改定「仏教との出会い」(6)キリスト教との比較
改定「仏教との出会い」(6)
「ちょっとここで、伏線としてのキリスト教の話」
私が高校時代(カトリック校)に出会って、いつも心に抱いてきた言葉がある。それは「汝らのうち罪なき者、まず石もてこの女を打て」と言う言葉だ。
その言葉は、宗教の授業ではなく、一般の高校の国語の教科書に出ていた。その言葉に出会ってから、私はいつもこの言葉を眺めて生きてきた。イエスの無条件の愛を自分に向けられたかのように感じて、勝手に感動していた。
そう。この言葉には、イエスの「無条件の」愛が見事に表現されている。キリストより前に出てきた預言者、洗者ヨハネは「悔改めよ」と叫んでいた。彼は救いの条件を「悔改めて」「水の洗礼を受ける」こととした。しかし、キリスト(救い主)と呼ばれるイエスは「悔い改めたわけでなく」「洗礼さえ受けていない」マグダラのマリアを救い、生かした。
にもかかわらず、現代の多くのキリスト教徒は、「悔改め、洗礼を受けること」を、救いの条件としている。キリスト教の元祖といただくイエスが「救い」に何も条件をつけていないにもかかわらず。
「罪の女」をかばった時、イエスは一言も、「救いの条件」の話はしなかった。罪の女は罪の女であり、本来の救いの条件から完全に外れていた。悔い改めてもいないし、洗礼も受けていない、「自らの罪によって」「合法的に」殺されようとしていた女だ。それをイエスがかばって言った言葉は、被処刑者にたいしてではなく、逆に処刑者に対してだった。「お前たちは人を裁く権利があるほど正しいのか!」「お前たちには罪がないのか?」
その言葉にぎょっとした人々は誰も女に石を投げつけるものがいなかった。。。らしい。まだ、イエスが、誰にも神の子とかいう認識を持たれていなかったときの、「ただの人間」だった時の発言だった。
イエスが群集に向かって放ったこの言葉は、「愛」の意味を問う言葉かもしれない。「愛とは無条件なものである」ことの表明だ。救いの条件として、「悔改める」ことも、「信じる」ことも、「洗礼を受けること」も、制定などしなかった。
彼は、「悔改める」のを待たずに、罪の女とされ、殺されようとする女性をかばった。これは、ユダヤ教の伝統的な律法違反の人間に対する、「律法を無視した愛」だった。
その言葉の意味に、当時16歳でまだ深く考えが及ばなかった私は、あたかも、自分に対してかけられた言葉であるかのように、感動したのだ。
「合法的に」殺される寸前だったこの女性は、イエスのこの言葉に感動して、イエスについていった。
色々な教条を信じてから悔改めて、その条件で赦されて、条件を満たした後救われるという、儀式や段階を経て、ついていったのではない。
イエスは救いの「条件」を出さなかった。後世の教会が何をいおうと、彼は救いの条件に儀式的な罪の告白や洗礼の主張など、しなかった。
この場面の彼の言葉にはどんな人間も逆らえないほどの気迫がある。「お前たちのうち、罪がないものがいるのか!。いるのなら、この女を石殺しにしてみよ!」と彼は群集に向かって、吼えた。「自分にだけは罪がなく、人を裁ける人間であるとうぬぼれているやつが、いるのか。」
そういう問いを、彼は律法をほとんど神そのものだと思っている群集に向かって投げかけた。
群集は彼の、魂をえぐるような問いかけに、律法を盾にして反論することが出来なかった。彼は罪の女とされた女性を救ったばかりでなく、居合わせたすべてのものに、自分の心と対峙して、人間とはいかなるものかに目を向けさせ、覚醒を促した。彼は女性の生命を救ったが、群衆に対してはその心を救ったのだ。
他に聖書のどんな部分を読まなくてもいい。イエスの救いの意味はこの言葉に集約されていると、私はこの言葉を聞いて以来、ずっと思ってきた。
30代になってカトリック国エルサルバドルにいったとき、散々聞かされた、スペインカトリックの残虐な歴史のなかの一こま。
あるスペインの兵士が自分が強姦した原住民の女性が子を孕んだ。ところが、その女性は洗礼を受けることを拒んだため、男は、女の腹を掻っ捌いて自分のDNAを持つ赤ん坊を引っ張り出し、その子に洗礼を授けて、殺した、と言う。それほど、「洗礼」というのは、救いの条件として人々を呪縛し、なんでもいいから洗礼の水を引っ掛けて授けちまえば、すぐに死んでも安心だと信じられていた。
しかし、イエスが救ったマグダラのマリアは、後世の救いの条件を全く満たしていない「ただの罪の女」だった。
腹を掻っ捌いて中の赤ん坊に洗礼の水をひっかけたら安心する。それは、教会の呪縛の中で生きたキリストなき、キリスト教徒の成れの果てとしかいいようがない。教会の組織の中に取り込まれたキリストは、その後、救いのために多くの条件を付与されてきた。
生きた 生の人間 キリストは救いに洗礼の条件などつけなかった。彼が救った「罪の女」といわれた女性に、彼は洗礼を授けなかった。聖母マリアといわれる彼の母も、12人の弟子たちも、洗礼も受けず、教会にも所属せず、教会維持費を払わず、特に悔い改める儀式をせず、それなのに教会から「聖人」と呼ばれている。
救いの条件を持たず、キリスト教徒の儀礼を経ていないし、洗礼も受けなかった「聖母」マリアをはじめ、イエスの「聖」がつく12人の弟子たちも、この意味では「キリスト教徒」ではない。つまり後に全世界で「キリスト教徒」を大量生産するために、従わないものは殺し、異国の人々の国を奪い、結果生まれた「so-calledキリスト教徒」は、イエスの母マリアとも、12人の弟子たちとも同一教徒ではないと言いうる。
キリストの教えと呼ばれるものは「愛」しかないし、その「愛」がなくて強制力と恭順しかない教えをイエスは教えなかったのだから。
改定「仏教との出会い」(5)
改定「仏教との出会い」(5)
「方便と言う考え方」
仏教の目的は「ひたすら自己と対峙して悟りを開くこと」だとすれば、一体、阿弥陀如来ってなんなのだ。まあ、もともと、どの宗教にも「像」などと言うものは想定されていない。あれは人間が自分の目玉を大切にして、どうしても目に見えなきゃ信仰できないからできたものだからね。
私には、「仏教美術」の中のあまたの名前が付けられた仏像たちの姿が浮かぶ。触ると目の病気が治る観音様や、子どもを授けてくれるお地蔵さんなどが目に浮かぶ。尤もスペインカトリックの古い教会には、同じような「目治しマリア様」がいて、視力の落ちた土地の人々が隊列をなして通っているのも知っている。「モンセラット」の真っ黒なマリア様ね。
宗教って、創始者の思惑を無視してみんなそういう風なご利益宗教になりやすいのだ。これはどうも、人間が「無明」だかららしい。呵々大笑^^。今、tvをにぎわしている日本のどこかの政党が信じている隣国出身のある宗教も、凄いご利益があるらしい。金もかかるらしいけどね。
ま、それはそうと、私には、真宗男が極めて論理的に語る仏教と、あの仏像群の関係がわからない。多分それは、カトリック教会にごろごろしている聖人像に惑わされて、カトリックも偶像崇拝の多神教だと思ってしまう感覚に似ているかもしれない。
中米のカトリック教会なんか、現地の神様までごろごろ飾ってある。ジャガーもいれば鬼子母神もいる。グアテマラのある地方の教会なんか、聖家族の像の上にジャガー像がある。ジャガーはマヤ民族の守り神だ。ただの飾りじゃあないことを、私は知っている。スペイン人が原住民の神殿を壊した上にカトリック教会を建てるとき、マヤの守護神をそっと忍び込ませた原住民の心意気に、私はそっと賛嘆する。
ただし、私は教会内に立っている、そういう有象無象を拝んだことはない。むしろ、美術品としての「観賞価値」なら、仏像のほうが優れている。どっちにせよ、ああいう「作品」を祈る対象にしたことは生まれてこのかた一度もない。しかしはたから見れば、ごろごろ像に囲まれているところで座っていれば、あれに祈っているように見えることも確かだし、実際に、彫像にご利益があると信じている人もごろごろいる。
だとすれば、仏教寺院における仏像群も、外から見ただけで判断するのはまずい。聞いてみようと思って、真宗男に突っ込んでみた。
先に結論を言うと、結局私は阿弥陀さんの意味がわからなかった。彼は、阿弥陀さんを「実体ではない」とも言うし、「物語の主人公」だとも言うし、「メッセージの表現」だとも言うし、「方便」だとも言う。
思い余って私は、真宗男に、「阿弥陀さんて、一体どこから湧いたんだ?」と聞いたら、「大乗仏教の中の菩薩団の中から湧いたんだ」という。やっぱり、「湧いた」んだ^^。
大乗仏教誕生の歴史は、又、煩瑣なので、これもどんどん割愛しちゃうけれど、阿弥陀如来が登場してくる人間の心の歴史には、なんだかキリスト教の救世主、イエス出現の考え方との接点があったのではないかと考えている。当然これは、私の我田引水である。
ただし、彼の説明には、本当に三位一体のごとき話が出てくるので、三位一体という表現に慣れている私には、そう理解する方が理解しやすい。つまり、仏にも三種類があって、仏教では、法身仏、報身仏、応身仏というらしい。
以下に、私は彼の説明をそのままコピーする。私の理解で捉えたものが正しいかどうかわからないから、読者各自で答えを出せばいい。(カッコ内は私の解釈。カギ括弧は真宗男の説明。)
「★法身=無始無終の真理。(ヤーヴェに当たるかも^^)
★報身=本来無始無終の存在であるところの法身の一部が特殊化したものだと考えられる。特殊化をした時点を一応の始まりとみて、有始無終の存在。(イエス様に当たるかも^^)
★応身=肉体をもっていた釈迦を一般化したところの、まったく人間の姿をして生まれ死ぬ仏、有始有終の仏。(聖人に当たるかも^^)
法身からあふれ出す慈悲が、一切衆生を救わずにはおれない、という願いとして現れたのが報身となり、さらにその慈悲が釈迦という肉身となってこの世界に具体的な形となって現れた、という解釈になっていく。」
で、阿弥陀如来は、「法身からあふれ出す慈悲が、一切衆生を救わずにはおれない、という願いとして現れた報身仏」であって、つまり「慈悲のメッセージに名前をつけた姿」ということらしい。それを仏教では「方便」と言うらしい。
★ヤーヴェ(法身)からあふれ出す愛が、人類の救いを願って、その救いの願いとして現れた御子イエスが救い(慈悲)のメッセージを伝えた・・・。どお?ちょっと代入法で当てはめてみたけど。^^)
カトリック信者としての、我田引水的考えで言うと、キリスト教はユダヤ教の伝統の中から、もともと原存在として戴いていたヤーヴェを人格化して捉えてきた。イスラエルの歴史の中で起きてきたさまざまな出来事を、彼らはこのヤーヴェの視点から捉え、書き記した。それが旧約聖書と呼ばれるものである。
彼らは、原罪を犯した人間とヤーヴェとの契約と言う形で「救世」を約束されたと考えた。この流れの中で、イエスの出現をヤーヴェから送られた救世主、「ヤーヴェの人間化」(受肉)と言う形で捉えた。
一方、仏教の考え方の道筋は、その逆で、まず釈迦が現れて、説いた教えを実践している教団から、「釈迦をこの世に送った存在」は、何かと言うところに思いをはせ、釈迦は法(真理)の化身であり、法身仏なる「存在の元」が慈悲によって、人類を救済するために送ってきた仏という考えに至ったのではないかと思う。
そしてその釈迦を送ってきた存在に、「阿弥陀如来」と言う名をつけたのではないかと。
釈迦滅後数世紀後に結成された大乗仏教の菩薩団(衆生の救済を念じて修行する人々の集団)は、釈迦と言う一人の偉大な人物の教えを思うとき、釈迦はどう見ても只者とは思われなかった。だからただものでない「釈迦」をこの世に送ってきた存在を想定せずに置けなかった。そんなわけで生まれた阿弥陀仏を、「報身仏」と呼ぶ。
真宗男は、イエスを「神の子」と言うキリスト教徒の伝統的な呼び名を避けて、「イエス如来」と呼ぶ。如来とは「真理から来た者」と言う意味だ。これ正しいね。
ところで、仏教には、さまざまな「如来」がいる。「いる」と言うか、方便によって設定されている。多分、推定の域をでないが、その多くの「如来」なるものは、キリスト教における「天使」にあたるかもしれない。
ふと私は、自分が子供の頃、苦しんでいたときに忽然と現れて自分を助け、消えていった人々のことを、「羽なし天使」と呼んでいた過去を思い出した。あまりに適切なときに現れ、ひとり立ちできるようになると、消えていった、追いかけても捕まえることができなかった、あの不思議な出会いのことを。
仏教における仏たちは、もしかしたら、個人的な私の記憶にあるようなものの延長で、もっと規模の大きい集団を救った、「羽なし天使たち」かもしれない。すくなくとも、阿弥陀如来が想定されるまでの、古代インドの人々の心理の構造は、私の個人的経験から来る「羽なし天使」の形成とよく似ている。私の中に、夢にうつつに、出会った人々の影がよぎっては消えた。
改定「仏教との出会い」(4)
改定「仏教との出会い」(4)
「象と盲人のたとえ」
本来イスラエル語の「ヤーヴェ」と仏教用語の「法」は定義上同じものらしいと、この論争中の二人だけの合意で、話を進めるけれど、そもそも「法」とはなんなのだ、と私は真宗男にしつこく聞いた。つまり私はこの両方とも理解しているわけではなかったから。
「法」と言う硬い言葉の響きは、法律と言う言葉を髣髴とさせ、何か、人間を規制するような響きがある。先ほどの二人の合意点を仮に真理とするならば、キリスト教徒は、その「ヤーヴェ」原存在を、つまり人格化したことがない「法」を、「父」と呼んで崇めていることになる。
イエスは「旧約の律法至上主義(いわばヤーヴェを律法そのものと考えた主義)」を「愛」を優先させることによって克服したはずだ。だったら人格化しようのない「法」をヤーヴェだという真宗男の考えに、ふと、疑念を抱いた。
おまけに彼は浄土真宗の門徒である。浄土真宗は阿弥陀信仰を持っていることになっているから、その「法」と「釈迦」と「阿弥陀仏」の関係がわからない。ひょっとしてひょっとしちゃうと、これって、仏教風三位一体?
もう少し知りたいと、私は真宗男に詰問した。
この友人は私と同様、かなりのパラノイアらしくて、一つ質問すると、怒涛のように答える。内容も深いが、仏教用語が邪魔して私にはわかりづらい。だから、わかったところだけをつまみ食いしながら、付き合わざるを得ない。
(ところで、最近、男女が「付き合う」と言う言葉は、怪しい意味に限定されているようだけれど、私が言う「付き合う」は男女関係には程遠い、本来の意味にご解釈願いたい。)
会話を全部そのまま載せてもいいけれど、それでは私が自分の問題に取り込みながら考えて書くこのエッセイの意味がない。だから、私の仏教理解は「生まれつきのカトリック信者の頭を通しての理解」なので、仏教徒にとっては意味ないだろうと思うけど、読者の中の仏教関係者の方々、気にしないで欲しい。というか、当のカトリックも、プロテスタントも、私のこの心の旅を自分とはかかわりないものと思うだろう。所詮こういうのもは、独り言だから。
そこで、私の本来の質問そっちのけに、パラノイア同盟の真宗男は長々と「盲人と象の話し」を書き送ってきた。
長いからすべてをここに書けないから、かいつまんでいうと、こんなところかな。
「ある王様が、国中の盲人を集めて、象を触らせた。で、一人一人に、象とはいかなるものかと、問いかけた。盲人は、それぞれ自分が触れた象の部分だけを全てだといって、お互いに争った。鼻に触れたものは、象とはでかいホースのようだといい、耳に触れたものは、象は座布団のようだといった。おなかを触ったものは象とは、穀物を入れた頭陀袋のようだといい、足を触ったものは、象とは樹齢50年ぐらいの木の幹のようだと主張した。(この「たとえ」は、本来の表現ではなく、現代人の私が勝手に自分ならこう表現するだろうと思う身近なものに置き換えているので、適当に考えてくれればいい。問題は「意味するところ」の私なりの理解にあるのだから。)
言いたいことは、盲人は象の全体が見えないから、自分の触れた物が象なるもののすべてだと言い張ったという事実である。
で、この場合、人間が「真理」だと言っているものは、限りある人間にすべてを把握できるような代物ではないということ。
一人の人間が把握して、信じているものは、真理のホンの一部に過ぎない、「法」とはそういうものであって、「法」の前に人間は盲人なのだ。と言うことのたとえのようだった。
つまり彼は、この逸話を提示することによって「法」の解説を拒絶したのである。
なるほど、と私はこの拒絶の仕方に満足した。
これは「法」がヤーヴェだというよりも、世に「真理」と言われるものがあるとしたら、それは限界ある人間の頭ですべてを把握できるものではない、定義を求めることが、そもそも傲慢であり、法なりヤーヴェなりの定義は、このとおりだということ自体ナンセンスだということの説明に他ならない。
宇宙に「原存在」といえる真理が存在する。ある人間集団はそれをヤーヴェと呼び、自分の民族の軍神として捕らえた。ある集団は、これを太陽のごとく捉え大日如来と呼んで、他の呼び名を排除した。ある集団はこれをアラーと呼び、アラーのほかに神なしと宣言した。彼らは一人一人、「原存在」の耳を触り、尻尾を触り、足を触り、鼻を触り、それがすべてと感じたのだ。
で、お釈迦さんはこれを「法」と呼び、法とはなにかと言う問いに答えず、人間の無明の状態のほうに、注意を促したらしい。いいね^^、これ。
人間はすべて、真理の一部を触っている盲人に過ぎず、誰も真理のすべてを把握しているものなどいない。人間の争いは、すべて、自分が盲人であることに気付かないところから来る。
ほう!(駄洒落じゃないよ) これは凄いぞ、と私は感じた。私はその時、自分が「象を触った一人の盲人」であったことを、雷に打たれたごとく悟ったのである。
釈迦は歴史上の人物である。その人間的歴史的事実はどこにでも書いてあるから割愛する。釈迦が産道を通らずわきの下から生まれたとか、天上天下唯我独尊言って、3歩歩いたとか言う伝説的なものは、凄く喜んで信じている人がいるのも知っているけれど、思考に邪魔だから、尚のこと割愛する。
なんだか古代の偉人聖人の伝記作家は、自分だって男女の性交によって、女性から生まれたくせに、ひどく女性が穢れたものと考えていたらしく、処女から生まれさせたり、産道を通らずに、穴がないわき腹から生まれたりさせたがるので厄介だ。
(ところで、、とあるカトリック神学者の説を聞いたことがあるけれど、マリアが処女であることの意味は、イエスをユダヤの宗教的伝統と家父長制の枠からはずさないと、世界宗教としてのキリスト教の成立の邪魔になるから、その意味で、マリアだけから生まれたように設定したらしい。すみませんね、「設定」なんていうパソコン用語使っちゃって^^。何しろ、パソコンでこれ書いているもので・・・)
その釈迦が紀元前のある時代にインドのある地方に生まれて、人間としてのある期間を生きた後、出家修行をして「悟り」を開き、人々に「法」を説いた。彼は何かを「信仰」せよとか、まして、自分自身を拝めとは、一言も言わなかった。彼が説いたのは、単純化して言えば、人間の苦(煩悩)の克服であり、色即是空、空即是色の真理であったらしい。
その後何世紀もの間、アジアの各国で、彼は神格化され、伝えられた土地の民間信仰と融合し、キリスト教の歴史と同様、その実態が変化した。
私のような門外漢がおぼろげに仏教はこうだと思っているのは、その「民間信仰」と融合した仏教であるらしい。仏教には神がない。仏教における神とされるものは、仏教の出身母体であるバラモン教の神々であって、仏教には拝む相手はないのだ。ひたすら自己と対峙して「悟り」を開くことが、目的らしい。
だったら一体、阿弥陀如来ってなんなのだ。
私には、仏教美術の中のあまたの名前が付けられた仏像たちの姿が浮かぶ。触ると目の病気が治る観音様や、子どもを授けてくれるお地蔵さんなどが目に浮かぶ。
尤もスペインカトリックの古い教会には、同じような目治しマリア様がいて、視力の落ちた土地の人々が目の疾患を直したいと思って、隊列をなして通っているのも知っている。宗教って、創始者の思惑を無視してみんなそういう風なご利益宗教になりやすいのだ。これはどうも、人間が「無明」だかららしい。(げらげら)
私は、真宗男が極めて論理的に語る仏教と、あの仏像群の関係がわからない。多分それは、カトリック教会にごろごろしている聖人像に惑わされて、カトリックも多神教だと思ってしまう感覚に似ているかもしれない。中米のカトリック教会なんか、現地の神様まで飾ってある。ジャガーもいれば鬼子母神もいる。グアテマラのある地方の教会なんか、十字架の上にジャガー像がある。ジャガーはマヤ民族の守り神だ。ただの飾りじゃあないことを、私は知っている。スペイン人が民族の神殿を壊した上にカトリック教会を立てるとき、マヤの守護神をそっと忍び込ませた原住民の心意気に、私はそっと賛嘆する。
ただし、私は教会内に立っている、そういう有象無象を拝んだことはない。だいたい、教会は場所であって、あそこに行かなければ祈れないわけではない。
仏教の仏像群も、外から見ただけで判断するのはまずい。聞いてみようと思って、真宗男に突っ込んでみた。
改定「仏教との出会い」(2)(3)
改定「仏教との出会い」(2)(3)
私は、30代のころから教え子との関連で、言語の意味の上から「記紀神話」の研究を、続けてきた。この研究の中で、私は「神」と言う日本語にこだわった。
記紀の記述に拠れば、日本の神々は生成変化するもので、「葦黴のごとく成る」ものである。いわば「涌く」ものだ。人が死んで「神」と成るのも、日本古来からの原始信仰の中にあり、東条英機が「神」として祭られるのも、それは「成った」からであって、キリスト教の「ヤーヴェ」とは、まったく関係がない。
東条英機は神になったかもしれないけれど、ヤーヴェになったのではないから、誰かが靖国参拝をしても、キリスト教徒が騒ぐことはない。
一方、現代キリスト教が「ヤーヴェ」の日本語訳として使っている「神」は、生成変化する存在ではない。「ヤーヴェ」とは「在りて在るもの」、つまり「自在するもの」「すべての存在の元」、「原存在」である。
イスラエル民族の伝承の中に出てくるからといって、イスラエルの軍神でもない。イスラエル民族が自民族の軍神として今でも捉え続けている存在を、全人類の「父」、「愛の源」と、初めて公言したのが、キリスト教の元祖であるイエズスその人だ。
そこをイスラエル人も当のキリスト教徒も旧約聖書の記述にこだわって、誤解している。と、私は考える。
イエスは「律法を完成させるために来た」といっている限り、旧約の律法は「未完成」だということであり、イエスは「目には目を」の価値観を「右の頬を殴られたら、左も出せ」の価値観に置き換えた人間だ。(別に私はこれを実践しているわけではないよ)
そこを受け入れない「キリスト教」は、キリストさえもある集団だけを守る軍神にしてしまって、キリストを信じないものはぶっ殺すぞといって、世界戦争を起こしたりする。1神教だからおかしいのではなくて、母体となったユダヤ教から脱皮していないからおかしいのだ。
「全人類の父」と表現されたヤーヴェは「原存在」であるから、人間が信じようと信じなかろうと、存在そのものなのだ。人間から存在の許可をもらって存在しているわけではない。だから、東洋は神々を「認める」から心が広い、などという論理は成立しない。
そして、ヤーヴェの存在を表すような、そんな定義を持つ言葉は、日本語の中に存在しない。
そもそもそれを「一」神教と呼ぶのは間違っている。「原存在」は始めなく、終わりなく、遍在するものであり、真理そのものであるから、一も二もない。そもそも数の概念を超えている。
だからヤーヴェは宇宙の根源、すべてを包含する存在である。そういう存在が、お釈迦様にぬがづくかいな。だいたい、ヤーヴェには、額づくための「額」がないよ。(げらげら^^)
そう私が、真宗男にいったら、「そうか、ヤーヴェがそういう存在なら、それは仏教で言う『法』だな。」と答えた。「おう」と私は、紛らわしい「神」以外に、ヤーヴェの訳語が、他宗にあることに喜んで話を進めた。
「そんな存在が仏教のほうにもあるのか!私は仏教の仏さんたちは、みんな人間が死んで生成変化したものかと思っていた。」
「ヤーヴェ」と「法」の相違点は、一方が人格化された存在であり、他方が、より抽象的な観点から捉えたものである点らしい。
そのことにあえて留まらず、私はこの真宗男との仏教・キリスト教論争を進めて行った。
改定「仏教との出会い」(3)
「ヤーヴェ」と「神」、「一神教と多神教」
私は中村元と、もう一人はひろさちやという仏教学者の本をかなり読み漁った。この二人からは、仏教に関しては多くを学んだ。ただし、ひろさちやは読みやすく、中村元は読みにくかった。難しいことは「バカにでも分かる」言葉遣いで書くべきだ。
ところで二人とも、仏教を語りながらよくキリスト教に触れる。しかし、キリスト教に関しては、中村氏はかなり否定的で、ひろさちや氏は非常に深読みをし、それなりに面白い。
ただし二人はヤーヴェ解釈では一致して、誤解していると私は思う。もともとは仏教を知りたいと思って読み始めたことだけれど、キリスト教に対する記述が、何度も何度もでてくるので、どうしても神経がそういうところにいくんだけどね。
「神など、ごろごろいるのに、自分の神だけが正しいというのは、傲慢である」と、中村氏はキリスト教を批判して言い、「一神教は、たくさんいる神々の中から一人を選んで、それだけが唯一の神だといっている」と、ひろさちや氏はいう。
キリスト教側の常識では、「ごろごろいる神の一種」を、そもそも「ヤーヴェ」とは呼ばない。ひろさちや説は、新約聖書を無視して旧約聖書の記述のみを読んでいると、そう取られても仕方がない観がある。つまり、旧約聖書の「神観」は「他を排除して、一人だけ選んだイスラエル民族を守る軍神」である。新約聖書の「ヤーヴェ観」は全宇宙の存在のもと「第一原因」である。
旧約聖書のヤーヴェの表現は強烈で、「始めなく終わりない、『在りて在るもの』以外に呼称のない全宇宙の創造神」であると「表現」しながら、一方、その「神」はイスラエル民族のみを守り、異民族はハエのごとく追い払い打ち滅ぼす神として表現されている。こんなの、「宇宙神」のはずがない。
そして、現実に旧約聖書を母体とする多くのキリスト教集団は歴史的に異民族に対して「うちてしやまむ」の精神で侵略を繰り返してきたのは事実である。それはカトリックであろうと、プロテスタントであろうと、世界制覇を目指すキリスト教陣営の心のよりどころにさえなっているから、こういう解釈がなされても致し方ない、と私は考える。
世界の趨勢を歴史的に見ても、キリスト教徒は、異民族を支配するために、聖書を「利用」してきた。三位一体の神を信じないもの、洗礼を受けないものは、地獄に落ちると脅迫して、従わないものはぶっ殺して強引に、キリスト教圏を増やしてきた。ぶっ殺した相手はヤーヴェが作ったんじゃないの?
私が子どものころに通ったスペイン系修道女会の学校でも、スペインカトリックの体質を表す出来事があった。
ある同級生の妹である赤ちゃんが死んだ。知らせを受けたあるシスターが、いきなりその生徒の胸倉つかんで聞いたのだ。「赤ちゃんに洗礼を授けましたか?」きょとんとして、首を横に振った生徒に、そのシスターは言下に宣言したもんだ。「それでは、あなたの妹さん、地獄です!」(どっちが地獄行きだよ)
あまりにひどいと思った私と姉が、帰ってからそれを母に言った。母はあきれてあいた口を閉めなかった。我が家は全員カトリックだったが、こういう反常識発言が正しいといった者は一人もいない。
「キリスト教徒の大半はキリストを誤解することによって成り立っている」とひろさちや氏は言う。これ明言。しかし、聖書を深読みするひろさちや氏も、ヤーヴェに関しては、誤解しているようだ。
ナザレのイエスはユダヤ民族が自民族の軍神として捉えた「ヤーヴェ:在りて在るもの」を本来の姿に戻した。すなわちそれは「全人類、全宇宙をつかさどる普遍、不変の真理として、全人類に対する無条件の愛そのもの」として、「父」と呼んだ。
それはユダヤ教に対する革命であって、イエスの福音とは旧約の制約や自民族の軍神としてのヤーヴェの定義からの解放であり、全人類に対する愛の宣言なのだ。
旧約の記述に従えば、「ヤーヴェはたった一人の神で、他の神々は偽者であり、しかも、そのヤーヴェさんはユダヤ民族のためだけにあり、ユダヤ民族だけを守り、600以上の戒律の遂行をヤーヴェとの契約であると主張し、安息日には人が死んでも身動きもせず、その名に置いて、有史以来の約束の地であるパレスチナには侵略し、破壊し、爆撃し、住民を無差別に虐殺しても赦される」という。だったらキリストが出てくる意味がまったくない。
ナザレのイエスは実にそれらを否定したから磔になったのだから。このイエスが磔になった理由や意味を把握しているキリスト教徒はほとんどいない。それで十字架という処刑具を首に下げて拝んでいるんだから正直言ってバカみたい。
旧約聖書と新約聖書の違いを無視して、読んでいる限り、「神など、ごろごろいるのに、自分の神だけが正しいというのは、傲慢である」と言うのも正しい。
しかしそれは、仏教の出身母体であるバラモン教と仏教を同一視し、釈迦の活動を無視してバラモン教の神々を仏教に取り込むことと同じである。
梵天や帝釈天は、バラモン教の神々である。釈迦のまえに「額づいた」と言う表現は、釈迦がバラモン教を超えたという意味だと、かの真宗男は言う。
そうならば、仏教に神々は無用だから多神教ではなく、普遍、不変の原存在としてのヤーヴェは数の観念で数えられる存在ではないからヤーヴェを戴くキリスト教は一神教ではない。
私は世界に名だたる仏教学者が、一神教の名の下に、キリスト教をそのように断罪しているときに、チャットの部屋の一介の非キリスト教徒の民間研究者に過ぎない真宗男が、「ヤーヴェ:在りて在るもの」を仏教における唯一の真理、「法」と同じものだろうと言う言葉を聞いて、うれしかった。
じつに物事は、其処から出発したのである。
なんだか、仏教の記述読んだら、昔の記事が懐かしくなった(1)
改定「仏教との出会い」(1)
「チャットの部屋にて」
ある物事に、ものすごく興味を持って、神経が猛烈にその物事に集中し、わからないから、その物事について知っている者の胸倉つかんで、教えろといい、図書館に飛び込んで、その物事にかかわる30数冊の本を借りて読み、ネット書店のアマゾンを探して、どんどん、その物事にかかわる本を注文し、むさぼり読んだ結果、それでも何もわからないくせに、いつの間にか、その物事の影響を深く受けてしまうことを、多分、「出会い」と言うのだろう。(これはたぶん、10年位前の記述)
そうやって、私は仏教と出会った。私は別に仏教を「求めた」覚えはない。わからないから、私の脳みそがわかろうとして努力しただけだった。毎日毎晩それはそれは緊張し、私の脳みそは仏典に集中していた。
さかのぼる事10数年前、エルサルバドルからの帰国後、私はある仏教校に国語講師として臨時採用をされた。その時、初めて、「般若心経」なるものに触れた。まあ、解説は聞いたことはあるけれど、自分で読んだのは初めてだった。
ところが、いくら読んでも意味がさっぱりわからず、なんとしてでもわかろうとした。同時に勤めていた幼稚園の空き時間に近所の図書館に通い、仏教関係の本を手当たりしだいむさぼり読んだ。たぶん、あの図書館の仏教関係の蔵書をすべて読んだだろう。分館にまで探してもらって読んだ覚えがあるから。
自分は「仏教国」日本の国民でありながら、厳しかった時代のカトリックの家庭に生まれ育ち、他宗に触れたことがほとんどなかった。地域の祭りにも参加せず、仏教寺院は偶像崇拝の館として近寄らなかった。
だから、そもそも、仏典や、仏教用語、その解説書に書かれていることは、初体験で、ほとんど外国語に近かった。むしろ、解説書を英語で読むほうが、よほど何を意味しているのか理解できた。
日本に帰国したばかりで、一緒に住んでいたエノクが、仏教に興味を持って鈴木大拙の英文の仏教解説書をいつも読んでいたから、ぺらぺらとめくってみたことがあった。その時は、さほど興味はわかなかった。興味がわいたのは、臨時採用された仏教校で生徒が理解している世界を理解したいという切実な願いがあったからだった。そして、相手がいなくなったあとでも、わからないままにしておくのは、なんとも気がかりだった。
あの学校の教壇に立つ前、仏教関係の本では、たった一冊、「歎異抄」を知っていた。高校時代、変わり者のさる日本人神父が、説教で、「歎異抄」を引き合いに出し、それを極めてキリスト教的に解釈して紹介したのだった。
ヤフーのチャットの部屋で、ある男に会った。その男は、私の直接の知り合いではなく、私が出入りしていた、かの仏教部屋の主の友人で、いつも二人は議論していた。その議論を私は傍らで、眺めていた。
彼は親鸞の話をしていた。自分の取っ掛かりは、唯一、その親鸞だった。歎異抄なら高校時代にふれたことがあるから、そこから入っていけば何かわかりそうだったし、質問のし様もあった。
その会話を見ているうちに、私は、自分の疑問を、その男にぶつけてみようと思った。彼の話し振りには知性と論理性があり、ご利益宗教、呪術宗教、前世、来世の化け物信仰に陥りやすい、もろもろの「仏教風の」宗教の徒ではないようだった。
こちらが真面目に質問をすれば、一晩でも二晩でも付き合ってくる、そのくせ自分の信念を他人に押し付けない、他宗を誹謗しない、数少ない種類の人物だった。彼はこちらがキリスト教徒だと知ると、聖書も読む、そしてその聖書を仏教的に解釈する。それがいかにも面白かった。私は聖書を読むよりも前に、教条的な聖書の解釈を「習ってしまった」人間だったから、他宗の人物の別の解釈は、新鮮だった。
彼はお寺の出身ではなくて、理解できないことを理解しようと原典に当たって研究している「凡夫」だそうだ。「凡夫」とは、キリスト教で言う「罪びと」なのだろう。
仏教部屋の主は自分のことを「煩悩具足」だという。これもやっぱりキリスト教で言う「罪びと」なのだろう。反発を食うかもしれないけれど、そのことは後に解説する。
で、話の都合上、この部屋主を、その出身地から「札幌男」とよび、知的なほうは浄土真宗の門徒らしいので「真宗男」と呼ぶことにした。
始め、私の疑問は、「神」と言う言葉の意味から始まった。札幌男によれば、「お釈迦様の前には神々も額づく」そうだ。彼はそれをあたかも、仏教がキリスト教の神の上を行くとでもいいたいような口調で言う。
仏教で言う「神々」って言うのは、何かに「額ずいちゃう存在」なんだね。
他の話者がいう。「一神教は諸悪の根源だ。東洋人のほうが、欧米人より平和を愛するのは、欧米人は一神教でヒステリックであり、多神教の東洋人は鷹揚なのは、多くの神々を認めているからだ。」
「神々」って言うのは、人間様に「認められる存在」なんだね。つまり神様の戸籍謄本は人間様が統括するんだ。
なんだか、余りにも私の持っている概念と違う話を聞いて疑問に思った私は仏教部屋の面々の会話を目で追いながら、あるとき、真宗男に、数件の質問状を送った。
彼はその質問に対して、A4版30枚ほどの回答をよこした。その回答にすべて納得したわけではなかったが、その真摯な回答の仕方に私は満足だった。
彼はその中で、一般的に「仏教的」とされている論理性を欠いた化け物信仰の解説をしてきた。
過去の記事眺めていたら偶然見つけた下書き
S: 所でキリスト教が性悪説と言う話をしたらクリスチャンにもの凄い
私: 話を始める前に、性善説と性悪説の、定義を教えてくれ。その言葉
S: 人間罪の子っての嘘なんだよね?
私: 聖書では、人間を創造した神は、自分に似せて創造したということ
S: 原罪なんてものは最初からないのだよね?
誰かが作り上げた嘘っぱちだよね?
私: そういう、あなたが思いつく言葉をどんどん言われても、無思慮に
よくよく意味を考えてみると、聖書物語では、「人間は、禁じられ
人祖と表現される人間二人は、「裸」を知って「恥」を覚えた。「
「罪」という日本語に訳された言葉は、本来、犯罪という意味でな
それら欲望そのものに「執着」するということが「原罪」なら、
S: それなら仏教もキリスト教も同じようになると思うのだが
私: 性善説だの、性悪説だのという言葉をペラペラ言う前に、人間が本
S: では何故キリスト教と仏教があるのか? そんな区切りをつける必要があるのか?
私: キリスト教を育てた民族と、仏教を育てた民族は、長い歴史の中で
S: 別に喧嘩してるわけじゃないよ。 イエス様と釈尊の考えは全て同じではないでしょう?
私:誰も同じだと言ってない。同じ意味する言葉を別の表現で言っ
それが二つとも世界宗教になった時、 言葉のすり合わせをすれば、共通点と非共通点が見つかるよ。
S: なら何故違いを認めようとしないのか?
私: 誰が認めないのさ
S: 違う人が言ったのなら教え方も違うはず
私: あまりに自分勝手に理論を進めないでね。私はさっきから「 言葉のすり合わせをすれば、共通点と非共通点が見つかる」と言っ
S: 自分勝手でないでしょう
私: 言葉のすり合わせをすれば、共通点と「非共通点」が見つかる。「 言葉のすり合わせをすれば、共通点と非共通点が見つかる。」「 言葉のすり合わせをすれば、共通点と非共通点が見つかる。」
非共通点を、見つけたからと言って、お互いに否定しあうのは発