「自伝及び中米内戦体験記」9月14日
「私は教師でありつづけた」
私が職員室に戻ったとき、自分がどのような表情をしていたかはわからない。そのとき自分が考えていたのは、所定の仕事をこなすこと、原紙を切り、輪転機を回し、今までそうであったように周到に授業の準備をし、そして授業に臨むこと。
テストを行い、生徒と対話し、成績をつけ、会議に出席し、問題に対しては自分の意見を言い、解決に向けて努力をすること。黙々とただひたすら自分のやるべき仕事をして耐えること。それが自分に科した日課であったということを記憶している。
その当たり前の仕事の合間、一人になった私は一人で雑念に迷うことをおそれた。私は雑念を振り払うために、昔学生時代にやっていた一人登山をそのころ再びはじめた。戸倉三山という、五日市に登山口がある1000メートルにも満たない三つの山から登り始めて、陣場、景信と縦走し、相模湖で降りるか、または高尾まで足を伸ばすと、30代の脚でも12時間かかった。
朝3時ごろその日のおにぎりを用意し、きゅうりを丸ごと2、3本ビニールの袋に入れて塩を放り込んでおくと、リュックの揺れで適当な浅漬けになっている。乾パンだのりんごだの蜂蜜だのを放り込み、水筒にただの水を入れてそれに適当にレモンを切って放り込んでおく、その水も適当にゆれて疲れ直しのいいレモン水になっている。
戸倉三山は低い山だから登山客の人気のある山ではない。道は、固まっていることはいるが、回りの草は身の丈まで生い茂っている。それをわっさわっさと掻き分け掻き分け登り進む。獣道に迷い込むこともある。座って休んでなんかいられない。秋は山に実っているあけびなどをもぎって食べ、野蛮だけれど楽しくもある。丈高い草がない凍てついた冬は、道が倒れた草で覆われていて時に余計に迷いやすい。
木につかまり岩をよじ登り、必ず頂上にたどり着くのだが、一人で頂上がわからなくなるときなど、かなりあせる。道がなくなっても、とにかく上を目指す。歩きながら食べ、歩きながら飲み、12時間歩いて高尾駅近くの小森先生のマンションにへたり込んで、そこで飲んで寝る。そういう生活をかなりの間続けた。
小森先生は基本的にこちらが言わないことは聞かない、聞かないことはいわない、来てほしくないときは来るなというし、妙なお説教をたれたりしない。
彼女は、私がそのときもっとも必要としていることを心得ていた、実に心強い友だった。授業で足りないことなど私が悩んでいると、彼女は何も言わずそおっと、関係項目を用意してくれたし、それを使ったって使わなくたって、なにも頓着しなかった。
私の家に集まって歓談していた私の生徒たちは、いつのまにか小森先生のうちに集まるようになっていた。彼女は私が生徒たちと何をしていたか知っていた。彼女は私用の徳利を絶対に生徒に渡さず、これは三好先生の大事な高価なお酒だからといって、私だけに酌をした。その徳利には二本目から、ジンジャーエールが入っていた。
彼女の料理はちょっと見たことのない不思議な料理が多かった。後に私は彼女の料理はラテンアメリカの料理だということを知ったが、その当時、それは得体の知れないけれど、なかなか美味しいものだったので、私はその料理のことを「鬼婆料理」と呼んでいた。彼女の電話番号が0288で終わることから、からかってオニババといっていたからである。
このようなわけで私のクラスの「乱交パーテイー」(誰も乱交していません)は、場所を変えて誰にも知られず続行していた。小森先生は私が頼んだわけでもないのに、私が誰に邪魔されることなく自分のやりかたで教師であり続ける場を、そっと用意してくれたのだ。
「修学旅行」
私が自分の担任のクラスの斎さんの悩みに近づくために研究を深めた「記紀の研究」は、範囲が広がり、手のつけられない状態にまで膨らんでいた。記紀の神話の原型がアジアの近隣諸国の神話の中にあるはずだとにらんだ私が、環太平洋神話地図なるものまでこしらえて、話を太平洋を取り巻く島々にまで広げたからだった。
それで私は、諸説紛紛としてそれこそ収拾のつかない邪馬台国を九州と考えて、それと記紀神話と結びつけた。いったん広げた範囲を狭めて九州の白地図に邪馬台国と記紀神話関連が想像可能な地名を調べて書き込み、日本の創世記の物語を生徒たちとともに話し合った。記紀の創世記の神話を紹介しながら、古文の範囲内で行ったのだが、私はこれをそのままにしておくのがもったいないと思った。ぜひとも生徒たちを実地見学のため、修学旅行は九州に連れて行きたい、と思ったのだ。
しかし学園の伝統的な修学旅行の先は近畿と決まっていた。授業と何の関わりもなく、のんべんだらりと奈良や京都のお寺を巡り歩く、そういうマンネリ化した修学旅行は意味ないと考えた私は、英語科の中野先生と小森先生にあらかじめ示し合わせ、研究内容も見てもらい、自分の学年は修学旅行を九州に連れて行きたいので、職員会議でバックアップを頼むといっておいた。
創立以来伝統を崩したことのなかった修学旅行の決まりだから、どうかなあと言いながら中野先生が、その研究を職員会議に出したほうがいいという。しかし運動会のゆるぎない「伝統」とやらも私の提案で変更したくらいだ。修学旅行の無意味な伝統も壊してやれ。(変えたくないことを「伝統}というらしい)
そこで私はまだ下書きに過ぎなかった研究のさわりをまとめて、急いで輪転機にかけて職員会議用に先生の数だけプリントし、会議に諮った。
学園が修学旅行の目的として掲げている日ごろの「学習と研究のための実地見学」という大義名分を利用して、「修学旅行とはどこの学校もやっていることを右にならえ式に、毎年同じ場所に行くのでなく、その学年にあった研究の実地見学のため、毎年考え直してもいいはずだ、修学旅行とは本来こうあるべきだ」と私は息も切らずにまくし立てたから、なんだか皆があっけにとられている間に、修学旅行は九州に決まってしまった。
この学園の教員は、本質的にまじめだから、正論に弱いのである。意志を通したければ、学校が掲げている精神と、聖書を持ち出しさえすれば通る。おまけに引率の教師が一年もかけて修学旅行の目的地についてこんな研究をしたことは今まで皆無だということで、案外受け入れられたのである。
期間は受験を控えた高3の授業に差し障りのない3月の休みの間にやろうということで、ほとんどの教員はせっかくの休み中に、休みを返上してまで、いっしょに行きたくないものだから、私の英語科主任の臼杵先生というお人よしがついてきてくれることになった。私にとっては都合のよいことであった。彼は非常に知的能力の高い男だったが、国文学にも、歴史にも、知識や興味は皆無だった。だからかどうか知らないが、余計なことは一切言わない男だった。
うるさい意見はまったく言わない。つまり彼は、ただ護身用についてきてくれる都合のよい存在だった。引率教員二人、生徒28人という小さな修学旅行が決まった。
「修学旅行」 2
昭和49年3月24日、私と臼杵先生の率いる高校生の一行は九州へ向けて旅立った。
修学旅行は観光旅行ではないという私の頑強な主張がとおって観光会社の勧めをかなり蹴って私が計画したマニアックな旅程だったから、行き返りの列車以外は修学旅行の集団が行くようなところではない。観光会社は「変なの」に対応できる特別な添乗員を選んだそうで、それなりに「変なの」が来たから面白かった。
29名の生徒全員が手分けして調べて書いた九州に関するレポートと私が書いた記紀神話に関するレポートを持って、用意万端整えて行った修学旅行だから、一行の知的満足の度合いもなかなかなものだった。私があらかじめ連絡して頼んでおいた現地の案内も、観光客相手のガイドさんではなくて、県の教育庁の学術員だの、県総合博物館の学芸課主任だの、神楽保存会のメンバーだの、刈干きり歌を清澄で歌う土地の名士だのであったから、今から考えても収穫が豊富な旅だった。
然し、温泉地やほかの観光客が行きそうな場所に行きたかったらしい添乗員は最後までぶつぶつ言っていた。
九州の真中にある高千穂峡の岩戸神楽を見学の行程に入れておいた。しかし、添乗員は「あんなところまで集団を乗せていってくれるバスの運転手はよほどのベテランが必要で、頼むの大変だった」とか、「こんな所にくる高校生の修学旅行なんかいないから、旅館のほうが対応になれていない」とか文句を言いつづけていたのである。
岩戸神楽は当然のことながら、岩戸にこもった天照大神を、天のうずめの命がストリップダンスで誘い出し、手力男の命が岩戸をこじ開けて天照大神を引っ張り出す記紀の中の故事にちなんだ神楽だから、高校生になんか見せるのおかしいというのも、添乗員の主張だった。しかし添乗員の話っぷりからすると、彼はそれをかなり楽しみにしていたようでもあった。
ほぼ45年前の高千穂峡あたりは、都会の趣とはかけ離れていて、バスの窓から眺められる村の景色は、古代さながらのたたずまいで、千木をいただいた萱葺きの屋根の家々が、点々とたっていた。今ならあれは重要文化財指定ものだと思うが、今はもう消滅したのだそうである。生徒たちも珍しかったと見えて、書かせた日誌にも、千木の屋根のことが書いてある。
これこそが天岩戸であるという場所を案内したこの土地の神主も、まるで森羅万象をつかさどる神々の後裔のような面立ちをしていた。旅程の真中あたりで、楽しみにしていた岩戸神楽を見た。わざわざ私達30名の一行のため、特別な計らいで見せてもらったものだが、添乗員が後で私に不服そうに言ったところによると、神楽のクライマックスは高校生相手にはまずいということでカットしてあったのだそうだ。
何だ、結局この添乗員は、神楽の中心の最高にエロチックな部分を心待ちにしていたんだ、と私は思っておかしかった。
九州というところは記紀の神話の舞台だからか、戦前の政府がかなり勝手なこともやっている。西都原古墳、日南海岸と経て、名前に釣られてににぎの命が天から降りてきたとかいう噂のある霧島の高千穂の峰まで足を伸ばしたが、そこに伝承があるわけでなく、山の名前から明治政府がそういうことに決めたらしい。
遺跡もなければ文化の形跡もない山の頂上が神話の舞台ではありえない。いくら神話とはいえ、人間のすんだ形跡もない火山の上が伝承の舞台に指定することは無理があるだろう。
遺跡が集中的に見つかっているのは神楽の伝承と、天の岩戸と呼ばれる岩やが実際にある高千穂峡のあたりで、そのころもそのあたりは神話の舞台の首都という扱いを受けていた。土地の人は町に向かう電車を「下り線」といい、神代の趣をたたえた高千穂峡に向かう電車を「上り線」といっていた、あの頑固さが面白かった。高千穂峡は高千穂京につうずる。伝承からいってあそこが古代の都と考えたほうが適当だろう。
引率教員二人だから28名の少ない団体とはいえ、自由時間は生徒がどこにもぐりこむかわからない。その点でも臼杵先生が変に神経質でなくてよかった。散歩していたら、目の前で一人の生徒がパチンコ屋に入るのを目撃したが、それを見ていたはずの臼杵先生、知らん顔をしていた。
でも皆可愛いもので、旅館で疲れて先に布団に入ってしまった私を脅かそうと計画したらしく、私の枕頭にシーツをかぶったお化けが立っていた。気配を感じた私が、「あなた、誰?何か用?」といったのだが、お化けのほうはもぞもぞしていたので、相手にせずに、「ふん!」といって寝てしまったという話を、次の朝、朝食の話題にしていた。
「俺たちの担任、何やったっておどろかねえや」と言って、お化け本人がいつまでも語り草にしていた。
4泊5日の旅程を終えた一行は、列車を乗り継いで一路東京に帰った。