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エルサルバドル内戦体験記

改定「仏教との出会い」(5)

改定「仏教との出会い」(5)

「方便と言う考え方」

 仏教の目的は「ひたすら自己と対峙して悟りを開くこと」だとすれば、一体、阿弥陀如来ってなんなのだ。まあ、もともと、どの宗教にも「像」などと言うものは想定されていない。あれは人間が自分の目玉を大切にして、どうしても目に見えなきゃ信仰できないからできたものだからね。

 私には、「仏教美術」の中のあまたの名前が付けられた仏像たちの姿が浮かぶ。触ると目の病気が治る観音様や、子どもを授けてくれるお地蔵さんなどが目に浮かぶ。尤もスペインカトリックの古い教会には、同じような「目治しマリア様」がいて、視力の落ちた土地の人々が隊列をなして通っているのも知っている。「モンセラット」の真っ黒なマリア様ね。

 

 宗教って、創始者の思惑を無視してみんなそういう風なご利益宗教になりやすいのだ。これはどうも、人間が「無明」だかららしい。呵々大笑^^。今、tvをにぎわしている日本のどこかの政党が信じている隣国出身のある宗教も、凄いご利益があるらしい。金もかかるらしいけどね。

 ま、それはそうと、私には、真宗男が極めて論理的に語る仏教と、あの仏像群の関係がわからない。多分それは、カトリック教会にごろごろしている聖人像に惑わされて、カトリック偶像崇拝多神教だと思ってしまう感覚に似ているかもしれない。

 

 中米のカトリック教会なんか、現地の神様までごろごろ飾ってある。ジャガーもいれば鬼子母神もいる。グアテマラのある地方の教会なんか、聖家族の像の上にジャガー像がある。ジャガーはマヤ民族の守り神だ。ただの飾りじゃあないことを、私は知っている。スペイン人が原住民の神殿を壊した上にカトリック教会を建てるとき、マヤの守護神をそっと忍び込ませた原住民の心意気に、私はそっと賛嘆する。

 ただし、私は教会内に立っている、そういう有象無象を拝んだことはない。むしろ、美術品としての「観賞価値」なら、仏像のほうが優れている。どっちにせよ、ああいう「作品」を祈る対象にしたことは生まれてこのかた一度もない。しかしはたから見れば、ごろごろ像に囲まれているところで座っていれば、あれに祈っているように見えることも確かだし、実際に、彫像にご利益があると信じている人もごろごろいる。

 だとすれば、仏教寺院における仏像群も、外から見ただけで判断するのはまずい。聞いてみようと思って、真宗男に突っ込んでみた。

 先に結論を言うと、結局私は阿弥陀さんの意味がわからなかった。彼は、阿弥陀さんを「実体ではない」とも言うし、「物語の主人公」だとも言うし、「メッセージの表現」だとも言うし、「方便」だとも言う。

 思い余って私は、真宗男に、「阿弥陀さんて、一体どこから湧いたんだ?」と聞いたら、「大乗仏教の中の菩薩団の中から湧いたんだ」という。やっぱり、「湧いた」んだ^^。

 大乗仏教誕生の歴史は、又、煩瑣なので、これもどんどん割愛しちゃうけれど、阿弥陀如来が登場してくる人間の心の歴史には、なんだかキリスト教の救世主、イエス出現の考え方との接点があったのではないかと考えている。当然これは、私の我田引水である。

 ただし、彼の説明には、本当に三位一体のごとき話が出てくるので、三位一体という表現に慣れている私には、そう理解する方が理解しやすい。つまり、仏にも三種類があって、仏教では、法身仏、報身仏、応身仏というらしい。

 以下に、私は彼の説明をそのままコピーする。私の理解で捉えたものが正しいかどうかわからないから、読者各自で答えを出せばいい。(カッコ内は私の解釈。カギ括弧は真宗男の説明。)

「★法身=無始無終の真理。(ヤーヴェに当たるかも^^)
 ★報身=本来無始無終の存在であるところの法身の一部が特殊化したものだと考えられる。特殊化をした時点を一応の始まりとみて、有始無終の存在。(イエス様に当たるかも^^)
 ★応身=肉体をもっていた釈迦を一般化したところの、まったく人間の姿をして生まれ死ぬ仏、有始有終の仏。(聖人に当たるかも^^)

 法身からあふれ出す慈悲が、一切衆生を救わずにはおれない、という願いとして現れたのが報身となり、さらにその慈悲が釈迦という肉身となってこの世界に具体的な形となって現れた、という解釈になっていく。」

 で、阿弥陀如来は、「法身からあふれ出す慈悲が、一切衆生を救わずにはおれない、という願いとして現れた報身仏」であって、つまり「慈悲のメッセージに名前をつけた姿」ということらしい。それを仏教では「方便」と言うらしい。

★ヤーヴェ(法身)からあふれ出す愛が、人類の救いを願って、その救いの願いとして現れた御子イエスが救い(慈悲)のメッセージを伝えた・・・。どお?ちょっと代入法で当てはめてみたけど。^^)

 カトリック信者としての、我田引水的考えで言うと、キリスト教ユダヤ教の伝統の中から、もともと原存在として戴いていたヤーヴェを人格化して捉えてきた。イスラエルの歴史の中で起きてきたさまざまな出来事を、彼らはこのヤーヴェの視点から捉え、書き記した。それが旧約聖書と呼ばれるものである。

 彼らは、原罪を犯した人間とヤーヴェとの契約と言う形で「救世」を約束されたと考えた。この流れの中で、イエスの出現をヤーヴェから送られた救世主、「ヤーヴェの人間化」(受肉)と言う形で捉えた。

 一方、仏教の考え方の道筋は、その逆で、まず釈迦が現れて、説いた教えを実践している教団から、「釈迦をこの世に送った存在」は、何かと言うところに思いをはせ、釈迦は法(真理)の化身であり、法身仏なる「存在の元」が慈悲によって、人類を救済するために送ってきた仏という考えに至ったのではないかと思う。

 そしてその釈迦を送ってきた存在に、「阿弥陀如来」と言う名をつけたのではないかと。

 釈迦滅後数世紀後に結成された大乗仏教の菩薩団(衆生の救済を念じて修行する人々の集団)は、釈迦と言う一人の偉大な人物の教えを思うとき、釈迦はどう見ても只者とは思われなかった。だからただものでない「釈迦」をこの世に送ってきた存在を想定せずに置けなかった。そんなわけで生まれた阿弥陀仏を、「報身仏」と呼ぶ。

 真宗男は、イエスを「神の子」と言うキリスト教徒の伝統的な呼び名を避けて、「イエス如来」と呼ぶ。如来とは「真理から来た者」と言う意味だ。これ正しいね。

 

 ところで、仏教には、さまざまな「如来」がいる。「いる」と言うか、方便によって設定されている。多分、推定の域をでないが、その多くの「如来」なるものは、キリスト教における「天使」にあたるかもしれない。

 ふと私は、自分が子供の頃、苦しんでいたときに忽然と現れて自分を助け、消えていった人々のことを、「羽なし天使」と呼んでいた過去を思い出した。あまりに適切なときに現れ、ひとり立ちできるようになると、消えていった、追いかけても捕まえることができなかった、あの不思議な出会いのことを。

 仏教における仏たちは、もしかしたら、個人的な私の記憶にあるようなものの延長で、もっと規模の大きい集団を救った、「羽なし天使たち」かもしれない。すくなくとも、阿弥陀如来が想定されるまでの、古代インドの人々の心理の構造は、私の個人的経験から来る「羽なし天使」の形成とよく似ている。私の中に、夢にうつつに、出会った人々の影がよぎっては消えた。

 

阿弥陀如来像                キリスト像