Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

改定「仏教との出会い」(6)キリスト教との比較

改定「仏教との出会い」(6)

「ちょっとここで、伏線としてのキリスト教の話」

 私が高校時代(カトリック校)に出会って、いつも心に抱いてきた言葉がある。それは「汝らのうち罪なき者、まず石もてこの女を打て」と言う言葉だ。

 その言葉は、宗教の授業ではなく、一般の高校の国語の教科書に出ていた。その言葉に出会ってから、私はいつもこの言葉を眺めて生きてきた。イエスの無条件の愛を自分に向けられたかのように感じて、勝手に感動していた。

 そう。この言葉には、イエスの「無条件の」愛が見事に表現されている。キリストより前に出てきた預言者、洗者ヨハネは「悔改めよ」と叫んでいた。彼は救いの条件を「悔改めて」「水の洗礼を受ける」こととした。しかし、キリスト(救い主)と呼ばれるイエスは「悔い改めたわけでなく」「洗礼さえ受けていない」マグダラのマリアを救い、生かした。

 にもかかわらず、現代の多くのキリスト教徒は、「悔改め、洗礼を受けること」を、救いの条件としている。キリスト教の元祖といただくイエスが「救い」に何も条件をつけていないにもかかわらず。

「罪の女」をかばった時、イエスは一言も、「救いの条件」の話はしなかった。罪の女は罪の女であり、本来の救いの条件から完全に外れていた。悔い改めてもいないし、洗礼も受けていない、「自らの罪によって」「合法的に」殺されようとしていた女だ。それをイエスがかばって言った言葉は、被処刑者にたいしてではなく、逆に処刑者に対してだった。「お前たちは人を裁く権利があるほど正しいのか!」「お前たちには罪がないのか?」

 

 その言葉にぎょっとした人々は誰も女に石を投げつけるものがいなかった。。。らしい。まだ、イエスが、誰にも神の子とかいう認識を持たれていなかったときの、「ただの人間」だった時の発言だった。

 

 イエスが群集に向かって放ったこの言葉は、「愛」の意味を問う言葉かもしれない。「愛とは無条件なものである」ことの表明だ。救いの条件として、「悔改める」ことも、「信じる」ことも、「洗礼を受けること」も、制定などしなかった。

 

 彼は、「悔改める」のを待たずに、罪の女とされ、殺されようとする女性をかばった。これは、ユダヤ教の伝統的な律法違反の人間に対する、「律法を無視した愛」だった。

 その言葉の意味に、当時16歳でまだ深く考えが及ばなかった私は、あたかも、自分に対してかけられた言葉であるかのように、感動したのだ。

 「合法的に」殺される寸前だったこの女性は、イエスのこの言葉に感動して、イエスについていった。

 

 色々な教条を信じてから悔改めて、その条件で赦されて、条件を満たした後救われるという、儀式や段階を経て、ついていったのではない。

 イエスは救いの「条件」を出さなかった。後世の教会が何をいおうと、彼は救いの条件に儀式的な罪の告白や洗礼の主張など、しなかった。

 この場面の彼の言葉にはどんな人間も逆らえないほどの気迫がある。「お前たちのうち、罪がないものがいるのか!。いるのなら、この女を石殺しにしてみよ!」と彼は群集に向かって、吼えた。「自分にだけは罪がなく、人を裁ける人間であるとうぬぼれているやつが、いるのか。」

 そういう問いを、彼は律法をほとんど神そのものだと思っている群集に向かって投げかけた。

 群集は彼の、魂をえぐるような問いかけに、律法を盾にして反論することが出来なかった。彼は罪の女とされた女性を救ったばかりでなく、居合わせたすべてのものに、自分の心と対峙して、人間とはいかなるものかに目を向けさせ、覚醒を促した。彼は女性の生命を救ったが、群衆に対してはその心を救ったのだ。

 他に聖書のどんな部分を読まなくてもいい。イエスの救いの意味はこの言葉に集約されていると、私はこの言葉を聞いて以来、ずっと思ってきた。

 30代になってカトリックエルサルバドルにいったとき、散々聞かされた、スペインカトリックの残虐な歴史のなかの一こま。

 あるスペインの兵士が自分が強姦した原住民の女性が子を孕んだ。ところが、その女性は洗礼を受けることを拒んだため、男は、女の腹を掻っ捌いて自分のDNAを持つ赤ん坊を引っ張り出し、その子に洗礼を授けて、殺した、と言う。それほど、「洗礼」というのは、救いの条件として人々を呪縛し、なんでもいいから洗礼の水を引っ掛けて授けちまえば、すぐに死んでも安心だと信じられていた。

 

 しかし、イエスが救ったマグダラのマリアは、後世の救いの条件を全く満たしていない「ただの罪の女」だった。

 腹を掻っ捌いて中の赤ん坊に洗礼の水をひっかけたら安心する。それは、教会の呪縛の中で生きたキリストなき、キリスト教徒の成れの果てとしかいいようがない。教会の組織の中に取り込まれたキリストは、その後、救いのために多くの条件を付与されてきた。

 生きた 生の人間 キリストは救いに洗礼の条件などつけなかった。彼が救った「罪の女」といわれた女性に、彼は洗礼を授けなかった。聖母マリアといわれる彼の母も、12人の弟子たちも、洗礼も受けず、教会にも所属せず、教会維持費を払わず、特に悔い改める儀式をせず、それなのに教会から「聖人」と呼ばれている。

 

 救いの条件を持たず、キリスト教徒の儀礼を経ていないし、洗礼も受けなかった「聖母」マリアをはじめ、イエスの「聖」がつく12人の弟子たちも、この意味では「キリスト教徒」ではない。つまり後に全世界で「キリスト教徒」を大量生産するために、従わないものは殺し、異国の人々の国を奪い、結果生まれた「so-calledキリスト教徒」は、イエスの母マリアとも、12人の弟子たちとも同一教徒ではないと言いうる。

 

 キリストの教えと呼ばれるものは「愛」しかないし、その「愛」がなくて強制力と恭順しかない教えをイエスは教えなかったのだから。

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