「罪」と「罰」についてもう少し
「罪」と「罰」が同じ単語という事実について、もう少し。
だとしたら、あの楽園喪失の物語の意味は、考えられてきた解釈と、まったく違うのではないか。
多くの西洋の画家が描いてきた「裸のアダムとエヴァとリンゴの木と蛇、雲の中から半身を乗り出して怒っている神様と言われる爺さん」の、極めてヴィジュアルで神話的な「表現の内容」は、本来「表現」されうるものではなく、人間の心の中の精神史だったのだ^^。
雨宮神父さんの言葉を借りれば、「本来不完全な人間が完全を求めて破綻した」精神史だ。「完全」だったはずの原発が、自然現象によってあっけなく壊れても、それでもまだ「完全」の夢にしがみついている人間も、いつか夢に見ている楽園を喪失するだろう。
そういう警告ととれば、あれは、子供の聞かせる「おとぎ話」でなくて、あきらかに、人生において「見つめるべきものを見つめよ」という、「聖書の中の説話」だぞ。
旧約聖書の物語は、いやというほど、次から次へと、不完全な人間が自分の「可能性」を過信して、破綻して行く警告に満ちている。
方舟を作ったノアという人は、古代の天気予報士だったのか、天文学者の走りだったのか、予見者(私の造語;預言者でも、予言者でもないよ)だったのか、とにかく天候の異変を察知して、災害対策をとって助かった。それを「神の声に従った」と表現しているけれど、信仰あるノアにとって、天気予見も、天文的知識も、それは「神の声」と聞こえただろう。彼は知ったことを公表しながら、自力できる災害対策をとった。
ノアの行動から学べることは、「自力でできることは実行する」、ただし「自力を過信しない」、「自力の及ばないことは神にまかせる」という態度。
たぶんそれを「謙虚」というのだろう。
特にとんでもなくありえないことを「信仰」して、宗教団体を儲けさせなくても、または、世をはかなみ過ぎて出家などしなくても、「救い」はそのあたりにあるのではないのかなあ。