Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月15日

「いっぱい飲み屋」

 

新学期になり、職員室のメンバーも生徒たちも変わった。私の気持ちは以前より楽になっていたが、人間関係音痴の自分に嫌気がさして、かなり自信を喪失していた。常に常に一人で歩いた。それは生まれたときから約束された道であったかのように、私は人と交わらなかった。

 

あるとき私は、昔修士論文の指導教授が誘ってくれた一杯飲み屋に一人でのこのこ入っていった。自宅近くの、「二合半」という名の飲み屋で、飲み屋の女将は二合半以上は飲ませなかった。二合半が終わると、「お客さんもう終わりだよ」という。しなびた漬物のナスに目鼻をつけたような女将だったが、彼女のスタンスが気に入って、よく教授が連れていってくれた。

 

あの女将は私みたいだなと思って、案外親しみを持っていた。

 

ぬすっと何もいわず丸い椅子に座り、女将のほうもちらとこちらを見ただけである。隣の男が私を見て、「ひぇえ、ここは女も一人で来るのかあ」といった。女将は表情を変えないで、私に徳利を出した。目の前にあるつまみを注文し、一人で手勺で飲んだ。暗いから誰の表情もわからないし、もともと歓談する気もないから黙~~って飲みつづける。

 

しばらくしたら、女将が促した。「お客さんお終いだよ。」

 

お金を払って出る。そういうことを繰り返し、私はそこのいっぱい飲み屋の沈黙せる常連になった。

 

人間て面白い。そういう感じの常連を続けているうちに、沈黙して手勺でのみに来る人物としての私を、そのままの姿で受け入れているらしいことがわかってきた。無理に話をさせようとはしない。黙って会釈し、すっと席を空けてくれたりする。回を重ねるごとにその会釈が心なしかやさしくなるのを感じる。

 

見れば相手がいないのだろう事はわかるから、余計なことは聞かない。私が孤独の理由も聞かず物珍しげにみるわけでもない。こういう態度でいられる人たちは自分も人にうるさいことをきかれたくない人生を生きているのだろう。そのことがひしひしとわかる。

 

こういう世界があったのだなと私は思った。物を聞かないやさしさを持っている人たち、自分の生き方の宣伝をせず、黙って他人を受け入れる。二合半が限度という節度がある。この空間がありがたかった。なすび顔の女将がありがたかった。

 

自分はほとんど、名門とか言われる女子校で育った。苦学した。苦労はしたものの、彼女達との交流から、世の中の片隅を覗く機会が無かった。今私は一人で、「世の中の片隅」の住人となった。その片隅は、案外心地よかった。この国にも、こういう種類の人がいる。目で感謝を表し、私は「二合半」の暖簾を何度くぐったことだろう。

 

「Ponとの出会い」

 

新学期、一人の先生が新しく入ってきた。大学を出たばかりの、私より11歳年下の女性の国語教師である。当時は超一流とされていた、とある女子大を出てしかも国家公務員試験に受かっている。あの学園には珍しい存在だった。

 

超一流の学歴を持って、わざわざあの学園を選ぶ人間は、必ず3癖ぐらいある人間と決まっている。そのことが匂うから、私はいつしか、その新米の女性教師に近づいた。

 

瀬川という名のその女性は地方の旧家の出身で、頭脳明晰な切れ者であった。ただし私がかぎつけた匂いに間違いはなかった。彼女はその出身の旧家から、その当時勘当されていた。学生時代から仕送りを絶たれ、自力で学校出たらしい。

 

彼女の2DKのアパートは、一室全部書庫だった。集まる友人はほとんど男ばかりで、集まると彼らはみんな背中を向け合って、書庫に向かって座って本を読み、酒を飲み、煙を吐いていた。お互いに誰が何をしているかということに干渉をしなかった。

 

そう、彼らは学園闘争の仲間だった。今までの付き合いと違った種類の多くの出会いがここを舞台に始まった。

 

出会いといっても、それは彼女を中心に集まった人々を、私が脇から見ていたに過ぎないかもしれない。学生時代、同年代の友人とこういう交流をしたことがなかった私には、一世代下とはいえ、なんだか始めて人間の現実の生活を見たような気がしたものである。

 

しかも彼らは闘争のために中途退学した者や、大学院で研究を続けているようなものが屈託なくごちゃ混ぜに一堂に会して本を読んだり、飲み食いしたり討論をしたり、雑談したりしている。そこには、統率したりしきったりするものがいない。

 

私が黙って傍らで寝転んでいても気にしない。これが私の知らなかった「娑婆」なのかと私は思って観察した。

 

瀬川先生のことを仲間はPonと呼んでいた。それで私も彼女をPonと呼ぶようになった。ある時、Ponのアパートで、誰かがあっちを向いて、いきなり手を合わせ妙なしぐさで祈りみたいなものを唱えてはじめた。それを見て私はちょっとギョッとしたことがある。

 

Ponは、その私を見て、「あ、彼女はああなの」、といったきり別に説明もしなかった。彼女は「ああ」で、「ああ」である彼女を自分の常識に引きずり込まないという、そういう姿勢がそこにあった。

 

子供のときから自分を支配するもの、統制するものの中にいて、こちらが反抗したり抵抗したりしているわけではないのに、いつも集団の輪の中から外れてしまい、そのことで苦しんできた私は、かすかに、彼女達の世代のこの人間関係に驚いていた。

 

日本の社会とは個性を許さぬ、常識を真理とする社会ではなかったか?みんなの輪の中に入りたいと思い、理由もわからずはじき出される自分を責め苛んできたのは、自分自身でさえ、個性を否定し、常識を真理として来たからではないのか?

 

Ponを巡る人たちは明らかにそのような、日本の伝統の中の人達ではなかった。

 

私はかつて3度も究極の自己否定を試みた。生きていてはいけないのだと思っていた。他人を責めて相手に迫るという行動をとらなかった。社会に入れない、常識的に行動がとれないのは自分の問題だと硬く信じていたからである。自分に固有の価値があるとも思っていなかった。口でそういう理論をたたいても実際の行動は常に自己否定だった。

 

自分が生を受けたことをただただ苦しいと思っていた。だからのた打ち回って苦しんだ。夏目漱石の苦しみも太宰治の苦しみも我が事のようによくわかった。思えば二人とも幼年時代から家族という集団から弾き飛ばされていたという体験を持つ作家だった。

 

そしてPonは、田舎の旧家で跡継ぎの男子誕生を期待されて生まれた、「期待されない女の子」であった。後に生まれた「跡継ぎ」の弟と徹底的に差別を受けて暮らしたらしい。

 

彼女はあまり愚痴として自分を語らない。ふとした弾みに、「弟がお前には財産をやれない」といってきたとか、「子供のとき学校になじめなくて、5年生のとき特殊学級に送り込まれそうになった」とか、「たまげて突然勉強し出して、成績最下位から1番に踊り出た」とか、それ以後「高位の成績をとる事が自分を守ることだということを知って、勉強をし、県内最高峰の進学校を出て、東京の大学に入った」とかいう話を、時々、飲みながらボソッと言う。

 

そして、「ははは」と笑う。ニヒルといえばニヒルかもしれない。しかし彼女は自己否定的ではなかった。 

 

彼女はきれいな顔立ちしていた。「美人だね」と言ったら、「うん、私は顔立ちよく生まれた」と答えた。その顔立ちの所為で、父親は、「この子は馬鹿だから、持参金でもたくさんつけて、早く嫁にやろう」といっていた、と付け加えた。

 

職員室でのいろいろな発言から、「この人、かなり理論的な思考力があり、切れるぞ」と思って本人にそういったら、「ああ、私は頭がいいの」と答えた。言語学をやったから論理の道筋のたてかたが身についたんだという。

 

彼女はまったくそういうことを誇らしげに言っているのではなく、ただ事実を淡々といっているだけだということは、どこかいつも空(くう)を見ている彼女の表情から知れた。

 

彼女は酒飲みで、しかも喫煙家だった。そのころ私の咽喉は異常がなかったので、紫の煙のもくもくと漂う中で、私は彼女と話をした。11歳年下だったが、彼女は100年も人生を歩んできたような表情をしていた。

 

「鬼婆サークル」

 

いつのまにかPonは私を通じて小森先生とも交流を持つようになった。3人はよく小森先生のうちで合流し、鬼婆料理を肴に話し合った。職員会議で連携を取っていた中野先生も時々合流してきた。

 

生徒も出入りして、さながらここは小森先生をホステスとしたひとつのサークルの様相を呈していた。

 

特に高三になった私のクラスの連中はにぎやかだった。彼らは朗らかによく歌う。何でもかでも手拍子つけて歌う。彼らにあったら、アヴェマリアも流行歌も手拍子に乗せられてしまう。

 

「ア~ヴェ~マ~リ~ア~、あ、それそれ、グラチア~プレ~ナ~、あ、ほいほい…」という具合になる。それから突然、「何とか節」がでてくる。かと思ったら、彼らが子供のころのテレビで覚えたらしい、アニメの歌が出てくる。「巨人の星」が出てくる。校歌も編曲してうたう。哲学の話も宗教の話もその合間に出てくる。

 

あの哲学少年も高校生になって、このグループに加わっていた。彼は高校になってからいち早く私が顧問を勤める演劇部に入ってきた。演劇部は、小森先生が顧問補佐を勤めていたから、このサークルは演劇部の溜まり場ともなった。

 

すでに前任者の息のかかった生徒たちは卒業してしまったから、小森先生のおかげで演劇部の指導もできるようになった私の色彩の強いクラブとなっていた。演劇部にはいつしか学校中の変人ばかり集まり、かなり注目を引くグループになっていた。

 

「初めての卒業生を送る」

 

昭和50年3月、私がはじめて3年間担任をしたクラスを送り出した。修道院を去って以来、自分自身の弱さと戦いながら、行き場を失った使命感の発動の相手として、密接にかかわった生徒たちだった。

 

1年生のときからY子のうちで始まり、その後自宅でも、小森先生のうちでも、Ponのうちでも、私は彼らの青春を見てきた。私は自分の知らなかった世界を彼らを通して知った。彼らの歌を歌い、恋人の話を聞き、学校の問題を討議し、受験指導もその合間にやった。自然とはこういうものか、常識とはこういうものか、ということを、私は30代前半、彼らを通して知ったのだった。

 

3年間色々な事があった。彼らの一人一人がそれぞれの青春を生きていた。私が30代で経験していないことを、彼らは経験していた。海外から帰国してきた生徒たちが、自国の文化とのギャップに苦しみ、在日韓国人が複雑な自分の立場で悩み、家族から離れて暮らす寮生たちが、孤独に苦しみ、さまざまな問題を起こすのを、私は手を拱いてみていたが、少なくとも私は彼らにとって加害者になることだけは避けようとしていた。

 

できたのはそれくらいだったなと、私は無力感を感じながらも、彼らとともに過ごした日々を回想した。

 

その当時あの学校の生徒の90パーセントは飲酒喫煙をしていたし、教師の3分の一はそれを黙認する私みたいな不良教師だったが、潔癖な担任はそのうち一人二人を摘発しては、職員会議で大問題にして、自分の担任の子供を退学させようとしていた。のみならず彼らは飲酒喫煙で問題になった生徒の日常生活から親の職業にいたるまで、関連付けて、さも憎憎しげに職員会議の議題にした。

 

潔癖さというものは残酷さと同意義だ。自分が潔癖だと思ったら、どんな不潔も許せない。そのことを自分のどん底の体験から悟った私は、潔癖であることをやめる決意をした。やめるというよりも、不潔でありえた自分を受け入れた、というほうが正しい。

 

潔癖症の教師は、不潔というものは、親の職業が不潔だからだという結論を平気で導き出すらしい。高校生の飲酒喫煙に限って不潔だと考える潔癖症の先生は、一人二人の生徒の親が、飲食店経営だという理由で、生徒の不良をもう絶対治せないと思ってしまう。だから退学という結論に走る。しかも殴って蹴って、散々痛めつけた後学校を放逐することを「教育的処置」と称して安心するらしい。

 

担任というものは任された子供を守るのが仕事だと思っていた私は、自分の担任の子供が飲酒喫煙はともかくとして、「男の子と手をつないだ」とか、「不潔にも男の子に髪の毛を触らせた」とか言うどうでもいい個人的な行動までチェックしては、職員会議にもち出して、処罰の対象にしたがる教師たちのやり方にいつも心を痛めていた。

 

そして彼らはそういう問題をいちいち、職員会議に持ち出しては、挙句の果て、生徒指導係という係りの先生に全部押し付けてしまう。つまり、「殴る係り」に殴ってもらうのである。それが私より「常識的」といわれる先生達の常識だった。キリスト教系の学校というものは、すごくいびつな潔癖さを持っていて、不潔を自覚したものには「困った場所」だった。

 

共学の学校だったにもかかわらず、ある年齢に達して男女が仲良くなることを罪悪だと思ってしまうのは妙なことだと私は思っていた。

 

「女の子と男の子がじっと見詰め合っていました」とか、「校庭で二人がくっついて座っていました」とかいうことが、職員会議の話題となり、生徒達の行動の、とんでもなくおかしなことを、特に好んで観察し、「誰と誰が手をつないだから不純異性交友だ」とか、議題がえげつないことばかりなのである。

 

そのようなことを大の大人が討論するのを、初め私はあっけにとられて聞いていた。特に「喫煙をしている男の子が女の子の髪に手を触れたから」といって、「女の子が貞操観念がない」なんて言う結論を導くのが、私には解せないことだったが、それが潔癖な彼らの「常識」だったのだ。

 

学校の帰りに私はよく同じ方向に行く小森先生やPonと一緒になった。職員会議のときあきれて発言もしなかった二人に、「あれいったいなんですか?」と聞いてみた。

 

二人とも私より「常識」を知っていると思ったのだ。二人は一様にうんざりした顔をして、「ふ~~~」と吐息を尽き、「職員会議いろはがるた」と称して、新しいいろはカルタを作って駅までの15分間の道のりを歩いた。

 

全部は覚えていない。「か」のところで私が、「髪の毛触れば…」といってどう続けようと考えていたら、小森先生が、「子を孕む…」と続けたのが妙に印象的だったから覚えている。男の子が女の子の髪の毛を触ったら、「あれは不純異性交遊で、女の子の貞操観念欠如である」と結論付けた、ある純潔無垢な50男の教師の発言を「かるた」の1句にしたものである。

 

そういう戯言の続きで、私の胸には、変な議題が出るたびに、からかってやれという気持ちが沸き起こり、職員会議を散々かき回した。

 

「あのぉ。私わからないからお聞きするのですが、男の子が女の子の髪の毛触ると、何が起きるのですか?」

 

そういう質問をまじめなふりをして聞くと、おかしいことに校長はきわめてまじめに丁寧に指導の仕方を教えてくれる。

 

「高校生の交際は清純でなければならないのですよ。触ったり見詰め合ったりするのはもうすでに不純なのです。導いてやらなければ、大変な大人になりますよ。」

 

「それじゃ注意しても注意しても、絶対触りつづけていたり、断固として見つめつづけていたらどう指導したらいいのでしょう。教えてください。」

 

「そのような時はね、もう指導に経験がおありの先生がいらっしゃるから、女の子の場合は女の先生に、男の子の場合は男の先生に、清純な交際のあり方を指導する方法を教えてもらうことができるでしょう。先輩の先生に意見を聞いてお互い協力しながら指導の方法を覚えなさい。」私は素直に、「はい」と答える。

 

それで私は「自分のクラスの子が二人手をつないだり、おんぶしたりしているので、きわめて不純だから、折邊先生、どうすればいいでしょう?」などと名指して尋ねる。宣教師の折邊先生はまじめだから、これまた滑稽な真面目さで、「清純な交際の話は自分が引き受けるから生徒をよこして暮れ」などという。

 

私はクラスの子を全部折邊先生のところに次々送り込んだ。何しろ彼らは全部不純だったから。

 

私は別のクラスのある子が喫煙で退学になりそうなことが議題に上ったとき、とうとう学校の権力の中枢にある、あの中学の狸教頭を呼び出していったものだ。「学校の生徒の90パーセントは飲酒喫煙をしていることを知っているけど、あの子を退学させるなら後の89パーセントをどうしますか。」私の形相がすごかったのかどうか知らないけれど、その子は反省文とやらを書かされ、おまけに丸刈りを持って反省猿の態度を取っただけで退学にならなかった。

 

私のクラスの生徒たちは、そういう学校のやり方に反抗してストライキまでやって騒いだため、一時生徒の半数が、つまり男子の全員が危うく処分を受けそうになった。彼らの将来に響くような決定を私は自分の哲学で処理するのが疑問だったから、問題になっている生徒の親たちを密かに集めた。

 

そして彼らに、「一人だけが助かるような行動を取らないように」と釘をさした上で、「校長は親の態度で一変するから、こういう場合お母様方が信じている社会的な行動をとるように」と進言した。そこで彼らは彼らの信じる哲学にしたがって行動をとり、一人の退学者も出さず収めた。

 

おまけに一人の生徒が、クラス全員のために、これは籤で負けた生徒だったらしいが、朝の礼拝の席上で謝った。謝罪の内容は、きわめて政治的で、先生方のやり方が正しいなどとは一言もいわず、ストライキのため、ほかの学年にまで迷惑をかけたことを謝ったに過ぎないのだが、宣教師をはじめ、潔癖な先生方は意味を考えず快く思ったらしい。

 

礼拝の席上で謝れば、彼らは許さざるを得ないのである。宗教界の事をよく知った私がよくやる手だけど、あれは私のやらせでなく、彼らの自主的判断だった。こういうひょっとすると偽善的な社会性を私は彼らとともに身につけた。

 

おかしげな思い出を胸に、それぞれの進路も決まり、29名全員が卒業した。みなで、最後に卒業旅行をした。一人の生徒の親戚が長野県伊那市にスキー宿を持っている。そこにみんなで行こうということになった。彼らはあの宿で、自分たちの卒業を祝い、はじめて監督のいない、自由な時間を謳歌した。私は引率教師でなくて、招待客だったから。

 

「あるリンチ事件」

 

新しい4月が来て、私は新しい高1の担任になった。教師の入れ替わりもあり、各学年に転入生も来て、クラスの数も増えた。私が顧問をつとめる演劇部は、すでに補佐なしで、かなりの人数を抱えていた。理事長が小森先生を迎えて始めた国際学級は、帰国子女であふれていた。

 

人間関係が大きく変化したのである。

 

新入生の紹介は、だからにぎやかだった。朝の礼拝の後で新入生と新しく着任した先生の紹介がある。ここでかなりの人柄がわかり、案外面白くていい習慣だなあと思っていた。東京のはずれに、寮をもって、偏差値を重視しているわけでもない特殊な学校だったから、かなり特徴のある生徒が多かった。

 

受験を重ねてたどり着いたというような生徒がいるし、ほかの学校に合わないからとにかく親が押し込んだなどという生徒もいる。何しろ、定員が満たないから1月から3月までの間に3回も追加募集を繰り返す学校だった。

 

高2のクラスに一人の転入生があった。端正な顔をした元気そうな男の子だった。自己紹介のとき、彼はかなり目立つ発言をしていた。

 

自分の名前と出身校を言ってから、「自分の特徴はスポーツでも勉強でも、すべて一通りこなしせることです。どこに行っても好かれる人間で問題を起こしたこともないし、自分はクリスチャンで、キリストの熱烈な宣教者です」というのである。

 

こんなこといっちゃって大丈夫かなと、みんな思った。彼の言動はちょっと教員達を不安にさせた。彼は都心のほうからきた転入生である。引越しをしたわけでもなく、自宅から通ってきて、学校を変わる理由がわからない。その彼がことさらに言う言葉が、わざわざ「問題を起こしたことがない」と宣言する言葉だった。

 

彼の入るクラスはいろいろな意味で問題の多いとされる生徒ばかりであったのだ。多分知的障害があると思われる言語に問題のある生徒。私のクラスにいた在日韓国人の生徒の弟。他校の生徒と徒党を組んで近くの朝鮮人学校の生徒といつも問題を起こしているような欲求不満でかなり暴力的な数人の生徒たち。そしてあの哲学少年。

 

何よりも、そのクラスは成績の差の激しい、まったくまとまりのないクラスであったばかりでなく、担任はどんな問題も自分で解決を試みることなく、生徒のプライバシーにかかわることもすべて職員会議で公表して、生徒指導の先生一人に押し付ける常習犯だったのだ。

 

おまけにそれだけ個性を持ったクラスの生徒だったからというわけでもないのだけれど、そのクラスの多くのメンバーが私が顧問を務める演劇部に所属していた。

 

そのことは特別、何も問題ではなかったはずだったが、まずいことに、私に対してはじめは多大の期待を持ち、あの不祥事の後すっかり私に冷たくなった理事長婦人は、演劇部に集まる生徒がもともといろいろな問題を抱えていたにもかかわらず、何か、元は普通の生徒だったものを、私がそそのかして問題児に育てたかのごとく考えて、私に事あるごとに非難の矛先を向け、演劇部のメンバーを嫌っていた。

 

とにかく、今は新しい人間関係に早くなれるため、私は授業に没頭し、あまり職員室にとどまらずに、新しく任された生徒たちの研究に時を過ごした。今度のクラスは女の子が元気で、男の子に覇気がないな、などと思いながら名前を覚え、癖を覚え、授業の内容や持っていき方も考え直していた。

 

中学からの持上がりの子と高校からの子が半々ぐらいのクラスだった。だから名前も癖も、家庭の事情も半分は知らなかった。

 

中に一人特に気になる子がいた。小学生のころから寮に入っているという男の子。みなに苗字の一部、グチという愛称で呼ばれている。両親と死別し、保護者は叔母の名前になっている。

 

しかし実際は休み中過ごしている家は、結婚した姉と、働いている兄のところらしい。その兄は両親の死に伴って、高校を中退し、仕事について、小学生だった弟を育てたという。弱冠24歳と聞いた。

 

中学のときいつもいつも問題を起こしては、丸刈りにさせられて反省の意を表することを繰り返していた子である。正直で素直な子なのだが、案外いつも目立っていて、多くの人に理解されず、みなの集まって、問題行動を起こすようなところにい合わせては、みんなが逃げた後一人取り残されて、つかまって処分の対象になっていた。

 

ある朝出勤してみると、職員室は異様な雰囲気に包まれていた。なんだ、なんだと、中野先生に聞いてみると、彼も青い顔をして、寮にリンチ事件が発生したという。

 

被害者は、「キリストの宣教者だ」といっていたあの転入生だった。そして加害者は高校の全クラスにわたって寮生を中心にした高校生の男子であった。中野先生が担任をしていたのは同学年の別のクラスだったから、ほとんど全員が、そのリンチに加わっていた。

 

私のクラスの生徒に誰か加害者がいるかをまず尋ねた。例のごとく、グチが入っていた。そして、一人の生徒の名前を聞いて呆然とした。演劇部から、あの哲学少年の名前が挙がっていた。

 

グチは多分巻き添えを食ったんだろう、いつもの事だ、と思った。しかし哲人君に関しては、何かの間違いだと誰しも思った。彼は暴力に無縁な子だった。他人の生き方が自分と違うからといって、それを気にする子ではなかったし、第一彼自身誰とも同じ生き方なんかしていなかった。子供のときから彼を知る人たちは、彼が自分の世界に静かに生きていることを知っていた。

 

彼は実社会のごたごたの中にいても、思索と夢想の世界に没頭していた。子供のころから一緒に暮らした仲間も、彼に「普通」を期待していなかった。だから新しい人間関係の中でリンチを受けるとしたら彼のほうだったろう。

 

グチは自分のクラスの子だから、事実関係を確認して、早く手をうとうと思った。彼を呼び出して事実を確認し、彼の事実上の保護者である姉と兄が学校にきた。二人は若すぎてちょっと社会的に行動をとるように説得するのは無理だなと思った。姉は泣き、兄はただうつむいて怒っている。どうも、リンチの対象になった相手に腹を立てているらしい。私には腹のそこで、それを理解する気持ちがあったがそれを前面に出せば、ことが複雑になる。

 

書類上の保護者になっている叔母とコンタクトを取った。電話の声から察すると病身らしかった。彼女はしかし、孤児になった甥達を愛していた。グチの性格もよく知っていて、いつも問題の対象になるのを哀れがっていた。頭の中にいろいろな思いが駆け巡った。私は事の次第を理解し始めた。

 

「被害者は小宣教者」

 

リンチを受けた仲邑君は、自己紹介のとき、自分は「キリストの宣教者」だといっていた。

 

彼は、その言葉をたがえず、クラスの新しい仲間を相手に「宣教」をはじめたのだ。知的障害者の直君を自分の信仰の力で「救剤」しようとした。朝鮮人学校の子と問題を起こしているグループに「キリストの名において」改心を迫った。彼にしてみれば哲人君は恰好の布教相手だったろう。哲学を語りながら、まったくキリストを相手にしなかったから。彼の趣味のインド哲学なんて軽蔑すべき異教徒のたわごとだった。

 

仲邑君は、何しろキリストの宣教者を名乗るだけあって、謹厳な生徒だった。いつもにこにこしていてあまり本心らしいことは顔に出さなかった。授業態度も申し分なく、私の授業でもよく発言をしていた。しかし内面にかかわる内容の授業だったから、私の考えに対して、よく「キリスト教的見地から」たしなめるような発言もしていた。相手が子供だから、私が本気で相手にしなかっただけで、そのたびにクラスの生徒がざわめいていたのを記憶している。

 

多分、この学校の主義から言って、先生の受けはよくても仲間から浮いた存在になることは避けられなかっただろう。

 

しかし事件が起きたとき、彼は担任も教頭も、校長もすっ飛ばして、いきなり直接理事長になきついた。理事長夫人は育ちのよい、しかしあまり物事に対する洞察力のない深窓の婆姫である。まずいことに「キリストに忠実な、宣教の使命に燃えた」少年の訴えに対して、ものすごい義憤を感じてしまったのだ。

 

そして彼女は、ことを、まるで学校を挙げて「キリストの宣教者を迫害している」かのような方向に運んでいったのである。中にたった一人の私のクラスの子がいて、またたった一人の演劇部の子がいたことで、理事長はまるでリンチを指揮したのは私であるかのように、非難の矛先を私に向けてきた。被害者も加害者も全部寮生で、私には関与不可能な状況だったにもかかわらず。

 

ことが面倒になってきた。加害者が全校生徒に渡っている場合、足並そろえて行動しなければならないのはわかっていたが、私はそのとき、自分の荷を軽くして事にあたろうと思い、ひそかにグチの叔母にだけ、すぐに加害者宅に電話して謝るように、できればグチをつれて、謝りに行くように指示を出した。

 

相手はクリスチャンらしいから下手(したて)に出ればわからない相手ではないからと伝え、このことは自発的な行動として、私の名前は出さないよう釘もさしておいた。彼女はすぐ行動をとった。そしてこの行動はすぐに仲邑君の両親を通して理事長に伝えられ、グチだけは理事長婆姫夫人の計らいで、はじめに問題からはずされた。

 

事件は演劇部を中心に起きたことではなかったから、演劇部の生徒は、自分のクラスでない限り、私の担当ではなかった。こんなに全学年にまたがって起きた事件は、各クラスの担任が自分のクラスの生徒を指導すればよいはずだった。しかし、加害者と被害者を両方とも自分のクラスに抱えた大津先生は、キリストの精神を大げさに喧伝する被害者のみをひたすらにかばって、問題の本質を追及するどころか、「加害者のほうを全部処分」するよう、問題を職員会議の決定に預けたのである。

 

職員会議で、発案者の彼は何も発言をしなかった。

 

加害者側にいた寮生は、処分を待って自宅待機をさせられていた。私は哲人君を救いたかった。私が口を出せば出すでろくなことが起きないことも知っていた。彼の家庭は離婚家庭で、母親は働いていた。そして兄弟もいなかった。何とかしたいと思っていたら、彼の母親のほうから私に連絡を取ってきた。担任のほうから何も連絡がないというので、意を決して、私はそっと彼の自宅まで出かけていった。

 

自宅で見た哲人君はまるで幼児だった。わけのわからない恐怖に体を震わせて、頭からふとんをかぶって丸くなっていたのだ。彼は本当にこの事件にかかわったのかと私は直接聞いてみた。確かに一回殴ったと彼は言った。相手がにくいのかと聞いたら、「そんなこと思ったことないけど、佐竹君がそうしろといったから」と、彼はなさけなそうに答えた。

 

佐竹君も転入生だった。精悍な顔をした頭の切れる子だったから、私は彼の授業中の発言もしっかり記憶していた。思想の内容からして私は哲人君と互角だと思っていて、彼に同年の相手ができてよかったと思っていた。

 

ところが私の読みは浅かった。彼は哲人君の男の子として虚弱に見える態度を憎んだ。彼は哲人君を「男として鍛え直してやる」といい、付きまとっては暴力を振るい、暴力の先導をしていたらしい。

 

私は自分に任された新しいクラスに没頭していて、他のクラスのそういう事情が見えなかった。彼の母親はなかなか知性の勝った気丈な人で担任のことも見抜いていたし、リンチの相手になった被害者の精神の問題もかなり見抜いていた。

 

彼女は私のことしか信用しなかった。そのことは私の気を重くした。なぜなら、私にできることは、職員会議で誰が見ても納得するような方法で、なるべく多くの子供たちを守ることしかなかったから。担任でない人間が彼を伴って謝りに行くということも、相手のほうに、適当な言葉を言うこともできなかった。そして彼の母親は、自己判断でもって、問題のある相手にとりあえず謝りに行くという方法を拒否した。

 

魔女狩り風 職員会議」

 

職員会議はすさまじかった。全然自分のクラスの子供を守る気がない沈黙した担任を尻目に、はじめから会議は紛糾していた。高校の問題なのに、中学の狸教頭の発言が一番強く、子供の一人一人の問題に頓着なく、「小宣教者」を迫害したネロの化身「野蛮な民」をばっさばっさ切り落とすかに見えた。

 

彼女は、私は知らないことだけれど、明治以来のかなり有名な、さるプロテスタントの宗教家の娘ということだったから、彼女の発言の中に聖書の引用が多かった。

 

神の怒りを、しかも旧約時代の神の怒りを彼女は代弁していた。金切り声を上げながら、彼女は私の発言に対して、「あなたは赦しばかり強調するけど神の正義は考えないのか」と叫んだ。私は注意深く彼女の発言を聞いていた。

 

この裁判は普通の裁判ではなかった。まるでキリストを磔にしたユダヤ人を裁く裁判のようだった。彼女にとってのキリストは被害者らしかったが、私はそっとうまくキリストを加害者のほうに切り替える機会を狙っていた。

 

一日で決着はつかなかった。そして、中野先生がそっと私に言った。「大津先生は被害者一人を除いて、自分のクラスのほかの子供たちに授業もしないで放置してある。落ち着かせようともしない。ホームルームで問題の討議をして今後問題の発生を防ぐ努力をすべきなのに、問題がどこにあるかさえ考えようとしない。誰かが何とかしないと、あのクラスは収拾が付かなくなる。」

 

中野先生は加害者を大量に出した自分のクラスで手一杯で、隣のクラスにまで手が回らなかった。

 

私は中野先生の言葉の意味を察した。

 

自分のクラスの子供をひとまず落ち着かせた私にそっと促しているのだな。そうか。じゃ私が手をつけるか!

 

越権行為が露見すれば自分の身を危険をさらすことはわかっていた。

 

この学校にきた初めの頃皆が持ってくれていた信用は、今の私にはない。髪振り乱して信念をかけての発言だけはやめない私を見て、あんなことをしたやつがいまさら何をと考えて、人は眉をひそめていた。その中で中野先生が私を見て、「強いなあ!」と感嘆していたのだけが印象的だった。

 

普通不祥事を起こした者は大人しくして、存在を隠すのが期待される態度なのに、私はあの山小屋に蟄居中に哲人君が尋ねてきて職場に戻ってきた当初から、職員会議の発言を続けていた。使命の続行を思い出させてくれたのは、尚詩だった。私は中野先生が言うほど、決してもともと強かったわけではない。苦痛を抑えて歯を食いしばっての行動だった。

 

あのころの私はPonのアパートで泣き上戸をやっていたのだし、がむしゃらに山に登って小森先生のうちで伸びていた時、揺れる私を励ましてくれたのは中野先生だった。

 

私は次の日の現代国語の時間、ぼおっとしている大津先生のクラスに手をつけた。国語の内容から、個々人の生き方の相違について話し合いを設ける方向に持っていったのである。いい話し合いがもてた、と私は思った。

 

リンチに参加しなかった女子の生徒たちは強かった。「他人が違う考えを持っているからといって、どうして集団で暴力を振るうのか」と、彼女たちは男子生徒に向かって抗議した。

 

「自分と他人が違うことに対して量見が狭かったのは仲邑のほうだ」と男子達は切り替えした。「自分の考えだけが正しいとはじめに言って布教の真似事を始めたのは彼のほうだ」と。

 

「でも仲邑君は暴力に訴えて布教をしていたわけではない」と彼女たちは応戦した。

 

しかし彼女たちは決して仲邑君の味方ではなかった。

 

「今まで変人といわれていた数人の生徒たちが変人のまま存在価値を認められていたのに、それを自分の考えで理解できないからといってキリストまで持ち出すのはおかしい」と、彼女たちはしっかりと、仲邑君の問題の中心を押さえていた。

 

仲邑君は「解った」といってにこにことしていた。彼はリンチの後も一度も休まず学校にきていた。強く立派な態度だなと、実は私は思っていた。

 

私は決して仲邑君を拒絶していたわけではなかった。彼の若さ、彼の情熱、彼の信仰を、私はむしろ心の隅で親近感を持って捕らえていた。彼ほど純粋な形で、無防備に、正直に、しかも自信に満ちて、信仰を表現したわけではないが、私にだって似たような精神でもって他人に接していた時代があったのだ。

 

ただし彼と私の信仰に対する態度で決定的に違ったのは、私はどんな指導者の話も鵜呑みにしたことがなかったという点だったろう。私は確かに信仰を人の教えによって身につけた。しかし私がその教えを鵜呑みにするには、あまりにも多くの反面教師が私の周りにいすぎたのだ。

 

そして私は指導者の発する「言葉の内容」をしっかり把握する一方、その言葉と裏腹の指導者の人間性を洞察する感性を持っていた。私は指導者には従わず、指導者自身が矛盾して語っている「言葉の内容」に従った。

 

私はもし仲邑君に個人的に会う機会があったら、仲間として腹を割って話をしてみたいと思っていた。しかしなんだか上のほうの人たちがひどく彼を過保護にしていて、あまり近づけなかったので、積極的に捕まえてまで話さなければいけないとも思っていなかったのだ。

 

ところで、あの現代国語の授業以来、仲邑君は休んでいたけれども、それを私は特別な問題とは思っていなかった。

 

ただふと私の授業に出てこない彼が学校にはきているのに気がついて、担任に一言その報告をしたのだが、担任は例のごとく、「あ、そうですか」と言っただけだった。私はまったく仲邑君に対して鈍感だったのである。

 

私は全員退学を主張する校長と対立し教育について激しく討論して、職員会議を夜の10時まで引っ張った。学校はもともと問題を持った子供を集めてキリスト教の精神によって教育することに重点をおいていたから、私は「面倒な生徒は退学させるという手段をとるのは、学校の精神にかんがみて矛盾である」と吼えて迫った。「学校は教育の必要のある子供の教育を放棄するのか」と私は追及の手を緩めなかった。

 

お互いに自分の都合にあわせて、聖書の言葉を挙げては、舌戦を転開した。その間発言を求められる度、担任の大津先生は、「皆さんのご意見に従います」といって沈黙を続けていた。

 

理事長夫妻も疲れて自分がいやになるまで出席していた。夫人は私を憎憎しげに眺め、「仲邑君は見上げるような立派な子です、あの子が怖い先生が一人いるといっているけど、心当たりありませんか?」と私の目を見ていった。演劇部のメンバーのことで奮戦していた私は、うかつにもそれが自分のことであるとはまったく気がつかなかった。

 

退学処分の人数をだんだん狭めていった救済側は、一人の重要な人物の日和見によって崩れた。聖書の言葉が出るたびにあっちにつき、こっちについていた、かの宣教師先生はとうとう、数人の子供たちを退学処分にする決定に賛成した。まるで関ケ原の戦いの小早川の役割を彼は演じたのだ。そのとき私は彼に書付を送った。「ピラトよ、手を洗うのか!」と私は書いた。その書付を見て、彼はがくっと前にのめり、涙をためて、私を見た。 

 

高2のクラスは二つとも、人数が減った。哲人君は学校に残った。しかし、仲邑君はその後も私の授業には出てこなかった。

 

「越権行為」

 

その年の暮れになるまで、仲邑君は国語の授業に出てこなかった。担任に何度言っても埒があかなかったので、とうとう私は教頭を通じて、仲邑君が国語の授業に出てこなかったら出席日数不足で、進級ができなくなる旨通告した。

 

高校の教頭は感情家ではない。物事を事務的に処理する能力は人一倍持っていた。事態の前に感情を挟まず、禅問答にも参加しない。私は案外気に入っていたのだが、余り彼女には力が認められていなかった。中学の教頭が入ってくると問題は紛糾する。高校だけで何とか事態を収めたいと思った。彼女は担任を通さず保護者に事の次第を知らせた。

 

数日経ってから私は校長室に呼ばれた。仲邑君の母親が来ていて、私と話したいといっていると言うことだった。よかった、やっと仲邑君の問題に私が直接物が言える日が来たと思った。その時も私は自分に問題があるとは思っていなかった。心をこめて彼女と話そうと思っていた。明るい気持ちで、私は校長室に歩を運んだ。

 

校長室には、校長と高校の教頭が仲邑君の母親の前に座っていた。なんだかひどく緊迫しているなと、そのとき初めて感じた。紹介を受け母親に一礼した。校長に促されて私は仲邑君の母親に、「仲邑君が現代国語の授業に出てこないので、出席日数が足りなくなると単位が取れなくなるから、保護者の方と話をしたかった、今日お目にかかれてやっと解決できると思って安心した」と話をした。

 

そのときまで背もたれに埋もれていた母親が、やおら身を起こして、恐ろしい形相で私をにらんだ。「あなたのような方が先生をやっているから、学校が悪くなるんです。内の息子がこんなに苦しんでいるのを棚に上げて、よくも単位が取れないなどといえますね、」と彼女は前置きもなく、いきなり攻撃の姿勢で私に食って掛かった。

 

何だろう?と私は思った。「私は現代国語の担当をしているだけで、まだ一度も息子さんと個人的に話をしたこともないのですが、いったいどういうことでしょう、」と私は全く当惑してあほうのような顔をして彼女に言った。

 

いくら思い出そうとしても、私は仲邑君を傷つけた覚えはなかった。彼はいつも私にはにこにこしていたし、自分から私を批判したこともなかった。わずかに思いあたるとしたら、彼が授業内容の説明をする私の言葉をさえぎって、私にたしなめるような口を利いたとき、クラスがざわめき、私は彼を無視したことがあった。その事かなとふと思い、「こういうことがあったけどそのことでしょうか?」と聞いてみた。

 

「そんなくだらないことじゃありません!」と彼女は興奮して叫んだ。ことの次第を言わないで、「あなたのようなくだらない先生がいるから世の中が悪くなるとか、先生には教育者の資格がありません」とか、言ってはいきまく母親の話し方に、たまりかねた教頭が割って入った。私はただあきれて対応の仕様もなく呆然としていたのである。

 

教頭に話を整理していうように言われて、彼女は言った。

 

「あなたは苦しんでいる息子をかばうこともなさらないで、ご自分の管轄でもないクラスのことに口を出して、国語の時間に生徒を唆して息子をつるし上げたではありませんか。悪いのはリンチをしたほうなのに、リンチをしたほうばかりかばって、クラスを改善しようとして一生懸命に誠意を持って話をしていた息子を理解するどころか、リンチの原因は全部息子にあるというように、生徒たちをあおって息子の居場所をなくしてしまったではありませんか。

 

国語の本来の授業もなさらず、ホームルームみたいなことをやって国語のクラスに出席できないようにしたのはあなたです。あれから息子がどんなに苦しみ、それでも我慢して学校にはいっていました。でも国語の授業だけはいくら考えても苦しくて出られなかったといっているんです。その責任はあなたにあるのに、今度は出席日数が足りないから息子を進級させないとおっしゃるんですか。そんな不正がこの学校では許されるのですか。」

 

彼女の傍らで、仲邑君が泣きじゃくっていた。そのような彼の弱さを私はそれまで見たことがなかった。母親の顔は紅潮していた。激昂し、身を振るわせ、私をにらんだ。彼女は本当に怒っていた。彼女の前に、息子にはまったく落ち度がなかった。息子に手を上げたものはみんな悪の権化であった。そして息子だけが善人だという事を認めなかったらしい教師は教師の資格がなかったのだ。親ってこんなに息子のことで怒れるんだな…と私は思って、半ば感嘆して聞いていた。 

 

「奥様、それは誤解ですよ、」と私は話し始めた。「私は息子さんをずっと見ていて、普通ならこうした問題があった場合、学校にくる勇気がなくなるのが本当なのに、いつも休まず学校に来ていて、強い立派な態度だと思っていました。」

 

今度は彼女がまるで馬鹿みたいな顔をしてじっと私を見つめた。

 

「ええーッ!?あなたみたいな先生に息子の評価をする能力があったんですか!」ときた。

 

教頭の制止で、私は話を続けることができた。

 

「奥様がおっしゃるその現代国語の時間は、事件があった直後で、担任も対応が忙しく生徒たちは興奮して、まるで授業になりませんでした。私は生徒たちを落ち着かせるため、話し合いを設けましたが、私はそのとき生徒たちがよい意見を出し合っていたので、自分の意見を言った覚えはありません。

 

奥様にとって、息子さんが大事なことは当然ですが、私たちにとっては、加害者も被害者も生徒なのです。両方に対して教育の責任を持っている立場です。

 

同時に息子さんがその授業のことで苦しんでいるということは、担任からも本人からも、保護者のほうからも、まったく知らされませんでした。息子さんはあの授業のときも、にこにことしていて、級友たちの話し合いの結果に納得していました。私に対しても、何も苦しんでいるらしい顔は見せませんでした。

 

奥様から今はじめて聞くまで、私は、息子さんにむしろ宗教的な親近感を持っていたくらいです。ただの一度も、私が原因で息子さんが国語に出席ができないとは思えるような状況は見受けられませんでした。私は再三担任に、出席日数のことで警告しましたが、今まで取り上げられませんでした。

 

授業のことも、私はあの授業があったから国語の本来の授業をおろそかにした覚えはなく、あの話し合いはたった一度きりのことで、むしろあの話し合いを設けなかったら、その後の授業ができなかった、それほど、みんなにとってショックだった事件なのです。

 

生徒は人間ですからショックを受ければ全教科の学習に影響を受けます。それを落ち着かせるのは、加害者も被害者も、またこの事件に関与しなかった一般の生徒もすべてを預かる各教科の教師の責任だと思います。」

 

「越権行為」(2)

 

私がいったん言葉を止めると、教頭がその言葉を受けて結んだ。

 

「自分の授業をどのように持っていくかということは各先生の判断で決定してかまわないし、生徒にとってどの先生と合わなくて、どの先生とは合うということも仕方のないことでしょう。

 

しかし、合わない先生の授業に出席しないということは、学校法の規定で、単位が取れないという事務的結果が発生します。問題はそこのところを理解しているかどうかにかかっています。」

 

彼女は優れて事務的だった。胸がすくほど感情を交えず事務に徹したその言葉に、相手も押し黙った。

 

いうべきことはそれだけだというかのごとく、その言葉で教頭は締めくくって、話し合いは終わった。

 

少し感慨にふけりながら教員室に帰えろうとした私を、追ってきた仲邑君の母親が捕まえた。

 

困ったなと思った。私は理のない責めに対応する体質を持っていない。相手が理解しようという姿勢がないとき、私はいつも立ち往生していた。何でもいいからお前が悪いのだといわれたら、私の武器は論理しかなかったから、ただ呆然と相手を見つめているしかなった。論理とは、暴力や理不尽な権力の要求に対抗するために身につけた唯一の弱者の武器だったから。

 

相手はどうも、理事長の傘下にいるらしい。そして私ははじめから自分の側に戦う理由もないうちに敵になってしまってる。何か私の裏で、理解のできないことがおきてしまったらしい。しかし逃げられなかった。

 

迷いを一瞬にとどめ、私は彼女と向き合った。なるようにしかならない。

 

「先生ともう少しお話したい。」と彼女は言った。授業時間までまだ間があったので、応じた。彼女を学校の入り口の脇にある応接室に伴った。小さくなった息子もいっしょにくる。母親に抱きかかえられるように、15歳の息子はしょぼんとしながら従っている。

 

その姿に、かすかに感じるところがあった。この子、母親を恐れている。一人で学校にいるときの他人を睥睨するような態度からは想像もできない、小児のような弱さが見えた。まるで彼は5歳の子供だった。

 

応接室で向き合って座ると、彼女は言った。「私もかなり強いと思いますが、先生もなかなかやりますねえ。」「なぬ?いったいこの人何を言いたいのだ。」彼女のその言葉の裏に、私に対してある親密感を抱き始めているらしいのを、私は感じた。彼女は私が自分と同じように強いと思ったらしかった。その目の中には、まるで、「おい、おまえ仲間じゃねえの、」といっているような雰囲気があった。

 

しかしながら、彼女の洞察とは裏腹に、私はかつて自分を強いと感じたことはなかった。使命感に支えられて、私はいつも、足が震え、心がなえるのを押さえながら言葉を発し、行動をしていた。親しい人と一緒にいるとき、私は疲労のため酒をあおって伸びていたのだし、時には神経の緊張のため、一晩中胃痙攣に苦しんでいた。

 

それなのに、私は常に、強靭な神経と鈍感な感受性と、闘争心に満ちた気概を持っていると思われていた。心に1点の繊細さがあるなどと思われたこともなかった。あいつは花をめでたり、小動物を愛したり、詩情を持ったるすることはまずありえないと誰しも思っていたから、花の話をしているときに私が通りがかっただけで、気を遣って、柔道の話に切り替えてくれたりしたものだ。

 

私はただ、彼女に、自分としては何もお坊ちゃんに批判的な気持ちでいたことなどないこと、お坊ちゃんも、私に廊下であっても、にこにこしていて、授業が苦しいなんておくびにも出さなかったから事態がここまでおかしくなっていることがわからなかったことを話した。

 

それで彼女には何か自分の息子の中にかすかな矛盾があるのに気がついた。息子に向かって、抱きかかえるようにしていった。「シゲちゃん、なぜ、ママにばかりいやなこと言わせて、自分で何も言わなかったの?」ママに抱かれたシゲちゃんは甘い顔をしてママを見て、ごまかし笑いをし、私の方は見なかった。

 

案外気持ちの悪い雰囲気だった。母親は私のほうを見ていった。

 

「もう少し先生のことも理解したいと思いますので、私のうちにご招待しますからおいでくださいませ。」

 

変なやつだなあと思った。しかしさっきのものすごい形相から比べたら、この変化が何だったのかを確かめたい気分にもなった。私はそれに応じたから、担任が家庭訪問もしない他のクラスの生徒のうちに、しかも敵と味方とおぼされている二つめの家庭を訪ねる結果となった。

 

シゲちゃんの家は私が院生時代過ごした学生寮の近くにあった。懐かしいというより変な気分で、私は自分の過去の舞台を歩き、彼のうちのベルを押した。落ち着いた住宅街のいい雰囲気の家だった。はじめに出てきたのは、どうも申し合わせていたみたいに、シゲちゃん自身だった。

 

彼は、これまたものすごく、満面の笑顔で、徹底的にニコニコしていた。ニコニコしっぱなしの顔が固定していた。元々妖怪変化の洞窟を訪ねるつもりでいた私は、さして当惑もしなかった。この嘘っぱちのニコニコ顔の意味が多分今日わかるだろう。彼は私を応接間に招じ入れて、それからずっとニコニコしながら、あらかじめ用意していたかのように、私に謝った。「僕のわがままから先生の授業をおろそかにして申し訳ありません。これからはまじめに出席しますのでよろしくお願いいたします。」

 

その態度は私がむしろ知っているいつもの仲邑君の態度だった。彼はいつも慇懃で、そしてニコニコしていた。一人で他人に接するときはいつもこうなるように、彼はできていた。

 

立派な家族だった。シゲちゃんの下に弟がいて、その子も激しくニコニコしていた。しかし大人たちはさすが、社会人としての、常識的な態度だった。すごく料理自慢の奥様らしく、「これが本物のカレーです」とかいって、手作りのカレーをご馳走してくれた。その、生まれてはじめての、「本物のカレー」を食べて、私はその一家のご主人とはなした。彼も普通の善良な社会人だった。

 

この事件が起きるまで、息子が授業をサボっていたことを知らなかったこと、授業に出なければ単位が取れないのはわかっている事、問題の核心を自分はつかんでいないことなどをかなりざっくばらんに話した。母親は家庭で、ご主人のそばにいるせいか、落ち着いて、攻撃的な姿勢は微塵も感じられなかった。ご主人に言われておとなしくうなずいていた。

 

そうか。私はどうしようかと考えた。本当はシゲちゃんのあの無理な姿勢が今度の事件の引き金になったのだ。そのことを言おうか言うまいか。言葉は両刃の刃だ。うっかり馬鹿なことをいうとシゲちゃんの立場がなくなるだろう。私ももっと傷を受け、立ち直り不可能になるかもしれない。しかし何もいわなければ、ここにこうしてきた意味がないのだ。迷った。もういいかげん私は総身に傷だらけだったから、避けたい思いのほうが強かった。

 

私の逡巡に気がついたのか、彼は自分の方から話し出した。自分たちの宗教のこと、厳しいドイツ人の宣教師から、息子たちは宣教師としての教育を仕込まれていること、ぽつぽつ話し出した。ドイツ人といえば私が子供時代を過ごした教会の主任司祭もドイツ人の神父さんだった。日本は第2次世界大戦をドイツと共に戦ったから、教会にはアメリカ人はいなかったがドイツ人ばかりがいたのだ。

 

「もうこれは筋金入りですよ。」と彼は息子を指していった。「ドイツ人の教育方針というのは徹底的ですからね。」彼はある意味、それが誇らしげであった。「厳しいんですよ」と横合いから母親が口を出した。「うそをついたら、息子の首を押さえて口を石鹸で洗うんです。泣いても動いてもいけないんです。そんなことをしたら人前で裸にされて体中洗われますから。怖がっておしっこをしちゃうんです。子供が小さいときは。」

 

「う…。そ、それでお母様はどうなさったんですか。」思わず私は口走った。自分がそれをされたかのように、私の心は凍りついた。「私たちも家庭でそうしました。そうしなければ子供が立派に成長できないと、宣教師が言ったものですから。うそつくたびに洗面台に顔をつけて、上から水を流して、石鹸でごしごしやりました。うそだけは許しませんでした。」「で、泣いたら?」「泣いたら裸にして外に出しました。みんなにうそついた子の姿を見ていただくためです。」

 

私の凍りついた顔を見て、父親がなだめるように言った。「子供のときだけです。ドイツ人の教育は、子供のときが厳しくて、ある年齢に達すると、後は言葉だけの宗教教育になるんです。肉体を鍛えたら、精神教育に専念する。そういうところはしっかりしていますよ。」

 

自分の感情を押し殺し、私は言った。「お父様は同じような教育を受けてお育ちになったのですか。」

 

「いや、そんなことはありません。」と彼は答えた。「自分は小学校から大学まで国公立育ちで、教育機関で外人に会ったことはありませんでした。」

 

「日本の教育機関だけでお育ちなら、お坊ちゃんが、転入したばかりで、まったく同じ年齢の友達に、お前を矯正しようとか、布教しようとか、教育をしようとかいう態度で臨んだら、どう言う反応を呼ぶか、おわかりになるでしょう。」

 

彼は遠くを見るように考えていた。母親とは態度が違っていた。私に反駁するのでなく、私の真意を察しようという態度が見られた。

 

「まあ、やられるでしょうねえ。」しばらくの沈黙ののち彼は言った。「そういうことだったのですか。」私の目をまっすぐ見て彼は言った。

 

「はい、そのことを両方に理解させるための話し合いの場を私は作ったつもりでした。あの時、あの話し合いの場で、特に女の子達の意見は優れていました。あの子達は暴力で解決しようとした同級生の男の子達を責め、仲邑君には、自分の意見と違う人や、生き方の違う人に自分の考え方を押し付けるのはやめなさいといいました。それだけだったのです。あの時、私は場を設けただけで、自分の意見を言いませんでした。」父親の目に促されて、シゲちゃんは確かにそうだとうなずいた。

 

「わかりました。」と父親は事の次第を理解したような目で言った。この父親になら任せておいてもいいだろうと、私は判断した。第一、彼は息子を誇りに思っている。第二に、彼にはかなりの客観的な判断力がありそうだ。

 

帰り道、私は考えた。シゲちゃんは多分、私の分身なんだ。自分の身を守るために、すべてが私が悪いせいにした。私が昔自分のうそを暴こうとした先生の手紙を川に投げ込んだように。

 

私は哲人君を助けたいばかりに、シゲちゃんの心理の洞察をおろそかにしていた。彼の方はしっかりと生きていける人間だと勝手に決めていた。彼が理事長に助けを求めたときから、彼の弱さを判断すべきだったのだ。強ければ、いきなり権力の中枢に直訴したりしない。

 

クラスに話し合いをさせる前に私は彼と個人的に話すべきだった。かすかに心が痛んだ。15歳にもなっているから、彼は石鹸で口を洗われたりしないだろう。あの両親は宣教師に忠実だから。今回のこの事件は私の側の完全な失敗だったな、と私は思った。

 

シゲちゃんは、作られた外側の形と内面の真実とのギャップに生涯苦しめられるだろう。自分で自分の行動を考える力をなんだか、ほかの力で封じ込められているように感じるけど。それも彼に与えられた問題だ。悲しいけど、私の手の届く問題じゃない。私はそう、自分に言い聞かせた。