いていた男だった。彼の任地が広島だったので、結婚生活を広島ではじめたこともあって、母は彼の子供たちにもあまり愛情を示さなかった。そのため、彼の家族は、いつもははとは距離を置いていたから、母はあまり、この兄には重要な相談をしなかった。だからかどうか知らないが、彼は敢えて、私の結婚に反対したわけではなかった。

 

彼は開口一番こういった。「その男と結婚するなら、財産を放棄していけよ。」

 

「みんな結婚しているのに財産放棄した兄弟は一人もいない。なぜ財産放棄を迫るのか」と聞いてみた。

 

「結婚とはそういうものだ。」と彼は言った。「おまえが死んだら、まったく我々と関係ないものに我々の財産が渡るんだ。」

 

私が一番年若かったにもかかわらず、彼は私が先に死ぬことを想定していた。そして、結婚した人間は誰が死んでも、財産は本来持っていたものとは関係ない配偶者にわたることは、別に私の場合に限らず、法的に決まっていることだった。

 

しかも、実家の財産は当時、母だけのものではなかった。父の死後、人手に渡っていた家財産を訴訟を起こして取り戻ししたのは、母だったけれど、新たに登記したときに、戦後苦労して兄弟の成長を助けた次郎兄さんに3分の1を生前贈与して、残りの3分の2は、母を含む残りの5人の兄弟たちの共有財産となっていた。固定資産を維持するための固定資産税は全員が均等に支払っていた。

 

その財産は、分割登記していなかっただけで、一人一人が固有の権利を持っていて、動かすには6人全員の同意が必要な、厄介な代物だった。その財産の権利を1部持ったまま、私が海を越えて、「馬の骨」と結婚すれば、もっと複雑になることを、彼は憂えたのだったが、全員が「赤の他人」と結婚していたのであって、相手が「素性の知れない馬の骨」であろうと、「由緒正しい猿の骨」であろうと、結婚とは「そういうもの」だった。

 

ところで、その後、私は五郎兄さんの勧めを受けて、「じゃあ、財産放棄していきます」と母に言ったら、今度は四郎兄さんが電話してきて、「自分の都合で勝手に財産を移動させて、みんなに迷惑をかけるのか?」と怒り狂って来た。何がなんだかわからないから、「これは五郎兄さんの要求だ」といったら、「そんなこと信じない!」と叫んで、とにかく何でも良いからお前の行動は全部悪いと、電話で、びんびん叫んでいた。

 

三郎兄さんがやってきた。これはもう恐ろしい顔をして、威嚇するために来たのである。「自分が非常識な結婚をする責任をお母様のせいにするな。」と彼は言った。

 

非常識な「馬の骨」と出会ってしまったのは母の責任ではないだろう。しかし、「常識的な」結婚ができない状態に持っていったのは母だった。そして、母の介入によって、結婚生活が壊れた次郎兄さんの二の舞をすることを恐れて、母を私に押し付けて、なんとしてでも私を結婚させまいとした2人の兄たちのせいであった。

 

次郎兄さんには次郎兄さんの人格的な問題があり、選んだ嫁さんにも人格的な問題があったから、この結婚生活にひびがいったのはあながち母だけの責任ではなかった。

 

しかし、兄たちは、私と同様、母を恐れていた。その兄たちの結婚の成立を助け、母の理不尽な嫁いびりの間に立って、調整役をいつも勤めていたのは私だった。私が彼らにとって、都合のよい存在であったことは間違いなかった。だから彼らは私の結婚の成立には一致協力して阻む理由があったのだ。

 

そのことを、じっと遠くから、冷徹な目で見つめていた、一人の人物がいた。それは生まれたときから仲の悪かった、アメリカに渡った明美姉さんであった。運命とは不思議なもので、この仲の悪い姉が、私たちの結婚の成立に協力した唯一の兄弟であった。

 

「所詮常識の範囲ではなかった」

伏兵3  「馬」の反応

 

ある日、私はPonのアパートにいた。そこに「馬」が電話をかけてきた。かつてただの一度も交流のなかった二人である。「馬」は高校の美術の講師であった。Ponは中学に所属していたし、私があまり「馬」を好まなかったから話題にさえもしなかった。不思議なことに、かの中米男も、「馬」によって、K学園の講師にもぐりこんだにもかかわらず、「馬」のことは話題にしなかった。だからPonと「馬」の間にはまったく接点がなかった。

 

その「馬」の電話にPonは怪訝な顔をして、何かもそもそと応じていた。盛んに言っていたのは、「他人の私的な問題ですから・・・」という言葉だった。

 

私のことだな?と不審に思った。電話を置いて、Ponはいやな顔をしていた。

 

「どうしたの?」と聞いたら、「馬」が私がかの中米男を追いかけていくというのは「反対だ」といってきたというのだった。私は彼が余り話題にしなかったし、話題にしないことを根掘り葉掘り聞く習慣がなかったから、彼とその「馬」との関係をよく知らなかった。しかし、彼女が他人の結婚に「反対表明」する筋合いがある人間とも思えなかった。

 

「馬」のご主人が、中米男がアメリカに留学して修士号を取ったときの同級生だということを聞いたことがあるが、彼が「馬」の夫婦と一緒にいたことも見たことないし、馬夫婦がどこにすんでいるかも知らなかった。

 

私と中米男との付き合いはいつも小森先生のうちだったし、大体小森先生が私と彼を引き合わせたようなものだった。だから彼女が、ほとんど親交のない私の「結婚」を反対するわけがわからなかった。

 

「いったいなんなの?」と私はPonに聞いた。ただ、いぶかしかった。

 

「多分」と彼女は言った。「『馬』がエノクをすきなんでしょ。」

 

「ひぇえ?」

 

Ponという人は、11歳年少とはいえ、男と女のことに関しては、私よりはるかに先輩であった。いわれた言葉から相手の気持ちを見抜く才能も抜群であった。男女間のうそや駆け引きに通じていたし、嫉妬心から女や男が何をするかもわかっていた。私は彼女から、「男女学」を学んだようなものだった。その彼女が、ぺらりとそう言った。

 

その後も「馬」はしつこかった。どういうわけか私に直接話してくることは一度もなかった。いつも私がPonのうちにいるとき、どうやって私の来ている事がわかるのだか、必ず電話をしてきた。

 

電話でなんだか変に声を潜め、「あの人は女も子供もいるんですよ、かなりのプレイボーイですよ。そんなこと三好先生知らないでしょう。騙されていますよ。」等といってきたそうだ。

 

 

私たちは中米男が「普通ではない側」の人間であることを知っていた。小森先生もPonも、反クリスチャンと呼ばれ、売女と呼ばれてきた。しかし彼女たちは、私の知るほかのどんな女性たちよりまじめだった。まじめに真剣に人生を生きていた。だから私が自分の人生に起きてくることにまじめに苦しんでいたとき、彼女たちは私を助けた。彼女たちは私のまじめさを知っていた。

 

そして、中米男エノクは、私が35年間苦しみぬいてきたコンプレックスを「価値」だと見抜く目を持っていた。「価値」のために苦しむことはないのだといってくれた。もう「普通であること」にあこがれなくてもいいと言ってくれた。見てくれがよいのが「価値」ではない。「価値」とは真実に対して真摯に生きるところにあるのだと。

 

この結婚は、誰に言われなくても、所詮常識の範囲ではないことを、当事者同士が一番よく知っていた。

 

しかし彼は決して「女を騙すプレイボーイ」ではなかった。彼は過去の失敗を秘密にしようとも、過去から逃れようとも、頬かむりしようともしなかった。

 

それどころか彼は過去の失敗に責任をとろうとしていた。私がかつて、出会ったどうしようもない男は、表面学校の先生としてまじめに生きているように見えようと、過去の失敗に責任を取る人間ではなかっただろう。

 

ピストルを振り回す女も「生きた、心を持った人間だ」と彼はいい、その子に自分のできる限りの責任を取ろうと努力している人間が、「馬」の言うような「プレイボーイ」ではないことを、私たちは知っていた。彼の実際の行動を評価せず、未婚で子供を持っているから、即「プレイボーイ」と定義して、そっと陰口をきく「馬」のほうが、「不真面目」な人間に私には思えた。

 

いやなやつだな、と私は思った。Ponは不愉快そうな顔をしていた。

 

彼女はすごくきっぱりと、「馬」にいった。「私はあなたの話を三好先生に伝える気はないし、人の個人的な問題に首を突っ込むつもりはありません。」

 

「ええ、私もそうなんです。でも…」といって「馬」は電話を切った。

 

「馬」はその後、私が退職するより前に妊娠を理由に退職した。結婚後10年できなかった子供が、彼女のある心の動きによってできたらしい。そのことをいつか私がエノクに語ったら、彼は笑っていった。

 

「実は知っていたんだ。彼女が僕を好きなこと。彼女僕のこと考えて、子供ができたのかもしれないよ。」

なんなのよ、もう!

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馬です。

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父の自画像