Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

改定「仏教との出会い」(4)

改定「仏教との出会い」(4)
「象と盲人のたとえ」

 本来イスラエル語の「ヤーヴェ」と仏教用語の「法」は定義上同じものらしいと、この論争中の二人だけの合意で、話を進めるけれど、そもそも「法」とはなんなのだ、と私は真宗男にしつこく聞いた。つまり私はこの両方とも理解しているわけではなかったから。

「法」と言う硬い言葉の響きは、法律と言う言葉を髣髴とさせ、何か、人間を規制するような響きがある。先ほどの二人の合意点を仮に真理とするならば、キリスト教徒は、その「ヤーヴェ」原存在を、つまり人格化したことがない「法」を、「父」と呼んで崇めていることになる。

 イエスは「旧約の律法至上主義(いわばヤーヴェを律法そのものと考えた主義)」を「愛」を優先させることによって克服したはずだ。だったら人格化しようのない「法」をヤーヴェだという真宗男の考えに、ふと、疑念を抱いた。

 おまけに彼は浄土真宗門徒である。浄土真宗阿弥陀信仰を持っていることになっているから、その「法」と「釈迦」と「阿弥陀仏」の関係がわからない。ひょっとしてひょっとしちゃうと、これって、仏教風三位一体?

 もう少し知りたいと、私は真宗男に詰問した。

 この友人は私と同様、かなりのパラノイアらしくて、一つ質問すると、怒涛のように答える。内容も深いが、仏教用語が邪魔して私にはわかりづらい。だから、わかったところだけをつまみ食いしながら、付き合わざるを得ない。

 (ところで、最近、男女が「付き合う」と言う言葉は、怪しい意味に限定されているようだけれど、私が言う「付き合う」は男女関係には程遠い、本来の意味にご解釈願いたい。)

 会話を全部そのまま載せてもいいけれど、それでは私が自分の問題に取り込みながら考えて書くこのエッセイの意味がない。だから、私の仏教理解は「生まれつきのカトリック信者の頭を通しての理解」なので、仏教徒にとっては意味ないだろうと思うけど、読者の中の仏教関係者の方々、気にしないで欲しい。というか、当のカトリックも、プロテスタントも、私のこの心の旅を自分とはかかわりないものと思うだろう。所詮こういうのもは、独り言だから。

 そこで、私の本来の質問そっちのけに、パラノイア同盟の真宗男は長々と「盲人と象の話し」を書き送ってきた。

 長いからすべてをここに書けないから、かいつまんでいうと、こんなところかな。

「ある王様が、国中の盲人を集めて、象を触らせた。で、一人一人に、象とはいかなるものかと、問いかけた。盲人は、それぞれ自分が触れた象の部分だけを全てだといって、お互いに争った。鼻に触れたものは、象とはでかいホースのようだといい、耳に触れたものは、象は座布団のようだといった。おなかを触ったものは象とは、穀物を入れた頭陀袋のようだといい、足を触ったものは、象とは樹齢50年ぐらいの木の幹のようだと主張した。(この「たとえ」は、本来の表現ではなく、現代人の私が勝手に自分ならこう表現するだろうと思う身近なものに置き換えているので、適当に考えてくれればいい。問題は「意味するところ」の私なりの理解にあるのだから。)

 言いたいことは、盲人は象の全体が見えないから、自分の触れた物が象なるもののすべてだと言い張ったという事実である。

 で、この場合、人間が「真理」だと言っているものは、限りある人間にすべてを把握できるような代物ではないということ。

 一人の人間が把握して、信じているものは、真理のホンの一部に過ぎない、「法」とはそういうものであって、「法」の前に人間は盲人なのだ。と言うことのたとえのようだった。

 つまり彼は、この逸話を提示することによって「法」の解説を拒絶したのである。

なるほど、と私はこの拒絶の仕方に満足した。

 これは「法」がヤーヴェだというよりも、世に「真理」と言われるものがあるとしたら、それは限界ある人間の頭ですべてを把握できるものではない、定義を求めることが、そもそも傲慢であり、法なりヤーヴェなりの定義は、このとおりだということ自体ナンセンスだということの説明に他ならない。

 宇宙に「原存在」といえる真理が存在する。ある人間集団はそれをヤーヴェと呼び、自分の民族の軍神として捕らえた。ある集団は、これを太陽のごとく捉え大日如来と呼んで、他の呼び名を排除した。ある集団はこれをアラーと呼び、アラーのほかに神なしと宣言した。彼らは一人一人、「原存在」の耳を触り、尻尾を触り、足を触り、鼻を触り、それがすべてと感じたのだ。

 で、お釈迦さんはこれを「法」と呼び、法とはなにかと言う問いに答えず、人間の無明の状態のほうに、注意を促したらしい。いいね^^、これ。

 人間はすべて、真理の一部を触っている盲人に過ぎず、誰も真理のすべてを把握しているものなどいない。人間の争いは、すべて、自分が盲人であることに気付かないところから来る。

 ほう!(駄洒落じゃないよ) これは凄いぞ、と私は感じた。私はその時、自分が「象を触った一人の盲人」であったことを、雷に打たれたごとく悟ったのである。

 釈迦は歴史上の人物である。その人間的歴史的事実はどこにでも書いてあるから割愛する。釈迦が産道を通らずわきの下から生まれたとか、天上天下唯我独尊言って、3歩歩いたとか言う伝説的なものは、凄く喜んで信じている人がいるのも知っているけれど、思考に邪魔だから、尚のこと割愛する。

 なんだか古代の偉人聖人の伝記作家は、自分だって男女の性交によって、女性から生まれたくせに、ひどく女性が穢れたものと考えていたらしく、処女から生まれさせたり、産道を通らずに、穴がないわき腹から生まれたりさせたがるので厄介だ。

 (ところで、、とあるカトリック神学者の説を聞いたことがあるけれど、マリアが処女であることの意味は、イエスユダヤの宗教的伝統と家父長制の枠からはずさないと、世界宗教としてのキリスト教の成立の邪魔になるから、その意味で、マリアだけから生まれたように設定したらしい。すみませんね、「設定」なんていうパソコン用語使っちゃって^^。何しろ、パソコンでこれ書いているもので・・・)

 その釈迦が紀元前のある時代にインドのある地方に生まれて、人間としてのある期間を生きた後、出家修行をして「悟り」を開き、人々に「法」を説いた。彼は何かを「信仰」せよとか、まして、自分自身を拝めとは、一言も言わなかった。彼が説いたのは、単純化して言えば、人間の苦(煩悩)の克服であり、色即是空、空即是色の真理であったらしい。

 その後何世紀もの間、アジアの各国で、彼は神格化され、伝えられた土地の民間信仰と融合し、キリスト教の歴史と同様、その実態が変化した。

 私のような門外漢がおぼろげに仏教はこうだと思っているのは、その「民間信仰」と融合した仏教であるらしい。仏教には神がない。仏教における神とされるものは、仏教の出身母体であるバラモン教の神々であって、仏教には拝む相手はないのだ。ひたすら自己と対峙して「悟り」を開くことが、目的らしい。

 だったら一体、阿弥陀如来ってなんなのだ。

 私には、仏教美術の中のあまたの名前が付けられた仏像たちの姿が浮かぶ。触ると目の病気が治る観音様や、子どもを授けてくれるお地蔵さんなどが目に浮かぶ。

 尤もスペインカトリックの古い教会には、同じような目治しマリア様がいて、視力の落ちた土地の人々が目の疾患を直したいと思って、隊列をなして通っているのも知っている。宗教って、創始者の思惑を無視してみんなそういう風なご利益宗教になりやすいのだ。これはどうも、人間が「無明」だかららしい。(げらげら)

 私は、真宗男が極めて論理的に語る仏教と、あの仏像群の関係がわからない。多分それは、カトリック教会にごろごろしている聖人像に惑わされて、カトリック多神教だと思ってしまう感覚に似ているかもしれない。中米のカトリック教会なんか、現地の神様まで飾ってある。ジャガーもいれば鬼子母神もいる。グアテマラのある地方の教会なんか、十字架の上にジャガー像がある。ジャガーはマヤ民族の守り神だ。ただの飾りじゃあないことを、私は知っている。スペイン人が民族の神殿を壊した上にカトリック教会を立てるとき、マヤの守護神をそっと忍び込ませた原住民の心意気に、私はそっと賛嘆する。

 ただし、私は教会内に立っている、そういう有象無象を拝んだことはない。だいたい、教会は場所であって、あそこに行かなければ祈れないわけではない。

 仏教の仏像群も、外から見ただけで判断するのはまずい。聞いてみようと思って、真宗男に突っ込んでみた。