Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

改定「仏教との出会い」(2)(3)

改定「仏教との出会い」(2)(3) 

 私は、30代のころから教え子との関連で、言語の意味の上から「記紀神話」の研究を、続けてきた。この研究の中で、私は「神」と言う日本語にこだわった。



 記紀の記述に拠れば、日本の神々は生成変化するもので、「葦黴のごとく成る」ものである。いわば「涌く」ものだ。人が死んで「神」と成るのも、日本古来からの原始信仰の中にあり、東条英機が「神」として祭られるのも、それは「成った」からであって、キリスト教の「ヤーヴェ」とは、まったく関係がない。

 東条英機は神になったかもしれないけれど、ヤーヴェになったのではないから、誰かが靖国参拝をしても、キリスト教徒が騒ぐことはない。

 一方、現代キリスト教が「ヤーヴェ」の日本語訳として使っている「神」は、生成変化する存在ではない。「ヤーヴェ」とは「在りて在るもの」、つまり「自在するもの」「すべての存在の元」、「原存在」である。

 イスラエル民族の伝承の中に出てくるからといって、イスラエルの軍神でもない。イスラエル民族が自民族の軍神として今でも捉え続けている存在を、全人類の「父」、「愛の源」と、初めて公言したのが、キリスト教の元祖であるイエズスその人だ。

 そこをイスラエル人も当のキリスト教徒も旧約聖書の記述にこだわって、誤解している。と、私は考える。

 イエスは「律法を完成させるために来た」といっている限り、旧約の律法は「未完成」だということであり、イエスは「目には目を」の価値観を「右の頬を殴られたら、左も出せ」の価値観に置き換えた人間だ。(別に私はこれを実践しているわけではないよ)

 そこを受け入れない「キリスト教」は、キリストさえもある集団だけを守る軍神にしてしまって、キリストを信じないものはぶっ殺すぞといって、世界戦争を起こしたりする。1神教だからおかしいのではなくて、母体となったユダヤ教から脱皮していないからおかしいのだ。

 「全人類の父」と表現されたヤーヴェは「原存在」であるから、人間が信じようと信じなかろうと、存在そのものなのだ。人間から存在の許可をもらって存在しているわけではない。だから、東洋は神々を「認める」から心が広い、などという論理は成立しない。

 そして、ヤーヴェの存在を表すような、そんな定義を持つ言葉は、日本語の中に存在しない。

 そもそもそれを「一」神教と呼ぶのは間違っている。「原存在」は始めなく、終わりなく、遍在するものであり、真理そのものであるから、一も二もない。そもそも数の概念を超えている。

 だからヤーヴェは宇宙の根源、すべてを包含する存在である。そういう存在が、お釈迦様にぬがづくかいな。だいたい、ヤーヴェには、額づくための「額」がないよ。(げらげら^^)

 そう私が、真宗男にいったら、「そうか、ヤーヴェがそういう存在なら、それは仏教で言う『法』だな。」と答えた。「おう」と私は、紛らわしい「神」以外に、ヤーヴェの訳語が、他宗にあることに喜んで話を進めた。

 「そんな存在が仏教のほうにもあるのか!私は仏教の仏さんたちは、みんな人間が死んで生成変化したものかと思っていた。」

 「ヤーヴェ」と「法」の相違点は、一方が人格化された存在であり、他方が、より抽象的な観点から捉えたものである点らしい。

そのことにあえて留まらず、私はこの真宗男との仏教・キリスト教論争を進めて行った。

 改定「仏教との出会い」(3)

「ヤーヴェ」と「神」、「一神教多神教

 私は中村元と、もう一人はひろさちやという仏教学者の本をかなり読み漁った。この二人からは、仏教に関しては多くを学んだ。ただし、ひろさちやは読みやすく、中村元は読みにくかった。難しいことは「バカにでも分かる」言葉遣いで書くべきだ。

 ところで二人とも、仏教を語りながらよくキリスト教に触れる。しかし、キリスト教に関しては、中村氏はかなり否定的で、ひろさちや氏は非常に深読みをし、それなりに面白い。

 ただし二人はヤーヴェ解釈では一致して、誤解していると私は思う。もともとは仏教を知りたいと思って読み始めたことだけれど、キリスト教に対する記述が、何度も何度もでてくるので、どうしても神経がそういうところにいくんだけどね。

「神など、ごろごろいるのに、自分の神だけが正しいというのは、傲慢である」と、中村氏はキリスト教を批判して言い、「一神教は、たくさんいる神々の中から一人を選んで、それだけが唯一の神だといっている」と、ひろさちや氏はいう。

 キリスト教側の常識では、「ごろごろいる神の一種」を、そもそも「ヤーヴェ」とは呼ばない。ひろさちや説は、新約聖書を無視して旧約聖書の記述のみを読んでいると、そう取られても仕方がない観がある。つまり、旧約聖書の「神観」は「他を排除して、一人だけ選んだイスラエル民族を守る軍神」である。新約聖書の「ヤーヴェ観」は全宇宙の存在のもと「第一原因」である。

 旧約聖書のヤーヴェの表現は強烈で、「始めなく終わりない、『在りて在るもの』以外に呼称のない全宇宙の創造神」であると「表現」しながら、一方、その「神」はイスラエル民族のみを守り、異民族はハエのごとく追い払い打ち滅ぼす神として表現されている。こんなの、「宇宙神」のはずがない。

 そして、現実に旧約聖書を母体とする多くのキリスト教集団は歴史的に異民族に対して「うちてしやまむ」の精神で侵略を繰り返してきたのは事実である。それはカトリックであろうと、プロテスタントであろうと、世界制覇を目指すキリスト教陣営の心のよりどころにさえなっているから、こういう解釈がなされても致し方ない、と私は考える。

 世界の趨勢を歴史的に見ても、キリスト教徒は、異民族を支配するために、聖書を「利用」してきた。三位一体の神を信じないもの、洗礼を受けないものは、地獄に落ちると脅迫して、従わないものはぶっ殺して強引に、キリスト教圏を増やしてきた。ぶっ殺した相手はヤーヴェが作ったんじゃないの?

 私が子どものころに通ったスペイン系修道女会の学校でも、スペインカトリックの体質を表す出来事があった。

 ある同級生の妹である赤ちゃんが死んだ。知らせを受けたあるシスターが、いきなりその生徒の胸倉つかんで聞いたのだ。「赤ちゃんに洗礼を授けましたか?」きょとんとして、首を横に振った生徒に、そのシスターは言下に宣言したもんだ。「それでは、あなたの妹さん、地獄です!」(どっちが地獄行きだよ)

 あまりにひどいと思った私と姉が、帰ってからそれを母に言った。母はあきれてあいた口を閉めなかった。我が家は全員カトリックだったが、こういう反常識発言が正しいといった者は一人もいない。

 「キリスト教徒の大半はキリストを誤解することによって成り立っている」とひろさちや氏は言う。これ明言。しかし、聖書を深読みするひろさちや氏も、ヤーヴェに関しては、誤解しているようだ。

 ナザレのイエスユダヤ民族が自民族の軍神として捉えた「ヤーヴェ:在りて在るもの」を本来の姿に戻した。すなわちそれは「全人類、全宇宙をつかさどる普遍、不変の真理として、全人類に対する無条件の愛そのもの」として、「父」と呼んだ。

 それはユダヤ教に対する革命であって、イエスの福音とは旧約の制約や自民族の軍神としてのヤーヴェの定義からの解放であり、全人類に対する愛の宣言なのだ。

 旧約の記述に従えば、「ヤーヴェはたった一人の神で、他の神々は偽者であり、しかも、そのヤーヴェさんはユダヤ民族のためだけにあり、ユダヤ民族だけを守り、600以上の戒律の遂行をヤーヴェとの契約であると主張し、安息日には人が死んでも身動きもせず、その名に置いて、有史以来の約束の地であるパレスチナには侵略し、破壊し、爆撃し、住民を無差別に虐殺しても赦される」という。だったらキリストが出てくる意味がまったくない。

 ナザレのイエスは実にそれらを否定したから磔になったのだから。このイエスが磔になった理由や意味を把握しているキリスト教徒はほとんどいない。それで十字架という処刑具を首に下げて拝んでいるんだから正直言ってバカみたい。

 旧約聖書新約聖書の違いを無視して、読んでいる限り、「神など、ごろごろいるのに、自分の神だけが正しいというのは、傲慢である」と言うのも正しい。

 しかしそれは、仏教の出身母体であるバラモン教と仏教を同一視し、釈迦の活動を無視してバラモン教の神々を仏教に取り込むことと同じである。

 梵天帝釈天は、バラモン教の神々である。釈迦のまえに「額づいた」と言う表現は、釈迦がバラモン教を超えたという意味だと、かの真宗男は言う。

 そうならば、仏教に神々は無用だから多神教ではなく、普遍、不変の原存在としてのヤーヴェは数の観念で数えられる存在ではないからヤーヴェを戴くキリスト教一神教ではない。

 私は世界に名だたる仏教学者が、一神教の名の下に、キリスト教をそのように断罪しているときに、チャットの部屋の一介の非キリスト教徒の民間研究者に過ぎない真宗男が、「ヤーヴェ:在りて在るもの」を仏教における唯一の真理、「法」と同じものだろうと言う言葉を聞いて、うれしかった。

じつに物事は、其処から出発したのである。