Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」7月18日

合弁会社の日本人社長の死」

 

エルサルバドルで暮らしていた、日本人の主婦たちにとって、この国はその国民の大半の意識とは逆に「この世の天国」だった。気候は一定していてしのぎやすいし、邸宅は日本では考えられないほどの広さの空間を確保できるし、あくせくと働く必要はまったくなくて、家事のすべてを数人の女中に任せ、子供は運転手の送り迎えつきで学校に行き、後いったい奥様たちは何をしているのかと思うと、彼女たちはマージャンにうち興じて遊んでいたらしい。(私はマージャンをしたことがないので、その面白さは知らない)

 

ご主人たちの仕事は日本みたいにきつくないらしく、この国の習慣に合わせて昼食にも夕食にも帰ってきて家族とともに過ごすことができ、その分ストレスがなくて気が楽だから、不妊症の女性は子供に恵まれ、もう我が世の春を楽しんでいたのである。

 

個人でこの国にやってきて、いろいろと問題を抱えた私みたいなケースはこの世の天国はありえない。おまけに私はもともとかなり政治問題に興味を持っていた人間だったから、彼らに見えないものが私には見える、そんなわけで、彼らと私とは目の付け所がはじめから違っていた。

 

私はこの国の庶民とともに、庶民の一人として生活し、彼らとはまったく別の国にいたようなきらいがある。つまり私はあの国にいて、ただの一度も、「この世の天国」と感じたことはなかった。

 

ある世界に住んで何を見、何を感じ、何を考えるか、それは置かれた各人の立場によるだろう。彼らが見たもの、私が見たものは、その立場によって違うのは当然だったかもしれない。

 

エルサルバドルはスペイン人侵入以後、侵略を受けたすべてのラテンアメリカの国がそうであるように、いやおうなしにカトリック国になった。当時カトリック教会の頂点に立つ指導者になったのが、ロメロ大司教という人物だった。彼は温厚な本の虫で、問題を起こさない人物として選ばれたという噂だったが、「温厚な本の虫」は事実を見抜く目を持っていた。彼は大司教として就任してから自国の民衆の置かれた状況に気づく機会を得、自国の状況を憂い、説教壇の上から痛烈な政府批判を繰り返していた。

 

彼のメッセージを私はいつもラジオを通して聴いていたし、何よりも主人は大学の助教授として政府の攻撃の矛先にいるような存在だったから、国内の緊張は彼を通しても伝わってきた。

 

だからエルサルバドルが国民にとって「この世の天国」のはずがないことを私は知っていた。

 

庶民は、主人の愛するその庶民が、どんな暮らしをしていたのかということは、私が日本の会社の派遣で来た多くの日本人とは住む場所が違ったからかもしれないが、一般の日本人よりも触れる機会が多かった。

 

ある朝のことである。私はいつものように所定の場所にごみを出して家に入った。まもなく、通りからザザーザザーという、何かを引きずるような変な音が聞こえてきた。何だろうといぶかって、小窓をあけてちょっと覗いて見た私は、見えた光景にかなりショックを覚えた。

 

私はエルサルバドルに来る前、東京に住んでいた。私が住んでいたころの東京は、すでにごみ問題で悩んでいた。朝ごみを出すと、からすや犬が群がってきて、町中にごみを散乱させてしまう。東京都はそのからす対策に頭を悩ませていた時代である。すでに日本は戦後の復興期を脱出してものが氾濫し、その処分に困っていた。東京に住んでいて、それを「豊かさ」のせいと思ったことはなかったが、その朝、私は東京のあの「豊かさ」を彷彿として思い起こし、その「豊かさ」に罪悪感さえ覚えるようなことを目にしたのである。

 

私が今出したごみの袋に群がってきたのは、からすでも犬でもなかった。そこに群がり、喧嘩をしながら今出したごみを袋ごと引きずっていたのは、半裸の子供たちであった。身は洗ったこともないほど汚れ、髪はすいた事もないほどもつれていた。ある子はパンツもはいていない全裸の状態で、袋から、まだ食べられそうなものをあさっていた。栄養失調か、腹は膨れ、私がごみ袋に入れた鶏の骨をその手にしっかり握っていた。

 

私は今、あの時代を生きてから数十年を経てこの文を書いているが、その光景を思い出して涙を禁じえない。一日中たらふく食べて、遊んで暮らしていられる階級がいるそのすぐ隣で、その人々の捨てたものを争って食べる飢餓に苦しむ人々がいる。その子供たちの姿を見て、私は腹のそこから嗚咽が出るほどのショックを受けた。

 

そんな時に事件は起きた。

 

1978年5月、エルサルバドルの日本人社会は騒然とした。17日の夜、合弁会社INCINCAの社長が反政府ゲリラに拉致されたというニュースが入り、にわかに日本人社会は緊張したのである。

 

日本人補習校の私の生徒はほとんどINCINCAの関係者である。大使館は即座に、日本人に外出することを控えるようにという通達を出したらしい。私は個人で来ていたから、知らせはなかったが、生徒の親を通じてそのことを知った。だから事態があまりよく伝わらず、意味がよく把握できなかった。私に関係ある知らせは、補習校が万が一の事態を警戒して休校になるということだけだった。

 

企業から派遣されてきている日本人のすべてが関係者だったため、みんな身内だけでひそひそ話し合うだけで、無関係の個人には情報が伝わらなかった。

 

それまで、エルサルバドルは天国だといって、家事のすべてを女中に任せて、マージャンして遊んで暮らしていた、政治には無知な主婦たちも、みんなものもいわず蒼白になっていた。

 

ラジオは一日中、松本社長のニュースを流していた。スペイン語のJの発音は、日本語の「は行」である。だからMATSUMOTO FUJIOさんの名前は「フヒオ」と放送していたので、はじめは全く気がつかずに聞き流していた。反政府ゲリラとの交渉が失敗に終わって、銃撃戦になった後、日本人たちは何を知ったかもう声を潜め、ものをいわなくなった。

 

彼女らはただ心配そうに顔を見合わせて黙っていた。誰も口に出して言わなかったけれど、誰もが、松本社長はもうすでに死んでいると推察していた。学芸会の練習に場所を貸してくれた奥さんが、沈うつな面持ちで、情報を伝えてくれた。警察側が毎日松本さんの家族を連れまわして、あちこちの穴を見せ、死体の検証をさせているという。警察はそれが松本さんの遺体でないことを承知しながら、死体を見せて歩いているらしい。

 

怪しい話だ、と私は思った。警察は一体なぜそのように毎日見せられるほどのたくさんの死体のありかを知っているのだ?!

 

私はそのころうわさを聞いていた。カテドラルのある広場から、大型のトラックがまるで豚を運ぶように毎日人間の死体の山を載せて走り去るのを見ているという、うわさであった。その死体はいったい何処に行ってしまったのか、誰もその時は知らなかった。

 

5月20日の補習校は休校になった。そして5月27日の補習校も休校になった。

松本さんは見つからず、日本人は恐怖のあまり、まったく外出しなかったから、私も家庭教師に行くことを断られた。これは全く人種の問題ではないことを私は知っていたが、彼らは特に日本人だけが差別されて狙われていると思っていた。

 

そして私はもう知っていた。この国は家に閉じこもっていさえすれば安全が保証されるわけではなくて、貧富の差という問題が解決されない限り、用心棒も警察も家の囲いも何もかも信用できないということを。

 

飢餓状態の人間に武士道や騎士道を期待することはできないのだ。パン1枚、30コロンのお金で簡単に寝返りを打つ。だから家の中だって安全ではないのだ。

 

「補習校閉鎖」

 

町を歩いても家にいても、私はよく物乞いに会った。初めの頃私はお金を乞われても物を乞われても、上げることに抵抗を感じ、断っていた。これは国家の問題で、国家が対策をこうじるべきだと思っていたし、物やお金を上げることが、物乞いの問題の解決にはならないと思っていた。

 

しかし私はあの朝、ごみに群がる子供たちの光景を見てから、考えを変えたのである。貧富の差や飢餓の問題の解決にはつながらないかもしれないが、「今日」食べ物を上げれば彼らは少なくとも「今日」生き延びられるかもしれない、今日私が断れば、今日行き倒れになって、かばねを野にさらすかもしれない。

 

自分だって、戦争直後人様の助けで生き延びてきた。兄弟4人とテーブルの下に落ちた一粒の米粒を争って、生きた時代を知っている。あの時人様からそっともらった食べ物を私は決して忘れていない。あの時ものをくれた人は、お前たちがお腹がすいているのは国家の問題だとは言わなかった。

 

自分だって決して豊かではなかっただろうに、わざわざ私たちのため作ったらしい鍋いっぱいのイーストパンを、誰にもわからないように包んで、物陰に呼んでくれたのだ。あのパンが一家のおなかを2日間に渡って満たしたのであって、国家の政策が一家を救ったのではなかった。

 

朝、何か食べ物の残りはないかといって戸をたたくおじいさんに、ちょっと待っていれば暖かいものを作るからと言って待たして、私は台所に入って鶏のもものから揚げとパンケーキを作った。それをあげたら、彼はオオと言い、まるで一週間何も食べていなかったように、がつがつと食べていた。

 

私は小学時代あの給食係のおばさんが、鍋丸ごとのパンをそのままくれたのを覚えている限り、残り物を上げる気がしなかった。これは施しでなくて、分かち合いなのだ。私が食べるつもりだった鶏の足を2本でなく1本にすればそれですむことだ。この人はイエス様の言う「小さき人」なのだ。お腹をすかせたイエス様にパンを差し上げ、鶏のから揚げを召し上がっていただくのだ。

 

むしゃむしゃと満足そうに物乞いの男が私の貧しいご馳走を食べるのを見て、私も心から満足した。ありがとう。食べてくれてありがとう。本物の涙が私の頬を伝った。「本物の涙」、自分の行為を評価する、そんなつまらない涙でなく、「小さき人」が食べてくれたかすかな感動の涙であった。

 

その行為は、ただの私の自己満足かもしれなかった。私は乞う側でなく乞われる側としての、余裕のある安全な立場の人間として、善意とか慈善とか言う言葉が恥ずかしい、むしろ偽善に近い行為かもしれなかった。でも私にはそれしかできなかった。

 

まして、元凶である政治の問題は首を突っ込むには危険過ぎた。私はあなたと同じ庶民として、ほんの少しの今日の自分の食べ物を分かち合うということしかできなかった。私はそう思ったから、いらなくなった残り物でなく、努めて、自分が食べたいほうの食べ物を彼に上げた。

 

しかしその行為は、周りの人々の猜疑心を刺激した。おまえは「共産主義者」かというのである。あのころ貧者の側に立つものは、全部「共産主義者」の烙印を押された。だったら、「共産主義者」で構うもんか。貧しきものに寄り添う人間をそう呼ぶのなら。

 

当時、教会の指導者であったロメロ大司教をはじめとして、カトリック教会は貧者の側に立って、「解放の神学」なるものを掲げていた。

 

教会の歴史は、決して「善」なるものの歴史ではない。遠いローマ時代のキリスト教徒の迫害の時代を経て、キリスト教会は為政者の側に立つ宗教として変貌していた。ヨーロッパの諸国がキリスト教を「国教」に指定するということ自体、すでに、教会は支配者の側に立っていた。

 

しかしキリスト自身は支配者としてこの世に生まれたのではなかった。彼は常に苦しむもの、抑圧を受けるものの立場に立って、常識的な律法の解釈を覆して愛の息吹を吹き込んだ。そして彼自身は神の子として死んだのでなく、立法違反者として極めてむごく十字架にはりつけという極刑を受けて死んだのだ。彼が神の子であったとしても、為政者の権威を守る神でなく、弱者の友としての神なのだ。

 

ラテンアメリカカトリックの神父さんたちは、抑圧に苦しむ庶民の実情を見、過去のカトリックの姿勢に反省を促した。 

 

それが「解放の神学」である。民衆の側に立って、その代弁者となった彼らは、次第次第に支配階級の側から敵視される立場に追い込まれていった。貧者に施しをするものは、胡散臭い目で見られ、おまえは「共産主義者」のようだといわれるようになった。教会の神父さんたちはみな「共産主義者」と呼ばれた。「共産主義者」という言葉は、「外道」の代名詞だったから。

 

総本山のローマ教皇でさえ、ロメロ大司教の声を受け入れずむしろ阻止しようとした。共産主義者呼ばわりされている人間を、ローマは胡散臭いと思っていた。

 

今、アメリカがイスラムの陣営を圧迫すると、メデイアはこぞって宗教戦争といって騒ぐ。しかしそれはまったくのデマゴーグである。宗教を嫌悪する連中が、問題の本質を見てみぬ振りするために、問題のすべてを宗教のせいにする。

 

彼らは真の原因を隠すため、そういう誤解を全世界にばら撒くのだ。アメリカは彼らの分類の仕方からすればキリスト教の陣営に属する。エルサルバドルカトリック国である。ところが、キリスト教陣営の長であるアメリカの軍事援助を受けて、エルサルバドル政府の弾圧の対象になったのはカトリック教会の神父たちである。貧者の側に立つものを支配者の側に立つものが弾圧したのであって、そこに宗教は介在していなかった。両方ともキリスト教徒なのだから。

 

あの時代、キリストに忠実であったのは弾圧を受けたカトリック教会であって、キリスト教陣営の代表のように言われているアメリカ政府は、あの時、意図的にたしかにカトリック教会を迫害したということを私は知っている。

 

そのときも今も、戦争の原因は変わっていない。それは宗教戦争でなくて、利権獲得または利権保護の争い以外の理由はないのだ。

 

だから彼らはカトリック教会に「共産主義者」のレッテルを貼ることによって、真の原因をごまかしたのである。ゲリラにせよ、地方の農民にせよ、彼らは資本主義の弊害がすでに発達していたヨーロッパで生まれた高度な哲学思想である「共産主義」を理解するほど、基礎的な「教育」を受けていなかった。(私はその「共産主義」をきちんと研究しているから、どういう主義か知っている。)

 

彼らは「共産主義」以前の「資本主義」の恩恵を受けていなかった。彼らは「農奴」または「家畜」であった。文字も読めず、学校教育も受けなかった裸足で半裸の農民が、ほんの少しの「共同体意識」(その内容はいっしょに畑を耕し、収穫を分け合うというだけの小さな隣組みたいなもの)を持っただけで、または道にうずくまっている死にかかった人にパンを上げ、一緒に仕事をしようと誘っただけで、彼らは「共産主義」のレッテルを貼られた。人は人を助けてはいけなかった。それは外道である「共産主義」につながる行為だったから。

 

あなたは「共産主義者」かといわれたとき、私は単に「いや、私はカトリック信者だ」と答えたに過ぎなかったが、そのとき私はこのカトリック信者が「共産主義者」と同義語であることを知らなかった。

 

後に多くの貧者の側に立って働く神父たちが拉致され監禁され過酷な拷問の末、死体を路傍にさらされた。かのロメロ大司教はミサ中に狙撃によって暗殺された。アメリカから来た4人の修道女が空港から拉致されレイプされて木の上にその死体が引っ掛けられて発見された。そしてだめおしのように、イエズス会の6人の神父と使用人の女性が、「秘密裏の暗殺部隊」によるのではなくて、「正規の軍隊の襲撃」を受けて惨殺された。

 

それらの事実を知ったとき、私はやっと政府が弾圧して攻撃の矛先にしていたのはソ連に後押しされた反政府軍よりもむしろ、武器の代わりに愛と勇気とペンと言葉を持って戦った、丸腰の「キリストの兵士」達だったのだということに気がついた。

 

(註:「キリストの兵士」とは十字軍のような軍隊のことではなくて、キリストの意思を受けて働く信徒に対する伝統的な「表現」:修道女も、神父もそして一般信徒も、別れた兄弟達であるカトリック以外のキリスト教徒もあくまでもこの意味でのキリストの兵士。)

 

記録が少なくて時期的に正確ではないが、7月になって補習校は再開された。

 

しかし、今考えてみれば当然のことと思うが、日本人はこの国が「天国」ではないことにやっと気づき始めており、もう浮き足立っていて補習校どころではなかった。家庭教師も再開していたが、INCINCAの関係者はそろそろ日本への引き上げを検討していたらしく、だんだん生徒のメンバーが代わっていった。

 

私がサンタアナにいたときに、不正選挙によって政権を取った政府は、政情不安定を理由に虐殺を繰り返し、その後クーデターによって新たな軍事政権が誕生した。アメリカの後押しによるお家芸みたいなクーデターで、アメリカだけは即座に承認したその政府の大統領は、皮肉なことにあのロメロ大司教と同姓のロメロ大統領という。

 

この事実を受けて人々は、この国には悪魔と天使がロメロと名乗っている。悪魔のほうが大統領だと揶揄した。

 

INCINCAは資料によると、中米最大規模の合繊企業会社である。その活動は軍事政権と経済的に、政治的に癒着して初めて、可能という現実を、反政府組織は、松本さん釈放の交渉中に暴露した。私は深くこの事実関係を知らない。政治犯の釈放、身代金の要求を通して、反政府組織は自分たちの立場の説明を世界の主な各新聞に載せることも要求してきた。今それを読んでも、彼らの難解な、そしてあの闘争に特有の用語に抵抗感を感じるが、この国に進出していた日本の企業に、この国の政府との背後関係が全くなかったというとすれば、それは現実的ではないとは思っている。 

 

犠牲となった人は別に悪人ではない。両国の国家の政策の犠牲になっただけで、本人は個人として、自分の会社の仕事についていただけなのだ。

 

松本さんは遺体で発見された。当時交流のあった日本人によるとビニールに包まれたきれいな遺体だったらしい。

 

政府は拉致された直後にゲリラに刺されたと発表しているが、発見された8月は拉致された5月から3ヶ月も経っている。常夏の国にビニールの中に包まれて発見された遺体が、腐敗もせず、損傷もなくきれいだったとすれば、政府軍に発見されてゲリラが後退するときに銃撃戦になった8月、政府軍の銃弾にあたって死んだというゲリラ側の説明のほうが整合性があるだろう。

 

しかも、その遺体は発見まもなく、エルサルバドルの習慣に反して荼毘に付され、すべての証拠はなくなってしまった。その事実から、土葬が当たり前のカトリックエルサルバドルの人々は、そのときすでにこの死に関する政府の関与を疑っていたのである。

 

「マルタとの出会い」

 

フランシスコの家でパーテイーがあった。夕方7時というから日本人の感覚で時間どおりいってみると、彼らはこれからメルカードにいって、食料の買い物に行くといっている。家で待っていてくれてもいいし、一緒に買い物に行ってもいいということだ。

 

同じエルサルバドル人のエノクはいったいこのことをどう思って7時きっかりに来たんだろう。7時に開催という意味が7時に用意をはじめるからその後適当な時間に自己判断でくるようにということだということは、時間厳守を学校教育で叩き込まれた日本民族の私にわかるわけがない。

 

それなのに彼は私に合わせて7時きっかりにフランシスコのうちに行ったのだ。彼ならはじめからそういう事情には通じていたはずなのに。もっと後になって私は、自分のうちでパーテイーをやったとき、その日に来ないで次の日に来た人を知っているが、いくらなんでもこれは非常識だったと見えて、エノクも対応に困っていた。

 

彼は時間厳守をどこで学んだんだろう。時間通りに行ったときのフランシスコの対応に、少しうんざりしていたエノクは、買い物など、彼のやり方にあわせるのを断って、私たちはそこいらをぶらぶら歩き回ることにした。それから何とかころおいを見て再び彼のうちに行ったら、もう数人集まっていた。

 

だいたい、エルサルバドルで育ったわけではない私には、その「ころおい」というのがわからない。いくら時間に緩やかな国民性でも、人を大勢「ある特定の時間」に呼んでおいて、主催者がその時間を守らないなどという「国民性」には付いていけない。客が勝手な時間に来ることに対して鷹揚なのは赦せる。でも7時にこいといっておいて、7時にいったら、これから買い物というのは、いくらなんでもねえ。

 

私は今でもパーテイーというやつは苦手なのだけれど、そのときは言葉も流暢ではなくて、おまけにエノクの人間関係のごたごたを全員知っている人たちの集まりだということもあって、緊張してこの集まりに臨んだ。エノクの友人たちはよくうちにもきていたのだけれど、私はその奥さんたちを知らなかったから、内心が怖かったのだ。女性は他人の人間関係に敏感で、しかも面白がる人種だ。私と主人とリタとの三角関係は、そういう女性陣の格好のネタのはずだ。

 

私にとっては最悪のパーティーで、ただでさえパーティー慣れしていない私はひどく居心地が悪かった。大体私の昔の付き合いの集まりというのは、教師仲間だったし、特に私と馬が合った仲間は、あまりこういった社会通年に長けているとはいえない仲間だった。昔の仲間の集まりは、気楽な集まりだったから、集まれば必ず夫婦で来るパーテイーなどと言う代物は、どう対処したらいいかわからなかったのだ。

 

どうもよそ行きを着ていかなければならないような種類のパーテイーというものは、うさんくさくていけない。うっかりするとダンスとか言う変な運動をさせられる。

 

しかし実際はエルサルバドル人の大学の教授仲間という人種は、とても朗らかでにぎやかであまり物事を真剣に捕らえたりしない連中だった。

 

町に出てもいろいろある。未知の人でも興味ありげに、不躾にこちらを見ていて、実はかなり気分悪いが、ひとこえ声をかけると喜んで話をしだす。ぶらぶらと家の近くの動物園を散歩していても、彼らは動物を見ないで私を見、赤ん坊の顔をわざわざこちらに向けて、「ほらほらCHINAだよ、見てごらん」とかいっている。

 

「コラッ!ただで見るな」、とおどけて見せると、彼らはすぐ親しげにやってきて、何だスペイン語できるのか、といって話をし始める。考えてみればあちらのほうが、珍しい東洋人の私を不思議がっているのは当然かもしれないのだ。

 

このパーテイーは思ったより心配するほどのこともなくて、案外みんなに迎えられ、2,3の奥さん達と仲良くなった。ぶるぶる震えていないでこちらから人間表明をすればいいのだ。

 

その中にマルタという名の奥さんがいた。おおらかで優しい気遣いのある人であった。私がこれまでであった一般のエルサルバドル人と比べても、かなり教養が高く、若かったけれども気品があった。

 

彼女の気遣いは、個人的に事情を抱えた私がこのパーテイーに集まった人々の中に溶け込むことができるように色々配慮してくれ、日本人会のほうにばかり向いていた私の心を、この国の方向に向ける助けをしてくれた。

 

彼女のご主人はちょっと中東系の顔をしたハンサムな男で、奥さんの明るさに反して暗い感じはしたけれど、かなりの論客で面白かった。政治に対して深い考察をしているらしい。奥さんは彼を尊敬し、誇りにしていた。

 

マルタには5人の男ばかりの兄弟がいて、みんな歌が上手で、兄弟でバンドを組んでいたから、仲間内のパーテイーなどでは兄弟全員が招かれた。ギターを抱いて、彼らはよく歌った。きれいなハーモニーで、あまりそれまでラテン音楽が好きではなかった私も十分楽しめるほどうまかった。声のハーモニーだけでなく仲のよい、素敵な家族だったから。

 

 

この会合で思いなしか楽しいひと時を持ち、その後もよくマルタとこのグループとで行動をともにすることになった。

 

 

「日本人総引き揚げ」

 

その年の12月、再びINCINCAの一人の役員が拉致されるという事件があった。はじめの拉致で人質に死なれ、交渉の道具を失った反政府組織の、再度の試みであった。あれ以後大使館は日本人全体に通達を出して、同じ時間同じ道を通うことはゲリラの目標になりやすいから避けるようにという忠告を出していたが、前例をなかなか変えない几帳面な日本人の癖はゲリラに知られていたらしい。彼は私の生徒の父親だった。この2度目の拉致事件は、決して真相を明かされることはなかったが裏取引によって交渉が成立し、彼は生きて返された。これによってINCINCAの日本人は全員引き上げを決定した。

 

当然のことながら、補習校は閉鎖され、私は職を失った。いろいろ問題もあった人間関係だったけれど、日本人がすべて引き上げるとなったら、私はさびしかった。彼らはたくさんの日本の食器だとか生活必需品を私の家に残して去っていった。まるで鬼界が島の俊寛よろしく、私は日本人と日本文化を背負った集団を見送った。

 

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(これは補習校の生徒たちの思い出。補習校の生徒の作文集を作った。「エスペランサ」と題して私が表紙の絵を描いた。)

 

私は日本人を批判しながら、日本文化から離れられない自分の事を知っていた。これから全面的に向き合わなければならない異文化の渦の中で、自分がどのようになっていくのか自信がなかった。愛する相手はエノクしかいなかった。エノク一人を見つめて生きてきた今までのエルサルバドルの暮らしで、仕事もなくほかに人間関係もない状態で、平和に長続きするはずがなかった。

 

依然触れたことのある、エルサルバドル大学で日本語を教えていた日本人講師の後を何とか受けて、自分にその仕事ができないか交渉をしようと思った。こういうときの事を予測して私は昔教えた高校から紹介状を頼んでおいた。教頭の日本語の紹介状とそれを英語に翻訳してくれたU先生の文とが送られてきていた。私は自分の経歴と教員免許状などの資格をそれにつけてその講師に渡し、大学で仕事を斡旋してくれないかと頼んだ。

 

しかし大学もゆれていた。大学は反政府運動の温床と見られていたから、軍隊がいつも大学の周りに配置されていた。日本人の講師も、大学で授業ができなくて、自宅を開放して学生に日本語を教えていた。スペイン語と日本語は母音の数が同じだから、若い彼らは非常に早く上手に日本語を習得し、それを続けたがっていた。私はその後を引き受けたかったのである。

 

日本人たちがいなくなった12月、私は去年買った幼子イエスの像を部屋の隅に飾った。ゆりの花とカーネーションをいけて、厩で生まれたイエスを模して籠に草を敷き詰め、柔らかい布を毛布のようにおいてその中に幼子を寝かした。主人がそれを見て、きれいなバラだねといったが、彼はゆりのことをマーガレットといっていて、いつものことなので、そうそう、きれいなバラでしょ、といって知らぬ顔をしていた。彼は今でもチューリップのことをカーネーションといっている物理学者である。

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ここに飾ってある花は全部バラです。(^^)

 

その年はお付き合いのあったすべての日本人が引き上げ、仕事も失って孤独がひとしおだった。残るは、海外青年協力隊の一団と、私のように国際結婚した日本人女性だけだった。当時の日本の法律ではおなじ国際結婚でも男性が日本人の場合は、問題なくエルサルバドル人の妻に日本国ヴィザが出るが、女性が日本人で相手がエルサルバドル人の場合は、日本人の妻がどんなに億万長者でもエルサルバドル人の夫にヴィザを出さないのが日本国の方針だと、当時の日本領事が「普通の顔で」言っていた。

 

だから、「現地人」と結婚した日本人妻は、どんなに内戦が激しくて身に危険がせまっても、現地に残らなければならなかった。(その後しばらくしてから、私の帰国後の話だけど、国際結婚をして現地に残った友人の一人が、内戦の中でご主人を殺され、3人の子供と残されてからやっと日本に帰国することができた。)

 

知り合いを一挙に失った私は、勢い残留日本人と付き合い始めたが、だんなさん同士には接点がなくて、住んでいる地域もばらばらだったから、出合えるのはまれだった。

 

それで私は始めて、せめて自分の分身がほしいと思った。子供がほしいと、私は心から思った。そのため、その年の幼子イエスはなんだかひどく意味があるように思えて、じっと見て暮らした。ある朝その幼子イエスの像の入った籠のふちに緑色の葉っぱのような物がついていた。あんなところに葉っぱを飾った覚えがないのになあと思って近づいてみると、それはエスペランサという名の虫だった。「うまおい」である。日本の秋の虫と同じ物に初めてであって、ちょっと喜んだ私は、エノクに見せた。彼はその虫を見てにこにこしていった。「いい事が起きるぞ!」

 

エスペランサとはスペイン語で「希望」という意味だった。私はそのエスペランサに希望を託した。

 

町は軍隊だらけだった。住んでいる場所のそばに軍隊の駐屯地があったから、毎日撃ち合いの音が聞こえた。町には死体が転がり、その光景がもうすでにショックを感じないほどに馴れたころ、大司教の説教する場所であったカテドラルも治安の為と称して軍隊に占拠された。明らかに、大司教の政府批判と、民衆擁護の説教を阻止する為だった。

 

当時そのカテドラルは再建中であり、コンクリートの地肌が見えていたが、その地肌は弾痕で穴だらけになった。ゲリラの温床とみなされた国立大学も軍隊に占拠される事態となった。エノクも講義ができなくなったのだ。私の日本語の授業の望みも当然断たれた。事実上町を自由に歩くことができなくなった。

 

日本人がいなくなり、友人であろうとなかろうと、話のできる人間関係を失い、することをすべて失った私は、書物を読み漁り、教師時代から持ち越していた「記紀神話」の研究に戻っていった。日本の古典の研究をエルサルバドルで続ける、そっちのほうが異常事態だったけど。

 

そのころ住んでいたアパートは、夫婦が二人で住むには十分だったが、私が日本から送ってきた500冊の本を納めるための本棚を買い、本棚で、12畳ほどのスペースがあったリビングダイニングを分けたので、両方とも4畳半ほどの暗い部屋になった。

 

かくしてそこは、八王子以来の本に埋もれた私の「巣」になったのだ。

 

エスぺランサがときどきコロコロと鳴く、隅のかごに入った、幼子キリストの像に願いを込めて、時々それをじっと見つめながら、エルサルバドルという不似合いな国で、「記紀神話考」の筆録をし続けた。

 

「水を求めて」

 

エルサルバドルの現代史の中で、内戦と呼ばれるものが、いったいいつ始まったのか、私は正確には知らない。ただひたすらにエノクを慕い恋の遂行のためあの国にいた私は、ただ毎日起きる混乱の中を無知なる庶民として生きていただけである。

 

主婦として家事をこなしていただけの私にも、混乱は肌身に迫って感じられるようになった。1970年代後半のことである。

 

あの国の水道のシステムがどうなっているのか知らなかったが、水はほとんど午前中しか出なかった。安全と水はただの国から来た私には、この水との格闘が一番もものすごいことだった。高級住宅街エスカロンに住む種族は、広大な家の敷地いっぱいに自家発電設備のある貯水設備を持っていたから、水に関する問題はいつも、そういった設備のない中流以下の庶民を苦しめた。

 

そういう状況の中で暮らしていた私は水道の音に神経を立てるようになった。遠くの山のほうから聞こえてくる、水道管に水が流れる音、かすかなかすかなカラカラカラカラという音は、どんなに熟睡している間でも私の神経が反応し、暗闇の中をバケツとありったけの鍋をもって水集めに走った。それはその家に住んでいた間のほとんど毎日の日課であった。

 

しかし、同じ時間に同じことをやっている人々の競争はエスカレートしていたから、水は20分と続いて流れなかった。これでは洗濯機なんかあったって役に立たない。

 

この国の伝統的なピラと呼ばれる洗濯用に水をためる貯水槽があって、それはちょうど、日本の独身用のマンションに付属した小さな風呂桶ぐらいの大きさだったが、そのピラを洗ってしまうといつまた満たすことができるかが不安だったから、下のほうに水垢がたまっているのを知りながら、私はほとんどピラを洗ったことがなかった。上のごみが沈むのを待って上澄みをすくって、沸騰させ、それを調理用に使うという仕事を毎日私は繰り返した。

 

町は時を追って危険になり、軍隊は毎日殺戮を繰り返していた。死体が転がっている町の情景は「常識的な」光景だった。私達の友人、知り合いの中にも、あるいは拉致され、あるいは投獄され、あるいは撲殺され、行方不明者が続出した。

 

ある時メルカード(中米の市場)に食料を買出しに行ったが、町には人間がゴロゴロ転がっていた。私はそこいらに野宿している浮浪者が泥酔しているのだと思って、えい面倒だとばかり、ぴょんぴょんと何人かを飛び越えていった。

 

メルカードについたとき、いつも懇意にしている店のおばさんたちが、「奥さん、大丈夫だった?怪我しないでよくこられたねえ、」といって集まってきた。

 

「え?なにかあったの?」といったら、「エー-----ッ」と彼女たちは叫び、考えられないという風に私を見た。

 

「市街戦が今すぐそこであったんだよ。軍隊とゲリラが射ち合いをしていたんだよ。みんな怖くてメルカ-ドから出られなかったんだ。」

 

「エー----ッ?」と叫び返したのは私である。町は其のとき静かになっていたから直前に撃ち合いがあったなんて気がつかなかった。それで私は買い物を済ますと、また一目散に家に向かって駆け出した。そして何気なくさっき来た時に飛び越えた人間を見たとき、私はギョッとしたのである。

 

その腰には銃弾のずらりと並んだベルトが目に付いた。そして、反対側の今越えようとしていた人間も、同じ物をつけていた。私は知らずに死体をとび越えてメルカードを往復したのだった。

 

その死体はそのまま放置されていた。そして毎日その死体から服がはがされ、下着がはがされ、靴と靴下がはがされ、それは文字通り「物体」となっていった。その「物体」を目にすることをさほど珍しいとは思わず、毎日私は平気で物を食べていた。その「物体」に野良犬が食いつき、ぼろ布のようになっていった。

 

それは静かではあったが、羅生門の世界、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 

と、そう思うのは、今日本に帰国して時間を経てこの文を書いている今の感情である。当時はそのことを普通の光景と感じるほどに、私の神経は異常さに慣れていった。

 

正確には何時の事だか覚えていない。ある時、ただでさえ水の事情の悪いこの国は、ストライキの為、水も電気も来ないという事態になった。すでに述べたように、ストライキのあるなしにかかわらず、住む所によっては慢性的に水が不足している国である。

 

余裕の在る家には必ず地下水層があって、いざと言う時には水道が切り替わる装置がついている。ストライキが誰の為のストライキであれ、目的が何であれ、打撃を受けるのはそのような設備もなければ、村の共同水道でわずかな水を分け合っている最下層の人々だ。

 

不潔でもなんでも私たちにはピラがあったが共同水道を使っていた最下層の人々には、ピラさえもなかった。ストライキで水を絶たれた人々は、大人も子供も、やっと立ちあがって歩き始めたばかりの幼児にいたるまで、手に手に鍋や洗面器のようなものを持って、水を求めて町に繰り出すと言う事態になった。人々はどこに水があるかを知っていた。其れは豊かな家の地下にある。

 

水を下さい、水を下さい。人々は家々のドアをたたいて、水を求めて歩き回った。しかし、この国中の異常事態の中で信用できない他人のためにドアをあけるものはほとんどなかった。

 

人々は私達のうちのドアもたたいた。どんどんどん。アグア、アグア、ポルファボール!(お願いだから水をください)

 

たまりかねたエノクがドアを開けた。「家には水槽は無い。でもあれで良いなら少しわけてあげよう。」エノクは洗濯用の水槽の水を一人の子供の器に入れた。最初の子供に水を上げたから、家の前には水を求めてあとからあとから列ができた。

 

私は心配した。自分の家の水がなくなる。これではだめだ。私がストップをかけなければならない。私はエノクに小声で言った。

 

「もう、内のための水がなくなります。昼食も洗濯もできなくなります。」

 

その時、エノクがいった。

 

「彼らは昼食や洗濯の水を求めているのではない。朝起きて、飲む一杯の水も無いのだ。生きるためのたった一滴の水もないのだ。」

 

「でも」と私は言った。「あなたはオフィスに行けば水もあるし、オフィスには自家発電の電気もあります。私は何も水がないうちでどうすれば良いのですか。ストライキはいつまで続くかわかりません。この後水がくる保証がありません。」私の平凡な心は安全地帯にいるエノクだけが理想論をたたいて、平気でいられるということに不満だった。

 

しかしエノクは私の目をまっすぐ見て静かにいった。「私の同朋が水を求めているのだ。求めるものには水を上げなさい。水を上げれば必ず水は来る。」

 

エノクの命令は威厳に満ち、そして決してほかの選択を許さなかった。彼は言い残して仕事に行った。

 

「ばかな!!」と、それでも私は心に思い,エノクを見送った。不満だった。こんな理想主義についていけないと思った。もうピラの底に水垢のどんよりとした水以外何もなくなったから、私はドアを閉め、それからどんなにドアをたたいても理由も言わずに戸を開けなかった。

 

子供たちはドアにばらばらと石を投げ、「CHINA TACAÑA(けちのシナ人)」と叫んで消えていった。

 

昼だった。ぼんやりしていると、聞き覚えのある、ある音がかすかに聞こえてきた。

 

カラカラカラ。カラカラカラ。

 

ストライキなんか無くても、水が慢性的に不足している中で生活してきた私の神経が記憶している音だった。

 

カラカラカラ。カラカラカラ。

 

生命の音、水の音、遠くの水道管から伝わってくる懐かしい響きだった。

 

私は耳を疑った。ストライキは終わっていない。水が来るわけが無い。しかし私は、ためしに小さな手鍋を水道の蛇口にあてがってひねった。ちょろちょろちょろ。と水がでた。最後の水滴がぽつんと落ちて輪を描き、小さな手鍋を満たして、止まった。

 

手鍋にゆれるたった一杯のその水を私はじっと眺めた。心は感動に震え、涙さえにじんだ。其れは是から昼食に帰ってくるだろう主人と私二人ぶんの水だった。

 

「水を上げなさい、上げれば必ず水は来る。」その水は手鍋一杯の水だった。

 

出エジプト記の物語がふと頭を掠めた。砂漠をさまようイスラエルの民に与えられたマンナは、一人分、一回分しか採取が許されなかった。自分のために多くを取ればほかの人が一人死ぬ。二人分の水を、手鍋に入いった来るはずもないたった二人分の水を見て、私はエノクが言い残していった言葉をつぶやいた。

 

「水を上げなさい。人にあげれば必ず水はくる。」

 

ああ、開眼。ああ、開眼。光は闇の中でしか見えぬものだ。巷はあの阿鼻叫喚の地獄絵図を繰り返していた。宇宙は闇に覆われているかのように感じられた。しかし私は闇の中で光を見た。ああ、開眼!

(写真は帰国後描いた油絵30号「水を求めて」)

 

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