【自伝及び中米内戦体験記」9月16日
「1975年夏休み」
「シルクロードの旅」
あの学園に勤めてから毎年夏になると外国を旅行していた。保護家族もなく、被保護者でもない無責任な独身時代だったから、いつも気楽な独り旅だった。
1975年の夏休みのことである。その年の夏休みは、どこに行こうかなと考えていたら、担任一回目の昭和49年度卒業生と修学旅行をした旅行会社が、夏のツアーのパンフレットを送ってきた。「シルクロードの旅」というツアーである。
記紀神話の研究から拡大して、全アジアの神話にまで手を伸ばしていた私は、そのころインドの神話に興味を持っていた。一人旅が専門で、ツアーというものがどういうものか知らなかったけれど、場所も場所だし、こういう旅行は一人では計画も立てられなかったので、申し込んでみることにした。
暑い暑い夏だった。私は一人だったけれど、一行のメンバーはほとんど皆、2,3人の友達同士で申し込んだらしく、親しい人がお互いにおしゃべりをしていて、私は一人ぽつねんと腕組みしながらの参加だった。
ほお、ツアーとはそういうものだったかと思ってみたが、考えてみたって、いっしょに旅しようなどという人は思い浮かばなかったからしようがない。私はそのころ30を越し、同級生はみな子育てに励んでいた。それで、親しい同行者がいると、知らない人には絶対に口を利かない日本人の習性を、いやっというほど思い知らされたけれど、でも、私には自由を案外楽しめる旅でもあった。
話し掛けられても、どうせ私は話が合わなかっただろう。社会性音痴を自覚していた私は、人を頼みにしなかった。
しかし事情はインドについて、インド人の添乗員がバスに乗ってから、少しずつ変わってきた。知り合いとおしゃべりに興じて、未知の人と話をしない習性は、日本語を知らないインド人の添乗員に対しても発揮するから、勢い私が一人で添乗員の説明を聞き、質問をし、雑談を交わすという状況になったのだ。
添乗員は日本人も一人いる。だから、私は通訳する必要はない。義務も義理もないから一人でみんなが相手にしないインド人の添乗員を独占して、みんなが知らない知識を得ることができる。それがすごく愉快で楽しかった。
私はあのころ若かったし、インドや中東の事情など知らなかった。中東に行くときの身なりに関する心得なんて言う話も聞かなかった。だから私は自由だった。
ニューデリーの空港で首にかけてもらったレイがなんだかうれしく得意だったので、ずっとそれをはじめのホテル、その名もアショカホテルというホテルまでつけていった。白いつば広のカウボーイみたいな帽子に、オレンジ色の袖なしのシャツを着て、際だって真っ青な男物のジーンズという出で立ちである。
インドはともかく、その格好で、女がチャドで身をすっぽり包まなければ処刑されるらしい中東の国を大手を振って歩いたのだ。
ただぼんやりとした記憶だが、ニュースで私は聞いたことがあった。さる中東の砂漠で公衆便所を探していて、間違えて女子便所に入ってしまった日本人観光客が、逮捕されて15年かなんかの判決を受けて服役中だとか言うことを。しかし私はそのころそういう事情を自分のこととして考えるほど慎重ではなかった。旅行者なんだから服装なんか自由でいいはずだし、砂漠はものすごく暑かった。彼らの目から見れば、袖なしのシャツ姿の私は裸同然の女だったかもしれないような服装で私は参加したのである。
(残念ながら、この旅行で撮った写真の多くは、私が国外にいた間に消えてしまった。。)
インド人の添乗員にとって、私のそういう姿はきっと珍しかっただろう。自分では何も気がつかなかったが、一行の他の女性たちはほとんどが地方の人で、当時の地方の日本人女性らしく、おとなしくはにかみ屋で衣服も質素だった。おまけに英語になれていなかったから、話し掛けられると、はにかんでお互いに顔を見合って、おほほほとか言ってまともな受け答えをしなかったから、添乗員は当惑して、いきおいいつも私を相手にすることになってしまった。
あの日本人女性特有の態度って、国外に慣れてくると,外国人に案外気持ち悪がられていることを私は知っていた。
「案外楽しい物語」
インド人の添乗員はその名をマンジートといった。長身でかっこいい男だった。年恰好は私と同年かまたはもっと若かっただろう。ターバンを頭に、ひげを蓄え、あのインド人らしい大きな魅惑的な目玉を持っていた。それが私の後ろにいつもくっついていて、なんだか私を守るように店でも、レストランでも、買い物などの相談に乗ってくれた。
モンゴル系アジア人を除いて外国人の男は誰でもそうだけど、女性と写真を撮るときは、すぐに腰に手を回したりする。誰と撮るときでもそうやっているから、私が彼と写真に収まるときも、彼は私の腰に手を回していた。ただし私は彼には指一本も触れず、腕組みして写真に収まったのである。私はそのころ自分が発散しているかもしれない、恐らく外国人だけが感じるらしいフェロモンに対して自覚症状がなかった。
そうやって私はマンジートを従えてカブールの町を歩いた。アフガニスタンの首都である。今はすっかり爆撃で破壊されてしまったらしいカブールである。
私はかの911テロから始まったアメリカ軍のアフガニスタン侵攻以来、ひとしおの感慨を持ってあの町の崩壊のニュースを聞いた。しかし旅行をしたその当時私は、アフガニスタンがどのような国情を抱えているかに無知だった。
何しろシルクロードの旅なのだから、やたらに町が古かったことを記憶している。近代的なものなど何もなかった。朝は4時ぐらいから市場がにぎわい、物売りの声がすさまじかった。今だって変わらないあのイスラムの服装の人たちが、やたらにけたたましく大声をあげて市場で物を売っていた。そしてどこでも私は男たちのものすごい「らんらんとした」視線にあった。
イスラム圏の伝統の元に生きていたチャドに身を包んだ女性しかいないあの世界で、私の服装は、裸で大道を歩いているようなものだったらしい。
どこを覗いても古いものばかり売っていた。小さなつまらない店にも日本のデパートなどが主催していた展覧会で見かけたことのある、正倉院の御物のようなものが売られていた。しかもそれがショウウインドウに収まっているのでなく、ほこりをかぶって店先にごろごろしているのを手にとって見るのは面白かった。
イスラム文字が書かれた唐草模様の彫りのある古そうな銀のコップを私は値切って買った。多分銀ではないだろう。後で知ったのだが、中東のバザールでは銀を食器だろうと装身具だろうと、目方で売るのだ。
これはまだ内にあったので写真が撮れた。
しかもセットなのに、あちこちに散らばっていて、聖書の世界から出てきたような白髭のじいさんが商品の山の中から引っ張り出してきて六個そろえてくれた。形も不ぞろいで面白かった。面白いからだまされたってよい。旅は楽しきゃいいんだ。
後でその名前は知ったのだが、ナンという食べ物らしいベローンと平たい大きなパンを焼く店があって、珍しいから、そのナンをどのあたりからどうやって食べるのだろうなどと馬鹿な質問をしながら眺めたもんだ。群がっているムスリムの帽子をかぶった少年たちはこれもすごく面白がって、元気でよくわらう。言語がまったく通じないから、もしかしたら私が何かの理由で、笑われているのかもしれなかったが、言葉がわからないのをいいことに、歓迎されていることにした。
ナンの店
かつて一年かけて歩き回ったスペインの町にもロバややぎがいたけれど、カブールの町にも、やぎや大きな荷を背負わされたロバが歩いていた。景色が違い、歩いている人種が違うと、ロバも違って見えるから不思議だった。
他人が作ったスケジュールにしたがって観光名所の人造湖とかガズニ王廟とかを見学し、博物館や動物園を見たが、自分であらかじめ研究をしてこなかったから、知識が浅くてどうしようもなかった。
自分には大きな荷を背負わされているロバとか、興味深そうにこちらを見ている田舎の少年の顔とかを観察する方が面白かった。歩いている人々の服装は、現在アフガン難民としてよくテレビに登場するあの服装と変わらない。イスラムは1500年の年月を伝統を守って生き続けていると見える。
「1975年のアフガニスタン」
「今度はアフガン男 」
ホテルに戻って、あいも変わらず一行は自分の友達と一緒に歓談しているので、一人でぼんやりしていたら、現代的な風体をしたちょっと平均より知的そうなアフガン男が声をかけてきた。
英語である。市場の喧騒の中のあのわけのわからない言語ではないから懐かしかった。日本に留学していたから東京を知っているという。話をしてみると本当にいろいろと日本のことを知っている。丁寧な物腰だったし正直そうな顔をしていた。
自由行動の時間に、彼は散歩に誘ってくれた。ほかの人たちはあらかじめ、いろいろ行く場所を決めていたので、勉強せずにきて行き場のない私にはちょうどよかった。私は一行の中に一人だけ仲間のいない女性がいたのを誘ってついていくことにした。
マームードという名前のその男は一般のイスラムのような服装ではなかった。どうも金持ちらしい。彼がつれていってくれた場所はヘラートの美しい青いモスクと、彼の領地と思われる牧場だった。イスラム寺院らしい丸い屋根は青いタイル張りの繊細な模様を施された建物だった。ミナレットというのだったと思う。内部がすべて青く美しい。
牧場のほうは、羊の群れの中にスペイン旅行以来久しぶりに入ってのどかな景色を楽しんだ。牧夫はみなターバン姿の男たちで、その挨拶の仕方から、多分マームードは、ご領主さまだろうと思われた。
「ヘラート市を一望に見渡す場所があるよ」と彼が誘ったとき、私は少したじろいだ。この男信用できるのだろうかという顔をしたらしい。
それを察した彼は、今度は電話で一人の友達を呼び出し、いっしょに行こうと言い出した。その友達は、おずおずとやってきて、彼の影に従うようについてきた。彼はやっぱり彼と同じように現代的な服装をしていた。しかもひどく純朴ではにかみ屋で、私の顔を見ようとはしなかった。写真にも映っているが彼は顔をあげようとはしていない。その純朴そうな友達の顔を見て、私たちは、じゃあ、行こうかということになった。
丘の上に野外レストランがあって、なるほどそこからの景色はすばらしかった。ねむの木があり花が咲いていた。こういう国に日本の植物と同じ物を見つけると感激する。写真にねむを収め、ついでに実が膨らみかかった紫っぽいざくろの花を写真に撮った。何を食べたか覚えていないがひどく楽しかった。
彼は紳士で東京に生活していただけあって、写真に収まるときも女性の体に触れるということがなかった。私たちをホテルまで送ってきてくれて、文通しようといって住所を置いて帰っていった。今、アフガニスタンを思うとき、多分私の同年輩だった彼は、どのような立場で生き延びているだろうと思う。
「砂漠のじゅうたん」
8月9日一行は車で、酷暑の砂漠を犬のようにはあはあと息をつきながらイランに向かって走った。時々休憩所で降りるがチャイと呼ばれる紅茶と、西瓜ばかりをみんながつがつ飲んでは食べ飲んでは汗をかいた。この旅は、相手の言葉が分からないから仕方なかったようなものの、日本人一行のマナーはものすごかった。
西瓜を持ってこいという手つきをしては、がつがつスイカを食べるしぐさをし、相手が間違えると、怒ってハエを追い払うような手つきでノーノーと叫ぶ。暑いからといって、男がズボンをレストランの客の前で脱ぐわ、脱いだ後股をばさばさと手持ちのパンフレットなどで煽ぐわ、見苦しいのなんのって冗談じゃない。
私は一行とは別みたいな顔をしてちょいと離れていた。私が口を利くのは例の一人歩きの女性とマンジットのみだったから、私は仲間もいなかった関係で、股煽ぎを避けたいのも手伝って完全に孤立してしまった。お前だって裸同然の姿で現地の男に色目ばかり使っているじゃないかと思われていたのかもしれない。なんと思われたっていいけど、私は少なくとも人の集まるレストランの中では、夏用の白い上着を着ていて肌を剥き出しにしていたわけではないし、人前でズボン脱いで、股を煽いだりはしなかった。
砂漠は突然ピンクに変わった。砂漠のじゅうたんだよ、とマンジットが説明してくれた。砂漠一体に這うように広がる植物がいっせいにピンクの花をつけていた。まさにじゅうたんだ。みんなが写真を撮りたいといって大騒ぎをするので、車が止まった。車外に出て遠くを眺めると、さすがに広い。一面に広がるピンクのじゅうたんも美しく、遮るものがない地平線というものを始めて見て、大声を出してみたが、声は小さく、遠く砂漠の中に吸い込まれていった。
奇跡的に残っていた写真
視線を凝らしてはるかかなたを見やると、青い点が動いているのが見えた。まさに針の先のような点である。若いころの私は目が頭よりよかった。私はじっと目を凝らしてその動くものの正体を突き止めようとした。右に左に動いている。かつてスペインで見た金色の羊の群れとは動きが違う。
おおお!それはらくだを連れた隊商だった。私は自然の中で人間の役に立っている生き生きしたらくだを見たことがなかった。らくだは動物園で、いつも生まれた意味もなく力なく座って草を食んでいるグロテスクな動物だった。背中のこぶはだらしなく左右にたれて、余計な皮みたいにぺしゃんこにひしゃげていた。
今砂漠の中で見るらくだはすごい速さで歩いていた。針の頭のような大きさの粒だった人間がらくだといっしょにどんどん駆けてやっと等身大になって見えたとき、私は本当に感動し、両手を上げて挨拶した。砂漠の生活者に対してなんだかわけもなく尊敬の念が沸いてきた。コバルトブルーの衣に使い古してもう白いとは言えないターバンを巻いたその男は、私の挨拶に気がついてある動作をして反応を示した。まさしく大地の中の人間がそこにあるように感じた。雄大。茫洋。そんな言葉が頭を掠めた。
小型のバスは砂漠のじゅうたんを後に走りつづける。砂漠の中に急につるべ井戸がある。なんて懐かしいものがあるんだろう。私たちはそこで降りて、水を飲んだ。多分これがカレーズという地下水吸い上げ装置で、砂漠の住民の生命線なのだろう。水。この砂漠であえぎあえぎ旅をしてみないと、日本ではその存在さえ価値を問われない水。その水は冷たく、尊かった。そして、今思うと、これを壊したジンギスカンが何百年も人々の恨みを買っているように、今度の爆撃で、アメリカがこの生命線を壊したことは、この砂漠の住民に世紀を隔てて記憶されるだろう。その水。
地平線と遊牧民
「イランへ」
バスは一路イランに向かって走っている。何度も何度もチャイを飲む。何度も何度も西瓜を食べる。何度も何度も日本人はズボンを脱いで股を煽ぐ。文明の器具である車を利用した砂漠の旅でもかなり苦しい。
アフガニスタンとイランの国境についた。外国を旅して思うのだが、国境ほど、国力の差が如実に現れ、役人の態度が相手国の国力によって変わる場所はないもんだ。その当時イランは王国だった。多分イスラム革命の前の最後の皇帝は、ハイレシェラシヱとかいう名前だったと思う。
国境についたとたんに、道路の整備の仕方からして、アフガニスタンとイランの国力の差は一目瞭然だった。そして、イラン側の役人は同じイスラム教徒のアフガニスタン人の荷物は放り投げてぶち壊し、すごい剣幕で怒鳴りつけ、「経済大国」日本人に対する態度は、やたらにぺこぺこ丁寧で、人前でズボン脱いで股をあおぐ民族を遇するには過ぎた扱いだった。私はこういうことに30年間頭にきている。
アフガニスタンからイランに入ってすぐに目に付いたのは、イランが豊かな近代的な国であることだった。石油のせいで豊かさが違うのだと説明を受けた。子供たちはこぎれいで、裸足で長い衣にムスリムハットをかぶっている姿はまったく見かけなかった。女性が黒い被り物をすっぽりかぶってはいたが、いつか、聖書学者の兄貴から、戒律はともかくとして砂漠の中で生活して、女性がきれいでいるためには、あの衣装が最適だよといっているのを聞いていたから、ははあそうなんだと思ってみていた。
出している顔はみんなすごく美人に見えた。なるほどあんな砂漠で生活している男たちはみなしわが深く刻まれて日に焼けて真っ黒で100を超えるかと思われるほどじいさんに見えたし、美しくありたい女性があの酷暑の中を肌出して歩いたら、女性の柔肌は酷暑の太陽の元ではぼろぼろになってしまうだろう。」
戒律とは案外合理的なものだ。何も気候の違う国にすむ人たちが、目くじら立てて、女性解放運動なんかしなくても、彼女たちは美しくありたければ、砂漠の太陽から身を守る権利はあるのだ。エスキモーにミニスカートはかせることもアフリカの住民にブラジャーを強要したり毛皮のコートを着せる必要もないのだ。
イランはイラクとは民族が違って言語も違う。両方とも古い歴史のある民族だが、イラクはアラビア人で、イランはペルシャ人である。多分直系の白人の祖先だろう。集まってくる子供も、スペイン人なんかとよく似ている。あまりイスラムの匂いはしなかった。しかしイスラム革命が起きてからのことは私は何も知らない。
メッシェッドからゴルガンを経てテヘランに向かう。町並みはきれいだ。「砂漠のじゅうたん」の広がりの中でらくだと共に暮らしているあのコバルトブルーのおじさんの暮らしとはまったく違う。貧民だっていたはずだけど、観光旅行者の私たちの目には金持ちしか映らなかった。ソ連やスペインにもいた物欲しげな汚れた身なりの子供たちには一人も会わなかった。
8月11日、カスピ海に遊んだ。小学生のとき世界地図を見てカスピ海の形と所在地は知っていたから、なんだかうれしかった。八方閉ざされた塩の海。塩分が強いから誰でも浮いてしまう。泳げなくても中に入っておぼれない。とか何とかうわさで聞いた。かばみたいな形をした湖だ。真偽はともかく、砂漠を超えて旅してきて最後に海に出会う気分は最高である。マンジットとともに写真を撮った。今見てもなかなかいい写真である。
添乗員の中に途中からランジットという百貫でぶのインド人の男が加わった。この男はイランに住んでいて、マンジットの伯父だそうだ。二人に誘われて彼の家でご馳走になった。日本にもよくいくから、今度会おうよ、とか言っている。あまりその手に乗りたくない。こちらに気が進まないようにさせる風貌をしているから、言葉を濁した。日本語知っているというから聞いてみたら、スケベだのチン子だのと、しもの用語ばかりだった。そういうのって風貌に現れる。危ないぞと思った。
最後の道程はトルコである。トルコに入るとランジットともマンジットとも別れる。別れる前にイランのどこか遺跡に希望者は見学することになったが、別料金なので私はやめた。半分ぐらいのメンバーを連れてマンジットは行ったが、後でホテルに帰ってきて、一行のある男性が、マンジットさびしそうだったよ、いいのか、あのままで、と私に言う。いいも、悪いも、ないですけどねえ。はて、どうおもわれていたんだろう。はじめてそのとき気になった。
「マンジットとの別れとトルコ男」
あのころ私は宝石が好きだった。日本のデパートで売られているようなものではなくて、古墳から盗掘したみたいな古いの、または古臭く見せかけたのが特に好きだった。そういうのは手ごろな値段で買えるし、個性的で面白い。バザールを歩いて、いろいろ古代史が好きな母への土産に古物を買い込み、最後に自分のために宝石を買おうと思った。
バザールにマンジットがついてきた。私はそこで素敵なブレスレットを見つけた。不ぞろいのいろいろな色の宝石が、繊細な彫りのある銀製の台でつながっている。かなり高いが、マンジットが交渉してくれて、半額ぐらいで買った。彼は記念にそれを買ってくれようとしたが、う~~~~~ん、まずいぞと思った。夕べ日本人から聞いたあの言葉が引っかかり、いろいろな思惑が働いた。人間の絆から自由でいたかった。
トルコはアララット山から始まった。アララット山というのは、聖書民族にとってはあることで有名な山である。ノアが箱舟に乗って世界中の動物をひとつがいずつ連れて洪水の水の上をたゆたいたゆたいたどり着いたのが、この山の上という伝説があるからだ。しかし山はバスの窓から眺めただけだった。聖書を日ごろ傍らにおいている人間としては事の真偽はどうでもいいけど、感無量だった。箱舟の残骸もあるといわれているが、洪水伝説が本当らしいことは研究の結果わかっているけど、まさか、人祖に近いノアさんの箱舟の残骸はねえ。人祖っていったら尻尾が生えているはずよ。
此れかな?
ウイキで調べたのは、これ↓
添乗員が変わった。トルコ人でちょっと知的な細い男である。そのころは旅の終盤に差し掛かっていたから、日本人の一行もだいぶ言葉になれて、口を利かないということもなくなっていた。だから私の外国人男特用のフェロモンはもう活躍しなくなったかに見えた。ところがアンカラのホテルでぎょぎょっと言う事態がおきたのだ。
私の部屋は何階にあったか忘れたけれど、かなり高い階にあった。その階でであったトルコ男がいたが、自分は添乗員の仲間だといって外の町に誘うのである。私は新しいトルコの添乗員とはあまり親しく口を利いていなかったから、その男がいっしょにいたかどうかも覚えていなかった。うっかりついていったら、なんと彼は町に行くのでなく自分の個室に私を連れ込もうとしたのである。ギョッとして私は走り出した。エレヴェーターがあったが帰って危ないと思って階段を駆け下りた。馬鹿なことに私は、自分の部屋のある階を飛ばして下に降りていったのだ。本物の添乗員の部屋もわからなかった。
彼はしつこく追いかけてくる。私は階段の脇にあった倉庫のようなものの暗がりに逃げ込み息を凝らして縮こまっていた。そして私はその夜、その倉庫の暗い影で、身動きできずに過ごしたのである。こわかった。朝、もう大丈夫と思った私はそっと自分の部屋に帰った。そうしたら、同室の女性が言うのである。「トルコの恋は楽しかった?」かなり冗談がきつかった。私はもう、申し開きの術もなく、あの夜男と一緒にすごしたことになっている。
「イスタンブールにて」
ヒッタイトの遺跡、ヤズルカヤ、ミダス王の古墳等という、うろ覚えの頭の中に昔の世界史の勉強で聴いたことのあるような、そういう遺跡を見学して、だんだんと自分たちモンゴル系の文化とは趣を異にする文化の香りに気がつき始めた。それはそれなりに面白かったが、異質の匂いというのは如何ともしがたいものがある。もうそこいらは、ギリシャ神話の世界なのである。しかもトルコに入ってしまうと、そこはアジアとヨーロッパの接点、むしろアジア側から入るヨーロッパへの玄関口なのだ。
ウイキの「ヤズルカヤ」
砂漠でであった、悠久の歴史を担っている民族や、建物や、バザールの中の様子などから感じたものとは打って変わってもう、共通のもの、懐かしいものがなくなる。そりゃ、ヨーロッパも、本気になって研究すれば面白いだろう。でも追及しても追及しても、自分たちの祖先とはつながらないことだと思うと、やはり砂漠をらくだに乗って疾走していた埃にまみれたあのコバルトブルーのじいさんのほうが懐かしい。
そしてここはもうすでに、自分たちとは異質の白人の国になっている。中央アジアで見たモスクと形は変わらないモスクがある。一日何回か町に響く祈りの声がする。ホテルは近代的で食事はわれわれが明治以来一生懸命慣れようとしてきた、西洋料理が並んでいる。みんなおいしいし、安心して食べられる。そしてそこにある建物や、歴史的建造物は、みなイスラムとヨーロッパキリスト教との戦いの後が刻まれている「観光名所」である。
イスタンブールは美しい都だ。観光地としては至れり尽せりで申し分ない。しかしトプカピ宮殿(実はこれはイランにあったものか、トルコにあったものか記憶が薄れてわからない。)も、その博物館も、アヤソフィア寺院も、ローマ水道も、バザールでさえもそれは「観光資源」でしかない。ローマ水道は庶民に水を供給するわけではないし、神聖な寺院の中は観光客がためつすがめつ見て回る建物である。ここはあのアフガニスタンの砂漠のカレーズのように、生き物を生かす命の水が生きているわけではない。
ここまでくると私には、砂漠の暑さに耐え兼ねて、ズボンを人前で脱いで、股を煽いだ日本人一行様の、へとへとの姿さへも懐かしい。(そして実はそのことばかり、よく記憶しているもんだ。)どうしてこうなるのか知らないけれど、私には、みんながすごく喜んでいる場所では楽しまず、みんながへとへとにへばっている場所のほうが元気になる傾向がある。
多分宮殿の博物館だったと思うが、もう昔のことで、私の記憶ではイランだったと思うのだけど、ものすごく大きなエメラルドの塊を見た。モルモット1匹の大きさぐらいのエメラルドだった。(比べるものも、変だっけ・・・)
母が子供のときに見たある雑誌の記事から、エメラルドというものにあこがれていた。母のその憧れは幼いころの夢みたいに生涯心を占めていた。いつか自分が買えるようになったら、そのエメラルドとやらいうものの指輪でも買ってあげようと思っていた私は、その大きさのエメラルド、(原石ではない、きちんと磨かれた塊だった)を見たとき、声を失って眺めた。私の隣ではみんなは無邪気にわあすごいといって楽しそうにその塊を見て写真をぱちぱち撮っていた。
それは美しい塊だった。深い緑の何か神秘な趣をたたえていた。バグダッドの盗賊が集めたものを王侯貴族が競って巻き上げて集めたのだろう。その宮殿はそういうわれわれの想像力の範囲を超えた、まったく規模の違う豪華さであふれていた。経済大国日本は伊勢丹とか、三越のデパートで、2ミリ四方のエメラルドに法外な値をつけられたのを血眼になって仕事して得た給料をはたいて、ありがたがって買い求め、2ミリ四方のために人殺しをしたりする。そのことを思い、その巨大なエメラルドの美しい輝きを見たら、なんだか経済大国が馬鹿みたいに思えた。
イスタンブールの宝石店で、私はトルコに来たんだからトルコ石でも買おうと思って、母のために、細工の細かい金細工の施された、きれいなトルコ石の指輪とブレスを買った。母はそれでさえ、自分には過ぎたものだといって、祭壇の上において、ほとんど身につけなかった。
私があのエメラルドの話をしたら、夢見るような目つきをして「見るだけでもよかったのに」といった。「あれを見たら小さなエメラルドなんかほしくなくなりますよ。」母はそれをきいて、ふうと吐息をついた。母の心のエメラルドって何だったのか、私にはいまだにわからない。
帰りの飛行機の中で、なぜだか知らないけれど私はインドのニューデリーのまちで出会った乞食の事を思い出していた。街角に白装束の人が手を出してたっていた。ふとその顔を見たら、目も鼻もなくて、骸骨のように、黒い穴になっていた。口だけが崩れてはいたが、わずかに肉がついていた。うううわあ。と思わず声を出して私は飛び退った。失礼も何も考えるひまがなかった。多分らい患者だろう。らい患者は聖書にもよく出てくるから、その白装束を見たとき、なんだかそれが墓からよみがえったラザロのように思えた。
片一方にものすごい貧困があり、片一方に想像を絶する豊かさがある世界。そういう世界にお釈迦様もキリストも生まれたんだな。物を考えざるを得ない人間として、お釈迦様もキリストも自分の生まれた使命を果たしたんだな。そういうことが時を隔てて、現在にまで続いていることの神秘をやっぱり私はこの旅でも感じた。
中近東の旅行の土産
旅行の土産。青いガラスは中米に運ぶ途中で壊れた。装身具は、エルサルバドルで空き巣にあったときに盗まれた。だから、中近東旅行の思いでは、この写真のみ。
雑記
この短い紀行文は、30代のころ旅行をした経験を記憶をたどって書いたものである。どういうわけか、この旅行に関する記述は日記帳から抜けていた。だから多分文中時々書いたイランだかトルコだかわからないというあたりで、事実との食い違いがあるだろうし、中東の歴史文化に詳しい人の目から見たらでたらめもあることだろう。しかしばあさんになった私も、30年の記憶を呼び起こしてのつじつまあわせに苦労した。どうか気付かれた間違いは、多分ばあさんになったせいだろうとお考えいただきお許し願いたい。
上記の写真は、アルバムからはがされた雑多な写真からとった。「多分」このry校の写真だろう。と思って。