ある読者の提案に答える
ある読者から、私の聖書に関する思索だけをまとめて、別のブログを作らないかというご提案があった。それに関する返事を書いたんだけど、返事だけここに発表することにした。
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おっしゃること、よくわかるんですけど、以下の考え方もあります。
私は、本来、照れ屋でありまして、聖書のことばかり集めたブログなんて、自らじんましん起こしてしまいそうで長続きしません。
それに人間というものは、たとえ、霊感を受けたり、神様と直接対話しちゃったり、光りに満たされて、パウロのようにひっくり返ったりしたとしても、日ごろは、くだらないことを考えていて、女のことや男のことや、今朝の食事がうまかったとかまずかったとか、うまい酒のみたいとか、誰よりもいい席とって花見をして浮かれたいとか、考えて生きている生き物でして、飲み過ぎて、下痢しちゃったとか、喧嘩して落ち込んだとか、誰かに褒められたとか、そんな現実の中にあるはずなんです。
たぶん、イエス様も、パウロ様も、その他聖人と呼ばれる人たちも、そういう現実の中にいたはずで、そういう人が、ときには、ぞぞぞっとするほどの、この世のものとは思われないような発言をするため、その発言だけを書物にしたものが、聖書になっちまったんじゃないかと、思うのです。
素晴らしい説教をする神父様と呼ばれる人たちを見てください。そういう人たちの現実生活を誰も知らないもんだから、あこがれちゃって、「神父様あああああああん」とかいって追いかけまわしているご婦人たちがいるでしょう?現実に、神父様が便秘に苦しんだり、鼻くそほじくっている姿などみたことないからです。
すみませんね、涜聖発言をしちゃって。昔なら、告解しなきゃいけない罪です。
私が聖書に関する思索ばかりをひとまとめにして発表していたら、読者は私の現実を知らないまま、私を巫女かなんかに仕立てて楽しむかもしれません。それはかなりの恐怖であります。現に面白そうだから、それやって金もうけしようよなんて言ってくる人もいるんです。私がふと思って、ふと発言することを、「霊感を受けた」と「表現」しても通るかもしれないし、「神様との対話集」とか書き記しても、面白いかもしれません。
でも、私は、「生命の源」を「神様」という言葉で置き換えたところに、真理を見損なう原因があるような気がします。旧約聖書では、まさに「在りて在るもの」は人間のように、やたらに個別の相手に怒り狂ったり、特定の人間をひいきして「召しだし」て語ったりする「個体」のように表現されています。イスラエル人は「あの存在」を「神」と呼ばず、「在りて在るもの」としか「表現」しなかったくせに、自民族の軍神のようにとらえてしまったのは、やっぱり「在りて在るもの」を「唯一の神」という名前でとらえ、「生命の源」から来る神秘的な動きを自分たちのためにだけ「所有」してしまったからではないでしょうか。そしてその過ちを、各派のキリスト教徒がじぶんたちの「派閥」のために繰り返しているように思えます。
「唯一の神」などと表現するから、「もっといるはずなのに…」という反論が生まれます。いつかどこかで書いたように、「生命の源」は1とか2とか、その他大勢とか「数字」で表現できるものではありません。そういう表現でものを考えると、そういう存在は、ひどく卑小なものになります。永遠の時空を超えた存在を、人間のちっぽけな脳みそで考えた数字でしか表現できないから、俺の神、お前の神というようなことで争いになるのです。
そこら辺を私は、さる仏教徒との対話から、思い付き、思索し続けております。でもやっぱり、酒を飲んだり、花見をしたり、下痢や便秘に悩んだり、浮かれたり、自己満足にへらへらしたりし続けながらです。よろしく。
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おっしゃること、よくわかるんですけど、以下の考え方もあります。
私は、本来、照れ屋でありまして、聖書のことばかり集めたブログなんて、自らじんましん起こしてしまいそうで長続きしません。
それに人間というものは、たとえ、霊感を受けたり、神様と直接対話しちゃったり、光りに満たされて、パウロのようにひっくり返ったりしたとしても、日ごろは、くだらないことを考えていて、女のことや男のことや、今朝の食事がうまかったとかまずかったとか、うまい酒のみたいとか、誰よりもいい席とって花見をして浮かれたいとか、考えて生きている生き物でして、飲み過ぎて、下痢しちゃったとか、喧嘩して落ち込んだとか、誰かに褒められたとか、そんな現実の中にあるはずなんです。
たぶん、イエス様も、パウロ様も、その他聖人と呼ばれる人たちも、そういう現実の中にいたはずで、そういう人が、ときには、ぞぞぞっとするほどの、この世のものとは思われないような発言をするため、その発言だけを書物にしたものが、聖書になっちまったんじゃないかと、思うのです。
素晴らしい説教をする神父様と呼ばれる人たちを見てください。そういう人たちの現実生活を誰も知らないもんだから、あこがれちゃって、「神父様あああああああん」とかいって追いかけまわしているご婦人たちがいるでしょう?現実に、神父様が便秘に苦しんだり、鼻くそほじくっている姿などみたことないからです。
すみませんね、涜聖発言をしちゃって。昔なら、告解しなきゃいけない罪です。
私が聖書に関する思索ばかりをひとまとめにして発表していたら、読者は私の現実を知らないまま、私を巫女かなんかに仕立てて楽しむかもしれません。それはかなりの恐怖であります。現に面白そうだから、それやって金もうけしようよなんて言ってくる人もいるんです。私がふと思って、ふと発言することを、「霊感を受けた」と「表現」しても通るかもしれないし、「神様との対話集」とか書き記しても、面白いかもしれません。
でも、私は、「生命の源」を「神様」という言葉で置き換えたところに、真理を見損なう原因があるような気がします。旧約聖書では、まさに「在りて在るもの」は人間のように、やたらに個別の相手に怒り狂ったり、特定の人間をひいきして「召しだし」て語ったりする「個体」のように表現されています。イスラエル人は「あの存在」を「神」と呼ばず、「在りて在るもの」としか「表現」しなかったくせに、自民族の軍神のようにとらえてしまったのは、やっぱり「在りて在るもの」を「唯一の神」という名前でとらえ、「生命の源」から来る神秘的な動きを自分たちのためにだけ「所有」してしまったからではないでしょうか。そしてその過ちを、各派のキリスト教徒がじぶんたちの「派閥」のために繰り返しているように思えます。
「唯一の神」などと表現するから、「もっといるはずなのに…」という反論が生まれます。いつかどこかで書いたように、「生命の源」は1とか2とか、その他大勢とか「数字」で表現できるものではありません。そういう表現でものを考えると、そういう存在は、ひどく卑小なものになります。永遠の時空を超えた存在を、人間のちっぽけな脳みそで考えた数字でしか表現できないから、俺の神、お前の神というようなことで争いになるのです。
そこら辺を私は、さる仏教徒との対話から、思い付き、思索し続けております。でもやっぱり、酒を飲んだり、花見をしたり、下痢や便秘に悩んだり、浮かれたり、自己満足にへらへらしたりし続けながらです。よろしく。