Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

過去の記事眺めていたら偶然見つけた下書き

ある男との会話

S: 所でキリスト教性悪説と言う話をしたらクリスチャンにもの凄い攻撃を受けたのだが、これは間違いなのか? キリスト教性善説なのか? そこの所、教えてたもれ

私: 話を始める前に、性善説性悪説の、定義を教えてくれ。その言葉はもともと、中国思想で、キリスト教にあてはめる言葉じゃないと思うけれど、定義がないと、話ができない

S: 人間罪の子っての嘘なんだよね?
私: 聖書では、人間を創造した神は、自分に似せて創造したということになっているから、 その人間が、元々「悪」であるという定義をすれば、聖書の言葉を信じる者にとっては、おかしいと思うだろう。 もともと悪だったり、元々善だったりという偏った説がおかしいのさ。

S: 原罪なんてものは最初からないのだよね?
 誰かが作り上げた嘘っぱちだよね?

私: そういう、あなたが思いつく言葉をどんどん言われても、無思慮にどんどん答えられるもんじゃない。 だいたい「原罪」の意味は 仏教用語でいえば、「無明」そのもではないかと、真宗男との問答で、たどり着いたのだけど、原罪の意味を 「人祖が蛇に騙されてリンゴを食べたということ」を吟味もせずに話を進められると、ばかばかしくて話が進められない。

よくよく意味を考えてみると、聖書物語では、「人間は、禁じられていた楽園の木の実を食べた時に、自分の裸を知って恥を感じた。」ということになっている。 ここで、そもそも「裸」とは、何を意味するかを追求する必要がある。

人祖と表現される人間二人は、「裸」を知って「恥」を覚えた。「恥」を隠すために、イチジクの葉っぱを身につけた、ということになっている。つまり、「恥を隠すという行動」が、 衣類で身を包み、身を飾り、富を追求し、権力を追求し死さえも乗り越えようと言う欲望に進展して行った。「知らない」という「楽園状態」が一転して、より多くを求めようという欲望の虜になったのが、楽園追放という状態だ。

「罪」という日本語に訳された言葉は、本来、犯罪という意味でなく、創造主から、目をそらすということだそうだ。だから、現代の教会用語では、悔心とか悔悟と書かずに、「回心」(「心を回らして、神のほうに向き直る」という意味)と表記されている。だから、「性善説」「性悪説という言葉も成り立たない。「もともとどうの」ということではなく、キリスト教では、すべてを人間と神の「関係」としてとらえるから。

 それら欲望そのものに「執着」するということが「原罪」なら、「原罪」とは、それこそ、仏教語でいう「無明」ではないかね。

S: それなら仏教もキリスト教も同じようになると思うのだが
私: 性善説だの、性悪説だのという言葉をペラペラ言う前に、人間が本来、どのような存在なのかを物語によって、描いたのが、聖書だ。

S: では何故キリスト教と仏教があるのか? そんな区切りをつける必要があるのか?

私: キリスト教を育てた民族と、仏教を育てた民族は、長い歴史の中で、異なった言語で行動をしてきたから 、今、両者が出逢ったら、言葉のすり合わせが必要じゃないかね? 同じ言葉を別の原語で表現しているにすぎないものを、喧嘩する前に、これこれを意味する「ある言葉」は、 キリスト教でこう「表現する」、「仏教ではどう表現するか」という言葉のすり合わせが必要なのだ。 それをしないで、性善説だの性悪説だの、比べたって、意味。がな

S: 別に喧嘩してるわけじゃないよ。 イエス様と釈尊の考えは全て同じではないでしょう?

私:誰も同じだと言ってない。同じ意味する言葉を別の表現で言っていることがあると言っている。 あなたは、すぐそういう単純な言葉で、両方を蹴っ飛ばそうとする。 すり合わせが必要だと言っているのに、 いきなり二人は同じじゃないとか言い出す。 同じじゃないの当たり前でしょ。 別の地域の別の社会の別の歴史の中に生まれたんだ。 自分の社会で必要なことを、自分の歴史の中で語ったんだ。

それが二つとも世界宗教になった時、 言葉のすり合わせをすれば、共通点と非共通点が見つかるよ。

S: なら何故違いを認めようとしないのか?

私: 誰が認めないのさ

S: 違う人が言ったのなら教え方も違うはず

私: あまりに自分勝手に理論を進めないでね。私はさっきから「 言葉のすり合わせをすれば、共通点と非共通点が見つかる」と言っている。

S: 自分勝手でないでしょう

私: 言葉のすり合わせをすれば、共通点と「非共通点」が見つかる。「 言葉のすり合わせをすれば、共通点と非共通点が見つかる。」「 言葉のすり合わせをすれば、共通点と非共通点が見つかる。」

 非共通点を、見つけたからと言って、お互いに否定しあうのは発展性がない。逆に お互いに学ぼうとすればいいことだ。

「俺は白で、お前は黒、と言い合ったって、お互いにミサイルブチ込んだって、イエス様もお釈迦さまも、良い気はしないさ^^。」

S: わたしはね わたしが言ったことでクリスチャンが目の色を変えてきたことの疑問を問うただけなのですよ。

私:目の色変えたのが、 どのクリスチャンか知らないよ。私がそのクリスチャンでないことは、確かだ。 どの世界にだって、偏狭な奴はいるよ。

S: だからこそ真摯なクリスチャンの意見を聞きたかったのだ。
私: くってかかった人間がいるなら、私に言わないで、そっちにいえばいい。 私自身、多くのネットクリスチャンは、相手にできないの! やってらんないの!聴く耳も、見る目も、考える頭もないんだから

S: まぁそんなんですが。 でもお互いを理解しあおうと思わない限り平行線のままですよね。

私: 私に言わせれば、あなたも悪いのだ。「キリスト教性悪説」と意味も深く考えないで、断言したら、頭の固い奴は、反発するよ。 私は、「言葉」の本来の意味を研究してきた人間で

S: 意味を考えて言っているんですが^^;

私: 「本来の意味」を研究もしないでぽんぽん言う人間を相手にする時、非常に困惑せざるを得ないのだ。 「神が人間を自分の姿に似せて作った」という聖書の言葉を見る限り、「性悪説」は成り立たない。だからといって、あなたが「性悪説」の根拠を説明しないから、まともな対応ができない。

S: 現実問題として、 キリスト教では人間が神になれると教えているのか?

私: またそれか(慨嘆)

S: これが大事なのだ

私: あなたがいう神と、キリスト教徒がいう神と、「神」の意味が違うからね。日本語に「神」と誤訳された言葉は、「ヤーヴェ」。ヤーヴェとは、「原存在」、存在の大元のこと。 存在の大元に、「なれる人間」はいない。

S: そこだ。 そう限定するところに違いがあるのだ。

私: あなたがいいたいのは、仏教では人間は仏になれるということだと思うけれど、修行によって人間が到達する「仏」は存在の大元ではない。

S: 何故そう言い切れる?

私: 仏教用語で存在の源があるとすればそれは「法」だ。
S: そうだ。

私: 人間は「法」になれない。あくまで、ヤーヴェとは、日本語で言う「神」ではなく「原存在」の意味だ。

S: 限定した時点でわたしを通しての意見と言うことになる。

私: ヤーヴェは「なる者」でなく「在るもの」だ。

ヤーヴェの意味は、そういう意味だと、私が決めたのではない。歴史的に言われていることで、私があなたに詭弁を使っていっている言葉ではない。これは主張でなく、客観的な意味だ。

そのことを、多くのキリスト教徒は、知らないからといって、私が責められる筋合いはない。 無知な人間の言葉が気になって、私の言葉を詭弁だというなら、私を相手にしなければいい。ヤーヴェはヘブライ語で「原存在」のいみであって、「原存在」は仏教では、「法」という。それは私がいい始めたことではない。 仏教で修行によって「なれる」姿は、たぶん「仏」だろう。「仏」に相当する言葉がキリスト教にあるとすれば、「聖人」だけど、まあ、これは、私の考えで、どこにも裏付けはないよ。

S: 虎さんを怒らせるつもりは毛頭ないのだよ

私: ばかだな。怒っているのなら、こんなに相手し続けないよ。